彼の声130

2018年

12月11日「成功例と失敗例の比較」

 世の中で行われていることの何をどう解釈しようと、そんな解釈を伴うようなとりとめのない話題の中に、何やら政治的な問題がまとわりついてきて、しかもそれが政治的な行為とは無関係なことでしかない場合もあるだろうし、またその無関係なことを関係があることのように言いくるめるようなやり方も、話術としてそんなことをやれば、もっともらしく聞こえるだろうし、それが何でもないことでしかないかもしれないのに、何か重要で重大なことであるかのように見せかけるのも、文章術を駆使して効果的に構成できれば、そんなことように思われてしまい、それをごまかしだとは言えないような成り行きになってしまうわけで、それに関しては、ある特殊な環境ではうまく行くことであっても、他の環境ではうまくいかない場合があるだろうし、その特殊な環境ではうまくいっている事例を賞賛して、他のうまくいっていない事例を批判してみても、それで何が解決できるわけでもなく、実際にはうまくいっていないなりにも継続していることの中から、それなりに改善点を見つけて改善していくことしかできないわけだが、中には改善点が見つからない場合もあるだろうし、見つかっても諸般の事情から改善できない場合もあるだろうし、そういった諸般の事情が考慮されている結果が、うまくいかないなりにも続いている現状をもたらしているわけだろうが、それを他の条件下でうまくいっている事例と比較しながら批判するのは、根本的に間違っているのかもしれないが、そういうことをやらないと、その手の批判は成り立たないのだろうし、そういうことを理解できない人が、そんな批判を行っている実態があるということでしかないのかもしれないが、そういうことをやっている実態をどう受け取るかが肝心だろうし、そんな批判を行っている人を信用できるかとなると、微妙に思われてくるかもしれないが、そういう批判も批判として成り立っていて、しかもそういう批判に賛同する人も少なからずいるわけだから、それだけ世の中には愚かな人が多いと理解すべきなのか、あるいは別にそれらの人たちが愚かなのではなく、その程度で構わないと解釈しておいた方が無難な場合もあるだろうが、どちらにしろ語ることと行うことの間にはそれなりに差異があるわけで、その差異を縮めるような成り行きに持っていこうとするのか、それでも言いっ放しで批判しっ放しのままでも許容するのかに関しては、その場の成り行きによって様々な結果がもたらされるのかもしれず、中には批判するだけに終始しているうちに年老いて、何もやらないまま寿命が尽きてしまう人もいるだろうし、またその人が何かを行わなければならない立場に立たされた時に、かつて自らが批判していたようなことしかできない境遇に陥ってしまう時もあるだろうし、さらにかつての批判が活かされるようなことをやれる機会に恵まれる人も中にはいるかもしれないし、それはその時の情勢次第で運次第な面があるかもしれないが、少なくともやっていることの全てがうまくいくはずがないから、うまくいかないことに対して批判されるのも当然のことであり、そういう場合の批判は謙虚に受け取っておけばいいだろうし、時にはそうした批判が活かされる場合もあるが、活かされずに放置されて忘れ去られてしまう場合の方が多いだろうし、それは実際に何かを行うことよりは、それを批判することの方が容易で安易にできるということであり、実際に行うことの方がはるかに難しく、またそれがうまくいかない可能性の方が高そうで、そんな中でもたまたま何かの加減で運良く成功した事例が稀なほど、それは希少な成功例として賞賛されるだろうが、結局他の失敗例が多いほど、要するに失敗する確率の方が圧倒的に高いのに、稀な成功例を賞賛する一方で、他のありふれた失敗例を批判するのは、批判すること自体が不公平であり、そんな不公平な批判を平然と行なっている人の感覚が、鈍感この上ないと思われても仕方のないことだろうし、少なくとも事の公平さを装うなら、成功した事例と失敗した事例が同程度であれば、それは普通に比較の対象となるだろうが、それなら成功することもありふれていて、そんなありふれた成功例は特に賞賛するまでもないことになってしまうだろうし、それと比較して成功した事例が稀であれば、それが希少であるほど賞賛に値することになるわけだが、そうだとしても、それと比較して多数の失敗例を批判するのはおかしいだろうし、また他に多数の失敗例があるのに、敢えてそれに挑戦しようとすること自体を批判するのも、よくありがちな傾向であるかもしれないが、またそうやって挑戦して失敗すれば、そらみたことか、と批判されるのもよくありがちなことであるが、しかし結局そうした批判にもめげず、敢えて失敗の危険を冒して挑戦して成功すれば、それは稀な成功例として世間の賞賛を浴びるだろうし、それに比べて批判する側といえば、ざまあみろが言いたくて批判しているような成り行きになってしまうわけで、そうなるとどちらが卑劣かは一目瞭然となってしまうわけだ。

 結局批判は何かをやった結果をああだこうだと論評するような行為と不可分で、それをどう言いくるめてみても、批判だけで正当化できるような代物ではなく、別に正当化しなくても構わないわけだが、またそうであるからこそ、そんないかがわしい批判者に同調する必要はないわけで、それよりはたまたまうまくいった事例を賞賛するだけにとどめておけば、他の誰からも文句を言われる筋合いはないだろうし、そんな態度で終始していれば、人畜無害な存在でいられるわけだが、そればかりでは物足りなくなってしまうだろうし、そうなるとまたいかがわしい欲望が芽生えてきて、同じ誉めるのでも、誉め殺しのような皮肉なことまでやろうとしてしまうわけで、そうやってどう言いくるめてみても批判者にしかなれないような人は、誉めるにしても誉め殺しように誉めて、自らのいかがわしい立場から生じるねじくれた感情を満足させようとするわけだが、それはそういうことだと受け止めるしかないわけで、そうやって話芸や文章術に磨きをかければ、何かしら満足のいく作品を構築できるかもしれないし、それもそれでそういうものだと受け止めるしかないわけだが、その一方でそんな事の安易さに気を取られてしまうと、根本的なところで当たり前の現実を感じ取れなくなってしまうのかもしれず、それはこれまでの結果から予想して、これからやろうとすることを批判することが、それほど世間の共感を得られるようなことなのかに関してであり、それがどうも疑問に思われるわけで、結局困難なことを成し遂げるには、常にそうした批判に打ち勝つような成り行きを伴うわけで、実際にそういうことをやって成功した人や団体が、世間から賞賛を浴びるような成り行きがあるのだから、それに対して批判者の方は、それが批判者の意に反して成功すれば、いつも軽蔑されるような成り行きになるわけで、どう考えてもそういうところで、だから言わんこっちゃないとか、そらみたことか、ざまあみろとか言ってしまいがちな人は、困難を乗り越えて成功した人や団体などが世間から賞賛を浴びるための、引き立て役に甘んじてしまい、果たしてそういう損な役回りを積極的に引き受けることに意味や意義があるかは、よくわからないところだろうが、どちらも世間一般の反応であることには変わりなく、それ自体はどちらの役回りを得ようと、実際に何かを行う側からすれば、気にするまでもないことであり、そんな周囲の雑音などは無視できる限りでやればいいことだろうし、実際に強引に事を進めて、それなりの成果を上げれば、やった者勝ちになってしまうし、失敗すれば、そらみたことかと言われて批判されるわけだろうが、どちらにしてもそういう成り行きを経ないことには事が収まらないわけで、それが世間的な関心事であれば、またそんな成り行きからもたらされた結果に関して、ああだこうだとメディア上で論評されるわけだろうし、現状でも様々な活動がそうした成り行きの真っ只中なのだろうが、それに絡みついてくるいつもながらの危機感を煽るような紋切り型の批判であっても、それがそこで行われていることのBGM程度には人々の耳に響いていることは確かだろうし、たぶんそういうところで人々の鈍感力が試されているのであり、その何事にも動じない姿勢をどこまで保っていられるかが、我慢比べのようにして、それらに対する批判を圧殺する効果を上げているわけで、そこで我慢しきれずにねをあげた人の悲鳴が、批判とどう違うのかも興味深いところだろうし、それに対して悲鳴をあげるような弱者とは違って、あくまでも愚鈍さに徹することができる人も中にはいるだろうし、そういった人が現状の大衆市民社会の中では稀有な存在となるのかもしれず、そうした稀有な感性の持ち主が、後の時代に何らかの遺産を残す可能性もあるのだろうが、そんな遺産でさえも活用されなければ宝の持ち腐れとなってしまうだろうし、しかも我慢しきれずにねを上げてしまうような人にとっては、どんな遺産さえも猫に小判でしかないだろうし、それを活用できる人も、現状に対して愚鈍な感性を持ち合わせている人に限られるのかもしれない。またそうした人はそれと気づかずに過去の遺産を活用しているわけで、逆にそれに気づいてしまう人たちは、それを活用するまでには至らないうちに、周囲の雑音によって圧殺されてしまうのかもしれず、そのちょっとしたことにも敏感に反応してしまう繊細な感性が、現状のひどさに耐えきれないわけだ。そんなわけで結局は現状のひどさに敏感であるほど、ちょっとのことで悲鳴をあげて、それが現状に対する紋切り型の批判となってBGMように世の中にこだまするわけで、そんなBGMを心地良く感じながらも、ひどいことを平然と行えるような人たちが、持ち前の愚鈍さを生かして、現状の中で主導権を握る成り行きになるのかもしれず、実際にそうであれば、そこには救いようのないアンタッチャブルな世界が構成されているはずなのかもしれないが、その一方で、そういった世界から抽出されるエキスを糧として、魅力的なフィクションも構成されるわけで、それを一般の人々が娯楽として享受するような倒錯的な成り行きも生じているだろうし、やはりそういうところで、何か良くて何かが悪いかが判断できなくなってしまうわけだが、普通に良いことと悪いことを判断するなら、ちょっとのことで悲鳴をあげるような繊細な感性の持ち主であれば、世の中にBGMのように鳴り響いている紋切り型の批判に同調することが良いことになるのかもしれない。


12月10日「物事の制御」

 現代文明は機械的な制御で成り立っている面があり、日常生活のありとあらゆる面に、そうした機械的な制御が入り込んでいる現状もあるわけだが、一方で、世の中で起こっている出来事や現象に関して、その全てを制御することは難しいものの、部分的には制御可能だと思われて、実際に制御に成功している部分もあることが、そういった機械を活用した人為的な制御の模索へと、人や団体の活動を向かわせる傾向があるのだろうが、それがうまくいかない面では、そこから様々な問題が起こっているわけで、もちろんその全てがうまくいかないわけでもなく、うまくいっているように思われるところでは、それなりに成果を上げているように思われるだろうし、そういう方面での人や団体の活動が社会的にも評価されているのかもしれないが、それが現状ではどうやっても部分的な制御にしか至らないところが、それで制御していることになるのか、という疑問を生じさせるだろうし、全てを制御しないと制御する意味がないようにも思えるし、そういうところで思い通りにいかない部分というのが、それを思い通りに制御しようとする試みにもつながってくるわけだが、そこで制御できない部分を放置するわけにはいかないところが、制御しようとする意志の底しれぬ欲深さを露わにしているのかもしれず、物事を制御しようとすると、それに関連する全てを制御せずにはいられない際限のなさに直面してしまい、それが無理であることがわかっているのに、そういった成り行きがそれを目指してしまうわけだから、そんなことを追求し出すと、遠からず破綻する結果が待ち受けているのかもしれないが、実際に破綻するまではそういった追求をやめようとしないだろうし、また破綻してからも機会を捉えて活動を再開しようとするかもしれないし、執拗にそんな追求をやりたがるような成り行きとともに、それ自体が制御の利かない追求となってしまうと、そういうことをやめる理由が見当たらなくなるのかもしれず、もはやそんなことをやっている人や団体は放置するしかない状況ともなってくるのかもしれないが、実態としてはそれなりに世の中の出来事や現象を人為的に制御している面はあるものの、完全には制御しきれてないから、思わぬところで思いがけない出来事や現象が起こるわけだが、そうなると今度はそうした出来事や現象でさえも、何らかの黒幕的な勢力によって制御されていると思い込んでしまう人たちが湧いて出るわけで、そうした妄想が陰謀論的なデマとなって、それ専門の怪しげなメディアを通じて世の中に流布されると、多くの人が何でもかんでも人為的に制御されているような妄想に取り憑かれてしまうわけだが、さらにそうした妄想を煽って、妄想に取り憑かれた人たちを制御するような試みも行われるわけで、そうした試みが呪術的な作用や影響を人や集団に及ぼして、妄想を信じ込んだ人や集団を制御する試みがある程度の成功を収めるわけだが、もちろんそれだけで全てを制御できるわけではなく、制御できていない面では、陰謀論に騙されるなと唱える良心的な啓蒙活動に直面するわけだが、そういった啓蒙活動でさえも、それなりの人為的な制御を目指した活動である面も伴っていて、啓蒙活動を通して人を良い方向へと導いて、社会を良くしていこうとしているわけだから、それもある意味では制御の一環とみなすことができそうだが、それだけなら全面的な制御を目指しているわけではないだろうし、人を悪い方向へと行かせないようにしたいだけかもしれないのだが、そういう面ではそうであっても、そこから積極的に何らかの思想的な方向性を打ち出してくると、そういった方向へと人を先導するような傾向を伴ってきて、それとは違う方向性を持つ他の思想は認めないような偏狭な意識が芽生えてくるわけで、そういう意味で制御することは、それ以外の動作を阻むような作用が生じてくると、途端にそれに対する反発や反抗が生じてくるわけで、そんなところから制御という動作の限界が明らかとなるわけだが、そもそも全てを制御できないということが、制御に対する抵抗の存在を示しているわけで、物事を制御しようとすると、そうした制御に逆らうような動作が生じてしまうから、結果的にそれが制御を阻む要因となってしまい、そうなると制御自体がその対象にとっては余分で邪魔な動作となってしまうのかもしれないし、制御する必要のない物事を制御しようとするから、そうした制御に対して抵抗する動作が生じてしまうと考えるなら、そうした抵抗を無理やり力で押さえ込んで制御しようとする思惑も生じてくる一方で、そうではなく調整や妥協を通して、制御とは違った関係を結ぼうとする傾向も生じてくるのかもしれず、そういったところで、物事との関係の在りようが様々な方向性や傾向を伴ってくれば、何か特定の動作ばかりが強調されるような事態とはならずに、何が何でも対象となる出来事や現象を制御しなければならない使命感とも無縁でいられるようになるのではないか。

