彼の声123

2017年

10月16日「制度に対応した行為」

 制度的に決められていることと、組織の中で担当者の裁量で融通が利く範囲で行われることとの間で食い違いが生じることは、制度の硬直化を緩めるためにも必要となる場合もあり、そんなふうにして制度の柔軟で弾力的な運用を行えば、制度そのものが含んでいるある種の不条理を減じるような効果をもたらせるのかもしれない。だがその柔軟で弾力的な運用が制度を悪用していると見なされると、職権を乱用しているような疑いをかけられて、場合によっては処罰の対象となってしまうのかもしれないし、そのような行為が良く見られるか悪く見られるかは、そのような行為の結果がどうなるかにもよるだろうが、そういう意味で制度的に決められることは大雑把な枠組みにとどめられるべきなのかもしれず、細かい点まで詳細に決めてしまうと運用の面で融通が利かなくなってしまい、かえってその硬直化を伴うような弊害が顕在化してきてしまい、その矛盾や不都合な点を突いて制度から外れるような行為が世の中に蔓延して常態化してしまうと、制度そのものが形骸化してしまうし、制度を用いて社会を統治しようとする試み自体が破綻してしまうのではないか。そういう意味で法律などの決まりごとを改定して制度の変革を目指す際には、その運用を想定する上で細心の注意を払わなければならないし、制度を利用して権力を行使する側に何らかの制限を設けることも重要なのかもしれないが、制度自体に絶対的な権威を与えないことも重要で、何よりも制度を絶対視するような教条主義に陥らせないための工夫が求められているのかもしれず、原則的には民衆が制度に従わなければならない面が強調されるにしても、制度への服従の強要は避けられるべきで、そういう部分で権力を行使する側にも行使される側にも、知性や理性を働かせる余地が生じるような制度にする必要があるとすれば、少なくともただ制度に従ってさえいれば、他のことはおろそかにしても構わないような制度にはすべきではないだろうし、制度を利用することによって、世の中で行われている様々な行為や活動に伴って生じる齟齬や軋轢が完全に解消するとまではいかないものの、対立し敵対し合う双方の間で一定の妥協が図られる程度には活用できることが望ましいのではないか。そのような調停や調整を目指すのが制度の運用としては妥当な線だと言えるのかもしれず、一方からもう一方への有無を言わせぬ強制的な権力の行使は避けられるべきで、最低限でも双方の間での交渉の余地が残されていた方が、それだけ妥協できる可能性も生まれるのではないか。

 人が個人でも集団でも何らかの行為に及ぶ時には、そういうことが行われるそれなりの成り行きが世の中に生じているわけで、それを世の中の状況がもたらしているわけだろうし、そこにそのような行為を行なえる可能性が生じているわけだから、そうなっている限りで制度やその制度を規定している法律の類いには、そのような行為をやめさせることはできず、やってしまった後からそれが違法行為だと見なされると、制度の保全を旨とする警察権力などによって取り締まりの対象となってしまうわけだが、それ以前に法律が禁止している行為は、大抵は行うことができる行為なのだろうし、その良し悪しはともかく実際に世の中で行われていて、そのような行為が何らかの被害や損害をもたらしているから禁止されているわけだろうが、現実にそんなことが行われている実態があるとすると、そのような被害や損害を巡って訴訟沙汰が起きているのはもちろんのこと、人々を被害や損害から守るような行為も行われていて、また被害や損害に遭ってしまったらそれを償うような行為も行われていて、さらに場合によっては被害や損害を伴うような行為に及ぶのを未然に防ぐような試みも行われているわけで、それら全てが法律によって規定されているわけではなく、中には金銭的な契約であったり、また善意から生じるような無償の行為であったりすることもあるだろうし、制度による管理の網目では捉えきれないような行為まで含めて、世の中では様々なことが様々な対象や行為に対応する形で行われているわけだろうが、法律やそれが規定している制度が、社会の成熟が進むにつれて次第に形骸化してゆき、形骸化の進行とともに次第に禁止事項も減っていって、その分そこで暮らす市民に自由な裁量が与えられるようになるという幻想がもたらされるのが、理想主義的なリベラリズムの行き着く先にある結論なのかもしれないが、たぶんそんな能天気な幻想を抱いていた方が、それを拒絶して性悪説的な立場を取るよりは気楽になれるのかもしれず、実際に社会を管理する上で至れり尽くせりの対応を目指して、制度に伴って生じる様々な手続きが次第に複雑化していくような傾向は、複雑すぎて人が対応できなくなるような事態を生じさせるのかもしれないし、それ自体が制度の形骸化を物語っているのかもしれないが、いくらきめ細かに法律を定めてその法律を守るように権力を行使しようとしても、行使する側でも守らせようとしている法律自体を把握できなくなる可能性も出てくるわけで、要するに権力を行使しようとする側とそれを受け入れさせようとする側の両方から、形骸化は制度の複雑化とともに進んでゆき、そんな形骸化の度合いに応じて人々が自由に振る舞える領域も次第に増えていく成り行きとなるだろうか。それは単に人々の活動の複雑化をもたらすだけかもしれないし、意識の中で行為や行動の多様化を自由の増大と取り違えているだけなのかもしれない。


10月15日「情報統制と価値の変容」

 具体的に世の中で恣意的な情報を提供することによって人々の活動をコントロールしようとする思惑がどこまで成功しているかは、政治的な独裁国家以外では特定の勢力が一括して全ての情報を統制しているわけでもないから、結果的に成功している事例をいくつか挙げることができれば、それなりに成功している面もあるとしか言えない程度のことだろうが、中国などの事例を見ればわかるように、実際に情報統制をやりたがる側は自分たちに都合の良い情報だけを提供したがり、その反対の都合の悪い情報は遮断したがるのはわかりきったことで、そうする理由としては例えば世の中に蔓延している風紀の乱れや賄賂の横行などを取り締まる上で、取り締まりが功を奏しているように見せたがるのであり、早い話が失敗した事例は隠したいわけだが、物理的に考えてその全てを取り締まることは不可能だろうし、大掛かりな取り締まりの光景がメディアを通じて伝えられるとしても、それは見せしめ的な効果を狙っているわけで、取り締まりを逃れて違法行為が行われている光景がメディアを通じて暴露されでもしたら、それでは汚職撲滅キャンペーンをやっている当局の面目が丸潰れとなるわけで、そうなると当局は暴露したメディアを反政府的な報道を行なったとして取り締まろうとするだろうし、そういうところで情報をコントロールしようとする当局の思惑は破綻するのかもしれず、メディアが正義感に駆られて違法行為を暴露したのに、それを弾圧するとは何事だ、と民衆の反感を買う可能性が出てくるわけで、実際にそういうところで情報を統制する目的と社会が共有する価値観を一致させるのが困難となるわけだ。明確な基準を基にして何らかの統制をやっているつもりであっても、やっているうちに何を煽り立てて何を抑制するかの基準が崩れてくる可能性があり、諸刃の剣のように効果と悪影響の両方が出てきてしまうのかもしれず、なぜそうなってしまうのかと言えば、そこで競合関係にある複数の勢力の間で取り扱う情報に差異や区別をもたらそうとする思惑や事情から、汚職撲滅キャンペーンをやっていることを民衆に伝えたい当局と、それを伝えるメディアという役割分担が、汚職撲滅という目的では競合してしまい、さらに事の真相や世の中の真の姿を伝えようとするメディアの目的と、当局にとって都合のいい情報だけを伝えさせようとする思惑がぶつかってしまうわけだ。そんなわけである面では連携しているとしても別の面では競合してしまい、さらに場合によっては敵対する面まで出てきてしまうのだから、取り扱う情報そのものの質や内容や傾向には、その情報を巡って関係し合う人や集団の間で必ずしも目的や価値の一致を見るわけではなく、互いの利害が一致しなければ伝えたい内容を巡って衝突さえ起こってしまうのだろうから、それを単一の基準で統制すること自体に無理が生じてくるのではないか。

 では情報を統制するのは諦めるべきかというと、そんなことはないわけで、統制すること自体が権力の行使なのだから、権力を行使しようとする側が諦めるわけがなく、統制しようとする側は絶えず節度をわきまえない逸脱行為を取り締まることによって、統治している人々の言動や行動に一貫性が生じることを目指すわけで、そうすることで絶えず統制する基準を明確にしようとしているわけで、当局が示す基準に適合した情報だけを人々に与えようとして、それは世の中の価値判断の基準となる価値観を示そうとする表れとなり、示された基準に則った適切な情報だけを社会に流通させようとして、そうすることによって社会の統一性や一貫性を維持しようとするのではないか。そのような行為は逸脱を容認できないわけで、逸脱から生じる世の中の変化に抗う作用をもたらすのかもしれないし、厳格に統制しすぎると流通する情報に変化がなくなって社会の活力を削いで停滞を招き、それが経済活動の停滞にも直結する可能性まで出てくるのかもしれず、もちろん統制する側に経済を停滞させようとする意図はないはずだろうが、そもそも経済活動が活発化したり活性化する現象は、世の中で絶えず新たな価値が創造されて、その価値観を担った製品やサービスが世の中で流通するような状況のことを言うのだろうし、それはとりもなおさず従来からある価値基準の変更を求めていて、それに伴って価値を体現する情報も一新されなければならず、そうやって人々の目先を変えるような新商品が発売されることで、それとともに示される価値基準を世の中に広めようとする試みにも結びつくわけで、それもまた商品の購買意欲という欲望を煽り立てる情報のコントロールにも繋がるだろうが、それとは別次元で行われる当局が示す価値基準を逸脱する行為を取り締まるような政治的な情報統制とは相容れないわけで、それは政治的な情報統制とは別次元で新たな経済的な価値観を社会に広めるようなやり方となり、そうでなくても商品開発は同じ価値観にとどまっていては活動が停滞してしまい、経済活動を継続しながら利益を出すには延々と新商品を社会に送り込まなければならず、それは企業活動の宿命とも言える成り行きを示しているだろうが、そうなると統制するのとは逆の意味で無理が生じてくるように思われるのだが、一方は情報を統制して同じ価値観を頑なに守るように仕向けてきて、もう一方はそれとは別次元で延々と新しい価値観を生み出そうとしてくるような動作が、同じレベルで作動しているわけではないものの、要するに逆向きに噛み合わないことをやっていて、たとえ両者が別々に作動していても一向に構わず、何の不都合も感じさせないのかもしれないし、それに気づいていなくても構わないわけで、とりたてて問題視するようなことでもないとすれば、なぜそうなってしまうのかその理由を探りたくなってくるのかもしれないが、たぶん合理的な理由などないのかもしれず、たまたまそうなっているわけで、そういう経緯や事情が歴史的に生じていて、そこに筋の通った理屈があるわけではなく、何らかの政治や経済の理論に基づいてそうなっているわけでもなく、ただそんな成り行きが結果的に社会にもたらされているわけだ。実際にそんな世の中が形成されていて、そんな状況が成り立っている現状があるのだとすると、それをどう捉えようとしても、納得がいくような結論がもたらされることはないのではないか。


