資本論





第一章 貨幣と商品




 人類には太古の昔から物を加工して道具を作り、さらに道具を使って物を加工するという相乗効果によって、自分たちに都合のいいようにその生活習慣や身の回りの環境を作り変えてきた歴史がある。また一方で自分たちが生活していく上で必要な物を効率よく獲得する方法を模索してきた過程で、それを摂取したり使用しやすいように加工したり、またそれを蓄えておく保存方法などに関して、それに必要な道具や建物などの作り方やその使い方に至るまで、人自身もそれに含まれるような人が使用可能な物に関する取り扱いの方法を知識として社会の中で共有してきた。そしてそれらの知識を情報として共有し伝達して保存する方法として、音声や文字などで表現する言葉の組み合わせとしての言語を発明し共有して発展させ、それを使うことによって人と人の間で、あるいは人が構成する集団内や他の集団との間で意思疎通を図り、その内容を文字として石板や粘土板に刻んだり木簡や竹簡や紙に記して、いつでも閲覧可能な状態で保存して残そうとしてきたわけで、人類はその歴史を通じて物を取り扱うための道具や機械を作って、それを用いて物を加工して利用する技術と、それらの扱い方に関する情報を知識として社会の中で共有して定着させるやり方の両方を発展させてきた。そしてそのような技術や方法が活用される中で、物と物とを交換する際に用いる媒体として、貨幣という物の価値を示す情報を担った媒介物が生み出された。
 社会の中で活用される物の存在様式や形態とその機能を理解するには、物の取り扱いに関して保存された記憶や記録から得られる情報を知る必要があり、意識が捉えようとする物体としての物には、その物に関して知り得た物自体の性質や形や色や量や他の物との相互作用などの一般的な情報の他に、社会の中でその物がどのように作用して使用されて機能しているかを示す情報も含まれ、それらの情報が社会の中で物に関する知識として記録され共有されている。そして物の作用や機能を示す情報の中には、まずは物自体の名称があり、それを何と呼ぶかに関して共通の名称がないと、社会の構成員がその物についての知識や認識を共有できない。そして人々の間で名称が共有されている物が社会の中でどのように役立っているかを示す情報としては、例えばそれが食物ならば直接摂取することによって栄養を取ることができるとか、資源ならば加工して別の人工物を形作るのに有用な材料となったり、燃料として機器や機械類の動力や熱や電力などを生み出したりもするわけで、物に関するそのような情報が知識として社会の中で人々の間で共有され活用されている実態があるわけだが、その中で貨幣に関する知識としては、売買と呼ばれる行為の際に、物と同じ価値を示す数量の貨幣を物と交換する等価交換の原則があり、そうすることによって交換に関わる双方が納得でき、またお互いの価値観が合わなくても交渉することによって、双方の間で売買価格のすり合わせが行われて妥協が図られる可能性が生じるわけだが、貨幣はその際、交換される物の量や質に関しての価格を決め、実際にその価格を担う数量の貨幣と交換されることで、その物の価値が交換されると同時に決まり、またその所有権が貨幣を受け取った者の手から貨幣を払った者の手に移ることになる。
 物のイメージはその物の姿形を映し出す画像や映像などから成り立つが、一方で物の性質や働きや取り扱いに関しては、主に文字や音声や数値や図表などを含む記号表現を用いて説明される。一般的には物に関するイメージを含む画像や映像などの情報と物の性質や働きや取り扱いを含む記号情報が一体化して、それが物に関する知識として定着しているわけだが、実際の思考作用によって理解を要するのは、主に文字や数値や図表などの記号を用いて表現される情報であり、それらの情報を活用する上で、その物に関する文字や数値などの記号を用いて説明している内容が視覚的にわかりやすく示される場合があり、そのような表示を物に直接貼り付けて他の社会の構成員の誰もが一目でわかるように見せる場合、例えばその名称、内容物、製造番号、製造年月日、所有者などの物に関連する記号的な情報が物に貼り付いた状態で、それが標識として機能するように記載される。そしてその中でも物の価格が最も重要な情報として示されているのが商品であり、要するに商品を値札がついている状態で見せるわけだが、一方で商品の売買に際して使う交換媒体である貨幣にも、価値の度合いを示す価格の指標となる数値が記されていて、売買に際して買い手が商品の価格と貨幣に記された数値の合計が一致するだけの量の貨幣を所持していれば、商品と貨幣との交換が可能になるわけだが、貨幣も現物で所持していてばそれは物の一種であり、実際に紙に価格の指標なる数値が印刷されているのが紙幣であり、金属片に価格の指標となる数値が刻印されているのが硬貨であり、それらが商品に貼り付いている価格と同じとなるだけの枚数の紙幣や硬貨を合計で持っていれば、その商品と交換できるわけだが、実際に交換される貨幣の合計額が商品が体現している価値の度合いを示す価格の指標となり、指標となるその数値が貨幣の本質であり、数値情報以外の情報としては、その貨幣が本物であることを保証する情報が記載されていて、それが本物であることが貨幣を発行している各国の中央銀行などの機関によって保証されて、それが社会的に信用されている限りで、商品の売買を媒介する役割を果たすことができるわけだ。
