資本論



序論



 当たり前のことを言うなら商品の売買においては確かに安く買って高く売ることでその差額分の利益が得られるわけだが、まずはその商品が生産されなければならない前提があるわけで、もちろん生産物だけが商品になるわけではなく、採取したものや労働などのサービスも商品として機能するわけだが、それらを組み合わせて商品を生産する中では、機械設備が重要な役割を果たしていて、それなしではほとんど商品が世界規模で大量に生産も流通も販売もできないだろうし、そんな当たり前のことはあえていうまでもないことだが、労働を伴うようなサービスも含めて商品が産業として大量に生産されている現実が、商品の売買を可能としていると同時に、実際に商品が流通して販売されて消費されている現実が、さらに商品の生産を可能としているわけで、結局は商品が生産されて流通して販売されて消費されている現実が、資本主義的な経済活動を可能としているわけだ。だがそんなふうに述べてしまうと循環論となってしまい、原因が結果であり結果が原因でもあるようなまやかしの論理しか導き出せないわけだが、売買によって利益が得られたとしても、その利益は貯蓄される以外では投資に回されるか消費に回されるかのどちらかしか使い道はないわけで、どちらにしても資本主義的な経済活動に貢献することになるのではないか。ただ利益を蓄積するのに要する時間がかかり、また商品の生産にも流通にも消費にも時間がかかり、それらの時間と人が活動するのに要する労力を短縮したり節約するのが機械設備であり、時間や労力の短縮や節約によって、それをしない場合よりは余計に利益を生み出すわけで、そうやって得られた利益が長時間かかって手間暇をかけて製造された高額な奢侈品などの商品を買うのに使われる場合もあり、そしてそんな高額な商品を買うことができるのは、ある程度資金に蓄積のある少数の人たちに限られてくるわけで、そんなふうにして人々の間で経済格差が生じるのも、同種の商品であっても廉価なものと高価なものと間で格差が生じるのも、資本主義的な経済活動の成り行きであり結果なのだろうが、そのような資本主義的な経済活動によって生じている現実の中で、人と人との間にも商品と商品の間にも格差が生じてくるのが当然と思われるような状況の中で、そんな格差に応じた社会が形成されているとすれば、その社会の中で暮らしている人々は、やはりそこで生じている格差そのものも当たり前の前提として受け入れているのではないか。
 もちろんそこで生じている格差は近代社会以前の身分社会のように固定されているわけではなく、個人の努力や運次第で経済的に豊かになれる可能性があるわけで、実際にそうなった少数の人たちがメディア上で話題となることもあるだろうし、そうなった人たちに憧れてそうなることを目指す人たちも少なからずいるわけで、またそういう人たちがいる限りで、経済的に豊かになるための資本主義的な経済活動の正当性も社会の中で認められているのだろうし、結果的にそうはならない人が世の中の大多数を占めているとしても、そんな人たちも含めてほとんどの人たちが、資本主義的な経済活動の中で生活の糧を得て暮らしているわけだから、少なくともそこで暮らしている多くの人がそんな現実を受け入れている状況があるわけで、そんな前提の上に社会が形成されているわけだ。たぶんそんな現状を受け入れている人たちが世の中の仕組みを変えようなどとは思わないのは当然だろうが、今後変わる可能性がないとは言えないだろうし、絶対に変わらないとは言えないが、ただそのような社会が機械設備とそれを活用した有形無形の制度やシステムから成り立っていることも確かであり、社会の主流をなす機械技術の形態が変われば社会そのものも変わる可能性があり、それが機械の用途や性能や機能や傾向や方向性などに応じた変化となることは確かかもしれず、例えば機械の活用が経済活動に伴って生じる労力の短縮や節約を目指しているなら、そういう方向で社会が変化し続けていることになるわけで、もちろん一方的に弛みなく変化しているわけではなく、変化の過程で様々な紆余曲折を経ていることも確かで、そのような成り行きで世の中が変化しているとすれば、今もそんなふうに変化し続けているその過程の途中で現状が形成されているわけだが、一方で労力の短縮や節約にもそれなりに限界があるとすれば、そういう方向での変化にも限界があって、そうであるならそれがある程度の限界を迎えたら、今度はそういう方向とは別の方向への変化も起こるのかもしれず、実際に現代人の気づかないところでそんな変化も起こりつつあるのかもしれないが、実際にそんな変化の限界に直面しているからこそ、現代でもそれなりに社会の中で不安や動揺が生じていて、そんな情勢を背景として従来からある方向から離脱するようなわずかな差異にも目くじらを立てて、執拗に不寛容を煽り立てる勢力が跳梁跋扈するような成り行きとなっているのかもしれない。

 近代から始まった国民国家的な国の統治形態は、産業の工業化の進展とともに世界中に広がっていったわけだが、工業化はそれまでの農耕や牧畜が中心の産業構成から工業や商業が産業の中心になっていく過程で生じたわけだろうが、それに伴って農耕や牧畜も工業化の進展に伴って機械が導入されて、機械化された農耕や牧畜の形態が主流となってゆき、それは他の第一次産業である林業や水産業でも同じように機械化されたわけだが、同時に国民国家の統治機構も機械化されていったわけで、それに伴って戦争の形態なども目まぐるしく変化して、人を大量に殺傷したり建物や施設を大規模に破壊する技術が急速に進歩した挙句に、原子爆弾や水素爆弾の発明によって、もうそれ以上大規模に破壊しても意味がないほどの極みに達した後には、そこからもっと限定的な規模で効果的かつ効率的に敵の戦力を無効化する技術やシステムの開発の方へと、戦略の重心が移っていくような経緯も生じているわけで、それは産業の機械化に伴う国家的なシステムの機械化にも、規模の拡大が行き着くところまで行き着いた先には、限定的な範囲内で管理統治の綿密化や効率化が進展する傾向も生じているのかもしれないし、20世紀末の情報革命以後は情報処理技術の進歩とともに、社会の隅々にまで管理統治の対象を広げていくような成り行きが生じてきたわけだろうが、一方ではそれがうまく機能せずに、逆に情報処理技術の進歩が社会を混乱させるような作用も及ぼしていて、インターネットなどの世界中に張り巡らされた情報網を通じて、ネットワークに障害を引き起こさせるような攻撃が蔓延している状況も招いてしまったわけで、結局は技術の進歩が諸刃の剣のような効果を生んで、便利になった反面でその便利さをもたらした技術を逆用して混乱を引き起こす行為も可能となったわけで、国家機構によるに管理統治技術の進歩にしても、監視技術などを利用して情報統制を強めて人々の言論の自由を奪うような危険性も同時に生じているわけで、産業技術は使い方次第で良い方にも悪い方にも利用可能であるから、それを使う側の倫理が求められていることは確かかもしれないが、実態としてはそれよりも経済的な利益を得るために利用されている度合いの方がはるかに大きいだろうし、現実に産業の機械化の進展を促したのが経済的な利益の追求にあったわけだから、使う側に倫理を求めるような機運が生じることはあまりなかったわけで、それでも原爆や水爆などの核兵器の使用に関しては、倫理を求める世論が強いから実戦ではほとんど使われていない状況となっているわけだが、戦争に関してはそうかもしれないが、経済的な利益と倫理のどちらを優先させるかとなると、無論経済的な利益を優先させている実態があるから、その結果として世界的に富の不均衡な状態が出現していると言えるのではないか。そうだとしてもでは倫理を優先させればどうなるのかと言っても、そんなことは誰にも想像がつかないのかもしれず、どのような状態が倫理を優先させた状態なのかがよくわからないわけだが、ただ行き過ぎた経済論理の追求が人心を荒廃させるように思われるから、それについては経済的な利益の追求によって不利益を被っている人や集団を慈善活動や公的な制度などによって助けようとする機運も生じているわけだ。