 もっともそれも具体的な事例に伴って、その場の状況に応じて関係が結ばれる限りで、場合によっては主導権を握った側による制御に至る成り行きもあるだろうし、また制御できない面では、調整や妥協の関係も成り立つ可能性も出てくるわけだが、必ずしもそうなることが関係の全てではないし、無関係であっても構わない場合もあるわけだから、何が何でも関係を結ばなければならないとは言えないだろうし、そこで何でもかんでも自らの都合を押し通そうとする必要もないわけだが、その一方で自らが主張する論理の正しさを証明したいがために、その主張の中で異なる物事を強引に結びつけて、そこに論理的な整合性を適用したがる人も出てくるわけで、しかもそれらの物事が自分とは無関係であることに我慢がならないような人も結構いて、そうやって物事を強引に結びつけて語ろうとすることが、果たしてその人に関係のあることなのかというと、実際には無関係なのに、それについて語ると、あたかも関係があるかのように思われてしまうわけで、特に語る対象を批判し出すと、自身と関係があるから批判しているような気になってくるわけで、それが物事を批判することに伴って生じる効果であるのかもしれず、そうなった時に自分には関係のない物事を批判しているとなると、そうした批判自体の意味や意義がよくわからなくなってくるのかもしれないが、逆に関係者であるほど、事を穏便に済ますために、あからさまな批判は避ける傾向になるわけで、そうであるならあからさまな批判を行っている人は、その批判対象とは無関係である可能性が出てくるわけで、では何のために批判しているのかとなるわけだが、やはりそれは対象となった物事へ介入したいのだろうし、またそれへの関係や無関係も含めて、広く世間の関心を惹こうとして、批判するような成り行きになってしまうのかもしれず、そうなると批判すること自体に宣伝的で煽動的な面も伴ってきて、そんな行い自体が売名行為のようないかがわしさも想起させられてしまうわけだが、一方でそんな批判に共感する人が大勢出てくれば、世間の関心を惹こうとしたことに関しては、うまくいったことになるだろうし、それも一種の啓蒙活動とみなすと、そうした活動を正当化したくなってくるのかもしれないが、それの何が良くて何が悪いというよりは、そういうことをやって現状を恣意的に制御したいという意志が、そういうことを行わせるとしても、果たしてそれに関係があるかないかの次元で、たぶんそれが公的な政治に結びつくような行為となると、誰もが関心を持ってもそれほど奇異には感じられないだろうし、そうやって何でもかんでも政治に結びつけるような作用も生じてくるのかもしれないが、政治にも限界があるだろうし、全てを政治的な次元で制御することはできないのはわかりきっているかもしれないが、それでも政治的な次元に様々な物事を引き込んで、人々の関心を引き寄せようとする人が出てくるわけで、それが世の中に話題を提供しようとするメディアの役目だとも思われてしまうわけだが、やはり全てを政治的な次元で語ろうとしてしまうと、そうした次元で世の中を制御することばかりに人々の関心が集まってしまうわけで、それができない面があることを示しておかないと、関心を持った人々の政治的な要求が無い物ねだりに堕してしまうだろうし、そういったところで政治の側ができないことを示せばいいのだろうが、政治自体が民衆の人気取りとなりがちで、勢い何でもかんでも政治的に解決できるような幻想をふりまいてしまって、実際にできないから民衆の不満が蓄積されてくる傾向にもなるわけで、また逆に何でもかんでも政治的に解決しようとするから、その必要のないことまで政治問題化してしまうわけで、どちらにしても政治的な次元で世の中の全ての物事に関する問題を引き受けてしまうと、必要以上に無理が生じる結果となって、かえって何も解決できない政治など不要だと思われるだろうし、不要に思われるような政治には関心が持てなくなってしまうわけだが、そういう意味で政治的な次元でやらなければならないことというのは、特にこれといって決まり切った物事ではなく、そうであるから何かそこに一定の枠組みをはめ込んで、その枠内でやらなければならないことを決めるわけにはいかない面があるのかもしれないし、逆に政治の側でも、何でもかんでも自分たちの課題として引き受けなくても済むようなやり方を模索しなければならないのかもしれず、そういう面で民衆の側でも政治にあまり過大な期待を抱かないようにすることも、政治家に妙な使命感を抱かせない上でも肝要であり、それとは異なる面で政治家が、行政の機能からもたらされる、執拗な民衆への管理統治の圧力に抗う歯止めとして機能すべき面もあるのかもしれないし、何かをやるというよりは行政から民衆を守るために政治が必要なのかもしれず、そうであるなら行政と一体化して、行政の民衆への管理統治に手を貸すような政治勢力には警戒しなければいけないわけだが、そういう面で民衆の理解が得られているかとなると、現状では疑問を感じざるを得ないのではないか。


12月9日「立場と正当化の不要」

 それが何を意味するわけではないとしても、人は様々な成り行きの中で生きていて、その人が関係する物事に特有な成り行きには、他の人や団体も関係してくることがあるだろうし、実際に世の中で起こっている様々な成り行きには様々な人や団体が関係してくるから、それらの成り行きの中で、そこに関係してくる人や団体の間でも、新たな何らかの関係が結ばれる可能性も出てくるわけだが、そうやって関係し合う人や団体から、また新たな物事とそれに伴う特有の成り行きが生まれるわけだろうが、さらにまたその成り行きにも別の人や団体が関係してくると、それらの人や団体の間でも新たな関係が結ばれて、その関係に応じた特有の物事と、それに伴った特有の成り行きが生まれる可能性が出てくるわけだ。そんなふうにしてそこで生じている様々な成り行きの中で、様々な人や団体が活動することになるわけだろうが、そんな活動の中でも、自らが囚われている成り行きに逆らうような活動も可能かもしれないし、そんな成り行きに逆らうような活動というのが、一般的には抵抗や反対の活動かもしれないのだが、そんな成り行きに絡め取られて、抵抗や反対の運動に身を投じるようなら、別にその成り行きに逆らっていることにはならないのかもしれないが、そうではなく、そんな抵抗や反対の運動にも疑念を抱くようだと、微妙にそこからずれてくるわけで、そうなるとそんな立場があるかというと、それが世間的に認められなければ、それを正当化できないような成り行きになってしまうのかもしれず、それでも逆らわざるを得なくなってしまうとすれば、それをどう表現すればいいのかわからなくなってしまうのだが、別にそれは大げさなことでも大したことでもないのだろうし、むしろどうでもいいような何でもないことのようにも思われてくるわけだが、そうではなく、それとは違って、そういう特定の物事に抵抗や反対をする成り行きに逆らわずにいることは、どういうことなのかというなら、たぶんそれは大げさなことであったり大したことでもあったりするのかもしれず、それが何かを批判して、それに対して抵抗したり反対することを称賛することになるのかもしれず、要するにそれは世の中で普通に行われていることであり、世間的にも認められていることでもあり、そういうことをやると、それなりの社会的な立場を得られて、そういうことをやっている自らを正当化できるようになるのだろうが、なぜそういう真っ当な成り行きに逆らう必要があるのかといえば、必要などないだろうし、それを正当化できる理由もなく、逆らうような立場もないことなってしまうのかも知れないが、たぶんそれで構わないだろうし、そういった行為に逆らうと実際にそうなってしまうわけだ。それでもやはり疑念を抱いてしまうのだから、そうなってもなお疑念を捨てるわけにはいかない事情が生じてしまうのかもしれないが、ではそうした世間的な賞賛や批判や、そういうことをやっている立場を正当化することに逆らうと、何が言えるのかとなると、人や団体のやっていることを賞賛も批判もせず、そんなことをやっている立場を正当化することもない、ということであり、そうなると具体的には賞賛も批判もしないようなことを述べて、そんなことを述べている自らを正当化することもない、という回りくどい成り行きになってしまうのだろうが、それが意味も意義もないことだと思われるなら、やはりそれはそういうことであり、実際に意味も意義もなければ、そんなことを述べている自らを正当化するわけにもいかないだろうし、そんな立場などどこにもありはしないだろうが、立場がなく正当化もできないということが、それに逆らっていることの証しとなるだろうし、実際に逆らっているからこそ、そんなことをやっている意味も意義もなく、そんな立場もないから正当化もできないことになるわけだ。もちろんそれで疑念が解消できるわけでもなく、ただ疑念を抱き続けることになるだろうし、それがどんな立場でもなく、正当化できるようなことでもないから、賞賛や批判の対象ともならないわけだが、そういう態度を延長してゆけば、それ以外のいかなる立場も、それを正当化することにも、さらにそうした立場やそれの正当化を賞賛したり批判したりする行為にも、疑念を抱き続けることにわけだが、それは普通に世間的な意味で疑念を抱くことと、どう違うのかといえば、たぶん大して違わないことなのかもしれず、普通に疑念を持つことが、そういう態度につながるわけで、具体的には世の中で何をやったら駄目で、何をやったら良いかをはっきりさせないことが、駄目なことをやったら批判されて、良いことをやったら賞賛されるということ自体に疑念を抱けるわけで、それは駄目とされる行為をやる事情を考えることにもつながり、良いとされる行為をやる事情を考えることにもつながり、駄目なことがなぜ駄目とされるのかと、良いことがなぜ良いとされるのかについて、その判断基準がいかにして設定されるのかを考えることにもつながるわけだ。