 商品は売ることによって貨幣と交換され、買うことによっても貨幣と交換される。つまり一般的な売買で商品を買うには貨幣が必要で、貨幣を得るには借りるか商品を売らなければならず、そうした機能が社会の構成員が社会の中で様々な役割を分担されることを可能としていて、自らの活動からは得られない生活必需物資などの商品を買うことによって得られ、また他の構成員が必要な物資を売ることによって与えることができ、そうやって社会の中で各人が足りない物資を補い合うシステムを成り立たせることが、売買という行為が担っている機能でもあるわけだが、またそれは各人を労働という貨幣を得るためのサービス活動に導いていて、それが社会の構成員が社会の中で様々な役割を分担させられる要因ともなっているわけで、結果的に商品を生産して流通させて販売して消費する活動に人々の労働が関与することになるわけだ。それは地縁血縁的な贈与や供与では得られない物資を得られる機会を人々に提供し、氏族的あるいは地域的な繋がりのない集団の間での交易も可能としている。そしてそうした因習的なしがらみのない商品を買ったり売ったりするに伴って、そのような取引を安全に行えるようにするための何らかの保障や信用を求める機運が世の中に生じて、例えばひどい商品をつかまされて詐欺に遭ったり詐欺を行わせないようにするための措置を、国家などの行政機関に求めるような成り行きが生じてきて、そうした成り行きの中で売買に関する法律が制定され、法律を人々に守らせる役割を担った警察などの部署が行政機関の中から生じてきたわけで、またそのような法律の整備が進展するにつれて、法律を破った者を裁くための司法などの機関も、行政府から権限を委譲されて議会などの立法機関とともに三権分立の一翼を担う政府機関として独立してくるような歴史的な経緯も生まれた。
 人が社会の中で暮らしていく上で必要となる物や情報の中で、情報は物のような直接的な取り扱いを伴う使用や消費とは異なって、例えばその物が必要であるか否かを判断する材料ともなるわけで、売買に際して商品を買うか売るかを判断する上で、まずはそれが適正な価格であるか否かが重要な判断材料となり、それは生活していく上で必要であったり、あるいは趣味嗜好を満たすのに必要であったりするのとは別の次元の判断であり、また実際に買えるだけの貨幣の蓄えがあったり、売れるだけの商品の在庫があったりすることも重要な判断材料であるわけだが、そこで売買が成立するのに重要な要素となるのが、他の場所や他の時期において実際に売買されている実態があるか否かが、価格を決定する上で重要な情報となってくる。実際に他の場所や時期に何らかの価格で売買されている実績があると、それと比較してその場で売られている価格が妥当か否かという判断が、社会的な申し合わせとして暗黙の同調圧力を形成して、実際に他のどこかで売買が成り立っている実態があるとすると、当然それを採取したり製造してそこへと運んでくるのにかかった経費が含まれる価格でないと売り手が困るわけで、それ以下の価格だと経費を捻出できなくなるから、遠からず売買が成り立たなくなる事態となってしまい、そういう意味で実際に他の場所や時期に売買が成り立っている価格というのが、現状の価格と比較のための重要な情報となる場合が多く、商品についてくる価格という情報には、その商品の生産と流通が成り立っていることを示す背景が含まれている。
 貨幣と交換できるものは商品に限られてくるが、何が商品となるかはそれが売っているか否かで決まり、一般的に売り手には不要であるにしても買い手には必要だと思われるものが売られ、買い手にとって商品は消費の対象となるわけだが、中には転売目的で買われるものもあるだろうし、それがどのような物や情報であっても、売り物となり実際に売買が成立するようなら商品とみなされるだろうし、売ろうとして売れなければ商品としては無価値であり、無価値のままだと商品ではなくなり、結果的に貨幣と交換できなくなっているわけだが、貨幣も商品と交換できる限りで貨幣として成り立っているわけで、さらに一定のレートで別の貨幣と交換できれば貨幣も商品となり、そういう意味で貨幣には貨幣と商品の二重の役割と機能があり、他の商品についても商品と交換する際の指標となれば貨幣としての役割と機能を果たせるわけで、そこで何が貨幣として機能するかは、他の商品と交換する際の指標となれるかにかかってくる。またたとえそれが貨幣として広く社会の中で認知されていても、例えばその国の国家財政が悪化して破綻状態となってしまうと、その国の中央銀行が発行して流通している通貨が、貨幣としての信用を失って国際的な通貨価値が暴落して、それが輸入品の価格の高騰などを招いて、その影響が国内経済にも跳ね返ってきて、連鎖的に商品の価格が高騰してハイパーインフレとなり、その結果、信用を失い価値を失った貨幣が商品と交換できなくなれば、貨幣としての役割や機能を失い、代わりに他の何かが貨幣として機能する可能性も出てくる。一般的には経済力のある国の通貨が国際通貨として貿易などの決済に使われることが多く、自国の通貨価値が暴落して貨幣としての機能を果たさなくなった場合には、信用力のある国際通貨が自国の通貨の代わりに使われることがある一方で、一般的な商品の売買に使われることはまずないが、貨幣に代わって貴金属の金が資産としての重要度を増す場合もある。昔はその国の通貨の価値を裏づけて信用を確保するために、金との兌換を保障した貨幣が流通していたわけだが、経済発展に伴って通貨発行量に見合うだけの金の量を準備できなくなるとともに、為替レートも変動相場制が主流となって、金との兌換は各国ともやめてしまった経緯があるわけだが、戦争による国土の荒廃や財政危機などによって、貨幣の価値を保証する国家の信用がなくなってしまった場合、貨幣以外で何が資産価値を保証するかに関しては、貴金属の金が価値を持っていることへの信仰は未だに根強く、多くの人が金が価値の源泉であり他の資産価値を測る有効な基準だと思っている限りで、金が貨幣よりも重要な価値の指標となりうる可能性がある。
