彼の声131

2019年

2月19日「論理と理屈の限界」

 物事に単純な論理を当てはめてわかったような気になるのは、それが成り立つ条件やその場の事情やそうなった経緯を考慮していないからかもしれないが、それでもそうした論理から物事に関する理解がもたらされるのは確かであり、何らかの出来事や現象を、それなりにもっともらしく思われる論理や理屈を用いて説明できれば、それ自体が物事に関する理解となり、それが特におかしなことではないのだが、そこから勘違いや思い違いが生じるとすれば、そうやって物事を理解したつもりになったとしても、それでその論理や理屈の対象となる物事の全てを理解したわけではなく、まだ理解していない部分や理解できない部分が残っている可能性があり、それでわかったような気になっても、わかっていない面があることになるだろうし、そういう面を意図的に無視したり、あるいは無視している自覚もなしに、わざとそういった論理や理屈を用いた一方的な理解や解釈を基にして、宣伝や煽動が行われると、特に浅はかな人でなくても、それを真に受けてしまうのかもしれず、実際にそういった煽り立てに引っかかってしまう人が大勢出てくるのかもしれないが、ではそうなってしまう成り行きに疑問を抱いて、そこで思いとどまって、それらの対象となる物事について、改めて考えてみるような手間暇をかけられるかというと、そうした余裕や余地を与えないような成り行きも、一方では生じているのかもしれないが、それでもそういうことに関しては、よく考えてみる必要があるのかもしれないし、必要があっても考える成り行きにならなければ、そのままとなってしまうことが多いわけだろうが、実際にそんな機会を捉えてよく考えてみれば、安易な理解に基づいた宣伝や煽動などの拙速なやり方によって、かえって他から無用な反発や反感を招いて事態をこじれさせて、それがうまくいかない原因となっていることに気づいたり、またどうやってもうまくいかないことを、勝手な論理や理屈に基づいて強引にやってきたことに気づかされたり、そんなふうにして過去の様々な局面では気づかなかった過ちや誤りに、後からそれを振り返る機会があれば気づくこともあるだろうが、気づいた時にはすでに事態がそれなりに進展してしまっているから、もはや後戻りなど出来ずに、後の祭りとなっている可能性もあるだろうし、またそれについてこんなふうに語ってみせることと、実際に行われるべき実践的な対処や対応とは、まったく違ったことになるかもしれないし、そこにもどうすれば良いかに関しては、それなりの困難や限界や制約などが付きまとってくるのだろうが、そういう面では当人の努力だけでうまくいくわけでもない場合がほとんどなのかもしれないし、それでもそうした理解への切実な思いがあれば、何度過ちや誤りを繰り返しても、あきらめずに、執拗に自らが信じる論理や理屈にこだわり続ける場合もあるかもしれないが、たぶんそうであっても、現実の成り行きが、その人の思い込みに基づいた机上の空論的な論理や理屈を裏切ってしまうのかもしれず、それがその人にとっては思いがけない成り行きとなるわけだろうが、そういうところでなぜ論理や理屈が現実の成り行きに合わなくなってくるのかといえば、やはり論理や理屈では物事の全てを説明できないから、その説明できない部分が現実の状況に作用したり影響を及ぼしてくると、それがそうした論理や理屈を裏切るような成り行きを生じさせてきて、結果的にその論理や理屈にこだわっている人を、状況が置いてきぼりにしてしまうような事態となってしまうのかもしれないが、それでも執拗に自らが信じている論理や理屈にこだわり続けてしまう人も中にはいるわけで、そういう人の述べている内容が的外れであったり、時代遅れな印象を感じるとすれば、やはりその人が時代状況から見捨てられてしまっていることを示しているのかもしれないし、確かにそういう人は過去の一時期においては、何やら説得力のある正しいことを述べていたのかもしれないが、そういう正しさというのが、確かにその時期の時代状況の中では正しく思われたのかもしれないが、それがあまりにもつじつまが合いすぎるようなことを述べていたとしたら、つじつまが合わないような面については、意図してあるいはそれと自覚することなく言及を避けていたのかもしれないし、実際に状況に関して正しいことを述べようとすると、結局は論理的につじつまが合うようなことしか述べようとしなくなってしまうのかもしれず、そういう姿勢だと、世の中の何の前触れもなく変わって行ってしまう成り行きを捉えられなくなってしまい、そういったある一定の時期に関しては状況をうまく説明できてしまう論理や理屈が、状況の変化に伴って通用しなくなってしまい、そうした論理や理屈を用いて状況を説明する人を時代遅れにしながら、変わっていくのかもしれないし、そうした状況の変化というのは、そこでまかり通っている論理や理屈を裏切るような成り行きでしか変化しないのかもしれず、そうではなく論理や理屈通りの状況しかもたらされなけば、そこで状況が安定してしまって、それ以上の変化などあり得ないのかもしれないが、それに関しては世の中が変化する論理や理屈を用いて、そうした変化が起こった後からつじつまが合うような説明を試みる成り行きもあるわけで、そういう説明だと結果からしか説明が成り立たないだろうし、変化が起こった結果から、変化を起こした原因を探り当てて、その原因によって必然的な変化が起こるような結果が導かれて、そうなるとそこには偶然の巡り合わせに伴う要素が入り込む余地がなくなってしまうのだが、それは原因から結果が必然的に起こるという良くできたフィクションとなってしまうわけで、そこでももっともらしい論理や理屈によって矛盾もずれもなく現象を説明できるなら、やはり多くの人がそういったつじつまの合ったもっともらしい説明を信じてしまうだろうし、そういった説明に何のメリットがあるかというと、変化の原因が特定できるから安心できるわけで、何やらどうにもならないような物事が、周囲から様々な否定的な作用や影響を受けながら、こじれにこじれて行き詰った状態から、ある時不意に思いがけない変化が起こったりして、そんな原因不明のわけがわからないような変化よりも、そういった不安だらけの印象を打ち消すようなもっともらしくわかりやすい論理や理屈を用いて、必然的な事の成り行きとして説明されれば、どう考えてもそちらの方が説得力があるように思われるだろうし、実際にもそういった状況の説明が世の中の主流になるのだろうが、たとえ現状の世界がそういった誰もが納得できるようなわかりやすい説明によって理解できるにしても、その一方で誰の思い通りにもなっていない面があることは事実だろうし、いくら結果からわかりやすく状況を説明されても、それ以外でわからないことがいくらでもある状況は変わらないわけで、そういうところがわかりやすい論理や理屈では説明し難いところなのではないか。


2月18日「政府と企業の違い」

 人の強制収容施設として世界的に成功している事例を挙げるとすれば、それは義務教育という日本で言えば小中学校という教育施設に子供を収容して、社会に役立つように洗脳と教育を施す仕組みだろうが、もちろんそれを洗脳とは言わないし、日本ではそれ以前の保育園や幼稚園から始まって、小中学校を経由して、高等学校や大学にまで至る教育施設への収容体験を経て、成人すれば企業や政府などの各種団体の施設への収容をもって、人の施設への収容が完了するわけだろうが、その先にも寿命をむえる時期になると老人ホームへと収容される人も出てくるし、それ以外にも病気や怪我が重篤化すれば病院へと収容されるし、裁判で懲役刑や禁錮刑などの判決を受ければ、刑務所へと収容されるし、他にも世の中には様々な収容施設があるわけだが、人を施設に収容するにあたってのメリットといえるかどうかは、その人の立場や境遇や状況によっては微妙な意味合いが生じるかもしれないが、まずは人を外界から遮断する目的が挙げられるだろうし、また施設の中では人を制御したりコントロールするのが比較的容易な点も挙げられるが、施設自体が社会の中でも極めて人工的な環境であり、自然環境からそこだけ隔てられていて、そういう面で外界から及ぼされる偶発的な作用や影響を心配することなく、そこで人の取り扱いが容易になるわけだが、その反面で収容される人の自由が奪われて、そのほとんどの場合で、施設を管理運営してその内部で主導権を握っている団体には逆らえないだろうし、そういう意味では施設内に人を拘束して自由を奪って従わせるのが、施設本来の存在目的であることは明らかだが、その程度や扱いが許容できれば、人は喜んで施設内で囚われの身となるだろうし、また施設の外よりは施設の中の方が安全で快適だと判断されるなら、やはり施設の中にとどまることを望むだろうし、そういう意味では人を収容する施設にはメリットもデメリットもあるように思われるわけだが、そういった目に見える建物などの施設内での管理コントロールよりも、さらに巧妙なやり方として、例えば企業などがユーザー登録をさせて、自社商品へと消費者を囲い込むやり方などに関しても、そういった人を管理コントロールするためのノウハウが生かされていて、ユーザーを特定の商品に依存させて縛り付けるやり方が画策されているわけだろうが、それは行政などにもいえることで、住民を行政に依存させて縛り付けようとしているのかもしれず、そういう面では目に見える施設などに収容しなくても、情報操作や権力の行使などによって、人の自由を奪って思い通りに制御コントロールするやり方がいろいろと模索されているのかもしれないが、少なくとも企業の消費者への対応についていえることは、全面的ではなく、絶えず功利的に利益を得られる面だけ、部分的に制御コントロールしようとする傾向があるのかもしれず、そこでも世の中に存在する様々な企業が、自分たちの得意分野で民衆から利益を得ようとしているわけで、もはやそういった手口には騙されないとか言うレベルではなく、それが日常の一部として常態化しているから、そんなことにいちいち目くじらを立てる意味も必要もないことであり、絶えず広告宣伝など誘惑的な手法を用いて人の意識を功利的に制御コントロールしながら、商品を買わせたりサービスを利用させて、競争相手の他の企業よりも少しでも利益を上げて優位に立とうとしているわけだから、そういう行為を特に否定的に捉えることもないだろうし、それどころか積極的にそんなことが推奨されているわけだから、世界的にそんなことをやるのが当然のことだと捉えるしかないだろうし、実際にそうした方面で競い合いが起こっていて、現状の競い合いの中で目立った勝者となっているのが、ネットを通じて世界中に進出している巨大IT企業なのだろうし、現実に世界中の民衆がそうした企業であるアップルやマイクロソフトの製品やソフトを買わされたり、またグーグルやフェイスブックを利用して広告収入を稼ぐ手助けをしてやったり、またアマゾンで通販商品を買ったりしているわけで、そうしたことはすべて全面的な依存ではないだけに、特に深刻な状況とは思われないだろうし、もちろん世界のすべての人がそれらの企業を利用しているわけでもなく、他も数多くの競合する企業があって、大なり小なりそれらの企業同士が競争しつつも、ある面では提携したり協力関係にもあるだろうし、そうやって複雑に関係が入り組みつつも、ひとつの傾向や方向へと偏向しているともいえないだろうから、そこで何かしら均衡が保たれている面もあるのかもしれないが、それでも絶えず部分的な富の収奪を行うために、それと気づかせないような巧妙なやり方を模索しているわけだが、そうした民衆の部分的な制御を目指す企業の官僚機構と、民衆の全面的な制御を目指す政府の官僚機構を同列に扱うわけにはいかないが、その一方で企業の官僚機構は、労働時間内での従業員の全面的な制御を目指しているだろうし、そこで制御の対象となる企業の従業員と国家の国民を同列に扱うのもそれなりに無理があるわけで、何かそういうところで論理や認識の混同が起こっている可能性があるわけだが、そもそもそうした企業の従業員と比較の対象となるのは、国家公務員や地方公務員であり、そうであるなら政府の官僚機構が全面的な制御を目指しているのは、労働時間内での公務員の活動となるはずだが、では国民の全面的な制御を目指していると捉えるのは誤った認識であるかとなると、そうでもない面もあるわけで、そのへんの混同が国家主義的あるいは社会主義的な思想にかぶれてしまった人には多いのかもしれず、実際に言論や思想信条の自由を認めない独裁的な国家の政府は、国民の全面的な制御を目指す傾向があるわけで、またそうだとしても政府が企業を見習って、全面的な管理統治の対象を公務員だけに限るのも、やはりおかしいわけだろうし、そういうところで制度や仕組みの面で認識や実態に差異やずれがあることを民衆の側が認識しておかないと、政治のレベルでおかしな論理や理屈を真に受けてしまうことになり、そこから政府と企業を同列に扱うような誤った認識がもたらされるわけだが、少なくともそこに差異やずれがあることを踏まえておけば、それなりに両者の間の区別を伴った判断に結びつくはずだが、それでも政府が自国の企業を優遇しようとするのは紛れもない事実だろうし、そして産業振興などの面で政府の経済政策に民衆も期待してしまうし、政府と企業が渾然一体となって国家を盛り立てていくような幻想を抱いてしまうわけだが、そこでも認識しておかなければならないのは、国家の公務員と企業の従業員と民衆との間では、利害も人員も重なる面があるとしても、重ならない面もあるし、また時には利害が対立する面もあるだろうし、さらに場合によっては争わなければならない面もあるわけで、それらの都合の良いところだけを強調してしまうと、対立したり争わなければならない面を故意に見落としてしまうことになるわけだ。