 そしてそこから、駄目なことをやっている人を批判して、良いことをやっている人を賞賛する、というごく真っ当な行為を疑うことにもつながるわけだが、それに対して、駄目なことをやっている人がなぜ駄目かについて、あるいは良いことをやっている人がなぜ良いかについて、もっともらしくも説得力のあることを述べられる人は、当然のことのようにそんなことを述べている自らの立場を正当化したがるだろうし、それを世間に向かってアピールするわけだが、要するにそういう人は、自らが行なっているそうした行為が良いことであり、世間的に賞賛されるべきことだと暗に主張しているわけで、中にはそうした行為が世間に認められれて賞賛されれば、世の中が良くなると確信している人もいるだろうし、一般的にもそれが真っ当な行為だと思われているだろうが、現実問題としてそれの何が疑わしかといえば、そうした行為が否定する面であり、駄目なことをやる人には駄目なことをやるに至るまでの経緯があるわけで、結果的に駄目なことをやってしまった人をいくら批判してみても、駄目なことをやるまでに至る経緯がなくならなければ、また性懲りもなく本人や他の人が駄目なことをやってしまうわけで、実際にもそうやって駄目なことをやってしまう人が次から次へと出てくる現状があるのに、そうした人が出てくる度に、それがメディアで話題となる度に、そういう駄目な人を年がら年中繰り返し批判するような人が、果たして真っ当なことをやっているかといえば、それを真っ当な行為だと世間が認めるなら真っ当な行為になるかもしれないが、実際にその人が判断して評価する駄目な人が次から次へと出現してくるわけだから、一向に世の中が良くなっていないわけで、その人のもっともらしくも説得力のある評価というのが、その人が目指しているつもりの世の中の改善には、何の役にも立っていないことが明らかになっているのに、そういった人物評価をメディア上で延々と繰り広げている人は、そのこと自体には無頓着であり、いつまで経ってもその人が判断した駄目な人を、その駄目な理由を挙げて、延々と批判することしかできないわけだ。それを客観的に見るなら、そんな人は無能でしかないわけだが、そういう人物評価がその人の商売に結びついているなら、そうでもないわけで、そういう紋切り型の人物評価を支持する世間が、その人の商売を支えていることにもなるわけで、そんなふうにして無能な人が生かされている世の中が、果たして良い世の中なのかというと、実際にその人が駄目だとみなす駄目な人がひっきりなしに大勢現れてくるわけだから、良いはずがないのに、良いはずがないからこそ、そんな効果も成果も上がらない人物評価を繰り返す人の商売が成り立っている現状があるわけで、そうしたことを主張する自らの行為と、そんなことをやれる立場を正当化して、そんな自らのやっていることを真っ当な行為であることを、世間に認めさせたい人には、そうした逆説的で不条理な現実に気づくことができないわけだから、そういう意味でもその人の無能さが証明されているように思われてしまうわけだが、だからと言ってそうした人を批判する必要はないのかもしれず、批判してしまうと、やはりそれに対して、では他にどうすればいいのかと問い返されてしまうわけで、そうではなく、そんな駄目な行為をやってしまう経緯がそこにあることを示しておけばいいのだろうし、しかもそうした人がその人だけではない現実があって、そういった人物評価が商売の人など他にもいくらでもいるわけだから、そこにもそうした人が次から次へと現れる成り行きがあるから、そうした人が実際に出現してくるのであり、要するにそうした人の人物評価を批判するのではなく、そういう行為に疑いの目を向け続けることが肝要だろうし、それは別にそういう立場があるというのではなく、疑うことを正当化するのでもなく、ただそれがおかしいと思い続けていればいいのだろうし、そういう態度でいれば、少なくとも成果も効果も上がらないそれらの行為を信用してしまう愚を避けることができるのではないか。またそれは大げさなことでも大したことでもなく、むしろ些細などうでもいいような気軽さを伴っているだろうし、ただ疑っているだけなのだから、それ以上でも以下でもなく、それだけでは何の利益も損害ももたらさないようなことかもしれないし、だからそれ自体は賞賛されることでも批判されることでもなく、逆に大げさな賞賛や批判に逆らうようなことかもしれず、そのことの意義や意味を誇張して煽り立てるようなことでもないわけだが、そうであってもそもそもそれを疑っているのだから、そういった世間的に見て駄目な行いや良い行いが、どうやってもたらされるのかを考えないわけにはいかないだろうし、それを考えている限りで、それを自らの行いに反映させることができるわけで、そうなればどういう成り行きでそういう行為に及んでしまうかを知ることができるかもしれないし、それを知ればそういう成り行きになった時には、どうすればいいかを判断できるかも知れず、そういう成り行きに応じた対処を模索する機会も得られるのかも知れない。


12月8日「社会の暗部」

 社会の中で行われる人為的な物事に関わっていくと、その過程で、そこに関わっている人々の様々な思惑や感情が、その場に渦巻いていることに気づくかもしれないが、それとは別の次元で、そうした思惑や感情を促すような作用も感じ取れるかもしれず、そんな作用から生じる、その場を支配する自然の成り行きというのが、それらの人為的な思惑や感情を操っているのだとすれば、それはその場での勢力争いや主導権争いに伴って、そうした思惑や感情が生じていることになるのかもしれないが、その場での自然の成り行きが、人の意識をそれらの争いへと誘導して、争いを自らに有利に導こうとする思惑が生じてきて、そう思うのが自然の成り行きだとしても、そんな思惑からもたらされる自然な振る舞いが、人為的な勢力争いや主導権争いそのものであるとすれば、またそれとは逆に、そんな争いを収めて、その場を平和な状態へと導こうとする思惑も生じるのかもしれず、そうなるとその場では人に対して相反する二つの作用が同時に及ぼされているように思われるかもしれないが、厳密には同時ではなく、その場で勢力争いや主導権争いが激化すると、それに伴って、争いが物事を進めていく上で障害となるから、それに対する反作用として、争いを収めるような思惑が生じてくるわけで、同時というよりは順番に、争うことと争いを収めることが交互に繰り返されるわけだが、単に平和なだけでは刺激がなくなって社会が停滞してしまって、それに伴って物事が縮小再生産のスパイラルに陥ってしまうから、そんな社会を活性化させるためにも、争いが起こらないとならなくなってしまって、かといって争いが激化してしまうと、それに伴って生じる被害や損害が利益よりも上回ってしまうから、それを収めようとする思惑が生じるわけで、どちらが勝ってしまってもうまくはいかないのだろうが、両者の間で均衡が実現するわけでもないだろうし、少なくとも互いに相容れない状態なのだから、どちらかがどちらかを打ち負かすまで、そういった成り行きが続くわけだろうが、状態の性質上そうはならないわけで、それぞれの状態が部分的には優勢になることはあっても、全体を覆うまでには至らず、結果的には対立し合いながらも共存するような成り行きになるわけだろうし、共存しつつもそれで安定するわけでもなく、絶えず互いの領域を拡大させたり縮小させながらも、完全に消滅するわけでもなく、現に今も世界の至るところで何らかの勢力争いや主導権争いが繰り広げられているわけだが、そうであるなら、結局平和は争いの消滅ではなく、争いをなくすために、争いと争っていることにもなり、世界各地で争いをなくすための争いが続いているという倒錯的で不条理な状態が実現しているわけだが、それがなぜ争いをなくすために争わないことにならないのかといえば、争わないことは究極的には人の活動の停止を意味するのかもしれず、活動が停止することは死を意味するわけで、そういう意味で人の活動自体が争いを伴っていて、活動と争いは不可分な動作であり、争い自体が活動であるとも言えるわけで、そうであるなら平和な状態とは、活動の停止ではなく、活動の沈静化と言えるのかもしれず、それに伴って争いの程度も比較的弱い状態に落ち着いて、そうなるから平和な世の中では活動が停滞しているように思われるかもしれないが、実感として社会が繁栄している状態はそうではないだろうし、何よりも経済的な繁栄は平和とともに実現しているように思われるかもしれないし、それは停滞ではないように思われるわけだが、そこでは競争という争いが盛んに行われていることも意味するだろうし、またその一方で平和で繁栄している地域から隔絶された場所では、戦争も常に行われている状況もあるわけで、そういう意味でも平和と戦争とは隣り合わせであり、戦争ではなく競争と言い換えることで、争いはいつの世でも常になくならないわけだが、そうであってもそこで軍事的な戦争行為が行われていなければ、一応は平和な状態だとみなせるわけだが、暴力の行使に使用される武器や兵器の生産を止めるわけにはいかない事情もあるだろうし、生産されればそれを使う成り行きが必ず生じてくるだろうし、そういうところで争いが激化すると、そこで武器や兵器を使う成り行きが生じてしまうわけで、そういう意味でもなかなか戦争のない平和な世の中を実現するのは難しいわけだが、戦争が行われている地域が疲弊して荒廃するから、その逆に経済的な繁栄を謳歌できる地域の平和が実現するわけではないとしても、そうした地域間で生じている格差を利用して、平和な地域に経済的な利益がもたらされている可能性もあるだろうし、平和な地域内でも経済格差があって、そうした格差を利用して、やりたくない労働をさせるシステムが整備されているだろうし、そこでも格差から不満が生じて、それが競争という争いをもたらす原因ともなっているわけだ。

 また格差は争いをなくすためにも利用されるわけで、組織的な役割分担の中で身分の上下関係を設けて、身分の下の者が身分の上の者に従うような権力関係を導入すれば、そうした上下関係の中では争いがなくなって、物事がスムーズに行われることにもなり、そうやって身分によって格差を生じさせるような制度を取り入れている集団の中では、そういう部分での争いがなくなるわけだが、そうなると今度は誰が上の身分になるかをめぐって争いが起こるわけだが、そうした争いは出世競争のように扱われるだろうし、役割分担に応じた作業の中で、他よりも相対的に成果を上げた者の身分が上昇するような制度にすれば、無用な争いを避けることができるわけで、そんなふうにして、集団にとって利益になる争いを促進させるとともに、利益にならない無用な争いを抑え込めれば、それだけ集団としての活動も活性化するはずだろうが、その集団を単体で切り取ってみれば確かにそうだが、その集団の競争相手となる他の集団との争いを考慮に入れるなら、集団としての成果を上げるほど、他の集団もそれに対抗して成果を上げないと、勢力争いの面で劣勢となってしまうから、そこで競争の激化をもたらすわけで、そんな競争の激化に伴って集団内にいる人たちも疲弊してくるわけで、そうなると双方が共倒れになる危険が生じるから、そうした競争がある程度の限界に達すると、双方の間で共存共栄への模索も始まるわけだが、それがその業界内での棲み分けを図るやり方とか、談合によって利益配分を決めるやり方とか、その場の状況に応じて様々なやり方が模索されるわけだろうが、そうやってそこで一定の妥協が成り立っても、それはあくまでもそこだけの話であり、別の地域や分野から新たな競争相手が参入してくれば、そんな妥協では対応しきれなくなってきて、事態がそれだけこじれてくるわけだが、しかも新たな競争相手が強大な勢力を誇っていれば、競争ではなく連携して対抗するようなことにもなるだろうし、中にはそこからさらに事態が進んで、合併するような成り行きになる場合もあるわけだが、そうした集団が企業であるなら、しかもその企業が消費者の利害にも直結するような分野だと、企業間の吸収合併が進行して、特定の企業の寡占化によって、価格を企業の言い値に決められてしまうと、それだけ消費者が高い商品を買わされることになるだろうし、また複数の企業の間で競争が促進されて、価格の値引き競争によって、消費者が安い商品を買えるようになるとしても、それは他との兼ね合いで相対的な範囲内でそうなるだけであって、しかもそういった競争のしわ寄せが思わぬところから跳ね返ってくるわけで、商品が粗悪品となったり、サービスの低下を招いたり、事故の多発を招いたり、競争に勝つためにその企業の内情がブラック企業化したり、また競争から脱落して倒産したり廃業する企業が多くなってくると、その地域の経済が悪化してくるだろうし、全てが消費者の都合のいいようにはいかないわけで、特に消費者が労働者でもある場合が多いわけだから、競争の激化が労働者の疲弊を招くだけなく、賃金の低下を招く場合もあるだろうし、さらに地域的な経済格差を利用して企業が利益を得ようとする場合には、外国で生産した安い商品を売り込まれたら、その国で生産されている商品が太刀打ちできなくなる場合が出てくるわけで、結局は政府が高い関税をかけて自国の企業を守ることにもなって、消費者は自国の企業を守るためにも自国で生産された高い商品を買わざるを得なくなるだろうし、またそうやって安い商品の売り込みを阻止されている外国の企業を擁する国との関係も微妙になってくるわけだが、逆に自国の商品を外国に売り込んでいるような企業によって支えられている国なら、なおさらそれによって打撃を受けていると主張する国との関係が微妙になってくるわけで、それだけ経済的な競争がもたらす効果の良し悪しを言うのは、微妙な面があるわけだろうが、現状でうまくいっている地域や国であれば、競争の成果を誇示するような人も大勢出てくるだろうし、そういう地域や国に住んでいて、しかも恵まれた経済状態の中で暮らしていれば、それで構わないわけだが、そんな中でも報われない人もそれなりにいるだろうし、その地域や国の中でも、やりたくない職種というのが必ずあるだろうし、そうしたやりたくない職種の中で働かざるを得ない人が多くいるほど、そこに格差が生じていることにもなり、そうした格差が社会に微妙な影を落としていて、そうした格差を実感する人々の間でねじくれた感情が生まれていたり、他の人たちとの間でこじれた関係を生じさせていたりするわけで、それがそうした地域や国の内部で、社会の不快度を高めていることにもなるのだろうし、そうであるほどギャングやヤクザなど非合法的な社会集団が隆盛を誇っていたり、また大規模な詐欺事件や凄惨な殺傷事件なども頻発していたり、その社会特有の暗い面が、その社会の理不尽で不条理な面と表裏一体となって、そこで暮らす人々に付きまとってくるわけだ。