 物に結びついている情報はその価値だけではなく、物を物と認識する上でまず初めに知るのは物の名前であり、当たり前のように思われることだが物には名前がついている。その物に固有の名前を設定することは人間社会の中で成立している重要な約束事であり、命名行為がないと次の段階へは進めない。そして命名された後に物の性質や由来などが言葉で説明されて、それが物に関する情報として物に結びついてくる。物に関する情報はそれについて説明されることから形成され、説明するということは人が人に向かって語ることであり、そうやって説明によって人と物とが関係することになり、物を介して人と人とが結びつき、物について説明される内容は、物が社会の中で利用されるに際して社会の構成員によって共有される物に関する知識となる。そんなわけで商品に関する説明の中には物の売買に起因する情報があり、それが物の値段であり価格なのだが、物と交換する媒体としての貨幣も、実際に商品と直接交換する時には物の一種として認識されるが、直接交換するのではなく、クレジット決済や銀行の口座などから振り込まれる時には、物であるよりは物の価値を示す数値的な情報でしかなく、買い手から売り手へと価格を表示する数値情報が伝達されて加算されるに過ぎず、端末となる機器からその操作が行われるにしても、売り手から買い手へと商品となる物が受け渡される一方で、買い手から売り手へは数値情報が伝達されるだけであり、さらに商品が物ではなく言葉や映像や画像や音声やアプリケーションソフトなどのメディア情報であれば、売買は単なる売り手と買い手の双方による情報交換ともなるわけだが、また売り物が物ではなくサービスということもあり得るわけで、そうなると買い手は売り手から貨幣との交換でサービスを受けることになるわけで、一般的に言えば人が行うサービスとは労働の類いとなり、場合によってそれは人ではなく機械が行うサービスというのもあるだろうし、例えば自販機から物を買うと、表面的には物と貨幣との交換となるにしても、部分的には金を払って物を受け取る機械的なサービスを受けたことにもなるだろうし、さらに機械自体の製造やメンテナンスには人が絡んでいるから、その部分に関しては人的な労働をサービスとして提供されたことにもなるわけだ。

 貨幣には主に価格という情報が結びついている。売買は商品となる物と物とを交換するよりは、物の価格を決める貨幣と物とを交換する方が、便利で使い勝手がいいから、物と貨幣を交換するやり方が商業を通して世界中に広まった経緯がある。また貨幣の利便性は何よりも蓄積に適していることであり、貨幣は時間経過とともに変質や劣化がしにくく、貯蔵し蓄積しておけば必要な時に必要なだけ取り出して使うことができ、しかも蓄積量が多ければ多いほど多量または高価な商品を手に入れることができる。そしてそこからさらなる蓄積の利便性を追求した結果として、銀行口座などの数値情報への置き換えが普及してきて、物としてよりも情報として蓄積する方が嵩張らず高密度に蓄積できるわけで、さらに貨幣を現物で持っていなくても銀行口座から売り手の口座に振り込むことで、物として貨幣の所有に伴って生じる保存や運搬などの面で取り扱いの手間が省け、そういう面では情報としての蓄積の方が物としての蓄積よりは有利な面があるわけだが、商品が物であり人自身も物であり、実際に人が物を利用しながら生きている限りは、その生活には必ず物の使用や消費とともに労働などのサービスが介在することになるわけで、生活のすべてにわたって情報だけの利用とはならない事情がある。しかも情報の蓄積には物である脳への記憶や機械的な記録媒体の製造と利用とメンテナンスが必要で、また情報を記録媒体から読み込んだり、記録媒体へ書き込んだり、他の記録媒体へ数値情報や文字情報などを転送する通信技術とインフラが必要不可欠で、要するにそれらの情報を取り扱う産業技術が必要となってくるわけで、そういう意味で人が作り出す文明や文化自体は、人が物の利用に関して得られた知識の総体としての情報の蓄積と、得られた情報を利用して作られる機械類や機械設備や建造物などを含めた物の蓄積から成り立っていて、実際に人が情報と労働の集積物として結晶化させた機械を利用する傾向を飛躍的に増大させた結果が、産業技術の集合体としての現代文明となって現れているわけだから、そんな情報の蓄積の一部でもある貨幣の蓄積にも、それを活用するのに必要な機械の技術的な傾向が顕著に表れていて、蓄積された情報が投資としての利用を生み、その利用がさらなる情報の蓄積を生んで、そんな蓄積と投資の利用が相乗効果となって経済活動を活発化させ、なおそこから相乗効果として蓄積と投資の利用を増大させようとする傾向が生じているわけで、物の生産と流通と消費だけなく、情報の生産と流通と消費に、人的資源と機械技術を重点的に割り当てようとする傾向が、情報革命と言われる20世紀末から続いている産業構造の変容を招いている。
 また人に情報を提供したり人から情報を得ると同時に、得られた情報を分析して、その分析結果から得られた人の習慣や習性を活用して、人を情報によってコントロールしようとするサービスが、経済的な水準ではやはり貨幣の利用と蓄積の増大に貢献している面があり、その代表例がマスメディアを利用して行われる消費を煽る広告宣伝であり、それが商品の利点や魅力を強調して広く消費者に買うように仕向ける勧誘となり、また商品の購入方法に関しても分割払いという手法が広まって、継続的に所得を得られる職業に就いている人なら少ない金額を継続的に払うやり方を利用して、比較的高価な土地や建物とか自動車などを手に入れられると同時に、継続的に支払いを強いられるからその間は労働を余儀なくされて、人を労働に縛り付ける面でも商品の分割払いが有効に機能している面があるわけだ。