10月14日「印象操作」

 情報は言葉であっても映像や画像であっても視聴覚映像として意識され、映像として意識に取り込まれた情報に何らかの利用価値があるとみなせば、それを知識として記憶に定着させようとするのだろうが、そうやって得られた知識を活用する時にも、活用する価値があるかないかの判断が伴い、その価値があるかないかを判断するには他の情報との比較を伴うわけで、その比較できそうな他の情報は身の回りの環境から直接もたらされるか、メディアを通じて間接的にもたらされるかのどちらかだろうが、とりあえず意識は価値判断の材料を探そうとするわけで、そうやって人の活動には絶えず情報を得る行為がつきまとい、周囲から情報を得ながら活動している実態があるわけだろうが、逆に言えば人の活動は得られた情報に左右され、ある意味ではその人にもたらされる情報がその人の活動を規定し限定しているわけで、そうだとするとそれをさらに逆用して、都合のいい情報を与えることによって人の活動を制御しようとする思惑が生まれるわけだ。例えば欲望を煽り立てるような情報を提供して、その欲望を満たすような行為へと誘いこむのは、日々メディア上で行われている広告宣伝の常套手段だろうし、実際に様々な娯楽産業が宣伝活動によって欲望を煽り立てているわけで、煽り立てられている一般大衆の方でも、煽り立てられていることは重々承知の上で、むしろそのような煽り立てを楽しんでいて、多くの人たちが楽しめている限りで、娯楽産業などの経済活動が成り立っている実態があるわけで、そんな実態によって多くの人々に娯楽を楽しめるような余暇があって、余暇を持てるだけの経済的な余裕があることが明らかになるだろうが、都合のいい情報を提供して人の意識や活動を制御しようとしているのは娯楽産業だけではなく、何らかのメディアを通して情報を提供しようとしている人や団体は多かれ少なかれその手の制御を狙っているわけだろうし、それが企業であろうと政党であろうと行政機関であろうと、何か訴えかけているようならそれを見聞した人々がその訴えかけに同調してほしいわけだし、実際にそのほとんどは人々の共感を呼ぶようなメッセージ内容なのではないか。そしてなぜ共感を呼ぶのかといえばそれは社会の中で支配的な価値観を含んでいるからだろうし、広く多くの人に認められている価値に同調するような内容だから共感を期待できるわけで、その共感できる部分を足がかりにして、自分たちがやろうとしている活動への支持を期待するわけだ。

 それが企業活動ならその企業が提供する製品やサービスを買ってほしいということだろうし、政党であれば選挙でその政党が推す候補者に投票してほしいということだろうし、行政機関であれば行政機関の指示に従ってほしいとなるだろうし、そんなことはわかりきっているように思われるわけだが、そのような訴えかけを見聞する人たちにはあからさまにそうは思われないわけで、まずは良い印象を抱かせるようなメッセージの内容に共感したくなるのだろうし、実際にそうなるとすればそこで価値観の共有が起こっているわけだろうし、そうやって価値観を共有した上で商品を買うか候補者に投票するか指示に従うかの選択を迫る成り行きとなるわけだが、それはあくまでも強制的な命令ではなく人々の善意の発露として自発的に従うように仕向けてくるわけで、そうすることによって人々にも共有する価値観に基づいた利益がもたらされることになるわけだ。実際にそのような訴えかけに対して好印象を抱いているとすれば、自発的に行ったことで利益がもたらされたと実感できるのではないか。それがどのような実感なのかといえば満足感でしかないわけだろうが、自分たちが社会の中で共有している価値観に基づいて行為すれば満足感が得られるわけで、得られた利益とはそれ以上のものではないだろうし、それが必ずしも金銭的な利益でなくても構わないわけで、実際に金銭的な利益を得るのは企業の側だろうし、選挙で当選した政治家には金銭的な利益の他にも有権者の代表として権力を行使する権利を得られたことにもなるだろうし、また行政機関としては市民の賛同を得て活動を継続させることを意味するだろうし、そんなふうにして人々の善意による自発的な賛同を得ることに成功すれば、少なくとも形の上では強制的に権力を行使するようなことからは程遠い行為となるわけで、自分たちのやっている行為が社会の中で好印象を得ることに成功すれば、それだけ有利な立場になれるわけだ。そうなれば自分たちと競合していたり敵対している勢力との駆け引きなどにおいても、優位に事を運べる可能性も出てくるだろうし、周りの多くの支持を背景として主導権を握るようなことになれば、その時点で人々の活動を自分たちの都合に合わせて制御していることにもなるだろうし、人々の支持を得て人々を制御していることにでもなれば、場合によっては社会全体を思いのままに操っているような事態になるのかもしれないが、現実にはそれも程度の問題だろうし、ただ世論が構成する集団意識に同調しているだけの実態もあるのではないか。そしてその集団意識からもたらされる集団意志によって被害を被る人たちも社会の中には出てくるわけだ。


10月13日「実感と現実との落差」

 何か現状で世の中がうまくいっている面があるとしたら、それは政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかになることだろうし、しかも不祥事が明らかになっても世の中が変わる気配が見られないことであり、本当に変わらないのかどうかはよくわからないにしても、そういうところでメディア上で危機感を煽っている人たちの思惑通りには行っていないことは確かで、それが何を意味するのかは人によっても立場によっても見解が分かれるところかもしれないが、人の思惑と世の中の変化とは必ずしも重なるところはないのかもしれず、変わるとしたら思惑からずれたところで変わるのかもしれず、誰もが気づかないところでいつの間にか変化が進行していて、それによって現状で危機感を煽っている人たちの当てが外れるような事態となっているのかもしれないし、それは実際に世の中を変えようとして、様々な方面から作用を及ぼしている人や何らかの勢力についても言えることかもしれないが、誰の予言や不安が的中しようと、それは結果的にそう思われてしまうことでしかなく、誰もが結果を評価したり批判することしかできないわけで、それはいつもすでに起こってしまったことであり、これから起ころうとしていることではなく、実際にこれから何が起こるのかは常に未定でしかないだろうか。もちろん様々な方面で様々な予定が組まれていることは確かであり、予定通りに滞りなく物事が進行すれば、それに反対している人たち以外は誰も困らないのかもしれないが、予定を組んでいる人たちはそうなることを目指して、世の中の各方面に様々な働きかけを行なっているのだろうし、そんな努力が功を奏して予定通りに物事が進行して期待通りの結果が得られたら、様々な方面への働きかけも無駄でなかったことになって、予定を組んだ人たちの努力が実を結んだことが証明されてしまうわけだが、果たしてそれを阻止しようとする行為が報われることはないのだろうか。たぶんそれは報われなくても構わないような行為なのではないか。人が集団で行う作業というのはいつも予定を立てながら計画的に行われるのであり、作業の途中で内外からもたらされる計画を狂わせるような作用と格闘して、それを退けながら計画を推し進めようとするわけで、そういう意味で政治活動にも企業活動にも計画が付き物となってくるのだろうし、それらの活動を推し進めている勢力は日夜それらの計画を阻止しようとする勢力と戦っているわけだ。

 たぶん計画を阻止しようとする勢力に欠けているのは、計画を立案してそれを推し進めようとする行為であり、また計画をメディアを介してプレゼンテーションする能力でもあって、またそれを世間に信用させる力も欠けているのかもしれないが、それは世の中を変えようとする意志の顕れとなるべきだろうし、誰も現状のままでいいとは思えないなら、現状とは違う未来像を示すべきだろうが、たとえそれが示されているとしても、世間から信用されなければ内容も伝わらないのかもしれないし、そうなると世の中の人々から信用されて支持を得られるような未来像を提示すべきとなるのかもしれないが、たぶんそんな都合のいい未来像があるとは思えないだろうし、実際にやるべきはそんな大げさなことではなく、まずは現状でできそうなことを提示することだろうか。だがそうなると夢のない話となってしまうだろうし、できそうなことをやっても現状の延長でしかないだろうし、そんなことには誰も興味を持たないのかもしれず、それでは宣伝にはならないだろうし、世間の支持を得ることも不可能だろうか。ならばそうなると宣伝するのはすぐには実現できそうもない夢物語となってしまい、そんな内容ではメディアからも世間からも嘲笑され馬鹿にされてしまうことになるだろうか。そのどちらでもないとすると、たとえば現状でできそうなこととできそうもない夢物語の両方を織り交ぜながら語れば、メディアも世間も騙すことができるだろうか。政治宣伝とは大方そんなものだと相場が決まっていて、たぶん宣伝から信用が生まれるのではなく、実際に世の中の様々な勢力を味方につけていることから信用されるのだろうし、そんな信用から現状の世の中が構成されているわけだから、味方についている各勢力も政治勢力を介して様々な便宜を図ってもらっている限りで味方についているのだろうし、それらの勢力は実質的にはひとかたまりとなって利害共同体を形成しているともいえるだろうが、そうなっているからこそ政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかとなっても、それがきっかけとなってそれらの勢力が衰退する兆しは見えないし、世の中が変わる気配も感じられないし、それらの不祥事を行なった勢力を批判する人たちにも広範な支持が集まるわけでもなく、いくら批判しても無駄なようにも思われてしまうのかもしれないが、だからと言って批判しないわけにはいかないだろうし、実際に様々な方面から批判がされているわけだが、そんな思いからずれたところで誰も気づかない何かが作用して、今も世の中が変わり続けているのかもしれないし、そのような変化は人々の実感を置き去りにするような変化なのかもしれず、人々の意識はいつもその時代を覆っている集団意識のようなものに囚われていて、いつも実感はそこからしか感じ取れないから、変化に気づけないのも無理はないのかもしれない。