12月7日「子供騙しの演技」

 自らが逃れられない成り行きがそこで生じているとすれば、それは現に今ここで生じている成り行きでもあるだろうが、そんな成り行きの中にいる大抵の人の現状は、大して深刻な状況ではないだろうし、中には深刻な状況に直面している人もいるのだろうが、それに気づいていない人もいるだろうし、それがどうなろうと知ったことではない人もいるかもしれないし、そこでどんな成り行きが生じていようと、その人にはどうすることもできない場合もあるのだろうが、その人にとってはそれが何を意味するわけでもないのかもしれず、そこでそれを運命だと認識できないような成り行きがあるとすれば、やはりそれは何でもないことかもしれないのだが、その人にとってはそうであるとしても、他の誰かにとってはそうではないかもしれないし、何かそこで恐ろしいことが起こっているように見えてしまう場合もあるかもしれず、それがどんな状況であるかは、誰も正確には把握できないことかもしれないが、それが何でもないことのように見えたり、恐ろしいことのように見えたりするのは、その人の立場上の違いがあると同時に、主義主張や気持ちの持ちようの違いもあるのかもしれないが、相変わらずそれを深刻には受け止められなければ、たぶん行われていることが子供騙しのように感じられるのかもしれず、しかもそう感じられてしまうこと自体が、深刻な事態である可能性もあるかもしれないのだが、そうだとしても、そう感じられてしまう成り行きの中で、実際に人が何かをやっているわけだから、それ自体は否定しようがないわけで、誰もが子供騙しのようなことに囚われているのが、しかもそんなことをやらざるを得ないことが、そんなに大げさなことでもなく、別にそれが深刻な事態だとは思えないのなら、それで構わないわけだが、そもそも子供騙しのようなことというのが、具体的にどのような行為なのかといえば、誰もが日常の中で普通にやっていることでしかないのかもしれず、それが特定の行為を指すのではなく、行為全般をいうのだとすれば、かなり漠然となってしまうわけだが、たぶんそれを子供騙しと表現すること自体がとりとめのないことであり、そこでどう捉えても見え透いたことをやっているのに、それを何か真剣に演じなければならないような成り行きになってしまうことが、子供騙しのように思われてしまうわけで、しかも別に騙しているわけでもないのに、騙しているように振る舞わなければならなくなってしまい、また騙されているつもりの側も、相手が騙しているわけでもないことは承知しているのに、騙されたふりを装って、騙されたことに腹を立てるような演技を強いられてしまうわけで、そんなのは全て演技であるにも関わらず、それが演技ではなく真剣に何かをやっているふりを強いられてしまうこと自体が、子供騙しの振る舞いと表現すればしっくりくるのかもしれないが、それに関して確証があるわけでもないだろうし、何だかわからないが、脱力感や無気力感を催すような情けない状態であるにも関わらず、そこからそれなりにつじつま合わせのようにして、その場であてがわれてしまう役割をそれなりの真実味を伴って演じなければならないわけだから、むしろそれを真剣に演じる必要が感じられないわけではないのだが、しかも演じているというよりは、実際に動作しているわけで、そこで何らかの作業を行なっていて、その作業が子供騙しの動作を伴っているように思われるとすれば、それを他にどう捉えたらいいのかわからないだろうし、果たしてそれを真に受ける必要があるのかと言われると、もちろんそんなことを言ってくる人は誰もいないわけで、そうであるなら自分で自ら判断すればいいようにも思われるのだが、そうなるとそれが場違いな判断となってしまう公算が高くなるわけで、それがその場で何かやっている人たちの動作を、子供騙しの演技とみなすことになってしまうわけだが、なぜそう思われてしまうのかというと、誰もが示し合わせたわけでもないのに、なぜかそこでその場に特有の共鳴現象が起こって、誰もがそうした動作に落ち着いてしまうわけで、そこでその場に居合わせた人たちを操るような場の力が働いているように見えてしまうのだろうが、別にそれで何がどうなっているわけでもないのだから、そんな事態を深刻に受け止めるような成り行きにはならないわけだが、少なくともその場に居合わせた誰もがそうは思わないとしても、そうした印象をもたらしているのが、それらが子供騙しの演技に見えてしまう現象であり、それをメディア特有の効果とみなせば、それで済んでしまうようなことでしかないのかもしれないが、別に誰もそれ以上の状態を求めているわけでもないだろうし、それ以上の状態が何なのかもわからないのだから、総じてそうなってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。

 それを真正面から受け止めるなら、食い違いが明らかとなるのかもしれないが、それが明らかとなってしまっては、演技が成り立たなくなってしまうわけで、そこで何とか演技を成り立たせるための工夫が求められてしまうわけだが、それに関して好都合な立場を定められれば、誰もがそんな架空の立場に飛びつくのかもしれないが、それが架空であってはまずいだろうし、現実にそういった立場が成り立つように、立場の設定に関して工夫を凝らさないとならなくなるわけで、それに関してはうまく矛盾しないような限定条件を導入して、例えば移民の問題を労働条件の問題に限定すれば、無矛盾な立場を取り繕うことができるわけだが、そこで需要と供給の問題まで含めてしまうと、途端にうまくいかなくなってくるわけで、誰もがきれいごとを言えなくなってきてしまうわけだが、そうやってそうした立場を取り繕う限りでは、やりたくない労働をやらざるを得ない人に押しつけるための経済システムに反対していられるわけで、そういったいいとこ取りのつまみ食い体質が、子供騙しの演技に見えてしまうわけだが、しかしそれ以外の立場があり得るかとなると、そういった立場というのが、それ自体でそうした立場特有の限定条件から定まるのだから、そんな立場を認められないとなると、ではそれ以外にどんな立場が成り立つのかと言われると、返答に窮してしまうだろうし、そういう意味で社会的な立場自体には常に虚構の面が含まれてくるのかもしれないが、少なくともそうした限定条件を伴った立場からしか主張できないことがあるわけだから、そういう振る舞いを子供騙しの演技とみなすのも、そうせざるを得ないことを踏まえると酷な話なのであり、それはそれで限定的な立場として認めていかないと、そういった類いの主張は何もできなくなってしまうわけで、そうなると現状で行われている議論そのものが成り立たなくなってしまうのだろうが、ならばそういった自らの立場に合わせた限定条件をいくらでも認めても構わないかとなると、そうなると都合のいいことしか主張しなくなってしまうから、議論が噛み合わないままとなってしまうだろうし、そこにも議論を噛み合わせるための歯止めが必要となってきてしまうわけだが、そうした歯止め自体も限定条件の一種となるわけで、そんなことを細々と設定した上で議論を行えば、今度はそれ自体が虚構の議論となってしまい、それこそ議論の参加者が子供騙しの演技を強いられてしまうわけだが、そうなると限定された立場や条件からはみ出る部分も考慮しなければならなくなり、そうやって実験室の無菌状態からは程遠い行為を各自が強いられるだろうし、そもそも議論など成り立たない可能性も出てくるだろうが、それでも各人が互いの立場や限界を考慮しつつ、何とかその場で議論を成り立たせるように配慮すれば、ある程度の真実味とある程度の嘘っぽさが伴うとしても、何かまっとうな議論が交わされたような印象をもたらせるかもしれないし、そんなところで妥協するのが関の山だろうが、それ以上を求められないことは踏まえておくべきかもしれず、いくら議論しても、実際に行われることの中には、反対せざるを得ないことも含まれてくるし、機会を捉えてそうしたところを改善する余地が出てくるわけで、それを実際に改善できればいいのだろうが、それをまっとうなやり方でできるかというと、それとこれとは別問題となってしまう成り行きも結構あるのではないか。そんなところで自身の主義主張や立場とは相容れないようなやり方をとってしまうのも、目的のためには手段を選ばないような成り行きには逆らえないからだろうが、それに関しては、日頃から子供騙しの演技に終始して、それによって相手を油断させておいてから、いざという時に、そんな先入観を打ち砕くような思いがけない行動に出るようなやり方もあるだろうし、そういう成り行きに持ち込めるなら、子供騙しの演技にもそれなりの利用価値があったことになるだろうが、そうした子供騙しの演技自体を正しいことだと信じて、のめり込んでしまうようだと、それ以外のやり方には至れなくなってしまうだろうし、それを避けるには、自らが常日頃から子供騙しの演技に終始していることを自覚しておくべきだろうし、それを自覚する上で重要なことは、自らの主義主張を成り立たせている限定条件を知っておくべきだろうし、それはまた自らの立場をも成り立たせている条件ともなるわけだが、そうした限定条件を取り払って、従来の立場から逸脱すれば、どういうことが言えるのかも把握しておくべきだろうし、そうなると自らが対峙しているつもりの、別の主義主張や立場を保持している人や勢力が、それに関してどのような正当化を行なっているかも考えなければならなくなるし、それが一方的な主張や立場に思えるなら、彼らがこだわっている限定条件もはっきりしてくるだろうし、そうやって自らの主義主張や立場の限界とともに、思考の対象としている人や勢力の主義主張や立場の限界も、おのずから明らかとなってくるのではないか。そういったことを考慮すれば、機会を捉えて何をやればいいかがわかってくるかもしれないし、日頃からそういった現状が成り立つ上で必要な限定条件について把握していれば、いざという時にとるべき行動に迷いが生まれにくいのかもしれない。


12月6日「重症患者の症例」

 やっていることを正当化する必要がないということは、自分以外の他に向かって、そのことを特にアピールする必要がないことになるわけだろうが、それ以前にやっていることにこだわっていないかというと、他でもなくそんなことをやっていること自体が、それをやることにこだわっていることになるのだろうが、そうなるとこだわっていないわけがなく、こだわっているにしても、特にそれを正当化する必要がないということでもあるだろうし、そういう意味ではこだわることと正当化することは違うことになるわけだろうが、自らの意思とは関係なく、たまたまそんなことをやっているのだとしたら、特にそれをやりたくてやっているわけでもないことにもなってしまうわけで、それでもそんなことにこだわっていることになるかというと、やらなくても構わないのにやっているとすれば、それにこだわっていることになるだろうが、やりたくないのにやらされていたりすると、やることに関しては、特にこだわっているわけでもないことにもなるだろうし、そうやって様々な条件で様々なケースが考えられるかもしれないが、何かそれを正当化する必要も感じないでやっていることを意識してしまうと、かえって正当化したくないことにこだわっているようにも感じられて、そういったこだわり自体が否定的にねじれてきてしまうわけで、それに関してどう語っても、しっくりこなくなってしまうかもしれないが、確かにそれをやっている自らの意識の中ではそう思うかもしれないが、実際にやり続けている状況の中では、単にそれをやっている以外ではなく、そんな状態を自分がいくら解釈してもきりがないようにも感じられるだろうし、それを正当化しようがそれにこだわっていようが、表面上はただそれをやっているに過ぎないことでしかなく、やっているに過ぎないことをどう解釈しても、それ以上にはならないわけだ。またそれを他人からどう評価されようと変わらないし、他人からどう評価されたところで、どうなるわけでもないことかもしれないが、要するにそれだけでは何がどうなっているでもなく、ただそんなことをやっているに過ぎないのだが、それでも構わないような状況の中でやっていると、それだけのことになってしまうわけだが、それだけは済まないような状況になってくると、それ以上の何かを求めざるを得ないような成り行きになってくるのだろうし、その何かが恣意的な幻想の類いに結びつくとしても、それによって何らかの確かな感触を得られるなら、何かそれ以上のことをやっているつもりになれるわけだ。別にそれが他から見たら何でもないことに見られても、自分がそれを否定的に見なくても構わないだろうし、特にそれが世間的に肯定できるようなことでなくても構わないわけだ。それが自己満足の段階なのかもしれないが、自己満足だけでは不満なのだろうし、できればそのことについて他人からかまってもらいたいと思うようになると、他人からの評価を気にするような段階にまで、自らのやっていることを押し上げたくなってくるわけだ。それがやっていることの社会化に結びつくのかもしれないが、実際に社会化すれば、今度は他人との関わり合いの中で何かをやっていることになるわけで、できれば協業としてそのことの意義を正当化したくなるかもしれないが、それを何に向かってアピールしたくなるかというと、それが自身に向かってアピールしていることになってしまうと、やはりそれは自己満足に陥ってしまうわけだが、そうした自己満足が自分独自のこだわりを生むのかもしれないが、要するにそこで自分が満足できるようなことをやろうとするわけで、それが高じて他人の事情よりは自分の事情を優先させるように見られてしまえば、協業している他人からの信用や信頼を失うことにもなり、それが何かのきっかけで裏切りの原因ともなるだろうし、実際にそうなってしまうと、他人にしてみれば裏切らざるを得ない状況に追い込まれるわけだが、そういった裏切りを否定的に捉えてみても、裏切る側にしてみれば、裏切ることにそれなりの必然性を感じているわけだから、他からそれを批判されたところで、その裏切る必然性は揺るがないだろうし、実際に他人を裏切って主導権を奪うことに成功すれば、やはり裏切った意義を実感するだろうし、そうなった成り行きを正当化したがるわけだが、そうなったきっかけがなければ、裏切る必要もなかっただろうし、そうであれば初めからことさら裏切ることにこだわっていたわけでもなかったはずで、その人にしてみれば結果的に裏切らざるを得ない状況に追い込まれてしまったのだとすれば、そういう状況に追い込まれてしまったから裏切らざるを得なかったとアピールできるわけで、そうした正当化に伴って、こだわっている部分もそれなりにずれてくるわけだ。