そしてそのようなローンの支払いには利息が上乗せされて、その利息分の支払いがローンを組んで資金を貸す銀行など金融機関の利益となるわけだ。そうやって手持ちの資金の少ない人に金融機関が資金を貸して、高価な買い物をさせる方法が発達したことにより、その分だけ経済活動が活発となって貨幣の利用と蓄積がますます増大する傾向を招いたわけだが、別の面ではそれは負債の利用と蓄積の増大にも貢献していて、それは私的な個人よりは桁違いの資金を必要とする企業の経済活動についても増大を招いたわけで、何らかの事業を手掛ける企業が事業を拡大させる目的で資金を金融機関から借りる場合、資金を借りれば当然負債ができるわけだが、そうやって負債を絶えず増大させながらも、借りた資金を運用して利益の獲得を目指さなければならず、要するに経済活動を活発化させるには、手持ちの資金に加えて借りた資金を運用することにも重点が置かれるようになってきたわけで、その結果、利益の蓄積として資産を増加させるプラスの面と、負債の蓄積として借金を増加させるマイナスの面の両面での拡大を招き、経済成長の持続的な拡大を信じるなら、その収支がプラスマイナスゼロよりはプラスに振れているはずなのだろうが、実態としては収支がゼロであってもマイナスであっても、資産の増加であるプラス面と負債の増加を示すマイナス面との間で振れ幅が大きければ大きいだけ経済活動が活発化していることになるわけだ。

 物と物に関係する情報は人の意識の中で結びついているが、実際に社会の中で物と人と情報とが錯綜して複雑に絡み合って様々な作用や影響を及ぼしている場合には、その種類と組み合わせに応じて様々な利用と機能が形成され、物と人とを結びつける情報は物に関する説明や物を記号として扱うのに必要な内容となり、物を記号として取り扱う説明の中で物と人との関係がある水準では定式化され、定式化を可能とする理屈を伴って、社会の中で物や人や情報を操作する際に利用されるわけだが、理屈が説明される度に説明に使うのに必要な様々な記号の組み合わせが試みられ、それらは部分的には恒常的に定まった関係とはいえない面まであり、そういう部分では物と人との関係は定式化できないし、実際に物を伴わない情報が幻影として人の精神に作用する場合まであるわけで、一概に情報が物に結びついているとはいえない面まであって、物も人も情報も単独で記号として機能する場合もあるが、大抵はその場の都合に合わせて物と人と情報とを結び合わせて、それぞれを複合的な記号として取り扱うことになり、それがその場限りの関係であればそれを一定の理屈で説明するのは困難になる。そしてそれが物としても情報としても取り扱われることが可能な貨幣となると、売買の時に物の価格を表す記号として機能する以前に、蓄積された数値情報としての量を示していて、しかもその量が必ずしも物としての貨幣の量とは一致していないわけで、実際に紙幣や硬貨として流通している貨幣の量は、数値情報として金融機関などに蓄積している量のほんの一部でしかなく、それで間に合っている限りで物としての貨幣が存在しているわけで、全ての貨幣が物として実体化する必要がないからそんな実態となっているわけだが、そうなっている時点ですでに貨幣は物としてよりは情報としての機能が優っているわけで、それ自体が物質的な実体がなくても機能する記号的な働きを担っているわけだ。
 例えば物も人も情報も文章上では文字記号であり、それらを記号として機能させる時には、それを介して関係する人々の間で、何らかの意味を持った記号として取り扱うことに関して共通の了解がないと、記号として人々の間では機能しないわけで、結局は人と人とが関係し合う社会の中でしか記号が機能しないのは当たり前のことだが、記号の意味を共通の了解事項として認め合うことによって、初めて社会の中で何らかの意味を伴った記号が機能して、それが機能する限りにおいて社会の中で定められた様々な仕組みや制度が円滑に動作するわけだ。人々が共通の了解事項として共有している記号というのは、人と物と情報とを結びつける符牒であることはいうまでもなく、しかも記号は記号自身と記号の意味という二種類の情報の結合体を成していて、その記号そのものとその意味との結合という二重性が、記号を正確には把握しがたい概念にしている。それがしばしば人を記号に関する誤った理解や単純化した認識に導き、その機能も充分には説明し難い概念にしていて、例えば貨幣は実際に所有している硬貨や紙幣としては物であり、銀行の口座残高の上では数値情報でもあり、ただ所有している硬貨には数値が刻印され、紙幣にも数値が印刷され、預金通帳にも数値が印刷され、銀行などにあるコンピュータ上の記録媒体にも数値などのディジタル情報が記憶されているわけで、どれもが売買の際に商品と交換できる記号として機能する。しかもその記号自身である貨幣も、商品として売買可能であり、実際に貨幣は為替取引などでは一定のレートで売買される商品ともなるが、その一方で実体を伴わない情報としての貨幣の額が、金融工学と呼ばれもする怪しげな取引を通してむやみやたらと膨張する傾向にもあるわけで、それが間接的には何らかの債権と結びついているのだが、直接接することはない実体のなさが、いずれ金融市場の破綻を招くような深刻な事態を予感させているのだろうが、それが人が生活していく上で必要とされる物の生産と流通と消費にどんな影響を及ぼすとしても、実体を伴っている物と伴っていない情報との間には、乗り越え難い質の差異があることは確かで、情報は容易に生成することができて、容易に取り扱われて、容易に修正可能で、容易に消し去ることも可能かもしれないが、それに比べれば物は取り扱いにくいし、作るのにも取り扱うのにも修理するのにも消し去るのにもそれなりの労力を要し、そういう面でそれに関わる物としての様々な存在が情報が膨張する上で障害物となっていて、物と情報とが結びついている実態が、情報に偏向した市場が暴走するのを食い止めている可能性はある。