 経済的な利益を追求する論理がどこから生じているのかといえば、端的に言ってそれは物や情報やサービスなどの商品の売買から生じているわけで、それも安く買って高く売れば儲けが出るという単純な論理であり、それを詐欺とは言わせないような制度が世界中に張り巡らされていて、それを制度と言っては語弊があるかもしれないが、普通に考えて商品と貨幣を交換する行為は一つの約束事であり、それを制度と言ってもそれほど間違っているとは思えないわけだが、別にそれを国家が定めているわけでもないし、むしろそれに依存して近代的な国家が成り立っていると言えるだろうし、売買によって儲けが出てそれが利益となるから、国家がそれに課税できるわけで、国家に税金を払ってもまだ手元に金銭が残っているから、どう考えてもそれは商品を安く買って高く売ってその差額が生じていることになるわけで、そのような売買が違法では国家による課税が成り立たなくなってしまうだろうし、実際にそのような行為によって国が栄えて人々の暮らしが成り立っているわけだから、どう考えても詐欺や違法行為ではあり得ないわけだが、なぜそういう仕組みが成り立っているのかというと、制度というよりは商慣習として昔からそうした行為が行われてきた経緯があって、それが世の中で定着している実態があるから、結果的にそのような行為が普通に行われているだけでしかないわけだが、どうやってその仕組みが成り立っているのかとなると、なかなか上手く説明できない面があり、誰もが安く買って高く売れるわけがないだろうし、当然その中には儲けている側と損している側が同じ数だけいるような気がして、一見辻褄が合わないようにも思われるのだが、時間経過に従って徐々に商品の価格が高くなっていく実態があるだろうし、それが物価の上昇を示しているわけだが、世界には物価がほとんど上昇しないような状況に悩まされている国もあるわけで、そういう場合はどうなるのかというと、その国ではそうであっても商品を輸出している国で物価の上昇が起こっていればそこから利益が得られるわけで、世界全体として物価の上昇が続いていれば交易によって利益が確保されるような成り行きになり、そうなっている限りで経済的な利益の追求が行える状況にはなっているわけだが、それは結果的に生じていることであって、人の心理状態としてはとにかく少しでも安く商品を買いたいわけで、またいつでも商品を買えるように十分な額の金銭を持っていたいわけでもあり、そのためにはなるべく買わずに節約して貯蓄したいという思いも生じているわけで、そういう傾向の思いが人々の間で強くなると物価の上昇が鈍ってくるわけで、また労働によって十分な額の賃金が支給されないようだとさらにその傾向が強まるだろうし、労働もサービス的な労働力商品である面があるわけで、労働者は安く商品を買って高く自らの労働力を売りたいわけで、自らの労働力を企業などが高く買ってくれなければ、それだけ商品の購買力も下がってくるのは、安く買って高く売る理屈に照らし合わせれば当然であるわけだが、企業の方でも安く労働力を買って高く商品を売りたいわけだから、そういうところで労働者の利害と企業の利害が背理してくるのは当然かもしれないが、それに関してはたぶん世界のどこかで詐欺的に騙されている部分が露出しているのかもしれないし、それが低賃金で長時間労働の多い国であるか、あるいはテロや内戦で国土が荒廃してしまった国であるかは、おそらくはその両方の国の中で資本主義経済がもたらすひずみが顕著に表れているのかもしれない。

 投資には資金が必要であり、資金は経済活動によってもたらされるわけだが、資金がどこで集められるかというと主に銀行や証券会社などの金融機関で集められることになるわけで、銀行は預金者が預けた金を融資に回すのであり、事業資金が必要な企業に融資することで、その資金を企業が返済する時に受け取る利子が銀行の収益となるわけだが、そうした資金の貸し借りが企業が行う事業を支えていて、企業は機械化された設備がないと大量に商品の生産ができない事情があり、設備を整えるには多額の資金が必要で、それは商品の生産だけでなく流通にも販売にも必要なのだが、だから企業が行う経済活動には機械設備が必要不可欠な面があり、資財を投資して生産設備を用意してからでないと生産が始まらないわけで、それなりの生産規模の設備を整えるには自己資金だけでは賄えない場合は銀行から融資を受ける成り行きになるわけだが、他にも株式や社債の発行によって資金を確保する方法もあって、いずれにしてもまとまった資金を得るためにそのような金融関連の制度を利用するわけで、資本主義経済の担い手である企業活動には多額の資金が前もって必要であり、その資金を用意するのが金融機関の役目となるわけだが、金融機関も機械化された設備が必要であるのは同じで、多額の資金を使って金融業に必要な設備を整えないと活動が成り立たない事情があるのは他の企業と変わらないわけで、その設備を整えるために必要な資金も、他の金融機関からの融資によって得る場合もあるかもしれないが、どのような経済活動を行うにしてもまずはそれを行うための設備が必要であることが、多額の資金を必要とする事情となるわけで、資本にそれらの設備も含まれているのは当然だが、その設備を伴った制度が人をそこにつなぎとめておく仕組みを作っているわけで、その設備を建設したり制作するのに人手を必要としていて、また出来上がった設備を稼働させて何らかの経済活動を行うにも人手が必要とされるわけで、そうやって何らかの設備を伴った制度が人を必要としているわけだが、そうした制度が現代人そのものを構成しているとも言えるだろうし、何か特定の機能に応じて人が構成されているから、そのつなぎとめられている制度の中で有効に機能していれば、他のことはなおざりにされてもいいわけではないが、それに関して人として備わっているべき普遍的な価値観が欠けていても構わないような風潮が世の中に蔓延している可能性を指摘できるかもしれないし、その普遍的な価値観とは何かというと、他人に共感する能力に関連する価値観であり、もっというなら他人の境遇に共感する価値観というと、利己的な行為を戒めるような成り行きが想像できるのだが、その戒めが利かない人たちがそうした制度によって構成されているのかもしれず、制度の外部に意識が存在できないから制度に同化するしかないわけで、そうなると制度の仕組み通りに動作しているだけで、それでは制度に逆らう理由が生じないから、制度の外部に位置する人たちの境遇に共感することができないわけだが、そうなると制度から生じる利害関係が自身の利害と一致して、それ以外の利害関係を共有することができなくなって、そうした制度から疎外された人たちの境遇には共感できなくなるわけだ。