 そうした成り行きから何が言えるかとなると、その場の状況に応じて、それまでの態度をがらりと変えるような事態が起これば、それは態度を変えた人の意思で変えたとしても、態度を変えざるを得ないような状況の変化が起こったということだろうし、そうなってしまってから何を言ってみても後の祭りでしかないわけだが、態度を変えるきっかけが実際に起こったわけだから、場合によってはそうなった状況の変化を尊重しなければならないだろうし、そうしないと現状に対応できなくなってしまうと判断するなら、まずはそうなってしまった現状を認めた上でどうするかとなるわけだが、少なくとも当事者にならない限りはどうすることもできないだろうし、そうであるなら当事者になるためには、そこに介入するしかないわけで、介入できなければ傍観者になるしかなく、傍観者には現状の中で主導権を握るような力がないわけだから、そんな現状の中で主導権を握りたければ、主導権を握る上で邪魔な人たちを傍観者の立場に追い込んでしまえばいいわけで、またすでに現状で傍観者の立場の人たちも、そこから介入してこないように予防線を張るなりして、立ち入ってこれないような措置を講じておく必要があるわけだ。結局人や団体を裏切るような人は、そこで主導権を握らないと、裏切り者の汚名を着せられて、罰せられる立場となってしまうわけだから、是が非でも現状の中で主導権を握る必要が生じてくるわけで、その際あわよくば他人に罪を着せられたら、自分が裏切り者ではなくなる可能性もあるわけだから、大抵の場合は裏切った対象者に罪を着せるような成り行きになるわけで、だからその際にだまし討ちのようなことをやる成り行きにもなるだろうし、そうやって裏切った対象者を葬り去ることに成功すれば、自らの主導権も確保されるわけだろうが、やはり実際にはそれだけで済むようなことにはならないだろうし、その場が丸く収まるまでにはさらにそれなりの紆余曲折が待ち受けているわけで、それがまた新たな騒動を引き起こすにしても、過去に遡ってそんなことはやらない方が良かったとは言えないだろうし、まずはそうなってしまった成り行きを踏まえた上で、そこに関係する人や団体が対応していくしかないわけだ。そしてそうした騒動の蚊帳の外で傍観者の立場に甘んじている人たちの方でも、そこからあまりにも野次馬根性に傾倒してしまうと、煽っているつもりが煽られて煽りの中に巻き込まれて、当事者意識に絡め取られて、そんな愚かしい立場を正当化する羽目になって、それがメディア上で行われるような成り行きになれば、世間に醜態を晒すことにもなるだろうし、そんなに介入したいのに無視されるような惨めな立場を強いられて、そんな惨状を他の人たちから見透かされて、世間的な信用を落としてしまうわけで、そうなるのが嫌なら、何でもかんでも闇雲に自らの立場を正当化するのも考えもので、ただその場に介入したいから、あちらが振り向いてくれるまで騒ぎ立てればいいようなことでもないだろうし、介入したくてもできないのなら、そのままでも構わないわけで、そういうことには縁がなかったと思えば、それで済んでしまうようなことだと思っていればいいのかもしれないが、それに関しては縁があったりなかったりすることを、自分では制御できないだろうし、それは制御しようとしてできるものでもなく、その場で自らに生じている成り行きの中で、自然に他との縁が生じてくれば、そうなった時に対処するしかないのかもしれないし、そんな悠長に待っている余裕がなければ、やはり強引に介入しようとして騒ぎ立てるしかないのかもしれないが、そうなるにしても、そういう成り行きの中で、日頃からやってきたことの延長でそうなるわけだろうし、実際にそんな騒ぎ屋みたいことをやる習慣が身についている人も世の中には結構いるだろうし、またそういうことをやらざるを得ない事情を抱えている人もいくらでもいるのかもしれないが、少なくとも自らにそんな習慣も事情も生じていなければ、幸運にもそうした成り行きとはなっていないわけだろうし、そうであるなら自ら進んでそんな渦中に身を投じる必要はなく、また人を野次馬の立場に至らしめるような成り行きから逃れられている幸運を率直に喜べばいいわけだが、そうであってもそういう成り行きに誘い込もうとする誘惑から逃れることはできないだろうし、メディア上の話題に興味を惹かれる限りは、そこで傍観者やそれが高じて野次馬の立場にならざるを得なくなるわけで、そこでそういう成り行きに過度にのめり込むようになってしまうと、そうなってしまった人たちの中から、実際にメディア上でそういう立場を占めて、それに関して何か自己主張したり、そんなことをやっている自らを正当化するような人が出てくるわけで、そうなってしまった人たちがメディア上で話題を提供しているわけだから、他の人たちがそういった行為に惹かれるのも無理はないわけだが、そうであるにしても、そんな病状にも軽症から重症まで程度に幅があって、そんな程度に応じてそれなりにそういう成り行きに関わっていくしかないわけだ。


12月5日「史実の消費」

 江戸時代を象徴する挿話として強く印象に残るのは、たぶん忠臣蔵と新撰組になるかもしれないが、どちらもその時代の風潮に逆行した枝葉末節な出来事だったにも関わらず、またそうであるからこそ、後の時代に演劇や小説などの大衆娯楽の題材として取り上げられて、民衆の興味本位な関心を集めて人気を博したわけだが、どちらの話にも言えることは、物事のある面だけを強調すれば、やっていることを正当化できて、それが美談の特徴でもあるわけだが、しかもそれを命がけでやっているので、それだけも大義があるように思われてしまい、そうやって事が大げさになると、フィクションの中ではそのことだけに目が奪われて、大したことをやったことになってしまうわけだが、別にそれを演劇や小説として楽しむならそれで構わないし、また興味本位で歴史を取り上げるテレビ番組の類いでも、それを語る側に特有の論理からおもしろおかしく語られるだろうし、そんなふうにして語る側の願望を投影した語るための題材となってしまっているのだろうが、それ以外に使い道がないかというと、他にも出来事の舞台となった場所が観光地となっていたり、またそこで、それにあやかった名物を売り出していたり、それにかこつけた祭りなどのイベントが行われたり、様々な利用法が模索されているわけだろうが、そうやってどこまでも話を膨らませていくと、そんな後から付け足された付加価値の重みに、史実としての出来事自体が耐えきれなくなってくるのかもしれず、結局そういうことをやりすぎると資源の枯渇を招いてしまうのかもしれないが、そんな成り行きの中で忘れ去られてしまうのは、実際に起こった出来事の中で活躍した人や集団と、それが史実となった後から、それを利用するために群がった人や集団とは無関係であり、そういった無関係の関係から利益がもたらされて、その利益がそれらとはさらに無関係なことに使われる可能性があるということだが、それを利用するために群がった人や集団は、そこから得られた利益とは裏腹に、歴史的には忘れ去られてしまう運命にあり、少なくともそうした史実の関係者ほどには知られていないだろうし、そこに語り継がれる人や集団と、それを語り継ぐ人や集団との間に、無関係の関係が生じているにも関わらず、別にそれを語り継ぐ人や集団が、あるいはそうした史実や、それを基にした語りやイベントを娯楽として消費する人たちが、語り継がれる人や集団のやったことを見習うわけでも、そこから教訓を得られているわけでもなく、実際にはそれとは全く無関係なことをやりながら生きているわけで、そうなると史実としてそういうことが行われた意義とは何なのか、と問われるかもしれないが、たぶんそこからもっともらしくも説得力のある理由を見出してしまうのは、避けるべきかもしれないし、ただ過去にそういう出来事があって、多くの人がそういう出来事に興味を惹かれる傾向がある、と捉えておく程度に留めておくのが無難なところかもしれないのだが、それは現状で起こっている現代的な出来事についても言えることであり、たとえ多くの人が興味を惹かれるような出来事が起こったとしても、そこからその出来事の関係者や関係している団体がやっていることについて、それを評価したり批判する人たちが、その出来事の関係者や関係している団体と、どのような関係があろうとなかろうと、それとこれとは別のこととして捉えておいた方がいいのかもしれず、それを評価したり批判する人たちは、そうした評価や批判を伴うような出来事とは別のところで、またそれとは異なる別のことをやっていて、それがまた多くの人が興味を惹かれるような出来事なら、またそれについて他の人たちが、それについて評価したり批判したりするのであり、結局それについての評価や批判が、その対象となる出来事やその関係者や団体と、それなりに関係を持っていることは確かだが、それがそうした評価や批判をする人たちが他でやっていることには、特にそれほど結びついているわけではなく、そうした評価や批判はそれとして受け止めておけばいいとしても、だからと言って、評価や批判をしている人たちが、その対象となっている出来事の関係者や団体よりすごいことができるわけでもないだろうし、下手をするとそれよりははるかに劣ることさえできない可能性もあるだろうし、特にそれを批判している人たちが、批判対象より劣っている場合などいくらでもありそうだし、だからたとえそれについてもっともらしくも説得力のある批判を行っている人がいても、その人が批判対象となっている人や団体より優れていると思ってしまうのは、勘違いもいいところで、実際に同じ状況でやらせてみれば、それ以下のことさえできない場合が多いのではないか。

 だからと言ってそうした批判を軽んじてもいいとはならないだろうし、批判は批判として批判の次元や水準で受け止めるしかなく、そういう批判の次元や水準があることは踏まえておくべきだとしても、それを批判はできるが、ではそこで批判されている以外のことができるかとなると、その批判にあまりにも一方的な傾向が感じられると、結局は批判するにあたって都合の悪いことには言及されていないように思われてしまうわけで、その都合の悪いことが、批判されるようなこと以外にはやりようがない場合となるのかもしれず、果たしてそれ以外にやりようがあるかについては、実際にそれをやってみないことにはわからない面があるだろうし、批判している段階ではそれがわからないわけだが、そんな事情も批判に含まれないと、批判自体にも説得力が生じないのかもしれないが、その一方で浅はかな人たちは、そういった独善的かつ一方的な批判に同調してしまう傾向があるわけで、そうなると批判者の方でも自らの批判が多くの人の支持を得られたと勘違いすることにもなって、そういった浅はかな支持者とともに批判者も共倒れとなりかねないわけだが、そういう意味でも、それが宣伝や煽動目的でない限り、調子に乗って大口を叩くような批判は避けた方がいいだろうが、それ以前に無理に批判する必要もないわけで、たとえ気に入らないことをやっている人や団体がメディアで大げさに取り上げられようとも、それを批判するとなると、批判者自身の立場をわきまえないとならなくなるだろうし、批判する前に批判する筋合いがあるかどうか考えてみた方がいいのかもしれないが、その辺も微妙なところかもしれないのだが、たぶんそういった面で、自分と他人の立場の違いを考慮すれば、絶えず他人がやっている批判からは逸脱する必要があるのかもしれないし、別に他人と同じように批判する必要もないし、他の大勢の人に支持されている批判者に同調する必要もないのかもしれず、そこで批判する対象と、それを批判しようとしている自らとの無関係さを考慮すれば、そんなに激烈な調子で非難する必要がないことも明らかとなるのではないか。実際に誰もが安易に同調できるような批判者は、時代の変遷とともにすぐに忘れ去られてしまうわけで、しかもそれで構わないことは、時代の変遷そのものが証明しているのかもしれないし、そもそも大衆の支持を当てにしていること自体が、そうした人が一時的に脚光を浴びるのと同じ理由で、さっさと忘れ去られる理由にもなっているのかもしれず、そういうところで大衆からの支持を当てにして、大衆から支持されている政治家などを批判しようとしているのだから、もともと矛盾している面もあるのかもしれないが、それに関しては、どうでもいいような人たちが次々にメディアに取り上げられて脚光を浴びると同時に、すぐに忘れ去られてしまうのも、時代の変遷そのものを表しているのかもしれず、そんなことはどうでもいいことだとしても、そこに何かおかしな力が作用していて、裏から世の中を操作している黒幕の存在を妄想するような陰謀的な勘ぐりはやめた方がいいのかもしれないし、それよりは、そういった批判自体が何でもないことだと捉えておいた方が無難であり、他の誰もが批判しているようなことは、誰もが批判できるようなことが行われていると捉えられるし、そういうことが行われやすい時代状況となっていて、そういった行われやすいことの中に、その行われていることに対する批判も含まれているわけで、それも考慮すると、誰もが批判するようなことが行われているとしても、それが行われやすいような状況となっていると同時に、そういうことに対しても、誰もが批判しやすいような状況にもなっているわけで、そうした批判が何でもないことだからこそ、そんな批判などものともせずに、そうしたことが行われているのであり、それに関してどう考えてみても、誰もが批判できるようなことは何でもないことだという結論に至ってしまい、またその何でもないことの中には、誰もが批判していること自体も含まれてしまい、どうやってもそれ以上の批判などあり得ないのかもしれず、そんな誰もができるような批判も、そんな批判を行っている批判者も、時代の変遷によって忘れ去られるような物事に含まれてしまうわけだ。そしてそんな時代の風潮に逆行するようなことをやった人や団体が、その時点では時代から取り残されているにも関わらず、なぜかそんな人や団体が起こした倒錯的な出来事が史実として末長く語り継がれて、現在に至っているような逆説も起こっているのだが、そうなっているにも関わらず、時代の変遷に伴って忘れ去られてしまうような人や団体は、それを娯楽として消費するだけで済ます傾向にもあるわけで、別にそれ以外には使い道がないとも言えるわけだが、やはりそうした史実を娯楽として消費するような人や団体は、時代の変遷とともに忘れ去られる運命にあるわけだ。