2月17日「集団による管理統治」

 管理統治という手法が何を目指しているのかというと、状況を制御するとかコントロールすることだといえるだろうが、それが人為的な制御と思われるのが当然だとしても、何がその制御主体となっているかに関して、例えば官僚機構などの集団的な組織形態によって、その場が制御コントロールされていると、その集団的な組織形態の中で活動している人も制御されているわけで、もちろんその中には、そうした組織のトップに立っている指導的な立場にある人でも、官僚機構によって制御されていることになり、そうなると特定の誰が制御しているというよりは、誰もが官僚機構によって制御されていることになるだろうし、少なくとも特定の指導的な地位にある人の意志によって制御されているとはいえなくなってしまうわけだ。そうでなくても状況をコントロールするということに関しては、そこに関係してくる人や団体の様々な思惑が絡んでくるわけだから、その中で誰かが主導権を握って、その人がその場を支配して状況を制御するというのは、ある程度はそういう面があるにしても、全面的にそうなっているかというと、それが何か人物本位の物語的なフィクションに特有の嘘になってしまうかもしれないのだが、そこで立場や地位が上位の人から下位の人へと、こうしろという命令や司令が下ることがあるものの、そのこうしろという意思表示を伴った司令が、その人の自発的な意志であるかというと、こうした方が集団としてはうまく行くのではないかと思うから、そんな司令を発する可能性があるだろうし、またそうすることで組織の中での自らの立場が有利になるという目算もあるとしたら、それがそこで主導権を握りたいという願望の現れだとしても、それもそうした方がその集団のためになって、そうすれば集団が栄えるという、その人なりの集団に対する忠誠心の現れでもあるのかもしれないが、そこで問題となってくるのが、そういった集団の中で独裁的な主導権を握って権力をほしいままにして、私腹を肥やすという成り行きもあるわけで、指導的な立場ある人がそういうことをやってしまうと、集団のためにならないということがあるわけだが、それもそういう立場や地位になると、自らの裁量権が増えて、必ずそういう誘惑に逆らえなくなるという成り行きがあって、その人の意志でそういう事態が起こるというよりも、組織内での地位や立場がそうさせる傾向の方が強いわけで、そしてそういうことが起こって、それが集団にとっては弊害となって、その集団の勢いが衰えてくると、集団を立て直すための自浄作用が働いて、そうした集団を駄目にする人を集団から排除するようなことが起こるわけで、それも実際に集団内の特定の人物が、権勢をほしいままにしている人に対して反旗を翻すという成り行きが生じるかもしれないが、それもその人物の意志でそうしていることにはなるだろうが、それは集団のためにやっていることだという大義名分が成り立つわけで、そうした大義名分が成り立つから、集団内の他の人たちもそういう成り行きに同調するのだろうし、それは個人の意志というよりは集団としての意志であり意向でもあるわけで、そういうところで個人が集団のために活動する成り行きが生じるわけだが、それも集団から見れば、個人が集団内で権勢を誇って私腹を肥やしたことで、集団の勢いが衰えると、そこから自浄作用が働いて、その原因を作った個人を集団から排除するという、集団自体の新陳代謝を物語っているわけで、結局それは、個人が集団的な組織形態に絡め取られると、その弊害として集団内で権勢を誇ったり私腹を肥やしたりするような成り行きも時として生じて、それに対しても時として別の人が反旗を翻して、そうなってしまった人材を集団から排除するような自浄作用が働く成り行きが生じることになり、それがそういった成り行きの中で、集団の構成員となった個人が、集団が割り振るそれらの決まりきった役回りを演じているに過ぎないことにしかならないのかもしれず、そういう成り行きがありふれたことのように思われるなら、集団にとって邪魔な個人を、そうした紋切り型の役回りの中に押し込めて処理する作用が働いていることにもなると考えれば、辻褄が合うわけで、それ自体がフィクショナルな演劇に過ぎない面があるのかもしれないし、そういう成り行きに限らず、集団的な管理統治の実態として、個人をいかにわかりやすい紋切り型のキャラクターとして取り扱うかが重要となっているのかもしれず、個人の方でもそれと自覚することなく、そういう集団的な意向を敏感に感じ取ると、進んでそうしたキャラクターを演じてしまう成り行きにもなってしまい、そうやって集団の意向や思惑に操られた様々な役回りや登場人物のキャラクターに応じた演劇空間が出現すると、そこで集団による管理統治が成り立っていることになって、その中で集団によって用意された脚本通りに個人が役割を演じている限りで、そうした役割を演じる個人が、管理統治された演劇空間の中で安定して機能することになるわけだろうが、それと自覚することなく集団内で決まりきった役柄を演じてしまう個人が、そのことに気づくかというと、気づかないからそれがストレスとなって、場合によってはそのことが原因で気を病んでしまうような成り行きもあるのだろうが、気づいたとしても、その人の集団内の地位や立場がそういった役柄を課しているわけだから、そうした地位や立場を放棄しない限りは、その役柄を演じ続けなければならず、それも別の意味でストレスになるだろうし、ストレスに耐え切れずに地位や立場を放棄すれば、それは集団から離脱することを意味するわけだが、本当にストレスを感じているかというと、それを自覚できないのだから、感じていないといえば感じていないのかもしれないし、また組織内で高い地位や立場になれば、それなりに高い報酬が約束されているわけだから、それ自体が合法的に私腹を肥やすことに結びつくわけで、さらにそこから、それに加えて違法に私腹を肥やす必要もないといえば、その通りだろうし、実際に大企業や官庁などのほとんどの幹部クラスになれば、違法に私腹を肥やす心配もないほどの高い報酬を得ているはずだろうし、そういう点を考慮すれば、そういったありふれた公私混同の違法に私腹を肥やす話も、単なる架空の作り話になってしまうのかもしれず、実際に企業や政府などの集団がその構成員に割り振る役回りは、もっと地味で普通の仕事に応じた役職になるだろうし、それも割り振られた仕事をこなしている間だけ機能するような地位や立場でしかないのかもしれないが、それに対してそんな地位や立場になった個人の方が、そうした役回りについて幻想を抱いてしまい、仕事から離れた時間帯でも、そうした地位や立場に実質的な効力があるかのように思い込んでしまい、何か偉くなったような気になってしまうのではないか。


2月16日「社会の実態」

 機械には故障の修理や消耗部品の交換などの整備が必要で、整備できない機械は使い捨てられるしかないだろうし、また整備を必要としない機械は半永久的に稼働する可能性があるが、今のところはそんな機械が実現しているわけでもないだろうし、そういう意味では整備の手間や整備費用のかかる機械であるほど、そうした機械整備の分野で需要が大きくなるのだろうが、例えば電気モーターで走る車と内燃機関で走る車との比較で、どちらが多くの手間や整備費用がかかるかといえば、当然内燃機関で走る車の方が部品も多く、消耗する部分も多そうで、それだけ手間も整備費用もかかるから、電気モーターで走る車が普及しだすと、自動車の整備に関する分野が衰退するのかもしれないが、機械に限らず建築物の類いでも、消耗したり破損したり汚れたりする部分のメンテナンスが欠かせないし、そういう面で建物を建てたり機械を作るのと、それらのアフターケアやメンテナンスが連動していることは確かで、そうやって作られて維持される機械や設備や建物などを含む人工的な環境を実現させるのが、人類の文明的な営みであるわけで、そんな営みを続けるために技術者のような人が必要とされてきたわけだが、それは今後も変わらないとしても、それと同時にそんな人工的な環境を使う消費者のような人も欠かせないだろうし、そこで果たしてそうした環境を作って維持する人員と使う人員とが、人数的に釣り合いが取れているかというと、作る側の人員も一方では維持したり使う側の人員に含まれるし、また維持する側の人員も一方では作ったり使う側の人員に含まれるし、何を作り何を維持して何を使うかに関しては、それらの職種や役割が複雑に絡み合いながら、相互に重なり合っている面もあって、そういう面でうまく実態を捉えきれないわけだが、それでも作る側や維持する側では、単純な職業別の分類ができるかもしれないが、使う側では非職業的な消費者という分類が含まれてきて、職業に就いている人は作る側や維持する側と同時に使う側の人員にも含まれてくるとしても、職業に就いていない人は単に使うだけと捉えるわけにもいかないだろうし、それについて簡単に言えば、家事や子育てなども作る面や維持する面もあるわけだから、金銭的な収入だけでは捉えられない面もあるわけで、そういう面も含めると、大雑把に言えば、誰もがそうした作る面や維持する面や使う面も含めた役割を担っている場合が多いだろうし、それらすべてが社会という制度を維持するための人員なのかもしれないが、普通はそれを制度とは言わないし、そこに関わっている度合いや貢献度なども各人で異なるだろうし、そこでもどういう判断に基づいて度合いや貢献度を測るのかは難しいところだが、そういった面では各人が関わっている分野や種類の傾向や方向性もそれぞれに異なるだろうが、それらの人員の役割分担が完全に把握されて管理されているとは言いがたいだろうし、それでも一応は行政の場では統計的な把握や管理がされているだろうが、特定の役割分担を強制的に課している面がそれほど大きいわけでもないし、ある程度は各人の自主性に委ねられている面があるわけで、実際にそういう面は把握しきれないだろうし、完全に把握する必要もないのかもしれず、またそういった方面に関与してくる人や団体の思惑によって、状況がコントロールされているわけでもないだろうし、結局は様々な人や団体の思惑が渦巻いている中で、世の中が社会として成り立っている面があるが、各人や各団体が意図してその社会に参加しているわけでもなく、ただ何となく成り行き上は誰もが社会に参加していることにはなっているのかもしれないが、特に誰がそこへと入ってきても、また誰がそこから脱落しても、それがどうしたわけでもないだろうし、何かそこで活動している団体への出入りは、それなりに団体側でチェックされていて、それが政府が管理しているつもりの国家という団体であれば、普通は国家を団体とはみなさないだろが、当然そこでは出入国のチェックが政府側の出先機関で行われるわけで、そんなふうにして国家には国境という出入りの制限を伴う境界があるが、社会には特にそんな境界はなく、それに関して世界全体がひとつの社会を構成していると言えなくもないが、それと同時に地域や国ごとに、それぞれに社会が構成されていると捉えることもできるだろうし、そのへんが曖昧なのかもしれないが、それを社会と呼ぼうが世の中と呼ぼうが世間と呼ぼうが、大して違いがあるわけでもないが、そこには常に人工的な環境が出現していて、機械や建物などの物質的な人工物がある他にも、関連する機械や設備を介して文字や音声や画像や映像などの情報も行き交っていて、そうした情報のやり取りによって人と人とが意思疎通を図ったり、またメディアを通じて宣伝や煽動が行われていて、さらに売買を介して物や情報やサービスなどが金銭と交換されて流通していて、そういう面で経済活動が行われているわけで、そこで政府という団体が経済に関する法律や制度を管理していることは確かだが、経済活動のすべてを制御しているわけでもできるわけでもないし、それに関連して企業などの様々な団体も、それらの団体が取り扱っている商品の生産や流通や販売などを管理していることも確かだが、そうした各種団体ごとの管理が重なりあって、互いに作用や影響を及ぼし合って、そういった面でも複雑なからみ合いがあるから、その全容もうまく捉えきれないわけだが、そういうところを人為的に簡略したり透明化できないから、そういう部分に変化する余地や人が自由に振る舞える場が生じてくるわけで、それらすべてを網羅するような管理統治がなされてしまうと、法律や制度や階層秩序などによってがんじがらめになって、身動きが取れなくなってしまうのかもしれず、またそこに関わってくる各種団体としては、絶えず自分たちの勢力圏を完全に管理統治しようとしているだろうし、そういう方面で法治的な秩序をもたらそうとしているわけだが、そこに他にも競合する団体が存在する限りで、それらの複数の団体によるせめぎあいや勢力争いなどによって、完全な管理統治には至らない余地や事情が生じてくるわけで、そういう統治の不完全性が社会に反映していて、しかもそういう面があるからこそ、逆説的に社会とか世の中という実態の定かでない領域が存在する余地も生じているのではないか。