10月12日「企業間競争と不正行為」

 偽装や捏造などの不正行為は経済活動にはつきものかもしれないが、様々な要因が重なって結果的にそうなってしまう事例はいくらでもあるのだろうし、偽装や捏造などを行わざるを得ない成り行きに至った時に、倫理観や道徳観などが働いてそれをやらないような選択肢が生じるかというと、結果としてそのような行為が明らかになった事例ではそんなことは起こらなかったわけで、それよりは利益を出すという経済的な事情が優先されるわけで、それは企業が行う経済活動なのだから当然のことだが、不正行為が発覚すれば当然メディアなどで批判されるだろうし、信用も落ちて売り上げも減って経済的にも多大な損失を被ることにもなるのだろうが、結果的に偽装や捏造を行わなければならなかったのだから、すでにその時点で追い込まれていて、要するに偽装や捏造を行わなければ利益を出せない状況に陥っていたわけで、そんな苦境を脱するには偽装や捏造を行わなければならなかったわけだ。そうしなければ競争から脱落してしまう危険性があったわけだから、そういう意味で経営が傾きかけている企業は製品の強度の偽装やデータの捏造などに走りやすく、そんなことをやっている時点で追い込まれていて余裕がないわけだから、不正行為も発覚しやすくなっていると言えるだろうか。経営が順調な企業でも何かの事情でそれらの不正行為を行うこともあるだろうし、一概には言えないことかもしれないが、利益を求めて経済活動を行っている中では、たとえ倫理観や道徳観を持つように心がけているとしても、それを企業イメージやそこから提供される製品やサービスのイメージとして宣伝されることがあるわけで、そうなると製品やサービスを売るための宣伝文句の一部となってしまい、そんな宣伝が功を奏してその企業や提供する製品やサービスが広く世の中で好印象を持たれて信用されたとしても、それらが売れて利益が出ているうちは倫理観も道徳観も守られるかもしれないが、売れなくなって利益が出なくなってしまえば、いくら倫理観や道徳観を持って製品やサービスを売ろうとしても意味のないことになってしまうだろうし、世間から見向きもされなくなってしまうようなら、そんなのはどうでもいいことになってしまうのではないか。それよりも株主からもメディアからも業績が悪化してしまった責任を追及されるだろうし、そんな結果を恐れるあまり苦し紛れに偽装や捏造に手を染めてしまうのだろうし、結果的にそれが発覚してしまえば、さらに業績が悪化してしまうことになるわけだが、やはりそれは企業活動にはつきもののよくあるケースなのではないか。

 広い意味でモラルというものは、危機的な状況になった時にその存在意義が問われるものかもしれないが、別にそれが経済的な利益に結びつくわけでもないだろうし、では何に結びつくのかというと、それが道徳観なら人としての身の処し方になるのかもしれないし、それが倫理観なら社会の中での身の処し方になるのかもしれないが、あとでバレるような下手な悪あがきには加担しないで、清廉潔白な態度を保っていれば道徳的にも倫理的にも文句のないところだろうが、個人のレベルではそうかもしれないが、組織の中ではそれは通用しない態度だろうし、できれば不正行為に手を染める前に何とかしなければならなかったのだろうが、それは結果論であって、組織的に不正行為をやる段になれば個人の力ではどうにもならないのだろうし、まずはそういうことをやってからでないと、それに加担し続けるか嫌気がさして内部告発をするような成り行きになってしまうかの行動には移行しないわけで、そしてそういうところで倫理観や道徳観が勝ってしまうと、情報が外部に漏れて不正行為が明るみに出てしまうわけで、不正行為をやっている側でもそうなる危険性があることを承知でやっているわけだから、それが明るみに出たらそれを指導した責任者が懲戒処分を受けるなりして辞職して、再発防止に取り組んで対策を打ち出せば幕引きだろうし、またそれが起因して経営危機に陥っても、その企業が地域経済に欠かせない大企業なら簡単には潰せないから、取引先の銀行や業務提携している企業などが中心となって経営再建のための方策を打ち出したり、場合によっては他の同業の大手企業と合併したりして、他にも様々な生き残り策が検討されることになるのかもしれないが、やはりそれも企業活動にはつきもののよくあるケースだろうか。要するに組織的に不正行為を行なってそれが発覚するという過程が物事を前進させる原動力となるわけで、そういう過程がないとなかなか出口にたどり着けずに、憂慮すべき閉塞状態が延々と続いてしまうわけだから、そうやって何らかの結果が導き出されただけでも、不正行為にも一定の成果があったと言えるのではないか。もちろんそれをやったことが明らかになってしまったのだから、責任者が処分されて組織から追放されてしまうのだろうが、そのあおりを食って組織自体が解体されてしまう場合もあるのだろうが、仮にそうなったとしても、外国の企業も含めて同業他社にしてみれば競争相手が減って助かる面もあるのだろうし、そのような結果の良し悪しを論じる意義があるとも思えないし、結局企業が提供する製品やサービスに何らかの基準や規制があれば、その基準や規制を満たしながら利益を出すのが難しいから、そこに不正行為を犯す誘惑が生じてしまうのだろうし、ましてや同業種の企業間で熾烈な競争が行われていれば、競争において不利な状況にある企業は、不正を犯さないと競争から脱落して経営危機に陥る危険に絶えず直面しているのではないか。


10月11日「企業活動と法律」

 企業活動を何らかの法律を用いて外部から規制すると、それがゲームのルールのような役目を果たして、それなりに企業活動で成り立っている市場経済を政治的にコントロールできる部分も出てくるだろうが、確かにルールに違反する行為を取り締まることができるわけだが、その反面ルールの範囲内で行われることはコントロールできないわけで、例えばルールが想定していないような行為が出てきて、それが社会に悪影響を及ぼす行為だとみなされると、そのような行為を規制しようとして法律を改正して、そのような事態に対応しようとするのだろうが、そうなればなったでまたさらにその法律の裏をかくような行為が編み出されるかもしれないし、結局法律を用いて経済をコントロールしようとする行為はいつも後手に回らざるを得ないわけで、それでもルールがあった方がないよりはマシだろうから、法律が一定の機能を果たしていることは確かであり、法律が企業で働く労働者や企業に投資する投資家を守っている面はあるわけで、また消費者も経済活動から生じる悪質な詐欺行為や環境汚染などに関しては法律で守られているわけだ。もちろんそれはルールの範囲内で守っているのであり、ルールが規定していること以外の部分では守れないわけだから、企業としては利益を上げるためにルールが規定していない部分で新たなやり方を探求しようとするわけで、それがルール違反に結びつかなければなおのこと都合がいいのだろうし、他を出し抜いて利益を出すにはそういう部分での探求が欠かせないのではないか。そしてそういう企業努力が必ずしも労働者や消費者の利益には結びつかない面も出てくるだろうし、実際に製造部門での機械化は職人気質の熟練労働者の技術を不要とするような方向での技術革新をもたらしたわけで、また情報革命以後のネット通販は営業的な手腕を必要とした訪問販売業者にとっては大打撃だったのだろうし、また消費者にとっても家で端末の画面を見ながら商品を選択できて便利になった反面、実際に小売店に出向いて商品に直に触れて店員とコミュニケーションをとる機会が減って、交渉や駆け引きの面での勘が鈍ってしまい、また画面のボタンを押すだけで簡単に買えてしまうので、取り立てて欲しくもないものまで買ってしまうことが多くなってきたのかもしれず、それがどちらにとって利益となるのか不利益となるのかというよりは、ただ商品の製造方式や販売方式や購入方式が変わってきたということでしかないのかもしれないが、そういところで工夫を凝らして利益を得ようとするのが企業努力なのだろうし、実際にそうやっていち早く新たな方式を適用したおかげで利益を得られた企業もある反面、旧来の方式にこだわって衰退した企業もあるのではないか。

 そういうところは外部からの政治的な操作ではどうにもできない部分だろうし、例えばコンピュータのハードウェアやソフトウェアの進歩によって事務職員が大幅に削減されるような事態となった時に、政治的に事務職員を救済するわけにはいかなかったのだろうし、いつの間にか企業から事務職員の数が減って行ってしまったわけで、事務職をやっていた従業員が他の部門に配置換えになったのかあるいはリストラされたかは、その企業内で判断されるようなことだろうから、そこまで政治が介入することはできないわけだ。また単純に労働時間を規制できても労働の内容までは踏み込んで規制できない部分もあるだろうし、肉体的に苦痛を伴う労働ならわかりやすいが、精神的な苦痛を伴う労働はわかりにくいし、何の苦痛も伴わなくても精神的な荒廃をもたらす労働というのもあるだろうし、労働そのものが不快感を伴うのはどんな労働でも大なり小なりあって、それを我慢しながら働かなければならないわけだから、それにどこまで耐えられるかは個人差もあり、また同じ内容の労働でも周囲の環境によって不快感が増したり、それなりに耐えられたりすることもあるわけだから、一概に規制で片付くようなことでもなく、それで片付かないようなところまでは法律では規制できないわけで、企業の方でもなるべく従業員の心身に負担をかけないようなシステムを採用すればいいのだろうが、それ以前に優先させるのは収益を上げて利益を出すことだろうし、場合によっては心身ともに消耗した従業員を使い捨てにしながら利益を出すような成り行きになっているとしたら、そういう企業はブラック企業としてジャーナリズムや組合運動などから批判の槍玉に挙げられることにもなるだろうが、世の中がそういう企業を必要悪として必要とするような成り行きになっているとすれば、労働者を犠牲にしながらそんな企業の活動も労働基準法違反などで摘発を受けながらも、入れ替わり立ち替わり現れては消えるようなことが繰り返されるのではないか。そういう意味で法律というのは違反行為があることを前提として存在するわけで、実際に違反行為を摘発する役目の部署も設置されているわけだから、それは違反行為をなくすための法律なのではなく、それを取り締まるための法律だということは明らかであり、違反行為がなくなってしまえば法律そのものが存在する必要もないわけだ。またブラック企業は単独で存在しているわけではなく、合法的な活動をしているまともな企業が汚れ仕事をブラック企業に押し付けている場合もあるわけで、そうであるならまともな企業にとってはブラック企業がなくなってしまっては困る面も出てくるわけで、まさに必要悪としてのブラック企業が汚れ仕事を請け負ってくれるから、まともな企業の活動が成り立っている面もあるわけだ。