 その場に生じている制度上の特殊な利害関係にしか興味のない人は、その利害関係が外れた人たちや利害関係の中で敵対している人たちを思いやる心が欠けていて、その制度が構成する利害を共にする共同体の中だけで凝り固まって活動することになるわけで、そうなるとバランス感覚も他と利害調整を行う能力も養われないだろうし、要するに外部との交渉や取引ができない人たちとなるわけだが、そういう人たちを使う側からすれば便利な駒として重宝されるかもしれないし、設備の付属物や機械の部品といった取り扱いになるわけで、もはや人間扱いされないということだが、それで何が困るかというと、その制度が世の中の全てではないということであり、そして制度が世の中の全てでなければ、制度から外れたところでは生きてゆけなくなるだろうし、制度から外れた対応がとれなくなるから制度外の常識が通じなくなるわけだが、しかし制度外にどんな常識があるかというと、制度が常識を作るという感覚からは考えられないだろうが、それは世の中の一般常識というのとは少し違うのかもしれず、むしろそれは制度に逆らうことに生じてくるような常識と言えるのかもしれないし、それについてわかりやすく言うなら制度の問題点を指摘する行為は制度に逆らうことによってしか可能ではないわけで、制度に付き従うだけの人には制度の問題点など指摘できないだろうし、制度のある部分に問題があると気づくこと自体がすでに制度に逆らっているわけで、そこで言う常識とは制度の外に身を置いてみて初めて気づくようなことでもあるのだろうし、制度の内部で凝り固まっている人たちには気づけないことであり、それらの人たちは制度に外部があるなんて思いもつかないだろうが、その代わりにそれらの人たちが気づくのは自分たちに敵がいるということであり、敵が制度の外部にいるわけではなく、敵対し合う関係自体が制度を通して構成されるわけだから、敵も制度の一部であり敵も何らかの制度に従っているから敵として認識できるわけだが、制度に逆らうと言うことは敵が従っている制度にも逆らうということであって、敵対し合うどちらかの制度に逆らうが、どちらかの制度には従うという態度ではなく、ただ制度の問題点を見つけるために制度の外に身を置いて考えるような態度のことであり、哲学用語ではそれを超越論的な態度と呼ぶのかもしれないが、別に難しい哲学用語など使わなくても、外の思考は常識として制度に逆らって考えることを示しているだろうし、制度外の他人に共感を示すには自分のこだわりを捨てないと共感できないわけで、そのこだわりがどこから生じているのかといえば、制度に従っていることからこだわりが生じてくるわけで、同じ動作にこだわっているとすれば、それは制度の仕組みに従うことから自然と同じ動作を繰り返すことになるわけで、それが型にはまった動作となり、そのような動作が制度内の常識ともなるわけだが、そういう常識であれば制度と共にあるといえるだろうし、世間の一般常識というのも世の中の多数派が従っている制度から生じてくる常識となるわけだが、それとは反対に制度の外で考える態度には常識にとらわれない思考が要求されるわけで、制度外の常識は制度内で通用する常識にはとらわれない態度から生じることになるわけだ。

 人は事故や災害や病気などの不慮の事態に備えて保険に入ることがあるが、保険には他の大勢の人も入って保険料を払い、その資金がある程度の額に達しないと、実際に不慮の事故などに遭って保険金の払い戻しを受ける時に、契約した保険料の額を受け取れないだろうが、実際にはそんなことはあり得ないだろうし、現実に大勢の人が保険に加入して保険料を払っているから、その中のごく一部の人が不慮の事故などに遭った時に多額の保険金が降りるわけだが、保険にも年金のように定期的に少額ずつ払い続けて、満期になったらその額に利息をつけた額が一定期間にわたって払い戻されるようなものまであって、どちらの場合でも保険会社はただ加入者から支払われた資金を貯金して眠らせておくわけではなく、金融市場で株や債券や為替などに投資して利益を得ようとするだろうし、そうやって運用益を出した中から積立型の保険の払い戻しなどの際に利息として支払われるわけで、そうやって大勢の保険の加入者から集めた資金も資本として機能している面があるわけだが、その多額の資金の貸し借りには利子がつくという制度が、資金運用していく中のどこかで利益を出さない限りは、利子をつけて借りた資金を返せない困難さを生じさせるわけで、そこでどうやっても安く買って高く売るという行為を行わないと利益を出せないわけだから、そこで詐欺にならないような手法を考え出さなければならなくなるわけだ。それに関して普通は物や情報やサービスなどの商品を生産して流通させて販売して消費する過程の中で、経費を安く抑えて利益の出る価格で売るようなことが行われるわけだが、金融市場での資金運用ともなればどのような手順に売買を行うとしても、株や債券などの金融商品を安く買って高く売ることでしか利益を出せないだろうし、買う相手を騙して売っているわけでない限りは売買そのものに関しては詐欺にはならないだろうが、同じ金融商品を大勢の人が売ろうとすれば安くなるし大勢の人が買おうとすれば高くなるということ自体が、商品の価格という価値基準が人の心理状態で変わってくるという不条理を明らかにしているわけで、そうした不確かな要素に左右されながら値動きが起こる商品を果たして信用できるかいうことに関して、そこで行われている活動を正当化できなくなるわけではないものの、少なくともそうした売買を伴う経済活動自体に明確な正当性や合理性があるわけではないことは認識できるのではないか。別にそうだとしても売買を行わなければ経済が回ってゆかないし、現代文明を支える全ての活動が滞ってしまうかもしれないが、実際にそんなことはあり得ないわけだが、普通の保険にしても保険料を払い続けても事故などの不慮の事態が起こらない限りは、支払った保険料が支払った本人には返ってこないし、自身に生かされないことになるから無駄に金を払ったと思っても構わないわけだが、だがもしもの時を考えれば金銭的に余裕があれば保険に加入する気にもなるだろうし、そういうところで人の心理状態が無駄になるかもしれない保険料を払わせるわけで、それは商品を安く買って高く売らないと利益が出ないという当たり前の事実と同じように、どう考えても理屈に合わないことをやっている感覚をもたらすのではないか。
 とは言っても普段はそんなことまで考えないし、考える余裕すら与えないようにされている面があって、そうさせているのが制度であり慣習であるわけだろうが、商品を安く買って高く売るのが当たり前だと思うのは、売買という商慣習に従っているからそう思われるのだろうし、実際にものを売って儲けが出たら嬉しいだろうし、他の人たちもそうやって儲けているのだから自分が儲けて悪いわけがないし、誰もが儲けを出そうとして必死になって努力しているのだから、そういうことを当たり前のように行なっている環境の中では、それが悪いことであろうはずがないし、逆にものを売って金を儲けるのは良い行いだとも思われるのではないか。というかそれが当たり前のように行われている中では、そうした行為に善悪の判断基準を当てはめようとすること自体がおかしいわけで、ただそれが良いとか悪いとか思う以前に売買を当たり前のように行っているわけで、しかも儲けが出るように売らないとまずいわけで、そこでの合理的な判断基準は売買そのものが善悪の基準ではなく、いかにして儲けるかということにかかっていて、そうなると安く買って高く売らない限りは儲からないわけだから、それに関する合理的な判断基準としては儲けが出れば良いことであり、損を出せば悪いことになるわけだが、それでも同じ商品を安く買って高く売るだけでは売買以外は何もやっていないわけで、どこから儲けが出てくるのか、儲けを出していることの正当化が難しくなるのかもしれないが、市場の値動きを的確に読んで売買のタイミングを見計らうにはそれなりの努力やセンスが要求されるだろうし、また自動的に売買を行うAIソフトを開発するのにも高度なプログラミング技術や数学的な知識を要するから、そういう努力を行なっているから儲けを出すことができるという理屈によって正当化できるわけで、また普通に物や情報やサービスなどを生産して流通させて販売して消費する過程で儲けるにしても、生産に関しては他よりもコストを削減できてしかも高品質な製品を製造する技術を開発したり、流通に関しても効率的な流通手法や流通システムを開発したり、販売に関しても営業努力によって良い商品を適正な価格で買ってくれる市場を開拓したり、そうした顧客を確保したり、消費に関しても無理に大量に売らなくても安定して持続的な消費に結びつくように売り方を工夫したり、そうした努力が実を結んだから儲けが出るようになったと正当化することができるかもしれないが、そうなると単純でいかがわしくも思われるような安く買って高く売るという儲けを出すための論理を、技術的に克服することによって正当化できる理屈を編み出したことになるわけで、結局それが現代文明が産業技術によって成り立っていることの証しとなるわけだが、その一方でそうではない側面もあるから全面的には正当化できないのだろうし、それが労働者を過労死させるほど働かせたり、従業員を安い給料でこき使っている一方で経営者が贅沢な暮らしを自慢したりすることが、何か倫理的に間違っているように思わせるのだろうし、そういうところで言いわけできないような行為や振る舞いが出てしまうのが、人の弱さでもあるのだが、そこでも良い面と悪い面が表裏一体であることを踏まえておくべきだろうし、やっていることを正当化するということよりは、常にやっていることから生じる弊害に対処するように心がけることが肝心なのではないか。