2月15日「価値や必要性を外れて」

 人が必要としているのは、何か価値のある物事である場合もあるだろうが、それは価値のあるものを獲得したり、そのために必要なことを行なったりして、世間的に認められたいということもあるだろうし、そういうのは名誉だとか栄光だとか、あるいは直接的に経済的な富であったり、そういった物事に世間的に認められた価値があることは確かであり、世の中でもそういった物事を獲得するための競争が行われていることも事実だろうが、そういう成り行きに巻き込まれて、あるいは自らが進んでその渦中に身を投じて、何らかの成果を得られれば、それなりの満足感を実感できるだろうが、そういったこととは無縁の価値があるかとなると、その人の思い込みの中ではあるかもしれないが、それが思い込みでしかない場合は、そんな価値を得るために必要なことをやったとしても、自己満足にとどまるかもしれないが、それでも構わないなら、価値を得るために必要なことをやるとは、その程度のことでしかないだろうし、それ以上を求めても、虚しい結果に終わるわけではないだろうが、少なくとも思い込み以上のものが得られるとは思えないし、そういうことを超えた価値となると、他人や他の団体などと連携や協力して、他の人や団体でも満足感を実感できるようなことを行えば、そこから得られる価値も、それだけ多くの人が共有できるものとなるだろうし、そうしたやり方ができれば、自己満足を超えるような価値を獲得できるかもしれないが、そうであっても価値だけが世の中で肯定できる全てではないだろうし、ただ単に価値とは無関係に必要なことをやっていれば、それで活動が済んでしまうような成り行きもあるのかもしれず、そうした活動なら、ただ自らが必要と思うことをやればいいだけだろうが、それが必要か否かの判断も、事前に生じてくるところではあるが、それに関しては通常はわざと必要でないことをやる成り行きにはならないだろうし、何かをやるとなると必要だから行うように思われてしまうことも確かであり、またそういうところで必要であるかないかの判断でさえ、意識の中では省略されてしまう場合もあって、とりあえずそんなことさえも意識せずに、何かをやっている成り行きがあれば、それを後から振り返れば、必要だから行なったと思うしかないだろうが、もちろんそんな行為をいちいち後から振り返ることもほとんどないのかもしれないし、そうした行為は価値があるかないかとか必要があるかないかとも思わずに、とりあえずやっている行為でしかないのかもしれず、そうなるとそれはただ何となくやっているだけの行為かもしれないし、そういった行為に関しては、考える必要もないことは当然であり、そんな行為がやっていることの大半であれば、価値についても必要性についても何も考えずに、ただ何となく日々を過しているだけとなってしまいそうだが、そんな感じで生きていられたら、特に何がどうなるわけでもないのだろうが、そういったことが他に何をもたらしているかとなると、ただの惰性でしかないのかもしれないし、そういう行為をあえて後から振り返れば、そこに何らかの価値や必要性を当てはめることができるかもしれないし、それも単なる暇つぶしでやっていることだと捉えれば、それに肯定できる価値や必要性があるとは思えないだろうが、例えば気分をリラックスさせるには暇つぶしが必要であると思われるかもしれないし、そうであるならそこにリラックスさせるという効用について価値が生じているはずだろうが、もちろん他の価値と比べれば、そんなのはどうでもいいような価値かもしれないが、それでも価値の程度や強度に関しては、わずかでもプラスの面があれば、そこにわずかな価値が生じていると思われるわけで、その程度の価値を、わざわざ強調するわけにもいかないだろうが、塵も積もれば山となる類いの効用を信じれば、忙しさの合間に暇つぶしの時間を確保することが重要に思われてしまうのかもしれず、結局はその程度のことに価値を見出してしまうこと自体が、くだらないことだと思われるにしても、逆に価値や必要性を強調して、そんなことにこだわり過ぎてしまう意識をずらす意味では、その程度のことにかまけていた方が、意識が一方的に偏向した傾向になるのを防ぐ意味合いとしては、それなりに効果があるのかもしれないし、そうでなくてもその人にとってはそれが大したことであったり、それがないおかげで深刻な事態を招いているのに、他の人がその人の身になって考えてくれないことが結構あるだろうし、そんな安易に感情移入して同情してくれないようなことが、世の中には多いわけで、要するに人と人との間で関係が結ばれていないと、他人が死のうが気が狂おうが構わないような心境となってしまうから、無関係の関係というのは、そのまま無価値で不要な虚無性を発揮してしまうのだろうし、だからといって唐突に赤の他人同士で人と人との絆を強調するのも、鬱陶しいだけだろうし、そういう面で他者の他者性というのが理解しにくい概念であり、またそれは無理に理解しなくても構わないような概念でしかないのかもしれないが、そこで他人に対して善い行いをしようとするのではなく、良くも悪くもないような対応ができるかとなると、何かそういう問い自体が意味不明に思われてくるわけで、そして自身にとっては価値もなく必要でもないようなことの中に、他者に対する気遣いが生じてくると、やはりそれが何を意味するのかわからなくなってくるわけで、そういう行為が損得を度外した行為とも違うことであるように思われるとしても、おおやけの場ではそれが必要となってくるのかもしれず、なぜ必要なのかは自らに当てはめてみてもわからないかもしれないが、またそれが他人の立場に立つことを意味するわけでもなく、それを誰の立場でもない中庸な立場だと言ってしまうと、さらにわけがわからなくなってしまうだろうが、たぶんそういうことなのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれないが、そんな価値や必要性を外れた行いができれば、たぶんそれがおおやけの場で行うような行為となるのかもしれないし、そんな自分にとっても他人にとっても意味不明に思われるような行為には、何かよくわからない効用があるのかもしれないし、またそれは効用とは言えないのかもしれないが、そんな行為が実際に行われている際には、現実に価値も必要性も生じていないだろうし、他に何が生じているわけでもないが、ただそんな行為によってその場でものが取り扱われて、ことが滞りなく行われてしまう可能性もあるわけだ。


2月14日「価値と必要性」

 物事の価値は金銭的な価格として示される他には、人それぞれに特定の物事に関して価値を感じたり感じなかったりすることがあるだろうが、金銭的な価格に関しては、たとえ価格が安くても必要な物事がある一方で、価格が高くても必要でない物事もあるだろうし、そういう面では、価値判断と必要であるかないかの判断は異なるだろうが、その必要であるかないのかの判断であっても、その人の経済的な事情によっても異なってくるのかもしれず、その人が使える金額に応じて、必要な物事も増えたり減ったりもするわけで、そうした経済的な制限がなければ、人はあれやこれやと何でもやりたがるだろうし、やれることが多くなるほど、それだけ必要な物事も増えてきて、それをやれるのにやりきれなくなってくると、他の人を使ってまでやろうとするわけで、そうなると、様々なことがやれる体制として、集団的な組織形態が必要となってくるわけで、それが社会に存在する企業や政府などの各種団体となってくるわけだろうが、そうした団体内では役職などの役割分担があって、役職や役割に応じてやれることが限られてくるわけだが、何でもやりたがるのにやれることが制限されてしまうと、それに伴って不満も生じてくるだろうし、そういう意味で集団的な組織形態はその内部にいる個人の活動を抑制する傾向にあるが、その中でも何でもやれるような立場というのが、一応は組織のトップに立つ個人となるわけだが、それも創業者であれば、何でもやりながら企業などを切り回してきた経緯があるだろうが、すでにそれなりの規模になった団体に入るとなると、もちろんはじめから何でもできるわけでもなく、決められた役職や役割に応じたことしかできないわけで、またそうした役職や役割に応じて、必要なやるべきことも決まってきてしまい、またやるべきことに応じて、そうしたことをやる価値まで決まってくるだろうし、その人にとってやるべきこと以外の物事には、やるべきことに比べれば、あまりやる価値のないことになるだろうし、そういう面でやる必要とやる価値が一致してくるわけだが、それもその人の団体内の役職や役割に応じてそうなってくるとすれば、その人が自主的に必要や価値を決めているわけでもなく、団体内の組織的な環境が、そうした物事を決めてくるような成り行きになってきて、それだけその人は受動的な傾向になってきてしまうのかもしれず、そういう面でその人の主体性に関して、それなりに制限が加わってくるだろうし、そういうところまで考慮すれば、団体内でのその人の権限や責任の面で、たとえその人がトップの位置にあるとしても、その人の自由な裁量というのは、まずないと考えた方がいいのかもしれず、その代わりにその人の団体内での役職や役割に応じた裁量があるのだろうが、そうなってくると、個人よりも団体の意向の方が優先されてくるのは当然のことだろうが、果たしてもとから個人の意向があったかというと、何かしらあったのだろうし、団体から離れて個人の私的な生活の中では、当然それがあるだろうし、団体内でも団体としての意向を阻害しない限りで、個人の意向が尊重される成り行きもあるかもしれないし、また中には団体よりもその人の立場が上なら、その人の意向に団体を従わせることもできるかもしれないが、果たしてそういうところで、何をどう捉えればいいのかとなると、その場の状況に応じて、人や団体やそれらと関連する物事の動向から判断するしかないだろうが、そういう成り行きの中で、何が必要で何が価値のあることかとなると、判断の基準が個人と団体の間では異なるかもしれないし、また団体内の役職や役割によっても異なるかもしれないし、そういうところで個人の判断に基づいて価値や必要性を決めてかかってしまうと、それが的外れであったり、周囲の賛同が得られなかったり、それによってその人が周囲から孤立してしまったりして、それもその人の団体との関わりから生じる立場や境遇から、そんな事態や経緯がもたらされるのだろうが、逆にそういうことである限りで、その団体と間で関係が切れてしまえば、そんなことは何でもないことになってしまう場合もあるだろうし、そうした団体との間で行われた活動が、他の方面へと作用や影響が及ばない限りで、そこで生じていた何らかの必要性や、その必要に応じてもたらされる物事の価値も、そんな関係性に応じて生じてくるものであり、そのほとんどはそこだけに限定された価値や必要性でしかないのかもしれず、そういう意味で、物事の価値もその必要性も、その場に関わってくる人や団体の関係性からもたらされて、そうした関係性とは無縁の領域では、あまり意味も意義もないものとなってしまうのかもしれず、またそうした関係性の中で人や団体の活動が成り立っているとしても、その関係性自体がその場に固定されているとは言いがたい面もあって、その関係が何らかのきっかけから崩れてきたり、ずれたり外れてくれば、そこで価値や必要性を担っていた物事も、その程度や強度が変容してくるのかもしれないし、そういうところから、以前は価値も必要性も高く、その関係性の中で活動する人や団体にとっては重要な物事だったものが、何かのきっかけから、それなしでも活動が成り立つようになってしまうと、途端に重要ではなくなって、価値もなく不要な無用の長物となってしまう場合もあるだろうし、それが現状の日本では、例えば原子力発電所であったり在日アメリカ軍であったりすれば、多くの人々が喜ぶかもしれないが、実際の成り行きとして今のところはそうはなっていないわけで、それらを無用の長物として廃棄したい人たちは、そこに関係してくる人や団体の活動を、どうやればずらしたり外したりできるかを模索しなければならず、そういう面で人為的にやれることを考えなければならないだろうが、それが現状ではどうにもならないことだとすれば、あきらめなければならないのかもしれないが、人為的にはどうにもならないとしても、それらを取り巻く環境や状況が勝手に変わっていってしまうこともあるだろうし、そうした状況や環境の変化に連動して、人為的にやれることも生じてくるわけで、そういう意味では絶えず同じようなやり方に固執するのではなく、その場の状況に応じて、可能な限りで様々なやり方を試してみるしかないのではないか。