10月10日「贅沢品としてのリベラリズム」

 資本主義経済は経済活動がうまくいっている範囲内で成り立つ経済だから、たとえば経済活動が成り立たないようなところでは行政機関による補助や援助が必要となってくるという論理が成り立つわけだが、しかし行政機関自体が資本主義経済に依存している場合は、助けるのにもおのずから限界が生じてくるわけで、簡単にいえば予算が許す範囲内でしか助けられず、そうなると行政機関が管轄している中で経済活動が成り立たない部分が増えてくれば、助けることができなくなるどころか、行政機関の活動そのものが成り立たなくなってくる場合が生じるわけだ。そうである限りにおいて行政機関が何よりも優先すべきことは、管轄している区域内で経済活動が成り立つようにしなければならないとなるのだろうが、そうなるとやはり経済活動の主体となっている企業活動を振興するような政策が求められてくるわけだ。原則論を言えばそうなるわけだろうが、具体的に何をどうすればいいのかというと、企業に対する税率を下げればそれだけ行政機構の予算が減ってしまうし、単純には企業活動と行政活動のどちらも振興することはできないわけで、企業にとって行政とは何かと活動を規制してくるような邪魔な存在であると同時に、うまく取り入ることができれば何かと便宜をはかってくれるような利用価値のある組織なのだろうが、さらにそこへ行政を介して政治を行おうとする政党や政治家の存在があるわけで、企業から広告宣伝費を徴収しながら政治宣伝も引き受けるメディアも含めて、それらの間に錯綜した縺れ合いの関係があって、単純な連携関係や敵対関係では割り切れない複雑な様相を呈しているのだろうし、それらと様々な程度で関係している一般の市民が理解しなければならないことは、その中で単純な敵対関係を示して煽り立てるような行為を信用してはならないということだろうし、煽り立てている背景を探らなければならないだろうし、そのほとんどは特定の政治勢力を優位に導くために煽り立てているわけだろうし、それと同時に特定の政治勢力を叩くためにも煽り立てているわけだが、普通に考えるなら煽り立てなければならない事情が生じているから煽り立てているのであり、その事情がメディアを通じて煽動を見せつけられる一般の市民にどう関係してくるのかを考えてみる必要があるだろうし、たぶんほとんどの人は事情に精通しているわけでもなければ関心があるわけでもないのだろうから、安易な煽動には乗らないことが肝心なのかもしれないが、少なくとも興味が湧いたら煽動する事情について考えてみればいいのではないか。

 それに関して少なくとも言えることは、やっていることがうまくいかないから煽動しなければならなくなるわけで、うまくいっていれば別にことさら煽り立てなくても人々の支持を得られるわけだ。そしてなぜうまくいかないのかといえば、情勢もそこで生じている利害関係や権力関係も錯綜して縺れ合っていて、何をやっても力がうまく伝わらずに満足できるような成果を得られないからではないのか。確かにたまたま何らの成果が上がればメディアを通じてすかさず喧伝されることにはなるのだろうが、それが政治宣伝である場合は必ず誇張や歪曲が含まれているわけで、それを伝え聞いた一般市民にはあまり実感が湧かなければその程度のことなのだろうし、そうであるならいくらメディアを通じて成果を強調されても、それを真に受ける必要はないわけで、安易な政治宣伝や煽動に乗せられて特定の政治勢力を支持する必要もないわけだが、そのような宣伝や煽動は現状で政治的な主導権を握っていてメディアにも影響を及ぼせるような勢力によってなされる場合が多いわけで、そうだとすると世論調査や選挙結果などでもそれなりの支持を集めていて、別に宣伝や煽動をやらなくても充分な権力を持っているわけで、ではなぜことさらに宣伝や煽動をやらなければならないのかというと、宣伝や煽動をやったから世論の支持を得られたという話にしたいわけだ。要するに宣伝や煽動の成果を得たいわけで、それもメディアを通じて喧伝されるような成果の一つなのであり、それ自体が誇張された成果なのだろうが、そんな成果の誇示が人々の心理に影響を及ぼして、そのような政治勢力への世論の支持を強固なものにしている面があるわけで、実質的には大した成果もあげていないのに、メディアを通じた宣伝や煽動の繰り返しによって何となく支持を集めているような状況が続いてしまうわけだが、そんな成果の虚構性に気づくには、宣伝や煽動が物語っているフィクションと現実との落差を実感できればいいのだろうが、それがなかなか実感できないのだろうし、政治への幻想が邪魔をしているから実感できないのかもしれないが、幻想を抱くなと説いても仕方のないことだろうし、人々が宣伝や煽動に乗せられている自らの愚かさを実感できる機会など滅多にやってこないし、そうでなくても資本主義経済の恩恵を受けながらそれなりに生活できている実態があるわけだから、それ以上の高望みをしなければそれなりの人生を送れるだろうし、それなりに不満や満足感を抱きながらも寿命がきたらこの世から消え去っていくのではないか。そういう人たちにとって理性的に生きそして行動することは、贅沢以外の何ものでもないのかも知れない。


10月9日「肯定的な現状」

 グローバル企業が進出先の国で様々な便宜をはかってもらう上で、その国の政府や主要な政治勢力に取り入るのはよくあることかもしれず、そうなればその国の反体制勢力にとってグローバル企業は、敵対する体制側と手を結んだ御用商人とみなされてしまうのかもしれないが、その種の単純な敵対関係にどれほどの信憑性があるのかはよくわからないところかもしれず、その国でグローバル企業の製品やサービスが広範に普及しているような場合、果たしてそれらの製品やサービスを利用している消費者や企業はグローバル企業から搾取を受けていると思うだろうか。状況にもよるだろうが、その国でグローバル企業の市場シェアが他を圧倒するような割合を占めていて、貿易収支も輸入超過で慢性的な赤字状態にあるならば、状況は植民地的な搾取を受けていることになるのだろうが、それ以外の場合は取り立ててどうこう問題視するような機運は起こらないだろうし、ナショナリズムの高揚から自国製品の利用を推進するようなキャンペーンでも起こらない限りは、消費者や企業もグローバル企業の製品やサービスを利用し続けるのではないか。また製品が機械類だとその国で作られている部品が使われていたり、場合によっては現地に工場を建てているかもしれないし、サービスなどでも現地法人が現地の住民を雇用することでその国の経済にも十分に貢献している場合もあるわけだから、そうなると外国の企業も自国の企業もそれほど差がなくなってしまうだろうし、グローバル企業だからと言って特別に敵視するような成り行きにはならないのではないか。日本の場合だとIT企業のメディア部門が国粋主義勢力の巣窟のような様相を呈している場合があるのかもしれないし、そんな人材がIT系のグーバル企業の日本法人にも流れ込んでいるとしたら、反体制勢力からすれば国粋主義と新自由主義という一見相反する主義主張が融合しているように見えてしまうだろうし、それに対してリベラリズムを掲げて敵対するにしても、敵対している側からは肯定的な意味合いを含んだリベラリズムではなく、否定的な意味合いを含んだ極左暴力思想とみなされて攻撃を受けるかもしれないし、そもそもの国粋主義と新自由主義が融合するわけがないのだから、それを主義主張や思想の次元で説明しようとするとデタラメでしかなくなってしまい、別にそういう次元で敵対しているわけではなく、アメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従していればうまくいくと考えているだけなのかもしれないし、意識してそうは考えていないにしても実際の行動や言動がそれを体現しているだけなのではないか。

 普通に考えればアメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従するだけでは何の主体性もないし、ただ政治的な主義主張として恥ずかしいだけのようにも思われてしまうかもしれないが、そういう恥ずかしい状況を見ないようにするための格好の隠れ蓑が国粋主義なのだろうし、本気でそんなことまで考えているわけではないといえばその通りで、政治的には世の中の主流派に与しておけばそれで済んでしまうようなことでしかなく、後は何かと政府や議会与党の方針に反対する政治勢力や市民運動などを攻撃していれば、やはりそれで済んでしまうようなことでしかないだろうし、実際に政治的にはそれで済んでしまう状況があるのだろうから、それ以上は踏み込んで考える必要もないわけで、考えるだけ無駄なことなのかもしれない。簡単にいえばそれは弱い者いじめと同じようなことなのかもしれないが、その弱い者いじめの対象となっているリベラル勢力にしてみれば、それを深刻な事態と受け止めるしかないだろうし、何しろ自分たちがいじめに屈してしまえば後がないわけだから、必死になって活動するしかないだろうし、心ある良識派の支援や叱咤を受けながらも、それだけでは少数派にとどまるしかないわけで、まさに何をやっても八方塞がりな状況なのかもしれないが、状況としてはそれで構わないわけで、政治的な主体性など不要な世の中になっていて、それで何が困るわけでもないと実感している人たちが世の中の多数派を構成しているわけだ。そんな状態を大衆消費社会と呼ぼうが晩期資本主義社会と呼ぼうが、何を意味しているわけでもなく、多くの人が現状を破綻させないようにしているわけで、意識してそうしているわけではなく、結果的にそうなっているとしか言えないような状況なのだろうし、何か高邁な政治理念を実現させようとするのとは全く別次元のところで、何でもないような現状が出来上がっているわけで、それが資本主義的な経済活動の結果だと言えばその通りなのかもしれないが、そんな状況の中でいくら政治的に危機感を煽ってみても、誰もまともには受け取ってくれないのはもちろんのこと、それでも誰もが結果的には現状維持へと加担してしまうような成り行きを示しているのではないか。そんな状況の中で果たして世の中の変革が起こるとは思えないだろうが、たぶんそれは政治的な変革ではなく政治的な空洞化なのであり、今まで成り立っているように思われてきた世の中の制度や慣習が形骸化しつつあるから、政治的には空洞化を被っているように思われるのだが、それによって何らかの不具合や弊害が顕在化してきて、世の中の多数派がそれを深刻に受け止めるようになれば、その不具合や弊害に対処しようとする政治勢力を支持する状況も生まれるのではないか。