12月4日「依存症への取り組み」

 意識が何かに囚われていると、否応なくそうなってしまうのだから、それに関しては意識の制御が利かないのかもしれないが、そんな渦中に身を置いていると、積極的にそんな状態を求めている気になるし、主体的にそんなことをやっている気にもなるだろうし、そうなっている時点では、自らが囚われている物事に操られているとは思えないだろうし、逆に自らがその物事に働きかけて、そこから求めている利益や快楽などを引き出そうとしているように思われるのではないか。そうなるとそれが受動的に囚われているのか、あるいは積極的に働きかけているのかは、どちらかであるにしてもどちらでもあるにしても、対象となっている物事との結びつきが強まっていることは自覚しているだろうし、そんな物事と自らとの関係を、肯定的に捉えるにしろ、否定的に捉えるにしろ、それが何か他とは違う特別な関係であるかのように思われるのかもしれず、そうした思い込みがその人の意識に作用して、対象となっている物事への依存状態を強固に保つように働いているのかもしれないが、果たしてそうした依存症から脱することができるかというと、まずは自らが依存症になっていることを自覚できないと話にならないだろうが、自覚した上でそうなっていることを肯定的に捉えているのなら、別にそこから抜け出そうとは思わないし、逆にそのままの状態を保ちながら、さらに強固な結びつきを求めて、そこへとのめり込んで行こうとまでしてしまうのかもしれないが、そういう成り行きであれば、それで構わない面もあるだろうし、それに関しては、他の人や団体がそれによって迷惑を被るようなことにでもなれば、それを阻止しようとしてくるのではないか。またそれとは反対に、当人がそうなっていることの弊害を自覚していて、それへの依存関係を断ち切りたいのに、断ち切れないような場合には、他の人や団体に協力を仰いで、依存症から脱する方策を模索するような成り行きになるのかもしれないし、そういう面で自分一人の力ではどうにもならないような場合は、他の人や団体との関係を利用して、何かに囚われている依存状態から別の状態へと移行できる可能性を模索できるわけだが、それ以前に人は他にも様々な物事と関係を持っているのだから、それらの中で生きていくのに欠かせない物事であるほど、そうした物事との間で依存関係にあるわけで、空気や食物などのように、そうした物事との関係を断ち切れば死を招くような関係と、恣意的に関係を深めたり薄めたりすることができる物事との関係は、全く別次元のことのように思われるだろうが、それも厳密には相対的な程度の差でしかないのかもしれず、例えばはじめはどうでもいいように思われた交友関係のもつれから、自殺に発展するような成り行きもあるだろうし、またその場のちょっとした行き違いから、些細な偶然の巡り合わせによって関係が生じて、そのことがきっかけとなって九死に一生を得るような大げさな体験をすれば、運命の不条理さを身にしみて実感するかもしれないし、そういった極端な関係から、気づく必要もないどうでもいいような関係まで、人は様々な程度で様々な物事と関係を結んでいる一方で、そんな関係もひっきりなしに解消したり、また新たに別の物事と関係を結んだりしている中で、たまたま特定の物事と強固な依存関係に至ることもあるだろうし、さらにそうした関係も何かのきっかけからあっさりと切れてしまったり、またどんなことがあっても、執拗に腐れ縁のように付きまとわれてしまう場合もあるだろうが、そうした関係の全てを相対化して捉えることはできないだろうし、その中である関係を自分にとって特別な関係だと思い込めれば、それを自覚している限りで強固な依存関係とみなすこともできるかもしれないが、それを自覚することなしに、特定の物事と強固な依存関係を結んでいるような場合には、しかもそれに伴って自分や周囲に無視できない深刻な弊害をもたらすような関係だと、始末に負えない成り行きや結果をもたらすのかもしれず、例えばそれが特定の政治的な思想信条だとすると、それに関しては普通に誰もが自覚しているだろうが、そうした思想信条からもたらされる特定の傾向となると、それを自覚できない可能性があるわけで、それが時代の変遷に伴って、その思想信条の名称は変わるし、政治的な態度さえ時として正反対になる可能性さえあるのかもしれないが、そこからもたらされる特定の傾向は、ほとんど変わらない場合があって、多くの人がそうした傾向を保持している限りで、そうした傾向が社会に及ぼす作用や影響も相変わらず一定の効果を保っていて、そうした傾向への依存状態にある人たちによって、社会へ及ぼされる弊害も一向に改まらない場合もあるわけで、またそれを弊害だとも自覚できない可能性さえあるのではないか。

 そういった傾向を一言で表現するのは難しいかもしれないが、それがどのような政治的な主義主張と結びついていようと、またそれが複数の主義主張に分かれて見せかけの対立を形成していようと、対立しながらも同じ傾向を保持しているようなら、どちらの主義主張に傾倒している人たちも、同じような傾向に囚われていて、そこではそれ以外の傾向が排除されているわけで、そういった傾向に囚われている人々には、それに関する選択の余地がないわけで、どちらの主義主張を支持しても、同じ傾向になってしまうのだから、もはやそんな主義主張自体が有名無実化していると言えるわけだが、やはりそれにこだわらざるを得ない事情を抱えていて、対立しながらも同じことを主張せざるを得ない成り行きの中で、双方ともに同じような傾向の依存症に罹っているわけだ。それがまず政治意識の浅い表層では国家に対する依存症に罹っているだろうし、さらに経済意識の根深い深層においては金銭に対する依存症に罹っているわけだが、どちらもそれがないと致死的な結果を招くと信じているから、ほとんど空気や食物と同じような次元で捉えられている可能性さえあるのかもしれないが、たぶんそれが勘違いであると同時に、次元の違う問題であることも認識しているだろうし、その辺でそれらを区別する理屈も成り立つわけだろうが、そうであっても信仰をやめるわけにはいかない事情も抱え込んでいると自覚しているのかもしれず、そうやってそれらに関して込み入った事情が形成されるわけだが、もちろんそれ以前にそんなことは考えるまでもない大前提であって、そうした前提を暗黙の了解事項として確認し合った上でないと、特定の思想信条や主義主張に分かれて対立したり連携したりできないわけで、そんな前提が崩れ去る可能性があるなんて夢にも思わないかもしれないが、それでも心の片隅では、それらが空気や食物とは次元が違うことは踏まえているだろうし、そういうところで問題が宗教的な信仰の問題である可能性を帯びるわけだが、やはりそれらと普通の一般的な宗教とも別次元の問題だと認識しているだろうし、他の特定の宗教であっても、国家的な信仰や金銭的な信仰の上に成り立つと考えれば、それなりにつじつまの合う理屈を形成できると信じているわけで、それらのうちでどちらが欠かせないかといえば、特定の宗教に対する信仰よりは、国家に対する信仰や金銭に対する信仰を優先させる傾向にあるわけで、そういった信仰を優先させる傾向が、社会に様々な弊害を及ぼしているとしても、逆に社会自体がそういった信仰によって成り立つとも考えられるわけで、弊害よりはそちらの方が根本的な優先事項であり、それに比べれば、そこから生じる弊害など放置しておいても構わないとさえ思えるわけで、実際に国家信仰や金銭信仰から生じる弊害は、それを根本からはなくせないものの、行政的な方策や社会的な相互扶助などの活動によって、弱めたり減じることができると信じられているわけだ。もちろん一方ではそんなご託宣が焼け石に水程度の効果しかないことも承知しているわけで、それよりもそうした信仰を疑う人がいることを信じられないだろうし、それ以前にそれが信仰というカテゴリーに含まれてしまうこと自体が疑わしく思われるわけで、少なくとも他の宗教などの信仰と同列に扱われることにも違和感を抱くだろうし、何か国家や金銭を信仰することが、他の信仰とは異なる特別なことだと感じられるわけだが、それが特別であるからこそ、普通に国家を信仰するとか金銭を信仰するとか言わないわけで、それらは信仰の範疇には含まれないわけだ。要するにそれに関しては意識の制御が利かず、わざとそれらを信仰の領域へと引き下げるような表現には抵抗を覚えるわけで、それらは信仰の対象という表現からは引き離して、それとは違った明らかに価値の高い次元で表現されなければならないわけだが、そのような表現とは、もはや信仰ですらなく、特に表現するまでもない当たり前のこととして、それらを扱うことになるわけだ。それが物質化であり、それらがすでにそこに存在していて、そのあるなしを問うまでもない物として扱われるわけだが、果たしてその存在を疑うべくもない物として、それらを捉えていると言えるかとなると、実際にはそうでもないわけで、ただ一定の範囲内の土地を便宜的に境界で区切って国家と定めているだけだろうし、また取引上で発生する決められた交換レートの数値を表す指標を金銭と定めているだけであり、それ以前に土地は土地でしかなく、交換レートの数値は数値でしかないわけだが、そうした媒介物があることを信じられる限りで、国家や金銭が存在していることを信じられるわけだが、別にその存在を信じていなくても構わないし、信じられなくてもそうした媒介物を利用して活動できるわけだが、逆に信じてしまうと、その存在を前提とした上でしか物事を考えることができなくなってしまい、それだけ思考できる範囲が狭まって、国家や金銭が作用する限界の範囲内でしか活動も成り立たなくなってしまうわけだが、一般的にはそれで十分だと思われているし、実際にそうした範囲内で人も物も情報も行き交っていると思われているわけで、そう思われている限りでそうした依存症から抜け出ることはできないわけだが、それも抜け出る必要があるかと言うと、その必要を感じていない人が世の中の大半を占めているから、そうした事情を反映した世の中となっているわけだ。