2月13日「他信と自信の関係」

 人が信じられる物事は人によって異なるかもしれないが、たぶん何かを信じているように見える人は、それを過信したり盲信しているようにも見えるから、そうした過剰な面が否定的に感じられてしまうわけだが、その一方で信じることと疑うことが表裏一体となっている可能性もあるのかもしれず、実際に特定の何かを信じれば信じるほど、かえってそれへの疑いの気持ちも深く執拗に感じられてくるのかもしれないし、そこで信じるか疑うかの葛藤が起こって、それなりに思い悩むわけだろうが、そういうところで善意が勝って信じなければならないと思い込むことが、過信や盲信をもたらして、判断のバランスを欠いてしまうのかもしれず、そうした事態を招いてしまう原因としては、信じている対象からよく見られたいという体裁を取り繕う態度にもあるのかもしれず、そういった心の隙をつけ込まれて、甘い言葉をかけられて、相手からよく思われているのだから信じなければならないという義務感も働いて、安易にたぶらかされてしまうのかもしれないが、そういった経緯から特定の人や団体を信じてしまうにしても、そこで思いとどまって判断しなければならないのは、それが詐欺や騙しの常套手段であり、人をたぶらかすための見せかけの演技でしかなく、心底から相手を信頼していないから、そういうテクニックを使って、他人から信頼を勝ち得たいわけだが、それも心理的な範疇のことでしかないだろうし、それに対しては素直にその人が何かを行なった結果から判断すればいいことでしかないのかもしれないが、それも見せかけだけではなく、現実の行為によって他人からの信頼を勝ち取るテクニックもあるわけだから、そうした行為が演技でしかない面があるとしても、判断がそれだけ難しくなってくるわけだが、そもそも他人から信頼や信用を得て、優位な立場や有利な状況をもたらすことに成功したとしても、それは一時的なことに過ぎない場合も多いだろうし、また何らかの行為が、その信頼や信用を裏切る場合もあるわけだから、そうした信じる気持ちが長続きしない場合も多いわけで、そうやって過信したり盲信したりして、その度合いが強いほど、それが裏切られた時には、反動もそれだけきつくなるわけだから、それ自体が相対的な程度の問題にしかならないのかもしれないし、一般的には信じることだけで何がどうなるわけでもないのだろうが、何かにすがりたい気持ちになれば、やはり信じることに一縷の望みを託すようなことにもなるわけで、その結果としてやっていることがうまくいけば、信じたことが間違いではなかったと実感するだろうし、それが時と場合によっては信じることで救われた気持ちになれるわけだから、何かを頑なに信じて、そういった信条を曲げないことが、その人の心の拠り所となっている場合もあるわけだ。そういう意味で信じることが、その人の心理面では重要に思われてくるわけだが、その一方で実際に何かを行うことが実質的なその人の活動の実態となってきて、信じているだけでは確かな感触を得られないから、実際に何かを行なってみて、自らの存在やその能力の有効性を確かめようとするわけで、そうやって良い感触を得られたら、そんなことを行なっている自らを信じられるわけだが、そんな自信が活動の継続にとっては糧となるだろうし、また自信を失うとやっていることを信じられなくなって、それが活動が途絶える原因ともなるのだろうが、自信を失う原因としては、やっていることが周囲から認めてもらえなかったり、それどころが反発を招いたりすると、ますます自信を失うことにもなるのだろうが、逆にそれが自信を深める場合もあるだろうし、特に他から強い反発や反感を招いているなら、逆の意味でそれが他から注目を集めていることになるわけだから、自らのやっていることが何か人の感情を逆撫でるような効果があると思い込めるわけで、それもれっきとした世の中に作用や影響を及ぼす行為とみなせば、何かそういう面で自らが主導権を握っているような気がして、だからそれが炎上商法の類いとして魅力を持つのだろうし、世間の注目を集めるために、そういう部分で勘違いなことをやる人が出てくるわけだが、それはやってはいけない行為をあえてやって見せて、そんなことができる自らが優れているのかのように、あるいは勇気があるかのように見せかけられたと思い込むことにもつながってくるわけだから、それも他人をたぶらかすテクニックの類いとして、見せかけの技術になるのかもしれないが、それは同時に蛮勇を振るうことによって、自分をたぶらかすテクニックでもあるわけだろうし、もちろんそんなことをやっている自身が、自身をたぶらかしているとは自覚できないだろうが、それなりに自己満足や快感を得られるから、特に悪びれる様子もなく平然とそんなことをやってのけるわけだろうが、それでも自分が自分を騙していることには気づけないわけだから、それによって騙していることが証明されてしまい、そういうところでごちゃごちゃと自らの思いに自らの行いがフィードバックしてくるような、わけがわからない快楽を伴うわけで、それを自家中毒と呼べばそれなりに納得できるかもしれないが、そんなことをやっている人を信用できるかとなると、自覚なくそんなことをやっていること自体が、その人を信用できるか否かの面で、どう判断すればいいのかわからなくなってくるところかもしれないが、普通は信用できないと思うわけだが、それを自らに当てはめてみれば、自分にもそんなところがないわけではないだろうし、そもそも自信を深めるという心理状態自体が、自らが自らをたぶらかしている状態なのかもしれないし、そういうところで、誰もがそうしたことを行う可能性があるのかもしれないし、そうであるなら、そんな炎上商法をやっている人を絶対に信用できないとは言えないのかもしれず、実際にその人やその人の行為をよく観察してみれば、そんなひどい人であっても、何かしら信用できる面もあるだろうし、その程度の認識で構わないようなことになると、そういうところからも、自他ともに信じることの相対性が導き出されてくるのかもしれないし、そんな信用もケースバイケースで様々な程度や強度を伴ってくるのかもしれない。

 それが過信や盲信にならない程度で、信じることの効用に結びついていることは確かなのかもしれないが、それでも信じることだけを他の心理作用と比べて重要視するわけにもいかないだろうし、信じることによって他の思いや行為との間でバランスが崩れてしまうと、やはり過信や盲信や狂信などを招いて、その人をおかしな行為や行動に至らせてしまうわけだろうが、実際にそうなってしまっても、その人に自覚がなければ、場合によっては気が狂ってしまったことにもなるだろうし、それもどこまでが正常でどこからが異常であるかの判断に、明確な基準や境界があるわけでもないから、その場の判断からその人が狂人だとみなされても、そうした判断がどこまで信用できるかは、人それぞれで違ってくるだろうし、仮にその人が医療的な判断から狂人とみなされたからといって、特に支障をきたさない限り、その人に対する接し方を変えることもないわけだが、何かそういうところではっきりさせるようなことがなければ、そのままの生活が送れるだろうし、それに関してあまり事を荒立てる必要はなく、たぶん人というのは気が狂うぐらいがちょうど良いのかもしれないし、そういう面がないと、ただの社会的な慣習や制度のロボットでしかないような状況となってしまうのかもしれず、そういった決まり事やしきたりなどに従おうとするにしても、全面的にはそれらに依存できない事情が出てくるから、ロボットではいられなくなるわけで、場合によってはそこから気が狂ってしまうこともあるだろうし、そういう面で社会的な慣習や制度を全面的に信じるわけにもいかなくなるわけで、ほどほどのところで、それらを裏切れるだけの心の余裕を確保しておかないと、やはり気が狂ってしまうわけだろうが、それに関しては例えば有言実行とかにこだわってしまうのも、必ずそれができない場合が出てきて、結果的にそんな自らの信念を自ら裏切ってしまうことからも、自らを信用できない面が出てくるわけだが、何か一度決めたことは守らないと、そうした決まりも決めたことを守る誓いも、信用できないような事態に陥ってしまうから、そこから信用が崩れてくるわけで、そういうところでも信じるということが、その時点では信じられるが、そこから状況や情勢が変われば信じられなくなったり、また信じていることを裏切るようなことを、自らがやらなければならない事態に直面してしまい、そこで信じるということが、何か決まりを守るようなことと連動していて、その決まりを守れたら、信じていることが証明されるような試練に直面してしまうわけで、そうした試練に自らを追い込んでいくと、どうあっても決まりを守れないような状況に陥った時に、錯乱状態となってしまうのかもしれないし、そういうところではあまり自分を精神的に追い込まないような余裕が必要なのかもしれないが、その場の事情がそれを許さないことになってしまうと、やはり追い詰められてしまうから、それが突飛な行動となって現れたり、その最たる行動が自殺になるのかもしれないし、そこでも自分をごまかしたり裏切ってしまえる人は強いのだろうし、そうした強みを活かしてたくましく生きていければ、そこからも社会的な信用が生まれてくるのかもしれず、そうやって自分や他人を裏切ってもなお他から信用されるような人には、それなりに信用されるに値する何かがあるとしか言いようがないだろうが、それをその人の魅力と言ってしまうと身も蓋もないだろうが、魅力であっても構わないのかもしれず、全く信用できないような人が、それでも他から期待されて、しかもその期待を裏切り続けているのに、なおも信用されてしまうような人には、今は状況的に期待を裏切るようなことを繰り返しているとしても、将来の情勢や状況によっては、何かその人がうまくその場の状況にフィットして、何らかの働きをするような期待を抱かせる兆候を感じ取れるから、現状では何か憎めないような数々の失敗を重ねながらも、その人を生かし続けるような成り行きが生じてしまうのかもしれないし、結構世の中には思いの外そう思わせるような人がたくさんいて、実際にその中の何人かが将来成功するのかもしれないし、そうした将来の成功を見越して、現状の失敗などは大目に見ておくような状況が、その場に生じているのかもしれず、そんな状況の中で、そうした将来に役に立ちそうな人の失敗をことさらに批判するような人は、すでに状況から見放されているのかもしれないし、少なくともその場の状況を見誤っている可能性が高く、たとえその批判が正しいように思われても、実際に正しいことをいくらでも述べているのに、何か信用されないような人もいるわけで、そういうところで何が正しくて何が間違っているかについては、はっきりしたことは言えなくなってしまうわけだが、要するにある方面では正しくても別の方面では間違っていたり、あるいは正しいと思われることが、その場では正しくても、そこから状況や場所が変われば、正しいとは言えないようなことになってしまったり、その逆にその場では間違っていても、そこから状況や場所が変われば、正しいとは言えないまでも、特に批判するような間違いでもなかったりして、その辺の微妙な判断に関しては、やはりよくわからない面があるわけで、そういうところであまりも性急に良し悪しを判断してしまうと、そうした判断を裏切るような事態が忘れた頃にやってきたりして、そうなるとその場で性急に良し悪しを判断してしまったことが仇となり、そのことのために他から信用されなくなってしまったり、別にそうなっても構わないのかもしれないし、そんな判断をしてしまった人は、その場だけの人だったのかもしれず、その場の状況が変わればそこでお役御免となって、そこから退場せざるを得ない人だったのかもしれないが、ではそういうところでどう判断すれば良かったのかと問われても、やはりそれもよくわからないところだろうし、その判断の良し悪しを後から振り返れば、どうとでも言えるようなことになってしまうのかもしれないので、そういう面ではあまり判断の良し悪しを云々する必要はないのかもしれない。


2月12日「理想と現実」

 揚げ足取りのように特定の個人にいくらでも悪口が言えるわけでもないだろうが、その人がそこまでに至った経緯や、また現状で活動している内容からも、特有の難点や欠点があげられるかもしれないし、それを難点だとか欠点だとか否定的に捉えるのではなく、肯定的な利点や長所として捉えて活用できればいいわけだが、そんな虫のいい捉え方が全ての面でできるわけでもないとしても、少なくともその逆に全ての面で否定的な見方や考え方の水準に留まっていては、何もできないし、何もやりようがなくなってしまうのかもしれず、そうした物事に関して否定性の水準で何か語っていれば、気楽になれるかもしれないし、ただ何もやらずに文句ばかり言っていられたら、文句を言う対象に関する知識が増えて、また文句を言う技術やノウハウに磨きがかかるかもしれないが、そうなると文句を言う専門家になってしまって、他では使い物にならない人になってしまうのかもしれないし、そういった使い物にならない人が世間的に信用されるかというと、文句を言うことにかけては信用されるかもしれないが、それ以外では信用されないのかもしれず、それがその人にとって良いことなのか悪いことなのかは、その人の判断にまかされている面もあるだろうが、そういう面ではそういうことでしかなく、取り立てて文句の内容に言及するまでもないことであり、それよりは文句を言われる人たちについても、それなりに文句を言われるだけの何らかの否定的なことをやってきたのかもしれないし、そうしたその人がやってきたことや言ってきたことについては、文句を言われても仕方のない面もあるのかもしれないが、だからと言ってそういう面も考慮してなお、そういった人の可能性を信じて、その人のやっていることに賛同したり支持する人もいるだろうし、そういった人の能力の可能性を信じることが間違っているとは言えないが、たぶんその場の成り行きとして、何が良くて何が悪いというよりは、その人を取り巻く状況がその人に何かをやらせる成り行きとなる場合もあるだろうし、いったんそうなってしまえば、それ以前のその人の評価とか信用とかを度外視して、なぜかその人を中心にして物事が動いていくような成り行きも生じてくるわけで、そういう面でその場の状況がその人を作り上げるような成り行きが生じてくれば、その人の過去の評判や経緯がどうであっても、その場の状況に応じた行動が取れれば、それで構わないようなことになってしまい、そうやって良い意味でも悪い意味でも期待を裏切るようなことが行われてしまえば、そこに加わってくる他の人や勢力がどうであろうと、そんな人たちを巻き込んで何らかの情勢が動いていってしまうのかもしれず、そうなるとその人が悪かろうとひどかろうと、そんな評判などおかまいなしに、事が運んでいってしまい、その人が人物としてどうのこうのと文句を言っていた人は、状況から置いてきぼりを食ってしまうわけだが、果たしてそんな成り行きが必然的に生じるかというと、普通は偶然の巡り合わせからそんなことが起こるのだろうが、そういった偶然に巡ってくる機会を捉えられるかどうかとなると、その点に関してはその人の能力がどうというよりは、その場の状況がそうさせる可能性の方が高いのかもしれず、そういう意味ではたとえ現状で評判の悪い人でも、そうした世間的な評判自体が、すでに世間的に注目されていることになるのかもしれず、そういう意味では、何か世間的に成功したり失敗したりした前科のあった人は、またこれからも安易に活躍できる機会が巡ってくるのかもしれないが、だからといってそうした活躍が何を意味するわけでもなければ、何がどうなるわけでもないのかもしれず、ただそういうことも含めて世の中には様々な成り行きから、世間的に注目を集める人が出現するにしても、その人がどうということよりは、そんな人とともに何らかの状況が生じることがあるのだろうし、その状況が政治的な状況なのか経済的な状況なのかはさておき、そうした状況に応じて他の人や団体の活動も変わっていけば、それが現状を変える可能性となってくるわけで、機会を捉えるにはそうした状況が変化する兆候を察知して動くしかないだろうし、もちろん動いたからといってうまく行く保証などなく、結果的に失敗に終わったり空振りに終わったりする可能性の方が高いのかもしれないが、そういうところでも他の人や団体との協力や連携の関係があれば、それだけうまく行く可能性も高まるのかもしれないが、だからといって、組む相手を間違えば、間違った方向へと導かれて、うまくいかないばかりか窮地に陥ってしまう場合もあるだろうし、そういった面で何らかの勢力同士の提携に関しては、それが裏目に出ないように細心の注意を払う必要があるのかもしれないが、その時点ですでに窮地に追い込まれているような切羽詰まった状況に陥っていれば、選り好みはできないだろうし、手を差し伸べてくる相手ととりあえず手を組むような成り行きになってしまい、そうなってしまった時点で失敗が目に見えているような感じになってしまえば、その先には破滅が待ち構えているだけかもしれないが、破滅したところで再起を図れる可能性があれば、それで構わないのだろうし、またその可能性が皆無でも構わないのかもしれないし、かえってそうやって駄目な勢力が潰れてしまった方が、先行きの視界がひらけて、そこから新しい活動が開始されやすくなるのかもしれないし、実際にそうなった時には、後腐れなく旧勢力が一掃されていてほしいのだろうが、現状で再浮上を狙っている勢力としては、まずは自分たちがお払い箱とならないように、必死になって世間の関心を煽って、民衆の支持や賛同を取り付けようとするのだろうし、またそれが政党などの政治勢力となると、何らかのメディアの支援を取り付けられれば、そのメディアを使って宣伝や煽動をやりまくることになるのかもしれないが、そういう成り行きにならなければ、それまでのことなのかもしれず、案外そうなる以前に終わってしまった方が、世の中のためになるのかもしれない。