10月8日「状況の混迷」

 他を出し抜くことが商業的な行為においては利益を生む機会をもたらす場合があるだろうが、恒常的に他を出し抜けるわけではなく、出し抜かれた方でもそれを教訓として出し抜かれないような対策を立ててくるのが、企業が経済活動を行う中で他の企業との競争の実態を表しているのだろうが、そんな中でも見え透いた策略はすぐにバレるのが当然の成り行きかもしれないが、バレていても利益を共有する側で口裏合わせをして、バレていないように装うことは可能であるのかもしれず、それが行政やメディアを巻き込んで大掛かりに演じられると、いつの間にかバレていないような暗黙の申し合わせが社会全体に広がってしまうだろうか。脅迫的な同調圧力というのは詐欺的な行為がもはや隠しようがなくなってきたときに、それを詐欺だとは言わせないように脅迫してくるような状況の中で発生するのだろうし、例えば物や情報の押し売り的な行為が蔓延している場合、そんな状況の中で生活していると感覚が麻痺してしまって、それが当然のことのように感じられてしまい、そうなると押し売りした者勝ちな成り行きとなってしまうのだろうし、ネットでもスパムメール紛いの商品やサービスの宣伝やクレジットカードの勧誘メールなどが毎日のように大量に送られてくるのが当たり前となっているし、それが無料のメールサービスや通信端末の販売や接続料金を払っている業者から直接送られてくるわけだから、うんざりしつつも大抵の場合は放っておくしかないわけで、実際に自主的に通信販売を利用していることになるわけだから、押し売りでも何でもないわけだが、それと同じように一方的な政治傾向を含むニュース情報を大量に掲載するニュースサイトなどもあるだろうし、さらにどうでもいいようなテレビタレントのたわいない私生活やゴシップ情報が大半であったり、それとは別のサイトのコメント欄にはいつものように気に入らない人物や政治勢力を嘲笑と脅迫を交えながら攻撃するような書き込みが大量に載せられ、しかもそれは判で押したように空疎な紋切り型の言葉の連なりで埋め尽くされているわけだから、戦略や戦術としてそんなことを行なっているにしても、知性を感じられないのが致命的な愚かさを醸し出しているようにも思われてしまうのだが、いくらそんな情報が目についてしまうとしても、世の中の全てがそうであるわけがなく、どう考えてもほんの一部で行われていることが目立ってしまうような仕組みなのだろうし、仕掛ける側もそうなるように仕掛けているわけだろうが、もしかしたら結果的には何を仕掛けているとも言えなくなっているのかもしれず、仕掛ける側も自分たちがネット上に振りまいているつもりの情報に踊らされているだけなのではないか。

 そしてそんな状況の中でもそれを仕切って管理している業者が収益を上げて利益を出しているからそれが続いているわけだろうし、そこで物や情報が流通している状況があるのではないか。そしてそこで見せつけられる大部分が塵や芥のような情報だとしても、そこに費やされる費用のほとんどはそれと一緒に載せられる商品やサービスの広告宣伝費から出ているのだろうし、広告を載せる企業からすればそれは少しでも商品が売れるには避けては通れない出費となっているわけだろうし、またたとえ商品の宣伝広告のないサイトでさえ、百科事典サイトのウィキペディアのように執拗に寄付金を要求してくるような場合もあるわけで、一度寄付すると続けて寄付しないのを咎めるような内容の催促メールを度々送ってくるわけだから、別にそれが脅迫行為だとは言えないだろうが、不快感が募ることは確かだろうし、向こうからすればいかに資金を獲得するかを巡って、サイト上の情報を閲覧する人々と駆け引きや交渉を行っていることになるわけだから、別に情報を売っているわけではなくても、情報をサイトに載せて寄付を募っている以上は、ある意味ではそれが商売なのだろうが、それ以前にネットにアクセスしていることがすでに通信料金を発生させているわけで、そこにある情報はすべて有料だと捉えておくのが妥当な認識だろうし、それらに興味を持とうが無関心であろうが全ては経済活動によって支えられているのであり、その経済活動がネット上にある種の自由をもたらしていることは確かだろうし、そのスキルに応じて誰もが好き勝手に情報発信することができるわけだろう。もちろん世間の注目や話題を集めるような大手のSNSサイトでは反社会的な情報発信は規制の対象となっているのだろうが、その規制の基準も現状の社会情勢を反映したものとなっているだろうし、実際に特定の人物や政治勢力に対する攻撃をどう判断するかは、そのような攻撃が他のメディアでも大々的に行われているような状況なら、そこでも許されることとなってしまうだろうし、その内容がたとえ理性的だとは思えなくても、またどう考えても理不尽な内容であろうと、それが他で通用している事例があればそれが基準となってしまうかもしれないし、全てはそこでの管理者と利用者との駆け引きによって暫定的に決まるような、その場限りの相対的な基準となってしまうのかもしれず、そもそもそんな状況の中で恒常不変な基準を求めるのはおかしいだろうし、そういう意味でも政治の場で世の中の誰もが納得できるような制度や法律を定めるのは難しいだろうし、また定めた後からそれに反発したり反対する勢力を権力の行使によって抑え込まなければならなくなるような事態も出てくるわけで、またそうしないと何も決まらなくなってしまうのかもしれないが、少なくともそれが理不尽な法律の制定や権力の行使だと思われたらそれに逆らうのは当然のことだろうか。


10月7日「新自由主義の盲点」

 人が理性的に物事について考えることと、商業的に利益を求めることは異なる傾向を持っているだろうし、場合によっては商業的な利益の追求を阻むような成り行きをもたらすのが理性であるのかもしれず、そうなると両者は相反する行為となって、利益の追求には理性な思考は邪魔のように思われるかもしれないが、人にとってはそのどちらもが必要だとするなら、それをどうやって調整するかが問題となってくるだろうか。それともそれを行う上で競合したり連携したりする対象との駆け引きや交渉を行う中で、自ずからどちらを優先させるべきかが決まってくるのだろうか。それに関して妥協的な態度をとるなら、時と場合によって両者を使い分けて、その場が丸く収まるような結果を目指すべきかもしれないが、実際にそのような事態に直面してみないことにはわからないことかもしれないし、直面したところでわからない場合もあるのかもしれず、資本主義的な経済活動を行う上では、普通に考えるなら利益の追求を優先させることになるのだろうが、その過程で何らかの弊害をもたらす事態に陥った時に、そのような行為に歯止めをかける役割を担う人や勢力が必要となってくるのだろうし、一般的に考えるならその役割を担うのは行政機関であり、制度的にもそうなっているのだろうが、行政機関もそれと駆け引きや交渉を行う役割を担う議会の政治家たちも、経済活動に歯止めをかけるのではなく、経済活動を活発化させようとしている場合があるのであり、具体的に言うなら規制を緩和して企業活動をより自由に行えるようにしようとするのが、いわゆる新自由主義的な立場となるわけだろうが、その規制緩和が住民にとって弊害を伴うようなら住民は反対すべきなのだろうし、また規制緩和が特定の産業分野にとって不利益を伴うようなら、その産業分野に携わる人たちは緩和に反対すべきとなるわけだが、結局そのような問題は議会選挙で争点となるべきことなのだろうし、規制緩和に反対する人たちは反対を掲げている政治勢力の候補者に投票するだろうし、賛成する人たちは賛成を掲げている政治勢力の候補者に投票するだろうし、その結果が議会の勢力図に反映して、議会で多数を占めた勢力が行政に働きかけて、行政が規制緩和するのかしないのかを決定するような制度となっているわけだ。実際にそれで問題が解決するなら話が早いのかもしれないが、実際はどうなっているのだろうか。