 人々の間で共通の了解事項として認識され機能する物や情報の価値は、それを妥当な価値として世に広めることによって、自分や自分が所属する集団が保持している物や情報の価値を他の集団にも認めさせようとする思惑が常に働いていて、それは自分たちが生産して売ろうとする商品の価値を高めようとする試みでもあるわけで、価値が高い理由をあれこれと考案して、それを他の人や集団に信じ込ませることができれば高く売れるわけで、そうやってもっともらしい理由をつけて高価な価値を獲得しようとするわけだが、例えばそれが希少であるとか、それを使うと健康に良いとか、それを使えば仕事を効率的にこなすことができ、経費を削減できてその分利益が出るとか、要するにそれを所有して消費する人々を社会の中で有利に導くような効用が広く世の中で信じてもらえれば、それを信じた人々はたとえ高くてもその商品を買おうとするわけで、そういう心理につけ込んで、買う理由が何であれより多くの人が買おうとすれば、その商品への需要が増えて多量に売れたり、また希少だと思われれば通常より高く売れたりするわけだが、その反面で多くの量を売ろうとすれば供給が増えて価格が安くなり、逆に安くしても売れなければますます安くなってしまうわけで、安くなりすぎると儲けが出なくなるから、商品を供給できなくなるだろうし、また高くなりすぎると買えなくなるから需要が減り、その辺で商品の適正価格が自然と調整される可能性が出てくるわけだが、売る方は儲けを出そうとして絶えず適正価格より高く売ろうとするだろうし、買う方は買いやすい価格で買えるように絶えず適正価格より安く買おうとするだろうし、結局売買に関わる人や集団は、絶えず他から買う商品を安く買って、他へ売る商品を高く売ろうとして、それが一応の売買に関して働く心理的な理屈にもなるわけだが、それは売る側や買う側の一方的な都合であるだけに、そうやって儲けを出すための手法が絶えず考案され実際に試されて、価格をめぐって激しい販売競争が起きているとしても、実際に儲けが出るような価格で売れる商品というのが必要であることには変わりなく、儲けが出るような価格で売れている商品が存在している限りで資本主義経済が成り立っていて、そうなっていること自体に合理的な理屈があるのかというと、もしかしたら売買によって利益を出すという単純な理屈以外にはないのかもしれず、ただそんな理屈に適うような様々な手法が試された結果として、儲けが出る価格でたまたま売れている商品があるとしか言えない面があるのかもしれない。
 要するに資本主義経済は商品の売買によって利益が出ている範囲内でしか成り立たず、負債が膨らみ借金を返せる目処が立たなくなった時点で事業は破綻するし、事業を行なっていた企業などが倒産すると、そこで経済活動が停止するわけで、利益を出して事業が継続している企業と負債が嵩んで事業が停止してしまう企業の二つの場合が常に存在するわけで、一方では経済活動が継続されもう一方では停止してしまうという二つの事態が絶えず共存していて、それが経済競争の結果だと言えばその通りなのだが、そうであるなら必ずしも全体として資本主義経済が成り立っているわけではなく、そこでは必ず経済活動が成り立たなくなっている部分があって、実際に新規に起業した事業者のほとんどが失敗してしまうとも言われているのが本当だとすると、競争に勝ち抜いて生き残る事業者はほんのわずかしかいない実態もあるわけで、うまくいって成功した事業者だけを見れば、そこで資本主義経済が成り立っているように思われがちだが、実際に事業に失敗して破綻する事業者が無数に存在する事実を考慮すれば、全体として資本主義経済が継続しているとしても、その中では継続に失敗した無数の事例を含んでいて、確かに成功した事業は確実に利益を出しているのだろうが、その一方で事業に失敗した事業者の負債は回収できていない場合も多いわけで、その利益を上げているプラス面と回収できない負債のマイナス面の収支がどうなっているのかは謎のままなのかもしれず、そういう面から考えると、厳密には資本主義経済は成り立っていると同時に成り立っていないとも言えるのかもしれないし、それでも物や情報の生産と流通と消費が行われている現実があるのだから、実質的には経済が成り立っているとみなすしかないのだろうが、少なくとも全面的に成り立っているとは言えない面があることは確かで、資本主義経済が世界の中で全面的に成り立っていると思っている人たちは、それが部分的には成り立っていない面を見ていないことも確かなのではないか。

 資本主義経済の中で売買される商品の中で、主に消費の対象となる商品は、人々にとって必要だから生産されているというよりは、人々が欲しいと思うものが作られて、また商品の広告宣伝によって欲しいと思わせることによって、それが実際に売れるわけで、なぜ欲しがるのかというと、必ずしもそれが必要だから欲しがるわけではなく、欲しがるように商品を宣伝するから欲しがるのであり、それが必要であることとそれが欲しいと思うこととは必ずしも一致せず、人々はその商品が必要であることに関して、別に筋道立てて論理的かつ合理的に必要である理由を導き出そうとしているわけではなく、例えばそれが世の中で流行っているから欲しいと思い、何がそれを流行らせているのかといえば、主に商品の広告宣伝が流行らせているわけだが、その商品がなぜ作られるのかといえば、人々が欲しがるものが作られるわけで、それが便利さや快適さを追求したものであれ、かっこよさやきれいであることを追求したものであれ、確かにそうした価値基準を兼ね備えた商品が発売されると、人々はそれが必要だと思うだろうが、それでも必要であることと必要だと思うことは、厳密には異なるわけで、必要だと思うからそれを欲しがることは確かだが、必要ではないものを必要だと思う可能性はいくらでもあるだろうし、必要だと思わせるような商品を作って、必要だと思わせるような広告宣伝をすれば、それを真に受けた人々は必要だと思って欲しがるわけで、たとえ必要だと思われるとしても、そこに必要だと思わせるような成り行きがあって、そんな成り行きに巻き込まれている人たちは確かにそれが必要だと感じられるわけだが、そこから外れている人たちにとっては、別に必要だとは思われないだろうし、生活環境も生活習慣も異なれば、実際にも必要ではなくなってしまうのではないか。