 政治活動などはその程度のことだと捉えておけば、それが他の様々な活動であっても、その程度のことに過ぎないのかもしれないが、そこであまり深刻に考えるような状況ではなければ、気楽にそういった活動と付き合っていけるかもしれないし、一般の民衆ならそんな成り行きでも構わないだろうし、実際にも経済的な利害が絡んでこない限りで、そんな成り行きになってしまうだろうし、そうやって損得勘定とは無縁の政治活動が行われることになってしまうのかもしれないし、そうであれば何の問題もないところだろうが、一般の民衆にとってはその程度で済ませておいた方がいいとしても、職業的に政治に関与しているような人たちだと、それでは済まないのだろうし、また本業が政治活動になってしまうと、そうはならないわけだろうし、そういう面でお気楽な態度ではいられないわけだが、だからと言ってそれは制度的な態度でしかなく、それに関して国民主権の民主主義の原則論を蒸し返してみても仕方がないのかもしれないが、それに関して現状で何か政治的に行き詰まりを感じられるとしたら、それはいつの時代でも感じられたことかもしれないし、もちろん感じ方は時代によって異なってはいるだろうが、たぶんその行き詰まり感が政治状況を前進させるわけで、行き詰まりを実感して、このままで大変なことになるという思いが、政治を動かすのだろうし、いつでもそうやって危機意識を抱いていないと、現状維持に甘んじてしまうわけで、そして目下のところの政治課題というのがはっきりしているほど、それが現状を変革するための動機ともなるだろうし、そういった課題に民衆の関心を集めて、変革が期待される勢力に選挙で投票するように呼びかけることによって、何か世の中が動くような期待が高まるのかもしれないが、実際にそうなるかというと、やはりそうでもないような現状があるわけで、それが微妙な空気となって世の中に蔓延すると、変革への期待がしぼんでいって、それに替わって現状維持の空気がじわりと膨らむのかもしれないが、それに関しては、あまりそういった政治宣伝を真に受ける必要がなければ、変革の期待など抱かないだろうし、また民衆の間で期待が巻き起こるとしても、わざとそれに重ね合わせる形で、紛らわしい偽の変革を煽るようなことが行われるわけで、そういうことが現状の維持を図ろうとする保守勢力によって画策されているわけでもないだろうが、そういった保守勢力による変革というのが、現状の維持と表裏一体となっているだけに、何かわざと民衆の期待を捻じ曲げてごまかすように誘導しようとしていると思われるのだろうし、また実際の政治的な行為による変革というのも、その程度の変革にとどまることが多いのかもしれないし、そういう意味では変革自体が、民衆の期待とは相容れないというか、そもそも民衆の期待というのも、世論調査で構成される世論や民意といった、メディア上で作られたフィクションとなる可能性も高いだけに、何やらそういったところから、政治に対する幻滅がもたらされて、民衆の政治に対する無関心に拍車がかかるのかもしれないが、たぶんそういったうがった解釈を受け付けないような、何か真の政治的な行為というのが実現できるかとなると、それこそが作り事のフィクションとなりかねず、結局は妥協的で幻滅的な行為が現実的な行為として実際に行われるわけだろうが、そんな行為はこれまでも繰り返されてきたし、またこれからも延々と繰り返されていくのかもしれず、そうした行為に幻滅を覚えながらも、政治的な無関心への同調圧力にも屈せず、なおも理想を追い求めることができるかとなると、今度はそうした理想というのが、妙に現実離れしたおとぎ話のように思われてくるわけだが、ではそこから理想を捨てて現実に行われていることと折り合いをつけて、大人の判断として現状の維持に加担した方がいいのかとなると、たぶん加担する必要はなく、また政治的な理想を捨てなくても構わないだろうし、さらにまた政治的な無関心に同調しなくても構わないのかもしれないし、何かそういうところで子供じみていることが肝要なのかもしれないし、それに伴って、現状では実現困難に思われるような理想を掲げる少数勢力を応援しても構わないだろうし、それは一般の民衆の態度としては最も気楽で最も善良な部類に入るだろうし、そういうところで妙に大人ぶった訳知り顔で保守的な現状維持に賛同する必要はないわけで、どう見ても烏合の衆のように見える、世間知らずで批判や反対ばかりしている勢力を応援していても構わないだろうし、かえってその方が政治的な幻滅からは無縁でいられるのかもしれず、実際に世界中を見渡しても、政治的には大したことは行われていないわけだから、それなら実現不可能な理想を掲げているような勢力を応援している方が、それだけ余裕があることになるだろうし、実際にそういった勢力に主導権を握らせて無茶なことをやらせてみた方が、世の中が混乱して退屈な現状からおさらばできる可能性が高くなるかもしれないし、その方がひたすら安定を求めてじり貧になるよりは、ましなことなのかもしれないが、たぶん民衆の側にそんなことを許すほどの度量や度胸がないから、理想主義的な政治家たちを腐らせてしまうのだろうし、そうした政治家たちが腐ったなれの果てが、現状で主導権を握っている政治勢力に属する政治家たちなのかもしれないし、ただ単に詐欺やごまかしに長けているだけに見えるそうした政治家たちも、昔は理想に燃えていたのかもしれないし、何やら高邁な志を抱いて政治に取り組もうとしていたのかもしれないが、そう思ってしまうのも勘違いな思い込みに過ぎないのかもしれないし、別に政治家が詐欺やごまかしに長けているのは、難点や欠点ではなく、むしろ利点や長所と見ないとまずいのかもしれず、そういう意味では実際に現状で主導権を握っている政治勢力が悪いわけでもないのかもしれないし、そういうところで民衆が抱く現実離れした理想と、現実の政治との間でバランスを取るような作用が働いているから、詐欺やごまかしに長けているように見える政治勢力が政治の場で主導権を握っているのかもしれない。


2月11日「国家の工場化」

 現状の中で何が良くて何が悪いとも思えなければ、現状維持の姿勢に関しても、それが良いとも悪いとも思えないだろうし、だからと言って現状を変革しなくても構わないとは思えないものの、そもそも現状の変革とは何かとなると、ただ漠然と変革という言葉を使って、何らかの勢力が何かをやろうとしているのかもしれないし、そこで具体的な変革のプランがそれなりに示されているのかもしれないが、別にそれに興味があるわけでもなく、それが今のところは空約束に過ぎないと思われる限りで、机上の空論とみなすしかないとしても、別にそれでも構わないだろうが、そうした変革を信じているわけでもないのだが、それとは別に、変革しようとする様々な勢力の思惑を外れて、今のところは誰にもわかっていない何かが動き出すのを期待しているのかもしれないし、その期待が誰の期待とも一致しないことも期待しながらも、そこで期待という言葉に込められた思いというのが、本来の言葉の意味とは一致ないことも承知しながらも、では期待とは何かといえば、そう思っていることに関しては何でもなくはないが、その実態としては何でもないようなことかもしれないし、たぶんそれが結果として、何でもないことになってしまっても構わないのかもしれず、変革への期待にはそういう期待外れの意味も込められていて、変革しようとする誰の思惑からも外れたところで、世の中が変革とは無関係に変わってほしいという思いですらも裏切られるのが、通常の意味とは違う変革なのかもしれず、結局それが公平性という何でもない状態へと人の意識を導いていくことを期待しているのかもしれない。もちろん誰も何も導かなくても構わないだろうし、誰の導きも経ずに、そうなるしかないような結果がもたらされれば、誰もがそこで思い通りにはならない現実に直面するのかもしれないが、実際にそうなったとしても、誰もそうは思わないだろうし、絶えずそこから自らにとって都合の良い面を探し出そうとして、それを探し出せれば、そこを強調して宣伝したり煽動すれば、それがその人にとっての思い通りの結果となるのかもしれず、それはそんな思い込みの中での思い通りなのだから、客観的には思い通りであるはずがないのだろうが、当人が思い通りだと思っている限りで、当人にとっては思い通りなのだろうし、そうやって思い通りの結果を導き出すために、そこに介入してくる各人が、各人の思い通りの結果がもたらされたと思い込んでいれば、それで済んでしまうとは思えないが、そんな思いの中の現実と実際の現実とが違うとしても、その違いを認識できなければ、思いと実際の現実が一致しているとも思い込めるし、そうであるならそれで構わないのかもしれず、何かそういう面で、その人が思い描くご都合主義的なフィクションの果たしている役割が大きいのかもしれないが、現実の世の中にしても、そこに存在する様々な人が、自分にとって都合の良いフィクションを現実から抽出できれば、それで丸く収まるような世の中なのかもしれないが、中にはそれでは丸く収まらない面もあるのだろうし、そういうところでは対立や争いが絶えないのかもしれないが、実際に争って勝敗が決すれば、勝った側ではそれなりの満足感を得られるし、また勝った側がその場での主導権を握れば、負けた側の不満を抑え込むのにも成功して、そういう成り行きでも丸く収まったように見えるかもしれないが、そういった勝ち負けが伴うような争いは一種の儀式であり、ルールに基づいて形式化された争いでもあり、それがフィクションだとは言えないにしても、争った結果として、争いに決着がついたように見せかけるための演劇なのかもしれないし、それが勝者の栄光によって、争いの醜い実態から目を背けさせるための制度であることは確かだろうし、そういう意味で勝利とは、争いが終わりなき闘争であることを束の間忘れさせるためのおまじないの類いでしかないのかもしれないが、そうやって人目をごまかすことに成功すれば、そうしたスポーツと化した争いにも継続の可能性が出てくるのだろうし、そういうやり方の形式化された儀式によって、世の中の安定が図られて、それが民衆の不満や文句や批判を黙らせる効果があるのかもしれない。もちろんそういう面を否定的に捉える必要もなく、そこで争いが人為的に制御された社会が構成されていれば、それなりに安心できるだろうし、そうした安心が民衆に支持されているから、内戦を伴うような暴力革命よりは、選挙によって政治的な主導権を握った勢力が、民主的な変革を行うことが期待されているわけだが、その変革の中身というのが、やはりおまじない的な儀式や演劇でしかなければ、やはり期待外れだと思うだろうが、それを期待外れだとは思わせないようなフィクションを提示できれば、何やら民衆から支持が得られるかもしれないが、政治勢力による変革が現状でそれほど期待されているかとなると、ただそれは選挙などで争うための方便のような感じもしないではなく、そういうところで実現できない空約束をいくら提示されても、それは何でもないことでしかないだろうし、具体的に現状で問題になっていることに関して改善する見通しが立たない限りは、それを変革することができないわけだが、しかもその問題となっていることに関して、そこに構成されている利害関係を壊さないと問題を解決できないのに、そうした利害関係に現状で主導権を握っている政治勢力が深く関わっている場合には、それを壊すわけにはいかないので、ますますそういった方面での変革の可能性が遠のくのかもしれず、そういうところで宣伝文句としては変革を掲げることがあっても、それが実際の変革には結びつかないと判断するなら、それがそういう面での変革を期待できない事情となるわけだが、政治的な面ではそうであっても、そうした変革とは無関係に、世の中が変わり続けている面があることも確かだろうし、そういう意味で政治に変革を期待するというのとは違った何かを、期待せずにはいられないわけでもないだろうが、期待外れでも構わないような現状でもあるわけだ。