 企業活動は物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中で、部分的にしろ全面的にしろ販売を経由する部分に関わって、そこから何らかの収益を上げることによって成り立っているわけだが、民間の経済活動は物や情報やサービスのいずれかか、あるいはそれらが入り混じった商品を売ることによって収入を得るわけだから、企業自体がそのような行為を集団的な組織形態によって制度化しているとも言えるわけで、それは行政機構が企業とは異なって、税を徴収する行為を集団的な組織形態によって制度化しているのとは対照的な活動なのだが、どちらの組織形態でも売買益を上げることや税を徴収することだけが活動の全てではないだろうし、それらを糧として人々が興味を持つような物や情報やサービスを提供することが活動の主な内容となり、人々が期待しているのもそういうところにあるのだろうが、欲しい物や欲しい情報や欲しいサービスが企業や行政からもたらされるなら、買える範囲内で喜んで買うだろうし、税金も払うかもしれないが、人々は買ったり税金を払うことによってもたらされる以外の物事も求めているだろうし、そうした物事の中には制度的なやり方でもたらされるのではない物事まであるのかもしれず、そういう面では企業や行政などの制度的な活動は人の生活の中では部分的な範囲内にとどまるだろうし、それらだけが全てではないことはわかりきったことかもしれないが、一方で制度からもたらされる物事には、決まりきった形式的な動作を通してもたらされることから生じる特有の性質があって、それを利用者が使うだけでもその意識には制度的な意図が反映されて、制度的にもたらされる物事から心身に影響を及ぼされることになり、そうやって制度を担う集団的な組織形態の活動に巻き込まれていってしまうわけだ。しかしそれが問題であるとか悪いことだというわけではなく、現代文明の中で生活していればそれは当然の成り行きなのだが、当然であるだけに気にも留めないことでもあって、それがどうしたわけでもないと言ってしまえばその通りなのだが、人々が欲しい物事を提供するのがそうした制度的な集団の使命であると思われる以前に、それを欲しがらせるような成り行きを制度が作っている可能性があるわけで、そうしたことをやるのがメディア的な宣伝や煽動などの行為となるわけだが、それを多くの人が欲しがって欲しいからそういうことが行われるわけで、なぜ欲しがらせるように仕向けるのかといえば、それが民間の経済活動ならそれが多く売れれば利益が得られるからという理由が成り立つわけだが、それが行政の活動なら事情も違ってきて、行政的なサービスの利用者が増えるとそれが行政活動の拡大に結びつくわけで、要するにそれだけ勢力が拡大して活動の領域が広がるということであり、それが何を意味するのかというと行政機構の膨張につながるということだろうし、それは民間の企業でも言えることで、取り扱う商品が多く売れれば利益が得られて商売が繁盛して事業規模も大きくなって、やはり勢力が拡大して活動の領域が広がるわけだ。
 単純に欲しいものを提供するのが制度の役目であり、人々にとって必要な物事を提供するのが行政の役目だと解釈できるレベルがあることは確かだろうが、その一方で制度は欲しがらせるように仕向けたり必要だと思わせたりする仕組みも兼ね備えているだろうし、それが公的な制度なら誰にとっても必要な物事を提供するのが使命だと活動を正当化したいところだろうが、その誰にとっても必要になってしまう成り行きを制度によって作るような活動も、行政としては目指しているのかもしれないし、日本ではその典型的な事例が原発であり、誰にとっても原発が必要となるような電力供給システムを行政が主導して作り上げてきたわけだろうし、それが大規模な原発事故が発生して疑問に思う人が多くなってきた今でも、なおそうしたシステムを維持したいがためにあれこれと画策しながら推進勢力が立ち回っている現実もあるわけだが、そうやって組織の都合を世の中に反映させるのも制度の役目である面もあるわけだから、あまり単純かつ肯定的にそれらの活動を解釈するわけにはいかなくなるわけで、それ以前にそこに誰の都合が反映しているのかを見極めることも大事となってくるのだろうが、まず認識しておかなければならない前提としては、利用者の都合が反映された制度であるように装うのはどんな制度にも言えることで、利用者が利用しにくい制度であれば利用したがらないから廃れてしまうだろうし、公的な制度を強制的に利用させるのにも限度があるだろうし、その点は合理的な認識や見解に落ち着くだろうが、そういうレベルでは確かにそうであっても、それ以前に制度を多くの人に使わせたいという意図や思惑が必ずあることも事実だろうし、制度を利用してほしいということは、利用してくれれば都合がいいということであり、そこに制度を管理運営する側の都合があることも確かだろうし、そうした都合を反映させたものが制度であり、その都合が利用する側よりも管理運営する側を利することも明らかなのかもしれず、そうでなければ制度を作るメリットがないだろうし、管理運営する側にとって都合が悪く、利するよりも害をもたらすような制度を好き好んで作って運営するはずがないわけで、制度を利用しようとする前にまず考えなければならないのはそういうことであり、何かそこに思い違いがあるとすれば、それに関して宣伝や煽動は誰のために行われているのかというと、それは宣伝している側や煽動している側を利するために行われているわけで、宣伝や煽動を真に受けた人たちを利用したいがためにそんなことをやっているわけで、要するに制度の利用者は制度を利用していると思っているわけだが、制度を管理運営する側は制度の利用者を利用して利益を得ようとしているわけで、それが必ずしも両者を利することになるとは言えない場合があって、そして制度を利用するように呼びかける宣伝や煽動があまりにも頻繁かつ大規模に行われるようなら、逆に裏がある思われても仕方がないだろうし、要するに利用者に危険や害が及ぶ可能性の高い制度であるほど、それを悟らせないようにするために大々的な宣伝や煽動を繰り返すわけで、そういう制度は利用者が求めているような制度ではない可能性が高いとみなした方がいいのかもしれない。