 確かに人は何かを必要としているわけだが、ただそれが必要だと思い込んでいるものとは違う可能性があるわけで、例えば他人が羨むようなものを手に入れたら自慢したくなる場合だと、自慢するにはそれが必要となるわけだが、その人にとって自慢すること自体が不要な行為であるとしたら、それが必要だと思っている当人の思い違いとなるわけで、結局その人は何か人が羨むようなものを買ってそれを自慢するという成り行きに巻き込まれていて、そういう成り行きをもたらす社会的な状況がその人にそんな思いを抱かせているとも言えるわけで、そうでなくても人は社会の中で人並みの生活を送りたいだろうし、社会人として恥ずかしくないような身だしなみを整えたかったりするわけで、そうすることが必要だと漠然と思われるのは、実際に社会の中で暮らしている実態がそう思わせているのであり、身の回りの環境から何かしら影響を受けているからそう思われるわけで、そういう部分で必要だと思われることは、その人が個人的にそう思っているだけではなく、周りの人たちも漠然とそう思っていると想像できるわけだ。ではそういう成り行きに巻き込まれなければ何も必要ではなくなって、そのまま何もやらなくなって餓死するしかないだろうか。たぶん人にも動物的な生存本能があるだろうからそうはならないだろうし、実際に餓死する人は何もやらなくなったから餓死するのではなく、何らかの事情で何もやれなくなったから餓死するのであり、では全ての人は餓死しないように働いて日々の糧を得ているのかというと、そこまで追い込まれている貧困層は全体の中では少数派だろうし、多数派は餓死する危険性を感じているから働いているのではなく、もっと次元の異なる欲望を掻き立てられながら働いているのであり、具体的には欲しいものを手に入れるために働いていて、また実際に手に入れたものを保持し続けたいから働いていたりするわけだ。そしてその欲しいものや実際に手に入れたものがその人にとって必要であるかというと、当人としては実際に必要だと思ったから手に入れようとして、そうやって手に入れたものも一つや二つではなく、様々なものをこれまでにも手に入れてきたわけだろうが、確かにそれらを必要だと思い込むことはできるのだろうが、本当に必要であったかどうかは確信が持てないのかもしれないし、そんなことを突き詰めて考えてしまうと、必要とはどのような水準で必要だと定義すればいいのか、その辺が曖昧でよくわからなくなってしまうのかもしれないが、もしかしたら必要であるかないかということ自体が、当人にとってはどうでもいいことなのかもしれず、確かにそれを切実に求めているような心理状態になることがあるのだろうが、その切実に求めているそれが何なのかといえば、どちらかというとそんなに必要でもないものを執拗に求めている場合もあるわけで、そういうものに魅力を感じてしまうのは、メディアをはじめとする周囲の環境から影響を被った結果として、それを欲しいと思い込んでしまうようなものなのではないか。
 そうである限りにおいてメディアなどを介して欲しいと思われるものは人から人へと伝染するのかもしれず、他人が欲しいと思うから自分も欲しいと思い、それも商品の広告宣伝から影響を受けている面があるのだろうし、そうなるとそれが必要か否かというよりはそれを欲しいと思うことが優先されてしまうわけで、結局何らかの商品が世の中で流行していれば、それを人々が欲しているから売れている以外ではなく、必ずしも必要だから売れているわけではないのかもしれず、確かに衣食住に絡む生活必需品と呼ばれるものは、人が社会の中で生活していく上で必要とされていることは確かだが、それでさえも様々な種類があるうちで特定の商品が売れていれば、別の商品ではなくその商品である必然性は希薄なのかもしれず、それも必要だからというよりはそれが欲しいと思う人が多いから、特定の商品が他の商品より売れている実態があり、そういうところでもその商品の必要性は二の次となっているのではないか。そうだとすると本当に必要であるものをとりたてて欲しいとは思わない場合もあるのかもしれず、例えば人にとって水は必要不可欠であり、実際に夏場の暑い時期には小まめな水分補給が欠かせないし、それを怠ったばかりに熱中症にかかって死にかけることもあるわけだが、そういう次元で水が必要であることと、特定の商品ブランドのミネラルウォーターを欲しがるのとは全く別のことだとは思われるが、金銭的に余裕のある人たちなら水道から直接水を飲まないで、浄水器を通した水を欲しがったり、ペットボドルで売っている水を飲もうとするだろうし、そこで余分な一手間をかけられるだけの経済的な余裕を求めているわけだ。そういう人たちにとっては、例えば車は単なる移動の手段であるだけではなく、また荷物を運ぶ手段であるだけでもなく、エンジン音が心地よかったり、スタイルや外観がかっこよかったり、車内のインテリアが贅を尽くされていたり、スピードが出たり加速が良かったり馬力があったり、そこに様々な付加価値が加わったものを欲しがるわけで、結局はそういうところで金銭的な手間をかけられるかに関して、人々を社会の中で競わせる成り行きになっていて、何がそれを競わせているのかといえば、商品の広告宣伝がそれを煽っているのだろうし、実際に宣伝する側はそういった付加価値の高いものを買って欲しいわけで、それを買った人たちが優越感に浸れるような社会情勢であって欲しいのではないか。そして付加価値の高いものが売れるほど、それを製造販売している企業に利益が出るわけで、できれば多くの人が背伸びして付加価値の高い商品を買ってもらいたいのだろうが、それが本当に必要であるかというと、根本的なところでは必要であるはずがないのだろうが、宣伝効果によって欲しいと思わせていることは確かであり、そういう成り行きが本当に必要としているものをわからなくさせているのかもしれないが、果たして人にとって本当に必要であるものがあるのだろうか。あるとすればそれが商品とは限らない場合もあるのではないか。