 要するにそういう思いは、思いがけない出来事が起こるのを期待しているのかもしれないが、誰もがそんなことを思っているわけでもなく、またその思いがけない出来事が起こっているのに気づかない場合もあるだろうし、それを期待していて、実際に期待していたことが起こっているのに気づかないとなると、それに気づかない自らが期待外れなのかもしれず、そういう意味で期待外れでも構わないということなのかもしれないし、人はそうやって世の中の変化に気づかないままでも、普通に生きていられるだろうし、かえって多くの人たちが気づかないからこそ、それらの人たちが知らない間に、世の中が変わっていくのかもしれず、そういう意味では誰もが気づくような大きな歴史的な転換点よりも、そういった変化の方が実際に世の中を変えている可能性が高いのかもしれないし、かえって思いがけず起こったように思われる革命などの歴史的な転換点を用意するのも、そのような誰もが気づかないままに起こる変化なのかもしれないが、例えばなぜフランス革命が起こったかというと、対外戦争の出費や宮廷の浪費などによる財政危機と、天候不順で農作物が育たずに飢饉状態なったりしたことが、主な原因と考えられてはいるが、それだけでは王制が打倒されるわけでもないだろうし、それ以外の要因として、世の中の様々な面で産業が発達してきて、その中で特に様変わりしたのが、工場の出現であり、それと同時に学校でも病院でも軍隊でも刑務所などでも、人を集団として管理する技術が目覚ましい発展を遂げて、それらが皆、工場のように集団で合理的かつ効率的に作業するような形態となっていったわけで、またそこから人を集団で管理するためのシステムとして官僚機構も発展していったわけだが、結局発端はどうであれ、国民を集団として管理統治するためには、国家形態がどうあるべきかとなると、非効率で無駄なものは要らないように思われてくるわけで、結局それで王制は要らないという結論になったわけだが、国家が工場だとすれば、民主主義も要らないようにも思われてくるわけで、それがナポレオンの帝政にも結びついたわけだろうが、それでもやりすぎな面があったから、また君主制に戻ったり、さらにまた共和制や再度帝政も復活した時期もあったが、最終的には共和制にまた戻った経緯もあるわけだが、そのような工場的な人の集団管理体制の問題点にいち早く気づいたのが、実際にイギリスの工場で劣悪かつ危険な環境で長時間低賃金労働を強いられていた労働者の惨状に衝撃を受けたマルクスだったとしても、マルクスの後継者を自認する人たちは、国家の工場化にそれと気づかずに突き進んでいってしまうわけで、それがスターリンや毛沢東だったわけだが、一方でヒトラーも国家の工場化を目指したわけであり、それには人種的にも民族的にも同質で、ただ何も考えずに指導者に盲従する従業員としての国民が必要とされたわけだが、そこにもフランスと同時期に、官僚機構の指導の下に国家の工場化を目指したプロイセンの伝統が息づいていたのかもしれないし、またプロイセンでは立憲君主制だったので、それに明治維新当時に海外視察を行っていた日本の官僚たちも目をつけて、プロイセンの制度や法律を日本にも採用したわけだろうが、マルクス自身は19世紀のイギリスにいたわけだから、国家の工場化自体には気づかなかったとしても、20世紀入ると、フランスでフーコーやドゥルーズ=ガタリなどがそれに気づいたわけだろうし、中でもフーコーはフランス革命前後の時代に、いかにして人の集団的な管理統治技術が発達していったかを、『監視と処罰』(邦題では『監獄の誕生』)で、フランス革命自体には一切触れずに詳細に物語っているし、ドゥルーズ=ガタリも『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などで難解に語っているのかもしれないが、結局マルクスと共産主義を結びつけて恐怖を煽るような人たちは、工場的な国家の管理統治には気づかないばかりか、実際に国粋主義的な人たちは、国家の工場化をさらに推し進めようとしているのかもしれないし、またドゥルーズの難しい哲学書を読み耽っているような頭のいい人たちも同様に気づかないだろうし、たぶんフーコーの『監視と処罰』を読めば嫌でも気づくはずだろうが、それでも刑務所内の人権問題などへと矮小化して問題を取り扱うようなことになってしまっているのかもしれず、そういうところで、フーコーやドゥルーズ=ガタリ以外は誰も気づいていないのに、実際にそうなってしまっている現実があり、また彼らが彼らなりのやり方で、そうしたことに関しての書物を著して、世界中で多くの人たちがそれを読んだにも関わらず、依然として本当の工場とともに工場的な国家体制も世界中で推し進められているだろうし、別にそれ自体が問題だとは思われていないばかりか、それが当たり前のこととなっているわけだから、そういう面では人為的には変革しようがないわけだが、それでもそれと気づかずに、工場自体の作業形態もそれなりに進化しているわけだろうし、また工場自体が企業形態の中では部分的な要素になってしまっていて、企業内の人員の管理統治体制も昔と今では様変わりしている面もあるだろうし、それが政府の官僚機構の体制や官僚機構が国民を管理統治する体制にも、それなりに影響している面もあるのかもしれないが、そういうところで政治問題化する人々がそれに気づいているかとなると、たぶん気づいている面もあるのだろうが、それとこれとをリンクして考えられるかとなると、それよりも民主主義の方に気を取られてしまうだろうし、民主的なやり方と官僚主義的なやり方とを対立的に捉えて、制度や機構を民主的なやり方にしようとしているわけで、たぶんそこが工場的な国家統治に気づきにくくしているところかもしれないし、それ以前にすでに学校教育の段階で、工場的な管理統治を当然のこととして受け入れて、通過してきてしまっているわけだから、そこで免疫がついてしまっているから、それに気づかないような意識が形成されてしまっているのではないか。


2月10日「衝撃的な出来事」

 過去に起こった出来事の中で、それがその時点で誰も予想もしていなかったような思いがけない衝撃的な出来事であれば、その出来事が多くの人々の記憶に残って、またそういった出来事が歴史文献などにも記されることが多いのかもしれないが、その一方で、何でもないような些細な出来事でも、それがその時代の世相を反映する何らかの兆候を示しているようなら、そうした出来事が当時の世の中の状況や傾向を物語っているだろうし、またそんな出来事と似たようなことが現代の世の中でも起こっていたら、それが当時と今とで世の中に同じような作用や影響を及ぼしている場合もありそうで、そういう世の中の状況や傾向を物語るような出来事を、過去の時代の中で探してみれば、それが現代の時代を理解するのにも手助けとなるのかもしれないが、それが具体的に何かとなると、過去の時代について記された文献などを詳しく調べてみないことにはわからないだろうが、たぶんそんな昔のことでなくても、つい最近に起こった出来事であっても、世の中の状況や傾向を物語るようなことがうかがい知れるかもしれないが、それが何を物語っていようと、そこから何がわかるとしても、興味のない人には意味のないことかもしれないし、そういった物事はごく限られた人にしか理解されないことになってしまうのかもしれないが、そういう特定の出来事からうかがい知れる兆候に、何か現代の現状を象徴するような特徴が表れているのかもしれず、またそういうところから、現代に生きている人々の意識の深層心理に働きかけるような、何らかの作用や影響が及ぼされているのかもしれないが、そうした兆候を伴った出来事に関して、それが些細なことだとは思われないような、またある意味では深刻に受け取られるような話題として、例えば、不満だらけの生活環境にある人ほど、そうした不満のはけ口として、児童虐待などの弱い立場にある対象に向けての攻撃に転嫁されるような傾向があるとすれば、そういう出来事が頻発するような社会では、メディア上では盛んに様々な欲望を煽るような宣伝や煽動が行われているにも関わらず、現実には経済的な事情などで、その欲望を成就できる人の割合が少ないと、社会の中に不満が渦巻いているような状況となって、結果的に児童虐待などが頻発するような社会情勢となるのかもしれないが、もちろん児童虐待が頻発する理由として、そんな粗雑な推測が当てはまるとは思えないにしても、そうした傾向にも程度の問題があるだろうし、またいつの時代でもそんなことは起こっていたのかもしれず、それを取り立てて現代に特有な兆候や傾向として問題視するのも、的外れかもしれないし、またそうした問題に関して、現状が過去の時代と比べて、取り立ててひどいわけでもないのかもしれず、しかもそんな憶測を用いて、そうした社会問題などをもっともらしく語る行為自体も、いつの時代でも語られてきたことかもしれないし、またそれを安易に政治問題化させて、児童保護などに関して行政の制度を改めなければならないと主張することも、そんな事件が起こる度に言われてきたことかもしれないし、そういう方面で有効に機能するように、公的な制度を改善しなければならないのは当然のことだとしても、そうした制度的な改善だけではどうにもならない面もあるだろうし、たぶんそうしたどうにもならない面が、それについて語る余地を生じさせていて、社会の中で否定的に見えるそうした面を改善させることに関して、何やらもっともらしい意見がメディア上で主張されることもあるのだろうが、たぶんそういうこととは違って、もっと単純な傾向として、公的な制度が人の私生活に干渉しようとする兆候があって、人の状態や状況をできるだけ正確に詳しく把握しないと、きめ細やかな対応ができないから、人の行動や活動を徹底的に監視するような成り行きになってしまうと、それが単刀直入に街中が監視カメラだらけの監視社会になりかねない問題が出てくるわけだが、そして行政機関などから私生活を監視されたり、場合によっては介入してきたり干渉されると、当然不快になるから、なるべくそういった監視や介入や干渉などをされないように、一般の民衆の側で自己防衛することにもなるわけで、そういう面で監視社会にはしないで、しかもきめ細やかな行政機関による対応が求められてくると、現状のやり方ではうまくいかない面があるだろうし、そういう部分でどちらの側にもジレンマがあるのかもしれないが、それでも現状で改善できる面は改善するとしても、それが根本的な解決にはなり難いことは承知しておくべきかもしれないし、常にそこで人ができることに関してのせめぎ合いが生じていると捉えておくべきで、一方が何かをやれば、もう一方はそれに対応して、そのやったことへの対策を立ててくるわけで、そういう面で一定の決められた動作しかできない制度的な対応だけでは後手に回ってしまうのは否めないし、それが制度的な限界でもあるわけだが、またそういう意味ではそれが制度の特徴だと言えるだろうし、仮にそれが制度の限界だとしても、決められた手順や枠組みを定めるという面では、制度が社会の中で有効に機能している面もあるわけだから、結局制度はそういう面で有効に機能していればそれで構わないわけで、それ以上の機能を制度に求めない方が妥当なのかもしれないし、そういうことを踏まえて対応するとすれば、制度から逸脱した対応が求められてしまい、そうした部分が制度を運用する側に求められているかというと、そうでもないだろうし、結局そういう部分で制度の限界に直面すれば、自然と事なかれ主義にならざるを得ないだろうし、制度的には弾力的な運用とか柔軟な対応とかは求められていないのだから、そうなると行政の側では責任逃れとも受け取れる対応になるしかないだろうし、そしてそういう部分で何やら改善策が模索されるとしても、それが制度的な対応である限りで、制度やそれを裏づける法律から逸脱するようなことはできないし、実際にやらないだろうし、そういう面ではそれで構わないようなことになってしまうのではないか。