 どうも実際にはそんな単純なことではないのかもしれず、果たして規制が住民や特定の産業分野を守っているかというと、そうとも言えない面もあるだろうし、むしろ規制が行政や行政と癒着する企業にとって既得権益化している面もあるわけで、規制に守られて利益を得ている産業があって、一概に規制緩和といってもそういう部分での規制緩和は行われずに、行政とそれと癒着する企業や政治家たちにとっての既得権益は守りながらも、そのような既得権益から外れる部分での規制緩和は行なって、それで規制緩和を行なっているかのように見せかけたい面もあって、理性的に物事を考えようとする人たちはそういうところを批判したいわけであり、それを単純に規制緩和に反対したり賛成したりすることだと捉えてしまうと、物事の本質を見逃してしまうわけで、そうなると結局は行政やそれと癒着する企業や政治家たちを利するばかりで、被害を被るのは住民や既得権益から外れた企業だけとなってしまう可能性もあるだろうし、もちろん住民の中でも被害を被る人たちと必ずしもそうではない人たちもいるわけで、そういう意味で政治的に白黒をはっきりつけさせるような主張ではうまく状況に対応できないのはいうまでもなく、政府が規制緩和の中で何を緩和して何を守ろうとしているのかを詳しく調べてみないことには、それに賛成も反対もできないのだろうが、選挙になってしまうとそういうことがうまく住民たちに伝わるとは思えないし、制度的にも単純明快な主張しかできないような成り行きになってしまうのではないか。そんなわけで単純明快なことを繰り返し主張する政治家は、物事の本質をわかっていないかあるいは隠そうとしているのかのどちらかでしかないのかもしれず、どちらにしても住民にとっては規制緩和が選挙の争点となるような場合は投票の選択肢からは両者ともに外れてしまうわけで、それが政治の限界であり選挙制度の欠陥となってしまうのかもしれないが、それ以前に住民の方でもそんなことまで考える必要も余裕もありはしないだろうし、それを伝えるメディアもそんなこととは無関係な単純明快なことを選挙の争点として設定してしまうだろうし、規制緩和イコール新自由主義という否定的なレッテルだけが世間に流通するだけで、その中身までは誰も考える必要性が生じない状況が作り出されてしまうのではないか。そうなれば行政やそれと癒着する企業や政治勢力やそれに肩入れするメディアの既得権益が守られるばかりで、状況は自ずから現状維持へと向かうことになるのかもしれない。


10月6日「反グローバル化」

 経済のグローバリゼーションを阻む要因は、言語や宗教や風習などの地域特有の独自性であり、物や情報を売ろうとするときに障壁としてぶつかるのがそれらの独自性であり、売り手と買い手が売買の場で交渉や駆け引きを行うのに、意思疎通を図る上でコミュニケーションがとれないと困るわけで、そんな場合は通訳を介して交渉すればいいのだろうが、その地域の企業と地域外の企業とがその地域で何らかの商品を売る上で競合した場合は、同価格で同品質の商品を売る場合は、商品のブランド力で地域外の企業の製品が優っていない限りは、地元の企業の製品が売れる可能性が高いだろうし、商品を買ってからのアフターサービスなどが必要な場合も、身近にある地元の企業なら何かと迅速な対応が期待できそうだが、そういう面で世界的に商品の販売を展開するグローバル企業なら、地元民との接触を伴う部門では地元民を従業員として雇用するだろうし、その点はぬかりないだろうが、それ以前にグローバル企業となった時点でブランド力で優っているわけだから、グローバル企業になれなかった地域限定の企業は、価格の安さやサービスの充実度などで競うしかないのかもしれず、サービス面で手間暇をかけるとそれだけコストがかかって収益を圧迫するようなことになれば、グローバル企業と地域限定の企業との間では収益面で超えようのない格差が生じるだろうし、その企業でしか作れない独自の製品やサービスがある場合以外では、やはり地域限定の企業はグローバル企業には太刀打ちできないのではないか。そして少しでもその地域の企業が生き残る可能性を求めるなら、地域の独自性を強調して経済のグローバリゼーションを阻むような運動も出てくるだろうし、何よりも長年にわたって地域外から経済的な搾取を受けていたり、政治的な支配を受けていたりすると、余計にその地域に特有な言語や宗教や民族などの独自性を強調しようとするのではないか。それが反グローバル化を目指す運動となって、世界各地で独自色の強い地域が国家から分離独立の動きを見せる要因となっているのだろうし、それは現実にグローバリゼーションが進行していることに対する裏返しの反応なのであり、そのことの反作用として顕在化している動きなのではないか。

 たぶんそのような抵抗を打ち破ってグローバリゼーションは進行するのであり、抵抗の激化がグローバル化そのものの強度を表していて、それは抵抗と表裏一体の現象なのであり、別に反グローバリズムを掲げて戦っているつもりの勢力に勝ち目があるというわけではなく、ただ経済のグローバル化が抵抗を巻き起こしているに過ぎないのではないか。またそれは国家の中央集権化よりは地方分権化をもたらしているのかもしれず、経済がグローバル化するのとは反対に政治的には分権化の傾向を示していて、何よりも人々が身近な地域内で結束しようとしていることは、国家単位での政治活動に限界を感じているからであり、それは何やらメディアを通して陰湿な政争劇が盛り上げられて、国政と呼ばれる政治が一般の人々とは無縁なことをやっているのをあからさまに見せられてしまうと、できればそんなものには関わりたくはなくなってしまうのも無理もないことであり、それよりは中央政府の横暴が地方の民を苦しめているようにも感じられて、また外交関係でも中央政府がグローバリゼーションを推し進めている企業のある国との友好関係や同盟関係を強調しているような場合は、反グローバリズムの立場からも中央政府に対して反発が巻き起こるだろうし、遠く離れた首都の周辺から上から目線で指令を出すよりは、身近な地方自治体単位できめ細やかな行政をやってほしいと思うのかもしれず、グローバリゼーションに対する防衛がもはや国単位では食い止めようがないことが明らかになるほど、狭い地域内で人と人とのつながりを強めて、身近な人同士でお互いに助け合うような行為が流行るようになるのではないか。もちろんグローバリゼーションがもたらすのは弊害ばかりではなく、何らかの恩恵をもたらすからグローバリゼーションが世界中に進行していくのだろうし、その恩恵が国家的な次元の政治とは無関係なことだとすると、やはりグローバリゼーションは国家の形骸化を招く恐れがあるのかもしれないし、実際にグローバル企業が世界中の国々で分け隔てなく同じように経済活動を行うようになれば、特定の国家に利益をもたらすことはなくなるだろうし、それは国家間の差異をなくすような作用となるだろうし、国家にとっては自国だけに奉仕するような企業ではなくなってしまうわけだから、特定の国の中で主導権を握っているような政治勢力とは無縁となってしまうのではないか。


10月5日「真の改革」

 企業が政府や自治体などの行政機関にとっては税収と雇用をもたらし、住民にとっても生活の糧である雇用と消費に必要な物資や情報をもたらして、社会にとっては必要不可欠な存在となっている一方で、その経済活動が住民の間に給与や報酬の格差に応じた貧富の格差をもたらして、それが社会の中での待遇の格差も生んでいるのだろうが、そこに何らかの競争がある限りで競争に勝った人が必然的に高待遇を得るのだろうし、そういう必然的な成り行きの中で住民はもたらされた状態を受け入れざるを得ないし、もちろん不満がないわけではないだろうし、中には政治が行政機関に働きかけて貧富や待遇の格差をなくすような制度の創設を求める人たちもいるだろうし、それが福祉の充実や累進課税制度などによってある程度は歯止めがかけられているにしても、また企業の方でも従業員の福利厚生に力を入れている場合もあるわけだが、社会が依存している企業の経済活動に格差をもたらす作用があることには変わりないわけで、根本的に経済活動によって成り立つ社会の構造を変える力がどのような勢力にあるわけでもない。ただそれでもそこに作用や影響を及ぼしている様々な要因のせめぎ合いや関係の組み合わせが、何かのきっかけで変わる可能性はいくらでもあるのであり、実際に絶えず社会は変化し続けているわけで、たとえその変化が人々の期待とは違うとしても、社会の変化に対応しながら人々の意識もそれなりに変化してきたわけだ。そして人々の意識が社会の中でせめぎ合いを演じている勢力に対する信用や不信に結びついて、それが政治的な争いを引き起こしているわけだろうが、別に争いを演じている政治勢力が何か根本的な解決案を持ち合わせているわけではなく、ただメディア上で行われる政治宣伝によって人々に何か幻想を抱かせるわけだが、それが幻想でしかないにしても、そのような政治勢力に対する期待が信用に結びつき、また不安や嫌悪が不信に結びついたりするのだろうが、メディアの方でも例えば株価の値上がりが何か政府の経済政策の効果であるかのように宣伝したりして、それを真に受けた人々の政府に対する期待や信用に結びついたりするのであり、政治的には根本的な治療法のない病に対する対症療法のようなことをやるしかないだけに、人々はその時々の政治情勢に合わせてメディアが喧伝する政治勢力に対して期待を寄せて幻想を抱くしかないわけだ。

 たぶんそういうジレンマがある種のあきらめとともに現状に対する素朴な肯定に結びつくのかもしれないが、別に意識してあきらめているわけではなく、その保守的な態度があきらめを表しているわけで、宣伝文句として改革を強調しなければならないわけだが、その改革が何か現状を肯定するような改革なのであり、根本的な改革を目指すなら、そんなふうに現状を肯定ながら改革を宣伝する欺瞞的な態度の勢力が、世の中から一掃されなければならないわけだが、そんなことはありえないわけで、政治的に何か主張するならともかく改革を叫ばないと政治的な主張の体をなさないわけだから、それはある意味では仕方のないことなのだろうが、世の中で主導権を握っている勢力が世の中から一掃されることはまずないわけで、たとえ正しい意味での革命が起きたところで、確かに人も勢力も革命によって入れ替わるかもしれないが、入れ替わって新たに主導権を握った側が同じように主導権を握ろうとする限りで、世の中の構造は変わらないわけで、真の変革とは誰もどんな勢力も主導権を握れないような世の中になることであり、そういう意味で改革を訴えて世の中の主導権を握ろうとする勢力が世の中から一掃されることが、正しい意味での世の中の変革となるのかもしれないが、果たしてそんなことが起こり得るだろうか。結局人々の間で格差がなくなるとはそういうことでしかないわけだが、それにはまず誰かが何らかの勢力が世の中の主導権を握らなければならないとなってしまえば、そこで矛盾が発生してしまうわけで、そんなわけで何らかの勢力が主導権を握って人々の間で生じる格差をなくすためにいくら改革を断行しているつもりでも、それが世の中の主導権を握ろうとして自分たちに権力を集中させて他の人々との間で格差をもたらす行為と表裏一体となってしまっていることに気づかないだけであって、どうもこれまでに行われてきたような政治的な主義主張やそれに基づいた活動や運動ではうまくいかないことは確かなのであり、しかもうまくいくやり方を模索するような成り行きにはなり難いのがメディア上で改革を訴えるような政治宣伝なのではないか。だからといって改革をあきらめるようなことにはならないだろうし、政治的な訴えかけを行うには改革がつきものであり、ではどうすればいいのかとなるのかもしれないが、なるべく人々に幻想を抱かせないように訴えかけることが肝要だろうか。しかしそれでは期待されないだろうし信用もされないだろうから、政治的な主導権を握ることができなくなってしまい、政治宣伝としては失敗となってしまうだろうか。