 世の中で人の活動を規制する決まり事に関して制度と慣習があるが、制度はそれが公的な制度であれば、法律によってその仕組みや機能や動作が規定されていて、民間の企業などが管理運営している制度でも、その利用にあたって守るべき規約などを定めて、それに同意しないと制度を利用できないようになっているし、そこでの決まり事は法律や規約などによって文章で示されていることが多いが、それが慣習となると、普通は文章でははっきりとは示されておらず、暗黙の了解事項としてその地域の住民などが日常の立ち振る舞いとして、同じようなことを行なっている状況があるわけで、それが生活習慣として特定の地域社会や特定の集団の中に根付いているわけだが、それらに加えて人の活動を規制するものとして見過ごされがちなのが機械や道具であり、普通それは人の活動に役立てるために出現したものであり、実際に道具を活用することによって人類は文明を築いてきたわけだが、特定の道具を使うことによって誰もが同じ動作を行うことは確かで、厳密に言えば道具を使う動作が同じ動作になるわけだが、それは使う目的が同じだから同じ動作をもたらすことが多くなるのであり、そうなると慣習の中でも同じ道具を使って同じことをやる成り行きも生じるだろうし、またそれが制度になると道具とともに機械を使う場合も出てくるだろうし、道具にしても機械にしてもそれを使って誰もが同じ目的で同じことをやろうとするから、それが慣習に結びついたり制度の中で使われることにもなるわけだ。そして現代のような産業社会をもたらしたのは機械の使用によるところが大きいだろうし、産業と呼ばれる形態はほとんど全てが機械を使った活動になるわけで、それは物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費に関係する活動になるだろうし、その中で機械はなくてはならない操作物となっているわけだが、機械そのものが一つまたは複数のシステムを内蔵していて、その中で仕事を行なっているわけだが、それが大掛かりなものとなると設備と呼ばれて建造物の一種にもなるわけで、人が人力で行う仕事を機械が人力よりもはるかに効率的にかつ大量に行うから、機械が人手に代わって使われるようになり、さらに人ができないことまで機械ができるようになったおかげで、人類の文明が飛躍的に進歩したようにも感じられるわけだが、それを実現した機械の技術革新は科学技術と呼ばれる分野が担ってきた成果であり、そうした技術革新の成果によって人々の生活も、ほんの数百年前からは想像もつかなかったような変貌を遂げていて、今後の世界も科学技術の進歩によって劇的に変わる可能性も予想されるだろうが、それでも人の活動を慣習や制度とともに機械が決まり切った動作へと限定していることは否めず、活動の自由を奪うような拘束力が備わっていることは確かで、そこで機械の仕組みが体現しているシステムへと人を封じ込めるような作用が働いているわけだ。
 確かに機械を直接操縦していれば他のことがほとんどできなくなるわけだが、種類や用途によっては機械には自動的に仕事を行う機能も付いているわけで、全ての機械に自動運転機能を付けば、人がその活動に拘束されることもなくなるかもしれないが、人の活動そのものを機械が代わりに行なってしまうと、それだけ人の活動が機械が行わない活動に限定されてくるだろうし、それが活動の幅を狭めるようなことになれば、やはり活動の自由を奪われるような成り行きに思われるだろうが、実際に機械を消費者に向かって商品として宣伝する時には、それとは真逆な宣伝文句で買わせようと仕向けてくるわけで、例えばSUV車に乗ってアウトドアスポーツや冒険の旅へと誘ったり、ミニバンに乗って家族でレジャーに出かけようと呼びかけたり、消費生活を楽しむために機械を買って活用するように仕向けてくる場合が多いだろうし、中には宇宙船に乗って火星へ向かうように煽動する荒唐無稽な宣伝まで出てきたわけだが、要するに機械を使うと目的が限定されて、それだけ活動の自由度が狭まるようにも思われるわけだが、逆にそれを活用して何かできるように思わせるところが逆説的な不条理感を醸し出しているわけで、例えば歩いて行くよりは乗り物に乗った方が行動範囲が広がることは確かだろうし、風景を描くよりはカメラで撮った方が正確にその場の光景を写し取れるだろうし、紙に書いて計算するよりは電卓やコンピューターを使った方が飛躍的に計算能力が上がるだろうし、特定の目的に特化すれば機械を使った方が迅速かつ正確にやってのけることは確かであり、無駄に時間をかけないから余った時間で他のことまでやれて、それだけ多くのことができるわけだら、活動の幅が広がるし自由に時間が使えるようになったとも思えるわけだが、実際に機械化された文明社会の中で人々が何をやっているかというと、誰もが同じようなことしかやっていないように思われてしまうのはなぜだろうか。特に先進諸国の中では経済的に裕福で暇を持て余している人も結構いるはずなのに、それらの人々が判で押したように同じようなことをやっている現実があるだろうし、まるでやることが事前に決められていて、それ以外のことができないような世の中の仕組みになっているかのように、何か特定の活動を行うように仕向けられているわけだが、要するに人々が日常の中で見聞しているメディアからの情報がそう思わせているのだろうし、メディアが見せる人々の活動が同じようなことばかりなのであり、要するにメディアで話題となっている人の活動が同じような活動であり、それに関して人々が興味を抱く活動も同じような活動になるだろうし、それ以外には何をやったらいいのかわからないわけで、特に機械を使って何かやるとなると、機械の機能に限定されたことしかできないのは確かであり、それ以上に応用が利かないのかもしれないし、応用を利かせようとすると途端に難しくなるのは、機械の機能から外れたことをやらせようとするからできなくなるわけで、そうであるなら機械の機能に限定された範囲内での活動になるしかないだろうし、そうした活動なら他の多くの人もやっていることであり、少なくともその機械を使っている人はみんな同じようなことをやっているわけだ。

 そこに平和な状態がもたらされていれば、そんな世の中では多くの人が働いている実態があるのだろうが、それを労働という言葉で表現すると何か否定的な響きを伴って受け取られ、実際に雇い主にこき使われていかにもつまらない仕事をやらされている場合もないわけではないが、そんな自由のない拘束された環境で受動的で主体性の欠如したことやらされるのが労働だと定義したら、それではあまりにも卑小で偏向していると思われてしまうだろうし、そうではなく誰もが普通に行なっている仕事が労働であり、一般的に言って働いていること自体が労働だとみなせば無難な解釈になるだろうが、労働と言えば普通は賃金労働を指すだろうし、経済活動において物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程の中で、サービスが労働であり、生産にも流通にも販売にも消費にも労働が伴い、その中でサービスが生産されるということは労働する機会が生じることになるだろうし、サービスが流通するということは派遣先まで労働者が赴くことになるだろうし、サービスを販売するということは労働して賃金をもらうことになるだろうし、サービスを消費するということは単純にそこで働いてもらうことになるわけで、結局は経済活動の全ての工程において何らかの労働が必要となってくるわけだが、労働と競合するものとして機械があるわけで、それも機械を作る時には人の労働が必要となり、今のところは全面的に機械が機械を作るようにはなっていないわけで、部分的には全ての工程が機械化されて、自動的に機械が生産物を作ったり、さらに機械が機械を作る工程もあることは確かだが、その機械を作る機械設備や機械を作るその機械を作る時にはやはり人の労働が絡んでくるわけだから、どんなに自動技術が発達していても、今のところは依然として人の労働によって何かが行われている実態があるわけだ。そして何かが行われているということの中には、人と人とのコミュニケーションなどの交流も含まれるだろうし、そこで交渉が取引などが行われている場合もあるだろうし、会議や説明会などのように何かを発表したり討議したりする状況まであるわけで、そこでも賃金などが発生する場合は会議の司会者や議題の発表者などが労働していることになるだろうし、そうした労働は一応サービス業に分類されるのだろうが、そのような状況の中では何を持って労働とみなすかが曖昧になってくるのかもしれず、普通は会議や説明会などを経て何らかの商品を発表して、それを製造して発売することになってから、その商品を顧客や消費者が購入することになれば、そこで金銭的な収入を得ることになって、そうした収入の中から必要経費として会議の司会者や説明会の発表者などの賃金が出てくるわけだが、一応の理屈としてはそうであっても、司会者が司会をすることが専門であったり、発表者が発表することが専門であったりする場合は、発表者はともかく司会者は別にその商品の製造にも流通にも販売にも消費にも直接は関わってこないだろうし、もちろんその手の人は限られたごく一部の人であって、そういう人が他に大勢いるわけでもないだろうが、何かそこで余分なことが行われているように思われるわけだ。