 そういうことになると、よその国ではどうとか、何やらそういう面でうまくいっている事例を探し出してきて、我が国でもそうすべきだと声高に主張する人も出てくるわけだが、そういうことなら、できる範囲内でそういう国の制度を見習えばいいだろうし、それで物事が解決するならお手軽な作業となってしまうわけだが、たぶんそういうこととは別の方面で、行政のあり方がどうのこうのとは違う次元で、特定の誰かが生きている実態があるのだろうし、その誰かが自分自身のことを考える時には、まずは自身の活動を優先しなければならないだろうし、それが公的な制度や法律に違反するようなことをやっていようと、公序良俗に反するようなことをやっていようと、成り行き上そうなってしまうと、大抵の場合はそれをやめるわけにはいかなくなるだろうし、やめられなければ、そういうことができるということであり、実際にできることをやっている実態があるわけで、それをやれる状況の中で行なっていることになるわけだが、そうしたことが他にばれると、それが法律や制度に反する行為であれば、それをやめさせるような成り行きにもなるだろうし、またやってしまったことの責任を取らされて処罰されるような成り行きにもなるわけだが、そういう成り行きがあるとしても、そうなってしまうのを未然に防ぐような対策も求められていて、それも公的な面では法律や制度によって講じられていて、一定の手続きや誘導や制御的な対策がとられて、それが制度として社会の中で機能しているはずなのだろうが、結局はそれもそういうことが事前に決められていて、そうした制度に従うような決まりになっているわけだが、要するにそうした決まりを破れば、破るような行為を行える限りで、それができるということになってしまうわけで、決まりを設ければ、当然それを破ることもできるわけで、決まりとはそういうものだろうし、それ以外ではないわけだが、それでは決まりを作った側が納得しないと、決まりを守らせようとするわけで、その決まりを守らせようとする行為が、権力の行使となるのだろうし、それが公的な権力の行使となれば、行政側では主にそれが警察権力の行使となるだろうし、そうした権力の行使に逆らえば処罰されるわけだが、そうした権力の行使であっても、実態としては何かが起こってからでないと対応できない面があるわけで、要するに何かが起こってから、その起こったことが制度や法律に反するような行為であれば、それを処罰するようなことが行われるわけで、また制度や法律に反するとは言えない行為であっても、それが社会的に問題となるような行為であれば、新たに制度や法律を作って、そうした行為を規制するような成り行きにもなるだろうし、そういう意味では常に制度や法律は、起こってしまったことに対して適用されるようなこととなってしまい、起こるのを未然に防ぐようなことには不向きなのかもしれないが、それを補うために講じられるのが監視だろうし、人々を監視することによって、人々が監視されているのを意識すれば、何か違法行為をやってもすぐにばれてしまうから、やらないようになるというのが、そこに適用される理屈なのだろうが、果たして公的な機関が社会の隅々にまで監視の目を光らせることができるかというと、現状では不可能だろうし、監視にしても不完全なままになっている現状があるだろうし、さらに違法行為を行えば処罰されるのを恐れるから、それも未然に犯罪を防ぐ抑止力が期待されているわけだが、それもある程度は効果を発揮しているとしても、実際に犯罪がなくならない現状があるのだから、そうした効果にも限界があるだろうし、結局は監視にしても処罰にしても、違法行為をなくすには至らないような対応でしかないわけだが、行政としてはそれをさらに強めるようなことをやりたいのかもしれないが、予算的な面でも技術的な面でも現状では実現できないだろうし、やる必要もないのかもしれないし、それが行政側にとってはできないことになるわけだが、それに対して一般の民衆の側でも、何でもかんでも行政に依存しているわけではないし、別に全てを行政に委ねるつもりもないだろうし、自己防衛できることは自分たちでやらなければならないと思うのが普通の感覚だろうが、それでも行政の至らない点を指摘して批判することもあるだろうし、また批判したからといって、行政に全面的に依存しようとしているわけでもないし、そういうところではそれはそれであってこれはこれでしかないわけで、それ以上の過剰な対応を求めているわけではなく、求められないことも承知しているはずだが、そこである一面を強調して拡大解釈してしまうと、認識のバランスが崩れて、そうした面を過剰に煽り立てるようなことも起こってしまうわけだが、いくら煽り立てても、そうした面だけではどうにもならない事情があるだろうし、他の面とのバランスを見ないと、おかしな認識となってしまうわけで、しかもそんな認識になっても、現状はそうはなっていないわけだから、そうした過剰な煽り立てを真に受けて生じる偏向した現状認識によって、現状に関して誤った判断や解釈をしてしまう人も出てくるわけだろうが、そうであっても構わないような立場や境遇もあるだろうし、別に誰もが正確な現状認識など持ち合わせていなくても生きていけるような社会情勢となっていれば、それでも構わないような成り行きになってしまうわけで、しかもそうした煽り立てをやっている勢力にとっては、それを真に受けて賛同してくれる人たちが必要なのだから、まさに願ったり叶ったりの状況になっているのかもしれないし、そういう面まで考慮に入れれば、現状のままで何ら制度的な改善がされなくても、誰も困らないような状況となっているのかもしれないし、むしろ今よりもさらに状況が悪化してくれた方が好都合な勢力もいるのかもしれず、そうした勢力によって、盛んに人々の現状認識を歪ませるような宣伝や煽動が行われて、さらに民衆の心理状態がおかしくなっていく傾向にあるのではないか。


2月9日「理屈と論理」

 なぜか成り行き上そうならざるを得ないような循環論的な論法は、理屈としては破綻しているのかもしれないが、それが避けられない成り行きとしては、例えば商品を作って流通させて販売するのに投入された労働量と商品の価格の関係を論じる際に発生する問題でもあるだろうし、人が活動する成り行きを説明しようとすれば、多かれ少なかれ何らかの循環論に陥ってしまうのかもしれないが、その一方で、一見破綻していないように感じられるもっともらしい理屈というのは、安易で浅はかな人ならそれを信用するかもしれないが、そのもっともらしく思われると同時に違和感を伴う感覚というのが、理屈に従って語っている範囲内で、理屈に合うようなことばかり選んで論じているように思われる限りで、否定的な印象を抱いてしまい、そういった理屈は、それと自覚しないで使っている場合があるにしても、それが意図的かつ恣意的な思惑とともに、何か偽装的なごまかしを伴っているようにも思われて、それを使って何を説明するにしても、全面的な支持や賛同を得るには不完全に思われて、では他にどうやって物事を説明できるのかという疑問とともに、どうにもうまく処理できないような面があり、そういうことまで考えてしまうと、結局は苛立ちや焦りしかもたらされないのかもしれないが、そういった不完全で疑わしい理屈を持ってしか物事を説明できないことが、他に説明できる理屈がなければそれで構わないような状況を許してしまうのかもしれず、そういう意味では物事を完全に説明できる理屈があるわけがなく、そこには少なからず不完全な面が付きまとっていて、そこを突かれて他から批判されて、理屈が合わないような面が明らかにされるとしても、そういった批判にしても、そんな批判によって相手を論破したように装うことはできるだろうが、批判に用いた理屈にも不完全な面があるから、そこで論破したことをことさらに強調すれば、すぐさまそれが宣伝や煽動へと堕してしまい、そういった論破を強調する浅はかで愚かな人々とともに、そんな宣伝や煽動を含んだ主張や意見の循環状態へと巻き込まれていってしまうわけだが、それを真に受ける人も少なからずいるだろうし、中には何とかしてそれらの主張や意見とともに、他の多くの人々の支持や賛同を集めて、そういった論争的な場で主導権を握ろうとする思惑もあるのかもしれないが、それが政治的な勢力争いなどにつきもののつかの間の主導権であるとしても、自分や自分たちの勢力がその場で優位に立ったことを強調して、そうした結果をまたこれ見よがしに宣伝したり煽動して、さらに多くの支持や賛同を集めて悦に入りたいわけでもないとしても、そういう人にとってはそういうことをやるのが生きがいになるにしても、他の人にとってはそうでもないわけだから、それに成功してその人が自己満足に至るとしても、やはり他の人にとってはそんなことはどうでもいいことになってしまうわけで、そういった成り行きはどう見ても、それ以外の何がもたらされるわけでもなく、そんな状況が、そこで主導権を握っているつもりになれる人や勢力以外には、そんなに心地良い状態だとは感じられないわけで、そう思ってしまう面では、そこでそんなどうでもいいことをどうでもいいことではないように見せかけるやり方が失敗しているのかもしれないが、たとえそれが失敗しているとしても、何か他で成功しているように感じられることがない限りで、そうしたやり方がとりあえずのやり方としてはそれなりに成り立っているのかもしれず、ただそれが成り立っているように感じられるだけかもしれないが、たぶんそんなふうにならないようにするには、それなりに理屈を用いるにしても、それで説明できる範囲を限定すべきかもしれないし、それ以上は求めないことが肝心であり、それ以外のところでは、そうした説明が不完全であることを認めながらも、ある程度はそれで説明できることは示しておけばよく、それ以上に説明しなければ、そこから外れた部分で理屈が成り立たなくても、そういう面があるということで済むのかもしれないし、そういう面がある意味では循環論的な面なのかもしれないが、それはその人の活動に特有の完結し難い面であり、確かに何かを行なった後から、理屈によってそれを説明できるかもしれないが、それとともに理屈では説明しきれない面もあって、その説明しきれない面というのが、偶然の巡り合わせとしか言えない面なのだろうが、それを理屈で説明しようとすると、偶然を必然に置き換えるようなごまかしを伴ってきて、それが違和感を伴って理屈の不完全さを露呈してしまうわけだが、そういうところで妥協的なやり方として、確率統計的なアプローチがあるにしても、それを用いて何かを説明しようとすると、確率的な現象であるのに、必然的な予測や予想を断言口調で語る羽目になって、そういった言説が確率統計的なやり方と矛盾してしまい、何かおかしなことを述べている実態が明らかとなってしまうのかもしれないが、そういうところで踏まえておかなければならないことは、行為が先にあって、それを後から理屈を用いて説明するにしても、そこからその行為に適合するように思われる理屈を用いて、これから起こる出来事や現象を予測したり予想するのは、何か本末転倒な印象を伴ってくるわけで、しかもその予測や予想が当たったからといって、予測や予想した人が、これから起こる出来事や現象を制御しているとは言えないわけで、それらの出来事や現象の中で主導権を握るのは、事前にそれが起こることを予測したり予想したりする人ではないだろうし、そういう部分で断言口調で予言者気取りになってしまう人たちに勘違いが生じているのかもしれないし、もちろんそんな人たちが世の中の主流を構成しているわけでも、主導権を握っているわけでもないのだが、そういう人たちは何らかの事情から、これから起こる出来事や現象を断言せざるを得ない状況に追い込まれているのかもしれないし、そうした予測や予言が当たって、世間から信用を得たいという願望を抱く成り行きに、意識が絡め取られているのかもしれないが、何らかの理屈を用いてすでに起こった出来事や現象を説明できるにしても、その理屈を用いてこれから起こる出来事や現象を言い当てようとすると、やはりそういう面が論理的におかしくなってくるわけだ。

 言葉の意味としては理屈も論理もそれほどの違いはないだろうが、これまで継続してきた物事の流れの延長上に未来があると考えるのは、その場の状況が安定していれば、ある程度は誰もが予測も予想もつくことではあるわけだが、それをそうなると断言することに何か意味があるかとなると、特にそうなったところで、状況としては当たり前のことになってしまうだけだろうが、そういう面では、そうなることを予測したり予想して、それが当たったとしても、状況には何もインパクトを与えていないことになるだろうし、それとは違って状況に真のインパクトをもたらすのは、誰も予測も予想もつかなかった想定外のことが起こる時であり、それは現状の延長上で起こるようなことではなく、現状の成り行きとは不連続なことが起こるわけだが、それは過去にも起こってきたことであり、現状の中には過去から連続していることも確かにあるが、過去とは違うこともあるから、現代には過去とは違う現状があるわけで、それは未来についても言えることかもしれず、現代から未来へと引き継がれる物事も確かにあるだろうが、未来には現状にはない物事が生じるだろうし、それを現状から予測したり予想したりするのは困難であり、それを現状の延長上で考えて、予測したり予想しようとするわけだから、当然そこには論理的に噛み合わない面があるわけで、そういう面では何かを予測したり予想したりするのとは違った、現代についての思考が求められているのかもしれないが、それは過去においても求められていたことでもあり、たぶん未来においても求められることなのではないか。それは現代とは何かという問いに答えることにもつながるのかもしれないが、ただ漠然とそんなことを考えてみても、取っ掛かりも手がかりも何もないのかもしれず、それについて少なくとも言えることは、こうなるべきとかこうするべきという自らの願望を未来に押しつけるようなことではなく、現状の中で変化の可能性を感じ取ることであったり、また現状の中で生じている成り行きから逸脱する可能性を感じ取ることでもあり、さらに現状で生じている傾向や方向が微妙な変化する兆しを感じ取ることでもあるだろうし、そういう意味では些細なことでしかないわけだが、それが良い傾向や方向への変化だと思うなら、積極的に肯定すべきことのように思われるかもしれないが、特にそれを肯定したり賞賛したりする必要もないだろうし、それよりはそういった変化に同調できる面があれば同調すればいいし、それも無理して同調しようとするのではなく、自らに同調できる余地がある限りで同調すればいいようなことでしかないだろうし、そこで主導権を握っているのは、あくまでも変化を起こしている当事者であるのだから、そういうところへと無理して強引に介入しようとしなくても構わないわけで、変化の邪魔をしない程度に見守っていれば、それで済んでしまうようなことかもしれないし、そうではなく積極的に参加すべきことなのかもしれないが、どちらであっても構わないようなことなのではないか。またそれが悪い傾向や方向での変化と思われたら、それを批判したければしても構わないだろうが、特に批判しなくても構わないだろうし、ただ違和感があれば、どうして違和感を感じるのか、それを考えてみても構わないし、考えてみても答えが見つからなければそれでも構わないが、何か答えが見つかれば、それを表明してみても構わないのではないか。そして変化を促している要因が、どのように現状の社会に作用しているかを考える上で、何らかの論理が導き出されるかもしれないし、そうした論理に従って関係する物事について考えてみるのもいいだろうし、そしてそういうことを考えながらも、自らができることを模索していくのも、現状の中でやれる可能性のあることの一つだろうし、とにかくそういうことについて言えるのは、全員で一つのことをやろうとするのではなく、できる人ができることをやるしかないだろうし、そのできることが人それぞれで違っているかもしれないし、また一緒になって同じことができるかもしれないし、そこで協力や連携の関係を築けるかもしれないし、築けないのかもしれないということであり、そこで誰が何をやるにしても、そうした事情が絡んできて、自ずからやれることが限られてくるだろうし、その中でやれることやっていくしかないのではないか。それが現状の変化につながることもあるだろうし、つながらないこともあるだろうし、変化とは全く関係のないことをやる羽目になってしまうこともあるのではないか。そして現状の社会で生じていることはそういうことなのかもしれないし、またそうではない面もあるだろうし、そうではない面ではそれとは異なることが行われているはずだが、そこでも現状では意識できない何らかの変化の兆しが起こっているかもしれないし、それを感じ取ろうとしている人がいるかもしれないが、それを知るに至れば、そういう変化に伴って生じている論理を考えてみればいいだろうし、実際に何らかの論理的な整合性を満たすような人や物や情報の動きがそこで起こっていれば、そうした論理がそこでの変化に伴って有効に働いていることになるだろうし、そうした論理を知ることによって、それを使ってそこでの変化をうまく説明できるかもしれず、そうした変化を知ることが、現代とは何かという問いに答えることにつながってくるのかもしれず、またそれは現代の世の中で作用している論理についての知識を深めることにもつながるだろうし、そこから未来への可能性を知ることにもつながるのかもしれないが、それは予測や予想とは違った方面から知ろうとすることになるだろうし、特にそれを知ろうとすることが、未来に起こる出来事や現象を当てるとかいうのとは違って、予測や予想が当たる当たらないの次元で物事を考えているわけではなく、当たろうと外れようとどちらでも構わない姿勢を保ちながら、その上で未来への可能性を知ろうとしているわけで、それはあくまでも可能性であり、必然的にそうなると断言できることではないわけだが、そういうことを考えることが、未来への備えとなっていくのだろうし、また未来への変化を促すことにもつながるのではないか。