12月3日「雑学とぜい肉」

 知り得ないことを知りたいと思うのは、それを知り得ないとは思わないからかもしれないが、つまりはじめから知り得ないと決めつけるわけにはいかないわけで、それを知りたいと思う限りで、知ることができる可能性を追い求めていて、またそれを知り得たところで、それに関する知識以外の何がもたらされるわけでもないのかもしれないが、少なくとも知りたいと思うのだから、それに興味を抱いているのだろうし、興味があれば知ろうとしてしまうわけだ。またそうやって記憶の中に溜め込んだ知識を、他のことに利用できれば得したと思われるだろうし、もっとも同じ溜め込むなら金銭などの資産の方がはるかに有用で便利な利用法があるかもしれないが、ともかく溜め込んだ知識も資産の一部だとみなすなら、ないよりはあった方がマシに思われるだろうし、別に知識を溜め込むために物事を知ろうとしているわけでもないだろうが、知ろうとした結果として知識が増えれば、それなりの満足感を得られるのではないか。もちろん満足したからといって、得られた知識を活用できなければ、それは単なる宝の持ち腐れでしかなく、さらに知識を過信してしまうと、逆にその知識が要らぬ先入観や固定観念を招いて、行動の邪魔をしかねないようになってしまうし、結局はそれなりにメリットもデメリットも抱え込むことになるわけで、それは他の何に関しても言えることかもしれないが、少なくとも暴飲暴食の挙句に体に脂肪を溜め込んで肥満体になったり、酒を飲み過ぎて脂肪肝になってしまうのとは、まったく傾向の違うことだろうから、食べたいことと知りたいことを同じような欲求の発露とみなすわけにはいかないだろうし、食べることからもたらされる結果と知ることからもたらされる結果には、それなりに違いがあるわけで、無駄な脂肪をぜい肉と呼ぶのと、無駄な知識を雑学と呼ぶのにも、似たような傾向があるにしても、それなりに違いがあるし、ぜい肉をダイエットで落とすようには、雑学を忘れるわけにはいかないだろうし、たとえ身につけた雑学によってケチな物知り博士のようになってしまっても、状況によってはそうなるのもやむを得ないが、それを粗大ゴミのように扱うのも気がひけるのではないか。そういう意味では脂肪よりは知識の方がそれなりに価値が高いように思われるだろうが、知ることをすぐに知り得たことの活用に結びつけようとすると、何かそこに思わぬ落とし穴が待ち構えているようにも思われるし、知ることと知り得たことの活用とは、直接にはつながらない面もあるのかもしれず、知ることはそれ単体で独立した営為であり、そこから知り得たことの活用へは、まただいぶ間が開いてしまう場合の方が多いのかもしれないし、その二つの営為を近づけすぎると、ハウツー的な深みのない単刀直入なことにしか結びつかず、結局知識が活かされるには、それなりの熟成期間を要する場合があり、その人の都合で期間を縮めるようなわけにはいかない性質があるのかもしれず、それも他の食べ物などの熟成と似た物言いになってしまうが、アナロジーとしての傾向は同じでも、食べ物が発酵するのと腐敗するのとは違うように、知識が熟成するのと宝の持ち腐れになるのも同じような違いを示すとしても、発酵食品のように技術的な処置を施して、活用の価値や必然性を高めるようなわけにはいかないのかもしれず、もちろん大学教育などの場では、そういった傾向を追い求めているのかもしれないが、必ずしもそれだけが知識の活用の仕方ではないだろうし、中には特に活用を前提としない知識もあるだろうし、それが雑学の類いになるわけだが、活用を意識しなくても活用されている場合もあり得るだろうし、それを活用だとは思わなくても、現にまったく役に立っていないのに、人は知識を保持しているわけで、もちろん役に立たないぜい肉を身につけている肥満体の人もいるわけだが、そうした状態をすぐに役に立たないからと言って、否定的にみなすのは、やはり物事を短絡的に捉えていることになるわけで、そこでそうした状態を放置できる余裕があれば、何かそれとは別の面でも余裕が出てくるわけで、そうした無関係な物事との無関係な関係を認めることができれば、そんな意味の定かでない心理状態が、それなりに精神的な豊かさを示していることになるのではないか。そうなるにはあまりにも事態を近視眼的に捉えないことが肝要だろうし、それを心がけていても、忙しない世の中で活動していると、自然にそうなっていってしまうわけだが、そういう成り行きも否定しないことが肝心なのかもしれず、結果として矛盾してしまうのだが、何事も両義的に捉えておけば、それでどうなるわけでもなくても余裕が生まれるわけだ。

 それは結果的に心身に余裕を持たせるために、無駄な脂肪を体につけたり、役に立たない雑学を身につけたりすることになるわけだが、それが適度な範囲で落ち着いていれば、精神的にも肉体的にも余裕が生じるのかもしれないが、どの程度が適度であるかに関しては個人差があるだろうし、その場の状況にもよるのだろうが、それがどの程度であっても構わないのかもしれないし、たとえ太り過ぎて生活習慣病などに罹って早死にしても構わないとなると、それこそが自己責任になってしまうのだろうが、そうなると余裕がなく忙しない成り行きになってしまっても、それも自己責任となってしまうわけだが、それを両義的に捉えるなら無責任に振る舞えるだろうし、そんな自分や他人の無責任な振る舞いをどこまで許容できるかも、心身に余裕があるほど許容度も高まってくるのかもしれないが、それも事情が許す限りで生じることでしかなく、何か性急に物事を処理しなければならない事情が生じてくると、回り道をしている余裕がなくなってしまい、その分せっかちな対応となって、それが災いして思わぬ失敗をしでかして、かえって想定外の対応を余儀なくされて、その分余計に時間を食って、結局全ての歯車が狂ってしまうような事態も起きるかもしれないし、そうやってやっていることが悪循環にはまってしまうわけだが、だからといってそこから教訓を得て、うまくいくように工夫をすればいいのかというと、中にはそうなるような成り行きもあるだろうが、相変わらずそうはならない場合もあるのかもしれないし、その辺もその場の事情が許す限りでそうなるしかなく、実際に活動していく中で判断するようなことでしかないわけだ。またそんな状況の中では、身につけた知識がどうこうというよりは、その場の直感に頼ってしまうわけで、しかも結果的にそれで成功しようが失敗しようが構わない事情も生じてきて、結果的にそうなってから判断して対応するようなことでしかなくなってしまい、そういう短期的な動作と、長期的な知識の熟成とは無関係に思われるわけだが、たぶん無関係だと思っていても構わないし、自然に体が動いて動作が行われている限りは、何を意識しなくても、それが自然に身についた動作なのだから、そんな動作を優先させていれば、それなりに事態が進行していってしまうわけで、そこで長期的に熟成された知識が勘となって活かされていようがいまいが、そんなことまでは考えなくても構わないだろうし、実際に考える暇もないわけだ。そしてそんなことをやっているうちに、蓄えていた無駄なぜい肉が消費されたり、何かの拍子に雑学が役立ったりして、だからと言ってその時のためにぜい肉を無駄に蓄えておいたわけでもないし、雑学を身につけていたわけでもないのだが、何かの時に役立てば、それに越したことはないし、何の役にも立たないのなら、そのまま放置しておけばいいことでしかなく、そこでもどちらでも構わないような両義的な姿勢でいればいいわけで、そうした姿勢を維持するには、それなりに心身に余裕がなければならないのであり、そういう意味では日頃の蓄えというのは、それが役に立っても無駄になっても構わないような性質があるわけで、そこに微妙な両義性があるわけだが、そのような両義的な物事は、自らの都合でどうなるものでもないだろうし、それとは違って意識を制御して倹約を心がけ、蓄えを計画的に維持するようなこともあるわけだが、やはりそれとこれとは微妙に異なるのであって、そうやって計画的に富を蓄えるようなことをやると、思わぬところからそうした計画が狂ってくるのであり、しかもそうやって意識的な制御を施すほど、そこから欲が生じてきて、かえってその欲が重荷となって、結果的にそうした制御や計画に意識の方が縛られてしまい、そうなるといざという時に融通が利かなくなってしまうから、そんなことをやったばかりに自滅するような成り行きにもなるわけで、そういうところで余裕を持たせるには、自らの目的や目標とは無関係なことをやった方がいいのかもしれないし、しかも軽い気持ちであまりのめり込まない程度でやっていれば、自然とそんなことをやれている分だけの余裕が生じていることになるわけで、もちろんそうした余裕を無理に作る必要もないだろうし、それに関しては鶏が先か卵が先かの問題となってしまうわけだが、その場の自らが巻き込まれている状況の中で、一方的に忙しなかったり、また一方的に暇を持て余しているような、そうなっていなければ、忙しい時と暇な時がそれなりに交互に巡ってくるわけで、そうした機会を捉えて、その場の状況に応じた対応を心がけるしかないだろうし、その対応がどんな対応かは、その時になってみないことにはわからないわけで、もちろんその時になってもわからない場合もあるのだろうが、それに関してはあまりはじめから、こうなった時にはこうするとか、決めつけておかない方がいいのだろうし、何かそういう状況に慣れていると、そんな時に自然と体が動くような自分独自のペースというのをつかんでいるかもしれないのだが、それも心身に余裕があれば、自然とそんな芸当も身につくのではないか。


12月2日「出来事の物語化」

 偶然の巡り合わせで起こった出来事が必然的に起こったように思われるのは、後からそうなってしまった原因や理由を突き止めようとして、それを特定できればそう思われるわけだが、実際にそれを突き止めたつもりになって、そんな原因や理由でそうなってしまったと思い込んで、それが必然的に起こったことだとみなして、安心できればいいのだろうが、突き止めたつもりになっている原因や理由が、それだけではないことに関しては、それで納得できれば無関心でいられるだろうし、他にも無数にあるかもしれない様々な要因が、偶然の巡り合わせによってたまたまそこで出会って、それらが作用し合って特定の出来事を引き起こしたとしても、その全ての要因を一つ一ついちいち調べ上げるのは難しいだろうし、もしそんなことをやれば、原因や理由を突き止めるための探求にも、無限の時間を費やさないとならなくなるだろうが、そんなことは物理的にも不可能であるから、もちろんそんなことまで考慮するわけもないし、実際にもそこまでは考えないわけだが、たまたまそこで思い当たった原因や理由が、結果的に出来事を起こす上で、原因や理由としてもっともらしく思われれば、とりあえずそれが原因や理由だとみなしてしまうわけで、そうした思い込みの中で、因果関係のつじつまが合えばそれで構わず、それで納得できれば原因や理由の究明を終了してしまえるわけだが、果たしてそれでは済まない場合があるかとなると、それは自分だけが納得しても他が納得しない場合であり、他の人や団体が納得しない場合は、そんな人や団体と交渉してみて、どうすれば納得してもらえるのかに関して、その傾向と対策を探らなければならなくなるだろうし、そうやってそれらの人や団体が納得するような原因や理由を導き出さなければならなくなるようだと、そうなっている時点で、話がだいぶ横道に逸れていることにもなるわけで、果たして出来事には誰もが納得できるような原因や理由が必ずあるのかと問うなら、普通に考えるならそうとは言い切れないだろうし、そもそも疑問を感じるから原因や理由を探ろうとするのだから、少なくともその時点では納得していないわけで、結局そう思った時点では疑問を抱いて、それを探っていく過程で疑問が解消すれば納得するのだろうし、そうした一連を過程を経ないと納得できないわけだから、すぐには納得できるような原因や理由は見つからないわけだろうが、その逆に、誰もがすぐに納得できるような原因や理由から起こるような出来事が、果たして実際に世の中で起こるかというと、起こったとしてもそんな出来事には誰も驚かないだろうし、誰も驚かないと同時に、誰もその原因や理由については疑問を抱かないから、話題にもならないだろうし、そうなると少なくともそんな出来事を話のネタにしてもおもしろくはないだろうし、結局それは誰も興味を持たないような出来事となるのではないか。そしてそんな話題性のない出来事をメディアが取り上げることはないだろうし、そういう出来事は起こったとしても世間からは無視される可能性が高いわけだ。またそうであるなら、人はそういった何でもないような出来事とは違った、驚きや感動や疑問を抱けるような想定外の出来事に遭遇したくなるにしても、直接遭遇してしまうと危険だから、そんな出来事を安全なところから見物したり見聞したいから、そういう出来事を選りすぐって伝えようとするメディアに群がるのだろうし、また現実に起こった出来事では飽き足らなければ、そんな作り話ばかりのフィクションを求めるようにもなるわけで、またそんな作り話の中でも、驚きや感動や疑問などをもたらす原因や理由を、懇切丁寧に解説してくれる謎解き探偵的なフィクションにも、興味を惹かれるようになるだろうし、またそれと同じように、現実に起こった興味深い出来事に関しても、懇切丁寧な謎解き探偵的な解説を求めたがるわけだが、そうやって何でもかんでもメディア任せになってしまうと、自分で考えようとしないから、自らの思考力が低下してしまうわけで、またそれに乗じてそうした思考力の低下した人向けに、浅はかな宣伝や煽動によって、ワイドショー的に人々の興味を煽り立てようと仕掛けてくるメディアも現れてきて、そうした需要を満たす試みも盛んに行われるようになるのだろうが、実際にそうしたことをやり出すときりがないと同時に、他方ではそんなことばかりにかまけているわけにもいかなくなるような事情も生じてくるのかもしれず、それが自らもそうした出来事を起こしてしまったり、また他で起こった出来事に自らが巻き込まれてしまうような事態に直面する時かもしれないし、そんな事態に直面すると、否応なく思考を働かせて事態を切り抜けようとしたり、打開を図ろうとするわけだ。