 たぶん商品の生産に伴う手続き上の過程で、その手の会議や説明会などを経ないと製造にまでこぎつけられないのだろうし、そのような手続きに費やす経費も商品の開発費や製造費や販売額などに比べたら微々たるものでしかないだろうし、主に事業の規模の大きな大企業などでそういう手続きが普通にあるわけだろうが、果たしてそこで判断されることがどれほどの重要性を持つのかというと、それはその時の状況にもよるだろうし、何か社運をかけて行うような新規事業に関して会議が開かれているような場合には、いかにも重要なことが話し合われているようにも思われるだろうが、年がら年中そんな状況になっているわけでもないだろうし、またそういう時にしか会議などが開かれないとすれば、緊急に行われるようなものでしかないだろうし、それ以外で定例会などの形で月に一度ぐらいの間隔で惰性で行われるようなものなら、親睦会程度の意味合いしか持たないのかもしれないし、何かの付け足し程度で行われているだけのことなのかもしれないが、集団的な組織形態の中ではそういう一見無駄に思われるようなことが結構行われている場合が多いのかもしれないし、そういうことをやっている人たちにとっては、それをやることに関してそれなりの必然性を感じている人もいるのかもしれず、惰性で行なっていると思っている人が結構いる中でも、それが有意義であると思っている人も一部にはいると、そういう人が会議の中で積極的に発言するような成り行きにもなるわけだが、やっている人たちの中でもそうした温度差があると、微妙な空気がその場を支配することにもなるわけで、たぶんそういう空気を察知するとだいぶ真剣味が薄れてきて、それが儀礼的な慣習であるような気にもなってくるわけだが、企業でも行政機関であっても、活動の中でそうした儀礼的な慣習となってしまっている部分が結構あるのかもしれないし、またそうした面があるのにも関わらず、一方で作業効率だとかコストなどをシビアに計算しようとする面も一部にはあるのだろうし、何かその辺で合理性一辺倒には事態が推移しないわけで、そういうところがいい加減と言えばそうとしかいえない部分があることは確かで、またそういう面をしゃかりきになって批判することも可能なのかもしれないが、そういう批判をする人は実態を知らない外部の人かもしれないのだが、そうした全体のほんの一部で行われていることが意識の中では割と大きな部分を占めているわけで、何か本来の集団的な組織形態だと、そこではまるで機械のようにシステマティックに全ての物事が淀みなく進行していると思われるかもしれないが、実際にそこに人が関わってくるとそうではなくなってくるわけで、それはまつりごととしての政治的な実態を示しているのかもしれず、そんな組織であっても末端で働く労働者は過酷な環境の中で死に物狂いで作業を行なっている状況があるのかもしれないし、それでも何かのきっかけで作業に遅れが出始めると残業しても仕事をやりきれなくなって、そんな状況の中で責任感にかられて仕事を仕上げようとする意識と、それとは裏腹に心身に溜まった疲労との間で板挟みとって、精神を病んでしまう人も出てきてしまうのかもしれないし、そういうところで不条理な状況が生じてくるわけだが、たぶんそういう状況というのは解決不可能なのだろうし、そんなどうにもならない状況が普通に生じてしまうのが労働の現場なのではないか。

 社会の中で法律によって守られている部分は、法律に違反した行為が取り締まられている部分であり、また人が取り締まりを恐れて法律に違反するのをためらう部分でもあるかもしれないが、法律に違反する行為をやって何らかの危害を加えた時点では、たぶんまだ法律に守られてはいないだろうし、しかも警察などによる取り締まりを逃れながらも違反行為を繰り返している時点でも、それによって被害を被っている人は、まだ法律には守られてはいない状態にあるだろうし、違反者が警察によって身柄を拘束されて、もうそれ以上は被害が拡大しない状況となった時に、初めてそこから先で想定される被害が未然に食い止められて、違反行為から誰かが守られたことになるのではないか。もちろん守られたのはその件だけで、他の違法行為によって被害を受ける可能性は残っているだろうし、結局は人々が法律を守っている限りで、それらの人々が法律を守っていることに限っては、法律によって守られているかもしれないが、法律を守らない人が違反行為によって他の人々に危害を加えている状況があるとすれば、実際に危害を加えている時点では、別に法律によって守られているわけではないだろうし、例えばそうやって被害を受けた人々が後から法律によって救済されれば、その時点では法律によって守られたことにはなるのだろうが、危害を加えられて死亡してしまったら、その人については救済されようがないだろうし、ただ残された遺族が何らかの救済措置の対象となることはあるだろうし、そういう部分については法律によって守られていることになるのではないか。だから社会が法律によって守られていると言っても、完全に守られているわけではないだろうし、違反行為を取り締まる側が何らかの対処をしている範囲内では守られているかもしれないが、また違反行為によって被害を受けた人やその家族が何らかの救済を受けた部分についても、法律によって守られているかもしれないが、それ以上は守りようがなく、そういう意味で法律が万能であるわけがないだろうし、法律とは言葉で記された規約の類いでしかないわけだから、規約である限りにおいて一定の効力を持っていることは確かで、それに違反したことが発覚すれば取り締まりの対象となり、その程度によっては処罰の対象ともなるわけだ。そして取り締まる側は社会の中で暮らしている人々に法律を守らせようとしているわけで、人々が法律を守ることによって社会の秩序が維持されることになるわけだが、その一方で法律を破る行為を行わせないように、違反した場合の罰則規定も法律に盛り込まれていて、実際に法律に違反して取り締まりを受けて、裁判で有罪が確定すれば、それ相応の処罰を受けることになるわけだが、処罰されること恐れて違反行為を思いとどまる人も中にはいるかもしれないが、実際に違反行為が繰り返されている現実もあるわけだから、捕まれば処罰されることを承知で違反行為を行う人も後を絶たない実態もあるわけだ。それだけ法律に違反することによって何らかの見返りが期待されている場合もあるだろうし、また止むを得ず法律に違反してしまう成り行きにもなるのではないか。