 人が欲しいと思うものは貴重であったり希少であったりするものかもしれないが、それが商品である場合は一般的に高価なものとなるだろうし、それを所有していることを自慢したくなるようなものとなるだろうが、欲しいものであると同時に必要だと思う商品となると、誰もが買える廉価なものである必要があるだろうし、それを使用したり消費すると得した気分になれるようなものとなると、そのような商品の広告宣伝の内容としては、安くて便利で使い勝手が良いなどの経済効率が強調されることになるだろうし、高くてきれいで無駄に性能が良い商品から、安くて便利でお買い得な商品まで、商品の種類は様々にあるわけだが、商品の用途や価格に応じてその製造時における技術開発の方向性が異なってくるだろうし、例えばコストの安さを実現する技術と性能の良さを実現する技術とでは目的が違うわけで、一般的にはコストの安さを重視して性能を犠牲にすると廉価な商品が生まれ、コストを無視して性能の良さを追求すれば高価な商品が生まれるわけだが、他にも見た目のきれいさや、マニアックな人向けに派手で奇抜なデザインにしたり、大衆向けに地味で穏当なデザインにしたり、様々な需要の方向性があるのは確かで、必ずしもそれらの全てにおいて利益に直結する製造経費の安さを追求するだけに技術革新が進むわけではなく、いくら経費を安くしても売れなければどうしようもないわけで、実際に同じ種類の商品でも必ず安い方が売れるわけではなく、食品なら安くても不味いものは売れないだろうし、外国産だと原産国のイメージがつきまとい、例えばその国の土壌や大気や河川や海などが汚染されていたり、その国の食品の安全基準があまり信用できないようなものなら、いくら安くても敬遠されがちになってしまうかもしれず、またそれが機械類だといくら安くても性能が劣っていたり壊れやすいものでは売れないだろうし、またメンテナンスなどアフターサービスがしっかりしていないと、安心して買えない製品もありそうで、単純に考えれば経費を安くして充分に利益の出る価格で売れればいいわけだが、その商品につきまとうブランドイメージなど、製品の製造技術やコストなどとは少し外れた要因が価格も利益も左右する場合があるのではないか。
 もちろんある種の商品のブランドイメージを保つには、その製造技術が高くて信頼されている必要もあるわけだが、一方でデザインが洗練されていたり、ある種の憧れを抱かせる国の企業であったり、そのブランドの製品を持っていることが社会的なステータスを示すと信じられていたりする場合もあるわけで、そうなるとかえって安物であっては困る理由も出てくるだろうし、そのブランドの製品をを製造販売する企業を儲けさせるために、限られた消費者があえて一番高価な製品を競って買うような事態ともなれば、そのような企業は製造経費の安さだけを追求する技術開発を行う必要はなくなるわけだ。また壊れやすい製品を作ってブランドイメージが傷つくのを避けるために、従業員に無理な労働を強いて製品の質を落とすようなことはしない可能性もあるかもしれないが、そんな企業ばかりではないのはわかりきったことであり、有名ブランドを扱う企業でも、下請けの労働者に過酷なノルマを課すような実態もあるのかもしれず、そういう部分で企業イメージやブランドイメージを売りにする企業は、実態がどうであれ少なくともイメージが傷つくようなメディア報道には神経をとがらせているだろうし、それだけ悪どい金儲けが公にならないように細心の注意を払っていることは確かであり、そのようなメディア圧力が多少なりともその企業で働く労働者の身を守るような要因にはなっているのではないか。そういう意味でもメディア上で商品の広告宣伝を広く行えるような企業は、それなりに真っ当な活動を余儀なくさせられる傾向にはあるのだろうし、不祥事を嗅ぎつけるのが生業のジャーナリスムの方でも、企業の広告宣伝費が主な収入源である場合は、広告料をもらっている企業をあからさまに批判できなくなる事情も出てくるのだろうが、広告宣伝費をもらっていない別の企業の不祥事なら取り上げられるだろうし、そんなところでも真っ当なメディア報道ができる範囲内でしか、ジャーナリズムも力を発揮できないわけだが、それらの要因の全てを単純化して事の善悪を見極めるわけには行かないわけで、確かに経済活動では利益を上げることが何よりも優先される傾向にはあるのだろうが、それ以外の枝葉末節な部分でもそれなりに気を使う必要が出てくることは確かで、その活動を目標や目的などで単純化して捉えないことが肝要なのかもしれない。