 またそんな事態に直面した時に、メディアから得られた知識が役に立つかといえば、役に立つ時もあるだろうが、役に立たない時もあるのかもしれず、役に立つか立たないかは、その場の状況に左右されるようなことかもしれないが、そうなった時にはすでに、自らの経験から得られた知識の中でメディアから得られた知識も混ぜ合わされていて、それを判別することは困難になっているかもしれないが、そこでもまずは安心したいから、そうなってしまった原因や理由を突き止めようとするだろうし、それを突き止めることがそれへの対処に繋がると信じているわけだが、そうした対処が何をもたらすかといえば、自らが体験しつつある謎に満ちた未知の出来事を、自らが理解可能な既知の出来事へと消化する過程だろうし、そうやって出来事を自らが納得できる自分の物語の中の一挿話として、自意識の中で再構成したいわけだが、それを記述することが日記というメディアに結晶化したわけで、また最近ではそうした需要を当て込んで、それをネットメディアの中で実現させるような成り行きも生じて、それがソーシャルメディアの役割となって、そんなマイ・ストーリーを画像や映像をふんだんに盛り込んで飾り立てるような現象も生んでいるわけだが、そうした出来事の物語化を通して、人々が何を求めているかというと、別に意識して特定の物事を求めているわけでもないのかもしれないが、やはりただ漠然と安心を求めているわけで、何とか自らが直面している謎な事態を理解可能な記述や音声や画像や映像に消化して、それをソーシャルメディアの中に定着させて安心したいわけだが、そんなことをやってみても相変わらず謎は残るだろうし、それの何が謎かといえば、いったん安心してしまえば興味がなくなるのに、それでも安心を追い求めることが謎なのかもしれないが、そうやって未知を既知に置き換える過程で、謎が解けたように思い込めるのだろうし、そう思い込めることが安心につながるわけで、そうした過程が「ハリー・ポッター」のように大げさな自分探しの大冒険とまではいかないにしても、ほんのささやかな分をわきまえた散歩程度の営みにはなるわけだろうし、何もしないよりは、散歩でもやらないよりはやった方が幾分マシだろうし、たとえそれが気晴らし程度の満足感しか得られなくても、得られるだけマシだろうから、そうした営みが人々に受け入られて、それなりに世の中で流行っているわけだが、そこでも絶えず体験した出来事を情報へと置き換える作業が行われていることには変わりなく、そうやって偶然から必然へ、未知から既知へ、不安から安心へと至りたいのだろうが、その過程をあまりにも素早く通り抜けてしまうと、不満が残るわけで、結局はそこで、いかに偶然に弄ばれながら未知の状態の中で不安感を抱きながらも留まっていられるかが、快楽の増大や持続へとつながるわけで、そんな状態の中に留まっているほど、それだけ身の危険にもさらされているわけだが、またそうであるほど冒険心も掻き立てられるだろうし、それをやり終えた時の達成感もひとしお大きくなるのかもしれず、そんなふうにして絶えず未知の何かに挑戦していられたら、それだけ幸せなのかもしれないが、現実にはそんなことをやる暇もない人が世の中の大半を占めているだろうし、だからそうしたことをやっている少数の人がメディアで取り上げられると、人々の関心を惹くのだろうし、またそうした人を主人公にしたフィクションも人気を博すわけだが、またそれもメディアを通して身の危険を感じない安全な場所から、そうした行為を見物したり見聞したり、時にはゲーム的な操作を伴うこともあるが、そんなやり方で満足することを強いられているわけで、結局そこには疑似体験的な不条理感がもたらされるわけだが、それが疑似体験的であれば、そうした経験からもたらされる知識も疑似体験的であり、そうした知識はメディアから離れた現実の世界では通用しない可能性があるわけで、そこにメディアの中の疑似空間と現実の世界との落差があるわけだろうが、だからと言ってメディアを通した仮想世界の中では通用する可能性もあるわけだから、そんな限定条件を踏まえた上でそうした知識を理解しておけばいいのかもしれないが、そこで限定条件だとか現実の世界と仮想世界との間に生じている差異とかを意識し出すと不安感を覚えるわけで、そうした不安を安心に変えるには、あまり物事を深く考えないで、与えられた情報をそのまま受けるだけに終始していればいいわけだろうが、そうなると情報をもたらす側の意図や思惑通りに操られる危険も生じるのだが、たぶん情報をもたらす側が絶対的な優位に立っているわけでもないだろうし、メディアを通して情報をもたらそうと画策している人たちでさえ、絶えず出来事の物語化を通してしか現実を情報に加工できないわけで、そうなってしまう限りで偶然の側にも未知の側にも不安の側にも留まれずに、絶えず必然の側へ既知の側へ安心の側へと至ってしまうから、そういった物語化と引き換えにして、出来事自体の偶然の巡り合わせも未知の状態も不安な感覚も見逃してしまうわけだ。


12月1日「個人と集団の関係」

 それが事件なのか出来事なのか現象なのか定かではないかもしれないが、とりあえず誰かが何かに巻き込まれているとして、それが誰にとっても何でもないことであれば、特に取り立ててそれに関して興味を抱くこともないのだろうが、それを意識しなければ、何に巻き込まれているとも思わないだろうし、そのままやり過ごしてしまうことにしかならないのかもしれないが、実際にやり過ごしているとしても、そこでしっかりと何かを経験している場合には、ただそれが記憶に残らないだけであって、意識もせずに何の印象もないとしても、確かにそこで何かを経験しているのであり、またそこから学んでいる場合さえあるのかもしれず、それを自覚することなしに経験することによって、自然と何かが身についているとしたら、そういう経験は興味深いことかもしれないが、相変わらずそれを意識していない現実があるわけだ。自然と身についてしまうことの大半はそんなところから生じるのだろうが、例えばそれがその人の仕草などの癖となって、他の人に識別されるかもしれないし、何かその人が気づかないところで変な癖が身についているとすれば、そうなるに至る過程で経験する何らかの出来事がそれに関与しているのかもしれない。また癖がもたらされるような出来事は一度に起こるわけではなく、繰り返し何度も起こるから、それを体験する度に心身に痕跡として刻まれて、それに対する反応がいつの間にか癖として定着するのかもしれず、繰り返し起こることに対する同じような動作として定着するわけで、それは条件反射の一種かもしれないが、やはり当人にとっては何でもないことでしかなく、それをいちいち意識するまでもなく、そうした自らの反応には自意識が興味を示さないし、また条件反射として反応する出来事にもあまり興味を抱かないわけだ。そんな興味を示さないのに自然と反応してしまう出来事というのが、やはり何でもない些細なことでしかなくても、なぜか何らかの身体の動作で反応を示していて、それが同じような仕草の癖となって現れてくるわけで、実際にそれが些細な何でもない動作であれば、どうということはないのかもしれないが、例えばそれが飲酒や喫煙などの過度の習癖になってくると、長年にわたって健康を害して病を発症して、自らの寿命を縮める結果を招いたり、そうした悪習となってしまうと、それなりに深刻な事態を招くわけだが、たぶんそれとは違って誰にとっても何でもないような習癖の類いは、そういう目立つような結果は何ももたらさず、取り立てて気づくような心身の異常も招かないのだろうが、そういった無意識の反応が、その人の個性のように見られるのかもしれないし、それをこれといって指摘できるようなことでもないとしても、その人が何か個性的な印象を伴っているようなら、その人のわずかな心身の動作が、その人に固有の印象をもたらすのかもしれず、そういうところで人それぞれに微妙な差異が生じてきて、そういった印象が強いほど、それだけ個性的に見えてくるわけで、そういう印象を言葉ではうまく表現できない場合には、印象と言語表現との相性があまり良くないのかもしれないし、それを表現するのに適当な言葉が見当たらない場合があるかもしれないが、それでも何かえもいわれぬ形容しがたい印象というのがあって、それが心の琴線に触れるような印象だと、鮮明に意識を刺激して記憶にも残るのだろうが、それが言葉と結びつかないと、相変わらず形容しようがないわけで、大抵は不思議とか不気味とかいう言葉で表現すればしっくりくるかもしれないが、それらとも印象が異なっていれば、では他になんと表現すればいいのかとなるわけだが、たぶんどんなに思案しても適当な言葉が見当たらない印象というのがあって、無理して不思議だの不気味だのの範疇に含めても、取り立てて不都合はないのだろうが、それでは大げさすぎるように思われると、やはりそれは何でもないような印象に近いのかもしれず、その何でもないのに、あえて何でもないと形容せざるを得ないような印象というのがあって、そうしたさりげない何でもなさを伴う、かすかに心に引っかかってくるような印象が、その人に固有の経験によって生じた痕跡なのかもしれず、それが誰もがはっきりと記憶に留め置くような鮮明な印象を伴った、一度の体験とは違う、長期間にわたる何でもないことの積み重ねから生じる印象なのであり、しかもそれがその人の心身に良くも悪くもない作用や影響を及ぼしているように感じられると、それによって何がどうなるわけではないにしても、その人が他でもないその人本人であることを認めざるを得ないことにもなり、認めたところで何でもないにも関わらず、やはりその人がその人であることから、周囲にその人の存在を意識させるような作用を及ぼしているわけだ。

 そしてそんな作用から人を単体で個人として認識できるとしても、それだけはそうした存在以外の何ももたらさないだけに、そんな個人の存在を何でもないこととしてやり過ごしてしまえるし、そこで立ち止まれないから、それとは正反対の集団的な共通感覚に囚われて、そこから得られる他の人たちとの一体感に居心地の良さを感じるわけで、実際に大勢で協力し合いながら行う活動によって、満足できる成果を得られると、人と人とが結びついて協業する上での連携や協力の関係の重要さを認識させられるし、また集団の中にいれば、その中にいる自分を集団が守ってくれるようにも思われるし、そういった安心感を得られることが、集団の中にいることのメリットなのだろうが、そうであるなら、なぜ人は集団から離れて孤独に生きる場合があるのかといえば、人が集団でいることにはメリットもあればデメリットもあるということだろうし、そんなデメリットな面として、人の個人的な存在自体が、集団によって抑圧される傾向があるわけで、個人が集団の中で勝手なことをされては困るから、ある程度は抑圧せざるを得なくなるわけだが、そんな人の個人的な存在感からもたらされる、個人ごとに異なるいびつな面を、集団の中で活かせるかというと、その人の個性的な面から生じる特質に応じた適材適所な役割分担を実現できれば、それによって集団の活動をうまく機能させられるかもしれないが、集団としてはそうであっても、そうやって集団の中で活かされて機能させられる個人が、それで満足するかというと、それは集団内での待遇や個人の自主性にもよるだろうが、それで満足しなければ集団から離れようとするだろうし、実際に集団から離れて個人で何かをやっている人もいくらでもいるわけだが、普通は集団内に留まっていても、四六時中留まって活動の全てを集団に依存しているわけでもなく、個人でいる時と集団内にいる時の両面で生活しているわけで、それに関して一般的には、その集団が企業であったり他の各種団体であることは多いだろうし、1日のうちで集団内にいる時間と個人でいる時間がちょうど良い割合になっていれば、それなりに妥当な感じがするのかもしれないが、個人と集団とで相容れない面がある限りは、何事も個人の都合のいいようにはいかないものだろうし、また集団の都合のいいようにもいかないもので、それに関しては個人と集団の間で、それなりに調整や妥協を行なうような成り行きにもなるだろうが、それとは別に、そういった損得勘定的なこととは異なる成り行きになってしまう場合もあるわけで、それが否応なく個人が集団内に絡め取られてしまったり、また否応なく個人が集団からはじき出されてしまったり、当人の意志とは無関係にそうなってしまう場合があるわけで、そういう成り行きになると理屈では成り行きを理解できないし、理屈に合わないような成り行きを理解するわけにはいかないのかもしれないが、そんなところにも個人の存在から意識される形容しがたい印象が作用していて、それが周囲の人を遠ざけるように作用すれば、その人が集団内で孤立して、そこに居づらくなってきてしまったり、それが一人の個人だけではなく、複数の人の間で作用して、それぞれのいびつな個性を伴った人たちの印象が複合的に絡み合って、何か独特の雰囲気を集団内に漂わせて、集団の役割や機能などとは違った面で、何とも言い難いえもいわれぬ緊張関係をもたらすこともあるわけで、そういった雰囲気が集団をおかしな方向へと導いて、それが高じると例えば陰湿な嫌がらせが集団内で横行したり、それに伴って人間関係がこじれてきたりして、集団内が嫌な空気に覆われて、誰もがそんな集団には居たくないと思うようになって、それによって集団自体の団結力や協業効果などが低下してくると、集団自体が崩壊の危機に直面することもあるだろうし、そういったことは経験してみないことには、その不快さを実感できないし、また不快さの程度もそうした状況に至る経緯も、それぞれのケースで異なってくるだろうから、それを改善するための一定の対応策などないのかもしれないが、そんな成り行きでさえも、そこに関係する人に作用や影響を及ぼして、その人の個性をそれなりにいびつに変形させる効果を伴ってくるだろうし、そういうことが重層的かつ循環的に作用して、何か不条理な事態を引き起こして、人も集団もおかしな方向へと導かれてしまい、そうした否定的な効果によって、活動がうまくいかなくなってきたり、また不快な思いをした人が集団からはじき出されたり、さらに集団内で多くの人が苦悶したりする成り行きとなるのだろうが、それに加えて、集団の本来の活動内容が絡んでくると、さらにそこから事態が複雑かつ錯綜した様相を呈してきて、そういったことがそのまま放置されたままでも活動が続けられるようなら、集団内で一定の妥協が成り立っていることにもなるのだろうが、その中で誰もがそれなりに我慢できる範囲内で嫌な思いをしながらも、自らに割り振られた役割をこなしていくことになるのだろうが、そしてそういったことがストレスとなって、心身に否定的な作用や影響を及ぼしながら、過労や加齢などとともに集団内にいる人たちを徐々に蝕んでいくわけだ。