 経済活動に伴って法律に違反する場合の主なものとしては、まずは詐欺行為があるだろうし、人を騙して金を巻き上げれば詐欺になるわけだが、本来その価値のないものを高く売りつけても詐欺にはなるだろうし、それに関しては偽の高級ブランド商品を売りつければわかりやすい詐欺行為となるわけだが、別にブランド商品ではない普通の商品を安く買って高く売りつける行為になると、それのどこまでが合法でどこからが違法かについては、うまく定義ができなくなるのかもしれず、商品に適正価格というものを設定できる場合とできない場合があるだろうし、また高いのを承知で買った場合は別に騙していないわけだから詐欺には当たらないだろうし、騙されたと思って告発するとしても、売った側が別に騙したわけではないと言い張る場合も想定されるだろうし、普通は著しく不当な高値で売れば誰が見ても詐欺だと思うだろうが、高値で売ることに合理的な根拠があれば詐欺だとは思わないだろうし、それがどの程度なのかは基準がなければよくわからないところであり、買った時の数倍の価格で売れても、それがオークションなどの場合ならあり得るだろうし、そういう場合はオークションで売ることが合理的な根拠となるわけだろうが、例えばそれ以外の場で骨董品がプロの鑑定額より不当に高い価格で売れた場合、売る方が素人で適正価格を知らなければ、買った側が不当に高い値段で買わされたと告発しても、別に騙すつもりで悪気があって売ったわけではないのだから、詐欺とはみなされないとは思うが、やはりそういうところで法律に照らして詐欺とみなされるか否かははっきりしないだろうし、そういう点についてもしかしたら法律の中で明確な基準が定められているのかもしれないが、法律の素人にはわかりようがないだろうし、普通に売買を行う上で儲けを出したければ、安く買って高く売るしかないわけで、別に騙しているつもりがなくてもそうせざるを得ないわけだから、制度としての株や為替などの取引や競売などでは、法律に守られているから、いくら安く買って高く売っても詐欺にはならないだろうが、それ以外の場で誰が見ても不当に思われるほど安い価格で買って、不当に思われるほど高い価格で売れれば、その不当に思われるという基準がはっきりしないことは確かだろうが、やはり安く買い取られた側も高く売りつけられた側も騙されたと思うだろうし、買ったり売ったりする側が明らかに騙し文句で売買を成立させれば詐欺に間違いないかもしれないが、プロの詐欺師ならそんなヘマはしないだろうし、そのプロの詐欺師という喩えも、普通に商売上手なやり手の営業マンとプロの詐欺師の違いをどうやって見極められるかも、やはり一般の素人にはわからなくて当然だろうし、実際に銀行マンが詐欺罪で捕まるケースもよくあることだろうし、そういう意味で通常の売買行為自体がまかり間違えば詐欺と紙一重な面があるのかもしれないし、しかもその売買行為によって世の中の全ての経済活動が成り立っているわけで、そういう現実があることを承知した上で、正義とか倫理とか道徳とかについて大真面目に語れるかというと、大真面目に語っていること自体に欺瞞が潜んでいるように思われてしまうのかもしれず、そんな建前よりは功利的に戦略や戦術を駆使して金儲けをやる方がリアリティを感じるかもしれないが、たぶんその辺に思い違いも潜んでいて、建前と本音の間で両極端に振れない態度が求められているのかもしれない。

 国という存在に関して何が国を統治しているかといえば、普通に考えれば政府が国を統治しているわけだが、その中でも行政と司法と立法の三権に分かれていて、これも通常では三権が分立していることが望ましく、それぞれが持っている権力の乱用を防ぐために、三権が相互に力を及ぼし合って権限が一極集中しないような仕組みになっているわけだが、その中で立法機関としての議会の中で主導権を握っているのは、議員の集団として勢力を形成している政党であるだろうし、また議会の多数派を構成する政党が政権政党となって、そこから行政の長である大統領や首相を出すことが多いわけだが、国の名目上の主権者である国民の中から選挙によって議会の議員が選ばれて、議院内閣制であれば議会で多数派を構成する政党が内閣を作って、そこから首相をはじめとする行政機構の各省庁の大臣などを議員が務めることになり、また大統領制であれば直接国民が選挙で大統領を選んで、大統領が閣僚を指名して政府を構成するわけだが、そうなると大統領制であっても議院内閣制であっても、立法機関である議会と行政機関である政府の両方で、政党が主導権を握ることになるわけで、三権の中の二つを政党が手中に収めることとなり、また残った司法も行政との結びつきが強く、国によってはなかなか独立した機関として機能しない場合もあるわけで、そうなってしまうと三権分立が保てなくなってくるわけだが、三権分立状態が原則としては望ましいにしても、国民の意向を反映した政党に権限が集中しているのであれば、それが民主的な政治体制を保っていれば取り立てて問題はないかもしれないが、行政には集団的な組織形態である官僚機構が構成されていて、また政党も同じように集団的な組織形態となっていて、それらが集団としての利益を追求し始めると、国民の意向とは異なる意向が形成されてくるわけで、また国民の意向というのも、何か特定のまとまりのあるはっきりした中身を持っているわけでもない場合があるだろうし、それについてはマスメディアなどが実施する世論調査によって、政府や政党などの支持率やその政策に関して賛成している割合や反対している割合が示されることもあるわけだが、果たしてそれが国民の意向だと言えるのか、あるいはそれを反映した統計的な数値なのかについては、そうだとみなすこともできないわけではないだろうし、概ねそれで構わないのかもしれないが、それの何が問題かというと、集団的な組織形態を伴った政党や行政の官僚機構やマスメディアなどが、それぞれに集団としての利益を追求する上で、互いに連携することにメリットが見出されてしまうわけで、またそれが連携よりはさらに繋がりが深まった形態として癒着することがあるわけで、そしてそれらに加えて政党などを介して行政と関係を深めようとする民間の企業なども連携を深めてくると、公共の資産を持っている国をそれらの集団的な組織形態が食い物にしてしまうような事態が生じてきて、その結果として国の財政赤字が取り返しのつかないほど膨張してしまう可能性が出てくるわけだ。
 国を食い物にしているのは何もそれらの集団的な組織形態だけではなく、福祉などの公共サービスを望む国民自身が国を食い物にしているのではないかという疑問も抱かれてしまうわけだが、それに関しては社会は様々な制度によって成り立っていて、それは公的な制度から民間の企業が運営する制度まで様々な種類があって、それらが競合しつつも複雑に関係し合っている面もあるわけだが、普通に考えてそれらの制度を管理運営しているのが、行政や政党やマスメディアやその他の企業である場合が多いわけで、制度を管理運営するということはその利用者から運営に必要な手数料などを徴収しながら管理運営しているわけで、公的な制度は税収や公債などで賄われていて、企業が管理運営している制度はその制度に特有なサービスを提供して料金を徴収しているわけで、いずれにしても利用者から金銭を徴収している実態があり、制度の主導権は利用者よりも制度を管理運営している側にあることははっきりしていて、そして公的な制度の利用者が国民であるとすれば、その制度を管理運営しているのは行政となるわけで、そうであるとすれば制度に関して主導権を握っているのが行政であることもはっきりしているわけで、しかも現状が三権分立ではなく三権癒着状態にあるとすれば、行政に対するチェック機能が果たされていないことも予想され、その結果として国の財政赤字が取り返しのつかないほどの膨張を招いてしまっていると考えられてしまうのだが、それが構造的な制度の欠陥が原因でそうなっているとしても、少なくとも制度の利用者よりは管理運営している側がどうにかしなければならない問題であることは間違いないだろうし、そうなると行政をチェックする役割となるのは立法機関である議会となるだろうし、議会が行政の機構を改革するための法律を成立させて、それを政府に実行させればいいのだろうが、議会と政府で主導権を握っている政党にそれができるかというと、現状ではそれができていないということになるだろうし、ではそれができない政党を誰が支持しているのかというと、国民が支持していることになっているわけだから、現状が憂慮すべき事態であるならそうなっている責任は誰にあるのかといえば、回り回って国民に責任があることになってしまうわけだが、もちろん現状が憂慮すべき事態ではないと思っている世論が大勢となっているなら、国民の大部分はそれは杞憂に過ぎないと思っていることになるのかもしれないが、その辺が微妙なところだろうし、確かに制度的には国民の支持を得て特定の政党が政権を担っていることになっているのだろうが、その制度を管理運営している行政に主導権があるとすると、制度を利用している国民に果たして制度を管理運営している行政をコントロールすることができるのかという疑問が湧いてくるのだが、制度の規定ではそういう内容になっているとしても、その制度を運営している側が主導権を握っているわけだから、簡単に言えば運営次第でいくらでもイカサマができる可能性があるわけで、そういうことを考慮すれば制度の利用者に過ぎない国民にはどうすることもできないのかもしれず、ならば国民が制度を管理運営する制度にすればいいということになるのかもしれないが、公的な制度の全てを直接民主主義の管理下に置くことは原理的に無理なのではないか。

 行政などの公的な機関が管理運営している徴税システムと民間企業などが管理運営している売買システムは、労働などのサービスを提供して手数料を取るという形態で交わる部分があるのかもしれず、サービスは労働以外でもレンタルで機械や道具などを提供するものもあるだろうし、その機械や道具などを修理するサービスもあるだろうし、サービスの利用者がやってほしいことを行なったり提供することで料金を請求するわけだが、果たして行政サービスの見返りに人々は税金を払っていることになるだろうか。一般のサービス料や手数料などのようにサービスを行うことに対して料金が設定されているわけではなく、税金として所得や売り上げや所有している資産などに応じて税額が決められていて、そうやって集められた税収と国債などの公債によって賄われる予算を使って行政サービスが行われるわけだから、サービス内容と料金などの価格が対応していないわけで、それは所得も売り上げも資産もない人にも平等にサービスを提供する趣旨でそうなっている面があるのだろうが、ある程度はサービスを行うことによって発生する経費に応じて予算が決められていることは確かだとしても、行う必要があるという判断に関して疑問を感じるようなものにまで予算が計上されてしまう可能性があって、その点は民間の料金システムでは実際に使われた分しか料金が発生しない場合が多いわけだから合理的にできているわけで、使われる可能性が定かでないものにまで予算が計上されてしまうと、その点が不合理に感じられるわけで、そういう部分で無駄な予算の削減がなかなか進まないことにもなって、それが制度の不具合として指摘されるような成り行きがあるわけだが、それとともに別に行なってほしいとは思わないことにまで予算が使われる場合もあるわけで、そういう面に関しては行なってほしいと思う人と行なってほしくないと思う人がいれば、行なってほしいと思う人が少しでもいれば行う必要が生じてくるだろうが、それとは別に行政の都合で行うことになってしまう場合は、それに関して反対している人が大勢いれば、場合によっては反対運動などが起こって世間の話題にもなるだろうし、そういうことに関しても制度の不具合として指摘されるような成り行きが生じてしまうわけで、そんなふうにして行政の行なっていることに対して目くじらを立てようとすればきりがないような状況にもなるわけで、そのほとんどが徴税システムと行政サービスから発生する不合理な食い違いに起因しているわけだろうが、その背景として民間の売買システムや料金システムに関しては、合理的な仕組みであるように感じられるのに対して、それと比べて行政の徴税システムや予算の使われ方に関しては不合理に思われてくるのだろうし、その両者の間で生じている落差や差異を認められない人たちは当然のことながら批判的な意見になるわけだが、それがシステムの違いに起因していることに関しては改めようがないわけだから、その点に関しては不問にするしかないだろうし、そうなるといくら批判しても状況が改まらないから焦りも出てくるだろうし、また延々と同じような批判を行う成り行きにもなってくるわけで、そういう批判自体が予算の無駄遣いならぬ批判の無駄遣いのような様相も呈してくるわけだ。
 結局は行政の徴税システムや予算の使われ方を民間と同じようにはできない事情が生じているのだから、民間の基準で判断するようなことでもないのだろうが、その代わりに民間にはない特有の事情が徴税や予算の使われ方に関して生じてくるのだろうし、批判している人たちはその特有の事情をどうにかして合理的に感じられるようにしたいのだろうが、それがなかなかうまく整合性を取るような成り行きになっていかないから、結果的に不合理に感じられるままとなってしまい、いつまでも同じ不合理に関して同じような批判を繰り返すしかなくなってしまうだろうが、徴税にしても予算の用途においても、そこに関わってくる世の中の勢力との関係の中で、現状のあり方でもうまくいっている面があるから、それがなかなか改まらない事情を生じさせていることは確かだろうし、批判している人たちにとっては不合理に思われるようなことによって実際に恩恵を受けている勢力があるから、そのことに関しては不合理に思われるシステムが有効に機能している面があるわけだ。そしてその有効に機能している面を改めるわけにはいかないから、行政としてもそれに関係する勢力にしても不合理に思われるようなシステムを維持しなければならない事情が生じているわけで、それを批判している人たちが考えているような合理的な徴税のやり方と予算の使い方にしてしまえば、現状のシステムから恩恵を受けているそれらの勢力が困ってしまうわけだから、そうはさせない思惑と事情が生じていて、そういうところで何が合理的で何が不合理なのかについて、あるいは不合理に思われてもそれを改めるわけにはいかない事情に関して、それを批判している側と現状の維持を継続させている側とで、意見や見解の相違があることは確かなのだろうが、実際に権限を握っているのは現状のシステムを管理運営する行政機構であるわけで、現状が改まらないとすれば批判している側に現状を変える権限も権力も備わっていないことになり、ただその代わりに批判することはできるわけで、だからそれらの人たちには批判することしかできなくなっていて、実際に批判し続けている状況が続いているわけだ。そうだとすると現状を改める以前の問題として、まずは現状を改める権限を持たなければならないわけで、批判する側にはそれができない事情も生じていて、その事情を何とかしないと次の現状を改める段階には進めないわけだ。たぶんそうした現状にもそのような状況をもたらすような世の中の仕組みが介在していて、結果として現状を批判する人たちには現状を改めることができない事態を生じさせているのではないか。そうした現状を批判することはできるが現状を改めることはできないという事態に関して、何をどうすればそうした閉塞状況を打破できるかということに関して、たぶん今のところは打開策も妙案も何もないと思っておいた方がいいのかもしれないし、それがあると思っている人たちにも実行する力がないから、力がなければそれは打開策でも妙案でもなくなってしまうわけで、結局はそうした単なる思いつきの段階ではいくらでも意見を述べられる環境が用意されていて、そのような環境の中でいくらでも意見を述べていられるわけだが、そこから先がないから現状が閉塞状況だと言えるのだろうし、そうした批判勢力はその中に押し込められて何もできない状態に留め置かれているだけなのではないか。