 人が金銭を得るには何かを売って得るのが普通だろうが、何を売るかでその後の状況が違ってくるのかもしれず、単純化すれば物を売るか情報を売るかサービスを売るかであり、しかもそれらが混ぜ合わされたものを売っている場合がほとんどかもしれず、売っているものの中でそれが物である部分と情報である部分とサービスである部分とが、どのような割合で混ぜ合わされているかでも、そこで何を売っているかが異なってくるわけで、そこから得られる利益にも差が出てくるだろうか。単純に物だけを売っているように思われる場合でも、その物を作るには労働というサービスがついて回るわけで、また売る行為自体も労働であり、その物を採取したり作ったりする労働と、その物を売り場まで運んでくる労働と、実際に売る労働とがあり、それらの労働に賃金労働が含まれていれば、それが必要経費として売っているものの価格に加算されないと、利益が出る以前に採算割れを起こしてしまうわけだが、売る際にも商品が売れるように広告宣伝することになれば、売る側が広告宣伝する機会をメディアの中で確保しなければならず、広告宣伝という情報を専門に作る広告業者とその情報を広く世の中に伝えるメディア業者にサービス料などの経費を払う必要が出てくる。そしてそのような広告宣伝に費やされた費用も商品の価格の中で必要経費として含まれるわけだが、そんなふうにして物を売る過程で生じてくる様々な成り行きの中でそれなりの費用がかかっているとすれば、現状の各種メディアの活況を見ても、その額は無視し得ないほどの莫大な金額になっていることはわかるし、しかも商品の製造に伴う材料費までも含めた必要経費に利益となる分を上乗せした価格で売らないとならないわけだが、しかも実際に商品が売れないと利益は出ないのであり、そういう意味でものの製造や流通や販売に関するかなりの面で諸経費を抑えるための効率的なシステム化がなされていることはいうまでもなく、そのようなシステム化に伴って製造から販売に至るまでの間で特定の役割を担っている業者の寡占化も進んでいるだろうし、例えば現実に商品の広告宣伝を独占的に手がける広告代理店と呼ばれる業者が、その方面での利益を独占していることは確かかもしれないが、結局は寡占化が進んでその中で生き残って他社を吸収合併した数社というのが、それがどの業者でもよかったのにたまたま数社が残ったという成り行き自体は、事の経緯からすると必然的な成り行きなのだろうし、また当然のことながら特定の商品を製造販売している企業の中でも寡占化が進んでいて、その中で生き残った数社というのが巨大企業に発展した経緯も、同じようにそうなるのが必然的な成り行きになっていて、何かを売って利益を出すという行為が、それが特定の分野の特定の目的に特化した商品に収斂することから、それを商う特定の数社による寡占化と企業の巨大化を生み出す成り行きをもたらしているわけで、しかもある程度寡占化が進行してその分野で独占的に利益を得られるようになると、今度は巨大化した企業の中で事業の多角化が起こり、蓄積された富を背景に様々な分野へと進出する傾向があるのではないか。
 そのような寡占化と企業の巨大化をもたらすシステムというのが勝者と敗者をもたらす経済競争の中で機能し、それが同種の商品をめぐって繰り広げられているうちは、競争が進むにつれて勝者が特定の数社に絞られてくるわけだが、そういう成り行きの中でそれとは少し違う商品を売ろうとする業者が現れてくることもあり、例えばエンジンを駆動装置に使った自動車とは違う電気モーターを駆動装置に使う自動車を売ろうとする業者が出てくるような場合があって、しかもそれが巨大な資本を後ろ盾にして攻勢を仕掛けてくると、やはり自動車業界内の寡占状態が崩れる可能性も出てくるのかもしれないが、それとは全く違った自動車とも鉄道とも船舶とも航空機とも違う交通の手段が出てきて、それが世の中に広まれば、世の中が大きく変わる可能性も出てくるだろうか。現状ではすでに商業的な移動や輸送手段は自動車や鉄道や船舶や航空機によって独占されているわけで、そうである限りにおいて、自動車業界においても鉄道業界においても船舶業界においても航空機業界においても、寡占化と企業の巨大化に行き着いているわけだが、それらは人力や家畜を用いるよりははるかに効率的で迅速に移動や輸送が可能だから、広く世の中に普及したわけで、ではなぜ人力や家畜を使用する行為が寡占化や企業の巨大化をもたらさなかったのかといえば、それが同じ一つのシステムとしては事業が成り立たない事情があったからであり、家畜の場合だと食肉や羊毛や皮革などの産業においては、それぞれの専門分野として産業的なシステム化が可能となって、それなりに寡占化と企業の巨大化に行き着いている面があるが、移動や輸送手段に関しては、過去には商人が交易で利用する他に、戦争に使う目的でモンゴル人などのような部族が国家単位でシステム化して巨大な帝国を築いた例もあったのだが、やはり産業革命以降の効率化と機械化の面で、他のより優れた移動や輸送手段に取って代わられた経緯があり、結果的には移動や輸送手段に使う目的での家畜の生産と売買に関しては寡占化や企業の巨大化は不要だったわけだ。そしてなぜ特定の産業分野で寡占化や企業の巨大化が実現するのかというと、その分野で使用される機械設備の維持管理がその分野のシステム化と表裏一体だからだろうし、例えば効率的に何らかの商品を製造販売するには多数の人員とともに大量の機械設備が必要不可欠となり、それを効率的に維持管理するためのシステムも必要となって、それらに関する技術革新を行うための研究開発にも多額の投資を必要としていて、そうなると多額の投資を行えるだけのより大きな資本規模が必要となってくるのだろうし、それを行えない企業は競争から脱落するか競争相手に吸収合併されてしまうかしかなく、結果的に特定の産業分野内での寡占化と企業規模の巨大化が進行するわけだ。そしてそれは今現在も進行中のことなのだろうし、20世紀末の情報革命以降だとインターネットを介した情報網の中で状況に適応したシステム化が進行中であるとともに、状況に適応できなくなった旧来のシステムは次第に衰退する傾向にあるのかもしれない。