10月4日「持ちつ持たれつの関係」

 その起源がどうであれ、現状では企業が経済活動の主体となっている事実は否定しようがなく、また国家を統治する行政機構も企業が行う経済活動から、所得税や法人税などの税収を得ているわけだから、産業振興には企業の育成が欠かせないだろうし、行政としては安定して収益を上げてそれなりの雇用を確保してくれる大企業が存在するのはありがたいことなのだろうし、そういう意味で行政機構と企業とは持ちつ持たれつの関係を維持しているのではないか。もちろん企業の方では利益確保の観点からあらゆる手段を尽くして税の軽減を目指すだろうし、行政上の便宜をはかってもらう目的で政治家や官僚などと癒着しようとするだろうし、企業側を有利に導くための駆け引きや交渉を行うのは当然のことで、制度的に決められた建前上の関係とは別次元のところで暗躍するわけで、そういうことを含めて持ちつ持たれつの関係なのだから、そのような関係の中で法律違反が発覚したら、刑事事件や民事事件として立証できる範囲内で何らかの措置が施されるわけだろうが、たぶんそれを良いとか悪いとかいう判断で捉えない方がいいのかもしれず、要するにゲームには反則がつきものであり、いかに効果的に反則をやるかもゲームを有利に運ぶテクニックなのであって、それに関連してメディアが法律違反した人や集団を叩く場合も、叩ける対象を叩くのであり、彼らが肩入れしている人や集団に対しては建前上は叩くにしても、手を抜いて叩くのであり、決して二度と立ち直れないように徹底的に叩くことはしないだろうし、そういう意味でもメディアも企業や行政機関と持ちつ持たれつの関係を維持している面があって、実際にメディア関係者と政治家と官僚などがあからさまに会合を開いて談合しているところなどもメディアを通して伝えられているし、世の中に張り巡らされている様々な関係のネットワーク上では、やっていいこととやってはいけないことの基準として法律が機能していることは事実だが、それとは別の基準で法律違反してでもやらなければならないことと、たとえ合法だろうとやってはいけないことが暫定的な基準として成り立つ場合もあるのではないか。そしてそういう基準からは、互いに癒着し合って利害共同体の一員になったら、時には法律を違反してでも便宜供与を行わなければならないだろうし、法律に違反するからといってそれをためらったら、裏切り者として共同体から排除されてしまうのではないか。

 そのような共同体に入るには、それなりに権力を行使できる立場でないとならないだろうし、そうでなければ便宜供与が行えないわけだから、集団の中でも社会的にも地位の高い役職である必要があるわけだ。またそうやって便宜供与を行うことで集団内や社会の中で周囲から認めてもらえるようになるのだろうし、そのような立場や地位というのも便宜供与とセットになっているのかもしれず、またそういう行為によって世の中が成り立っているとすれば、法律のようにはあからさまに成文化されていないものの、社会的な慣習の一部としてそのような行為が黙認されている実態もあるのかもしれず、そうであるとすると、正義感に駆られてそのような行為を内部告発したり、ジャーナリストなどがその実態を暴いたりすると、かえってそういった人たちが有形無形の嫌がらせを受けたり、卑劣な罠にはめられて濡れ衣を着せられたりして、そうやって集団からも社会からも排除されてしまう場合もあるのではないか。たぶん法の支配を推し進める立場からすれば、なるべくそういう行為はなくしてゆかなければならないのだろうが、法律を補完するためにそのような慣習が欠かせないと考えるなら、それは黙認されるようなこととなるだろうが、建前と本音の併用のように法律の適用にもグレーゾーンを設けないと世の中が成り立たなくなる面があるのかもしれないし、それを黙認するか許せないと思うのかも、その人の置かれた社会的な立場によって変わってくるのかもしれず、そういうところできっちりと白黒をつけられない実態があるとすれば、そのような行為に対してどのような態度をとるかにしても、正義感に駆られて悲惨な目に遭った内部告発者や周囲からの有形無形の圧力に屈しないで違法行為を暴いたジャーナリストを支持したり支援したりするにも、自らが違法行為を行ったり黙認したりする立場になれば、そうせざるを得ない成り行きになってしまう可能性があることは踏まえておかないとならないわけで、そのようなことが行われる実態があれば、それは自らを含んだ社会の中で行われていることなのであり、実際にそういうことを行なっている政治勢力を支持して選挙で投票している場合もあるだろうし、ましてやそういう勢力が議会で多数を占めて政権を握っているとしたら、内部告発者やジャーナリストなどよりははるかに強大な権限や権力を持っているわけで、どちらが社会的な信用を得ているかは明らかなのではないか。


10月3日「企業活動に伴う恩恵と弊害」

 企業にはその経済活動に伴って資本の蓄積とともに企業経営に必要なノウハウも蓄積され、収益を上げて利益を出すための方法が知識として溜め込まれ、またその知識は実践を通して絶えず更新されて、また他の企業との競争や連携などの活動から駆け引きや交渉の経験も知識として溜め込まれ、それらが企業が競争に生き残り発展するための戦略や戦術などとして結実するのではないか。またそのような活動に適合するような組織形態も活動を通して導き出されてくるだろうし、そのような組織形態を生かすための人材も自前で育成するか他から調達してくるかして、絶えず組織内の役割に適合するような人材を揃えようとするだろうし、そうやって資本やノウハウとしての情報や人材や資材や設備を蓄積させて、それらを効率的に活用することで収益を上げて利益を出そうとするわけで、そのような活動が成り立っている限りで資本主義経済が維持されているわけだから、資本主義経済が社会にもたらす恩恵にも弊害にも、企業の組織形態や活動内容が影響を及ぼしてくることは確かで、例えば民主的な価値観は企業内では通用しないだろうし、通常の意味での個人の自由も平等も企業内ではないし、組織的な指揮命令系統を逸脱して意見を言うことには差し支えが出てくるだろうし、仕事と公的な政治参加とは別次元のことだと言えばその通りなのかもしれず、それが嫌なら仕事をやめて個人で事業でもやればいいと言うことにもなりかねないが、実際にそうやって成功した人もまれにはいるのかもしれないが、やはりそれとこれとは別次元のことだろうし、実際には企業内でも公的な政治の領域でも、民主的な価値観を実現するにはそれなりの駆け引きや交渉を通して実現を目指すしかないのであり、世の中の全ての次元で何らかの権力関係が張り巡らされている中で、絶えず個人の自由や平等を獲得するための闘争が必要で、そのような闘争を推し進めていく中で必要なノウハウも蓄積されて、実践的な経験を通して組織的な集団の中で個人の自由や平等をもたらすための方法が編み出されていくのだろうし、また他の企業で働く労働者と連携や連帯を実現させるための活動も試みられるだろうし、企業を経営する側との駆け引きや交渉の中から、労働者の権利を守るための方策も導き出されてくるだろうし、そのような労働組合的な闘争が企業の経済活動を阻害しているとも言えるのだろうが、どちらに正当性があるわけでもなく、そういうところでも駆け引きや交渉によって何らかの在り方が定まってくるのではないか。

 ともかく企業活動によって資本主義経済が成り立っていて、それに伴って人々に恩恵や弊害がもたらされていることは確かで、普通に考えるなら恩恵を増やして弊害を減らすための努力が必要になってくるのだろうが、必ずしも恩恵を増やすことと弊害を減らすことが結びつくわけではなく、恩恵を増やそうとすると弊害も増えたり、弊害を減らそうとすると恩恵も減ったりする場合があるのかもしれず、その中で妥協したり我慢しなければならない場合も出てくるだろうし、妥協も我慢もせずに激しく闘争した挙句に、かろうじて保たれていた均衡が崩れて取り返しのつかない深刻な事態を招いたり、駆け引きや交渉の中で優位に立つ側が権力関係を強めて、集団内で強権的な圧政を敷いたりする場合もあるわけだ。また企業に外部から作用を及ぼせる公的な政府機関の政策も、無視できない権力の行使の可能性を生じさせているわけで、具体的には独占禁止法によって特定の企業による利益の独占に歯止めをかけたり、公害をもたらす危険性の高い企業に、周辺の住民に健康被害を出させないための排ガスや排水などの環境基準を設けたり、また特定の企業に対して課税を強化したり、逆に国際競争力を高めるためや経営体質の脆弱な中小企業を助けるために税を軽減したり、さらに労働者の健康を守るために労働時間を規制したり医療保険や労災保険への加入を義務付けたり、労働者が失業した場合の補償措置として雇用保険への加入を義務付けたり、退職した後の生活を保障するために年金保険への加入を義務付けたり、そのように法律を制定することによって企業に対して様々な強制措置を課すことができるわけだ。それはそれまでに行われた企業と人々との間で行われた闘争や交渉などの駆け引きが、公的な政治の次元で法律として成果をもたらした例でもあるのだろうが、それが獲得した権利でもあると同時に課された義務でもあるところが両義的な意味合いを持つのであり、権利と義務とが表裏一体であることに気づかないと、それが特定の政治勢力によって政治宣伝に利用される危険性も孕んでいることにも気づけないわけで、例えば労働者の権利を獲得させてやったのだから国家に従う義務が生じるという論理が出てくるわけだ。また企業活動から生じる弊害を取り除くために政治的な次元で規制を強化しようとすると、国家単位では確かに何らかの統一的な基準を作れるのだろうが、国際的な次元では規制の厳しい国と規制のゆるい国との間で差異が生まれ、それをなくすために国際的な枠組みで世界規模の統一基準を作ろうとするところで、国家間の対立や軋轢が生じてしまうわけで、早い話が規制をゆるくして経済の発展を優先しようとする国が出てくるわけだが、そうした抜け駆けをする国に対して国際的な圧力をかけるには国家間の連携が必要となってくるわけだ。


10月2日「労働の変遷」

 現代的な機械文明の進展に伴った産業別の労働人口の変化を考えてみると、主に食物を生産する農業分野が機械化されたおかげで、先進工業国では急激に農業人口が減少したことは確かだろうし、また工業の分野でも効率的な生産体制が整備されたおかげで、一定のレベル以上で工業労働者の数も増えなくなってきているだろうし、現状ではどちらの分野でも雇用が増える余地はないのかもしれず、実際に日本の場合はそれらの物を生産する以外の、第三次産業の人口が全体の75パーセントを占めているらしいから、農業や工業などによって物が生産されないと人は生きていけないことは確かなのだろうが、労働人口の大部分はそれ以外の情報を取り扱ったりサービスを提供する分野に偏っているわけだ。また日本の就業者人口は全人口の約5割ほどだから、全就業者人口の25パーセントのさらにその約半分の13パーセント弱の人しか物づくりには必要ないわけで、もちろん輸入している生産物もかなりの量があるものの、輸出している生産物もそれと同等以上の金額にのぼっているわけであり、おおざっぱに言えば全人口の87パーセント強の人たちが直接の物づくりとは関係のないことをやっているわけで、その全体の75パーセントを占める第三次産業の分野でAI技術などによって機械化が進めば、ほとんどの人の働き口がなくなってしまうわけだろうが、実際にはそうはなっていない現状があり、そんな脅し文句は杞憂に終わる公算が高いものの、確かに物を作っているだけはだめで、それが売れないことには収益が出ないわけだから、物を売るための活動が重要であることは当たり前のことなのだが、その売買に伴う商業活動というのが、右から左へと物や情報を動かして利益を得ようとする類いの、簡単に言えば安く買って高く売る活動なのであり、全てがそれだとは言えない面もあるのだろうが、何らかの生産物が様々な経路で様々な人や集団の手を経由して消費者に届くまでの間に、世の中のほとんどの労働が集約されているわけだから、物や情報を生産してそれを売るという単純な概念では労働を捉えられないことは言うまでもなく、それを生産するまでの過程よりも生産してから売るまでの過程の方に多大な労力がつぎ込まれているわけで、また売ってからも買った消費者に情報を提供したり、売った後にアフターサービスを行うような労働もあるのだろうし、物や情報を生産するだけにとどまらずに、それ以外の部分で後付け的にどんどん人の関与を付け加えていって、そこに労働の余地を見出すような成り行きになっているのではないか。

 そうなると労働というのは何かを作るというよりは、何らかのサービスを提供するような傾向へとシフトしてきているのかもしれず、例えば直接消費者のところへ出向くにしても窓口業務ような形態をとるにしても、そこで買い手である顧客と交渉して物や情報やサービスを売るような労働があることは確かだが、それも交渉を必要とする類いの商品に限られるだろうし、それならネット上のサイトにアクセスして買いたい商品を選べばそれを配送してくれるようなシステムにした方が、売る方も買う方も気が楽なのかもしれないが、それができない商品だとメールなどのやり取りによって交渉することにもなるだろうし、そんな売り手も買い手も避けては通れない交渉というのが、やはり安く買って高く売るような商業的な駆け引きの場となるわけだ。もちろんそんな部分であっても、ただネット上で検索して一番安く売っている商品を買えばいいだけの場合もあるだろうし、実際に価格を比較するサイトもネット上に存在しているし、全ての商品が面倒な交渉なしに手に入るような成り行きに向かっているのかもしれないが、そうであってもやはり売り手と買い手との間にある非対称で不均衡な関係を解消することはできないだろうし、今後もその部分に人の労働が関わってくることは確かかもしれないし、そのような部分が企業が行う経済活動の中で重要な部分となっているわけだろうが、その一方で交渉や駆け引きなしに強制するようなやり方が行政を中心に行われている現状もあるわけで、統治している人々に何らかの義務を課すようなことが当然のこととして行われ、それを守らないと法律に違反したことになって、場合によっては処罰の対象となることがあるわけで、そんな法律を制定するには選挙で選ばれた民衆の代表者たちの了解を得ないとならない仕組みになっているわけだが、そこでも民衆とその代表者たちと行政機関の間で駆け引きや交渉が行われるわけで、さらにそのような駆け引きや交渉を伝えるメディアも絡んできて、そこでわけがわからない紆余曲折やこじれにこじれた駆け引きや交渉を経た末に、いつの間にか民衆が望んでもいない法律が制定されてしまうことが多々あるわけで、結局それは行政機関の意向を反映した法律になることが多く、要するに行政の統治権限の強化に結びつくような内容が民衆の代表者たちが集まっている議会で可決されてしまい、しかもそれを民衆が支持しているかのようにメディアによって伝えられてしまうわけで、結局そこで露わになるのは、売り手と買い手との非対称で不均衡な関係と似ているようでいて微妙に違う、民衆と行政との非対称で不均衡な権力関係となるのではないか。


10月1日「企業と産業」

 資本主義経済の中で物や情報などを生産して流通させる活動を担っているのは主に企業であり、企業活動が資本主義経済を実質的に動かす上での原動力となっているわけだが、企業という組織形態はそれ自体が資本の蓄積を表す単位でもあり、具体的には発行している株式の時価総額が資本の蓄積量を示しているわけで、それ以外にも保有する土地や建物や機械設備などの規模や、事業に携わる従業員の数や生産している製品の売上高や収益額や、保有している現預金の額や負債額などからも、その活動の実態をうかがい知れるわけだが、企業の中でも主流をなしている株式会社という組織形態が、資本主義的な経済活動そのものを反映したシステムを構成していて、株式を発行して多額の資金を集めて、その資金を活用してそれなりの規模の機械設備を設置してそれに携わる従業員を雇い、それらを使って物や情報などを生産して流通させて販売し、集めた資金に見合うだけの収益を上げようとするわけだ。また株式という資本形態はそれ自体で売買が可能だから、株式を売ったり買ったりすることで企業同士の離合集散が比較的容易で、企業が収益力のある他の企業を買収することで企業自体の経営体質を強化できるわけで、そうやって企業の中で収益力の高い企業が生き残って収益力の低い企業が消え去り、結果的に収益力の高い企業によって資本主義経済が維持されるわけだから、収益が上がらずに経営が立ち行かなくなって倒産したり廃業したりする企業がいくら出ても、またそれによって失業者がいくら出ても、実際に収益を上げている企業がそれなりに活動していれば資本主義経済は存続されるのであり、景気が悪くなろうと恐慌が起ころうと資本主義経済そのものが崩壊するわけではない。また利益が出なくても企業活動を賄えるだけの収益が上がっていればその活動は継続されるのであり、慢性的な赤字体質であっても新たな投資などの何らかの手段で資金供給が続いている限りは企業は倒産しないし、赤字が出ている中でも投資が断続的に行われている時期と、事業が軌道に乗って一定額の収益が出始める時期とで時間的なずれが生じるわけだから、原理的には赤字が出ていても将来性を見込んでその企業の株価が値上がりすることもあり、株価が値上がりすればそれが新たな資金調達の可能性を生じさせるわけで、結局そのような組織形態や資本形態や収益形態などが資本主義的な経済活動の強みとなっているのではないか。

 それに関連して例えば収益性の低い事業や産業分野が衰退してその方面での経済が停滞して、そこから金融機関や投資ファンドのなどの資金が撤退するようなことが起こると、その反動で新たな投資先として新製品を発表したり新サービスを打ち出す企業や産業分野などに期待がかかるだろうし、そこへと資金や人材などが流れ込むような成り行きがもたらされると、結果的にその産業分野での経済活動が活発化することになるのだろうが、そんなふうに特定の産業分野が衰退したり停滞することが別の産業分野への投資を促すことになれば、単に投資熱が冷え込んでしまった分野からこれから投資を過熱させようとする分野へと人や物や資金の移動が起こるだけではなく、それらが混ぜ合わされて化学反応のようなことが起こって、その結果としてそれまでになかったような新たな産業分野が生み出される可能性が生じるのかもしれない。厳密にいえばそのような成り行きとは重ならないのかもしれないが、また別の事例として、例えば農林漁業などの第一次産業の衰退が工業などの第二次産業の発展を促したのではなく、工業の発達によって農林漁業が機械化されて、機械化された農林漁業が旧来からあった人出のかかる農林漁業を駆逐するような成り行きがもたらされたわけで、また農林漁業が機械化されるとそれらの産業に携わっていた人が余ってしまうわけで、余った人がどこへ行くかというと、結果的には工業へと流れたわけだろうが、工業へと流れるだけではまだ人余りとなれば、行き先のなくなった人たちは移民となって国外へ出て行くしかなくなるわけだが、そんな成り行きの中で工業の発達は工業から生み出される製品を買ってくれる消費者を必要してくるわけで、また機械化されて生産力や収穫量が上がった農林漁業から生み出される産物を買ってくれる消費者も必要となってくるわけで、結局はそれらを消費してくれる人たちはどうやって暮らして行くのかとなるわけだが、どういう成り行きでそうなってしまったのかは合理的には説明できないのかもしれないが、農林漁業よりも工業よりも産業人口が多いサービス業などの第三次産業という分野が発展してきた歴史的経緯があるわけで、ただ単に生活必需物資の生産に携わるだけでは人が大幅に余ってしまうのは確実で、ではそれ以外の人は何のために必要なのかとなるわけだが、結果的には第一次産業や第二次産業が生産する産物や製品を最終的に消費してくれる人が必要なのであって、またそれらを世界中に流通させたり販売したりする過程で人も機械設備も必要となってくるのだろうが、結果的にそうなっていることを合理的には説明できないだけに、人の理性や人が存在する必然性を超えるような事態を資本主義経済が実現していることは確かなのではないか。