2月8日「何も語れない事情」

 たぶん何かを語る際には、語るのに不都合なことは、普通は語らないだろうし、それよりは語るのに都合の良いことを語りたいわけで、その人にとって語りやすいことを優先して語りたがるだろうが、では語るのに不都合なこととは何かといえば、例えば語ろうとしてもうまく語れないようなことは、確かに語るのには不都合だから、語りたがらないだろうし、それでも語りたいかというと、実際に語れなければ、いくら語りたくても語れないだろうし、その反対に語るのに都合の良いことなら、実際に語れるだろうから、語れないことよりは語れることを語るしかなく、中には語りたくなくても、その人の意志とは関係なく、語らされてしまうような成り行きというのもあるのかもしれないが、普通に考えて、語るのに都合が悪いことを語りたいかというと、普通は語りたくはないはずだが、もっとわかりやすい例として、それを語ってしまうと、語っている自らが不利益を被るようなことなら、それが事前にわかっていれば、普通は語らないだろうし、無理にも語らざるを得ないような状況に追い込まれたら、観念して語るかもしれないが、果たして語る以前にそんなことがわかるかというと、事前にそれがわかれば、避けられる限りで、確かにそれについて語ることは避けるかもしれないが、わからなければ避けようがないだろうし、それと自覚することなく、自らの不利益になるようなことを語ってしまう場合もあるかもしれないし、しかも語ってしまってからも、その自覚がないままだと、たとえ語ってしまったことによって不利益を被ったとしても、それを覚えていないのだから、なぜ自らが不利益を被ったのか理解できないかもしれないし、さらに自らが不利益を被っていることすらもわからなければ、結局それは何でもないことになってしまうのかもしれないが、不利益を被っていることが何でもないことだとは思えないにしても、それがわからなければ、そうやって人は知らないうちに不利益を被っているかもしれないのだが、被っているのはそれだけではないだろうし、不利益だけを被り続けていれば、たぶん人は生きてはいけないだろうから、他にも知らないうちに利益も得ているのかもしれないし、それは語ること以外からでも、知らないうちに利益を得たり不利益を被ったりしていれば、全体として利益と不利益の釣り合いが取れていることになるのかもしれないが、それでは何が利益で何が不利益なのかわからないままだろうし、そのわからない何かを利益だとか不利益だとかみなすこと自体が、何か誤った認識かもしれないし、そうであるなら自覚できないことにまで、利益や不利益という概念を拡張しない方が無難かもしれず、少なくともそういった概念について考えられるのは、自覚できて承知している範囲内に限っておいた方がいいのかもしれないが、それでも語るに際して、語るという目的を意識できれば、語るのに不都合なことは、不利益を被るから語りたくないことだとみなせるかというと、そう簡単には決めつけられないだろうし、それよりは、それについて語りたいのに語れないこととか、語りようがないこととか、やはりそういうことも、語るのに不都合なことに含まれるわけで、世の中にはそうしたうまく語れないことがあって、実際にそれを語れないから、世界の全てを語れないという事実があるのかもしれず、そういうことも含めて、人が何かを語っている現実というのは、ただその人にとって語りやすいことを語っている実態がある一方で、語りにくいことはうまく語れないので、語りたがらないということもあるだろうし、それがその人の語る上での限界を形作っていることも確かであり、またその人が語れないからといって、別の人ならそれを語れるかというと、語れる場合もあるだろうが、やはり別の人であっても語れないこともあるだろうし、要するに誰にとっても語り得ないことがあって、誰にも語り得ないことが誰かに語れるわけでもないだろうし、だから人が語れることが世の中の全てではなく、世の中には誰にも語り得ないようなことがあるとみなしておけば、それが全てではないということに関しては、それは語る内容にも当てはまることになるだろうし、たとえその人にとって都合の悪いことが語られていないからといって、それはその人には語り得ないことであるとともに、他の人にも語り得ないことである可能性もあるだろうし、そういう面でその人にとっても他の人にとっても、語る内容に限界があることは認識しておくべきだろうし、そういう面を考慮するなら、その人に向かって全てを語るように無理強いする必要もないのではないか。だからと言って、その人が語る責任を免れるわけでもないだろうが、たぶん何かを語ることが、その人の使命であるかのような事情が生じてしまうと、語る目的に応じる面では、できるだけ包み隠さずに語らなければならないことになってしまうのかもしれないが、そんな状況がどのような事情からもたらされるかが、その場で語るに際しての条件となってくるだろうし、果たしてそんな条件に囚われたまま語る必要があるかとなると、それはその人次第でもあるだろうし、語るのを拒否できれば、都合の悪いことは一切語らないようなことになるわけで、それが裁判での黙秘権となるのだろうし、場合によってはそれが自らの不利になることを積極的に語るような成り行きもあるだろうが、そういう場合は自分よりも優先させることが生じてくる時であり、例えば自分が信じている大義のために、自らが進んで犠牲になるべきと考えれば、そうしたことが起こり得るかもしれないし、実際に歴史を紐解けば、過去の出来事の中でそうした事例が見つかるかもしれないが、それが語るのに不都合なことかといえば、そうでもないだろうし、その場合は、自らに不都合なことを語ることが、自らが信じている大義にとっては都合の良いことであり、それによって自らが窮地に陥るとしても、自らが信じている大義が、そうなることによって果たされるなら、それで構わないことになるわけで、それが場合によっては大義のために死ぬということにもつながるわけだ。

 もっともそんな芝居がかったこととは関係なく、語りたくても語りようがなく、うまく語れないようなこととして、何かを語るということ自体を遂行できない事情があるとすれば、それが語るのに不都合なことになるだろうし、その最たる事情としては、語ることが何もないということになるだろうが、語ることが何もないのに、語ろうとすれば、やはり語りたくでも語りようがなく、何も語れないことについては、それをうまく語れないだろうし、ただ語れないと語ればいいのだが、それで終わりでは気が済まないわけで、語ろうとしているのにそれで終わってしまっては、語ろうとする目的をそれ以上は遂行できないから、そうなっては困るなら、それでも何かを語ろうとするのだろうが、そういう面で語らなければならないこととして、安易に飛びつきたくなってくるのが、世間で話題になっていることだろうし、それについて何か語るための基準となるようなことがあるとすれば、それは世間によく思われたいということであり、少なくとも世間から嫌われたくはないわけで、そこから導き出される模範解答としては、世間の多数派の側につきたいということになるわけだろうが、しかもそこで考慮しなければならないこととなると、語っている内容が世間と同レベルでは気に入らないだろうし、できれば語っている自らが世間から尊敬されるようなことを語りたいわけで、そうなると自らが世間的に見て優れていることを、語っている中身によって証明したくなるわけだが、たぶんそうやって語れる内容が絞られてきて、語る上での都合や条件や事情も生じてくるのだろうが、結局はそういう方面で語りたい人なら他にもいくらでもいるだろうし、またそういった方面で競争や競合している人たちによって、世間の常識や良識などが形成されてくるのかもしれないし、それが世間的な意味で紋切り型の意見や主張にもなってくるのかもしれないが、それだけが語られているかというと、そうでもなく、むしろそういった意見や主張の標的になっていることが語られているだろうし、要するにそれが批判の的となっているわけだが、その批判の的というのが、お粗末かつ安易な紋切り型の意見や主張でもあって、まずはそういった劣悪な意見や主張が述べられた上で、それを常識や良識ぶった人たちが批判して、またそんな批判に対して、劣悪な意見や主張を述べる人たちから反論や攻撃が行われて、そんな論争もどきが世間の話題となる成り行きも生じていて、そういうところから話題作りのために、わざと愚劣なことが述べられたり、さらにそれ以前に愚劣なことを述べるきっかけを作るような出来事が、世間の話題となるわけだが、そういうところでピンからキリまでの意見や主張が、世間の話題として循環している状況があるのだろうし、そういう循環もそれだけが全てではないとしても、語りやすいことを優先して語りたがるような傾向として、それらの意見や主張が世の中に定着していて、それが語るのに都合の良いことであり、世間の話題としても優先的に取り上げられることでもあるわけだが、そこに語るのに不都合なことがあるかとなると、それは語る必要がないことだろうし、簡単に言えばそれは世間の話題とはならないことになるわけだが、なぜ話題にならないのかと言えば、それが世間の興味を惹かないからだろうし、誰も興味を惹かない物事については誰も語ろうとは思わないだろうが、興味を惹く物事が世間の全てではないし、世間の話題となっている物事が世間の全てではないことも、普段はそれに気づかないとしても、そんなことは一応は誰もが承知していることであるはずだろうが、そういうところで世間の話題に気を取られていると、そんな当たり前のことにも気づけないわけだが、気づく必要があるかというと、たぶん誰もそうは思わないだろうし、気づかなくても済んでいる状況もあるだろうし、よく考えてみないことには、そんなことに気づくはずもないわけだが、それに気づかないことの何が問題なのかといえば、誰もそれを問題だとは思わないこと自体が問題だとは思えないだろうし、実際そういうことは世間的な感覚としては、問題とはなり得ないわけだが、そういう世間的な感覚というのが、世間の多数派の意識として、世間を構成していて、それが世間の全てではないとしても、世間を代表する感覚として、世間の多数派を構成する人たちの間で共有されているだろうし、そういう意識の共有が世間と見られているわけで、そこには話題性のない出来事や現象は含まれないだろうし、それらは世間の興味を惹かない物事であるわけだが、それも世間の一部を構成していることには変わりないだろうし、ほとんどの人たちがそれに気づいていないとしても、それらが世間の一部ではあるわけだが、たぶん語るのに不都合なこととは、そうした物事の存在を認めることなのではないか。そしてそんなことを語ってみても、利益にも不利益にもならないだろうし、興味も惹かないようなことでしかないわけだから、やはりそれは何でもないことであるだろうが、たとえ何でもないことであっても、それについて語れば、その語っていること自体が、何でもないことではなくなってしまい、もしかしたらそれを語れる立場の人が語ってみれば、それがたちまち興味深く思われてしまうとすれば、それについて語ることが、興味を惹くための条件の一つとなっている可能性があるわけで、またその逆の状況として、たとえ興味を惹くような物事であっても、それについて語らなければ、他の人たちがそれを知り得ないわけで、そして何よりも世間の話題となるには、それについて語らなければならないわけで、それについては興味を惹かれたから、それについて語ると思われるのが普通だとしても、その逆もあるとすれば、結局は何でもないことでも過剰に騒ぎ立てれば、それが人々の興味を惹いて、世間の話題となってしまうのかもしれず、そこから言えることは、語るのに不都合なこととは、語り得ないことではなく、それについて語ることの中にあって、語ることによってそれが不都合なこととなってしまい、不都合なことを語るから、それが人々の興味を惹いて世間の話題となり、不都合な真実として批判の的ともなり得るわけだ。


2月7日「見せかけの社会」

 現状の世の中で明らかになりつつあるのは、社会の仕組みが、仕組みとして正常に機能している面があるものの、正常に機能しているように見せかけている面もあって、その見せかけが見せかけでしかない面が明らかになりつつあるのだろうが、それが見せかけでしかないのは、昔からそうであって、昔からそんなことはわかっていたのに、改めてそれを指摘されると、それが新たにわかったかのように認識されて、そうした見せかけの偽装を暴いて見せるようなことですらも、昔から行われてきたことなのに、未だにそんなことが行われていることに関しては、それを暴いているように見せかける仕組みも正常に機能しているからで、いくらそれを暴いて見せても、新たにそれを暴いているように見せかける仕組みが機能するからきりがなく、見せかけを暴く機能とさらにそれを見せかける機能とがいたちごっことなっているのも、それ自体が見せかけの仕組みとなっていて、それを暴いて見せる側でさえも、自らが暴いて見せている部分が見せかけであり、全てがそうなっているから、どこからどこまでが見せかけで、どこからが真実の部分なのかが曖昧となっていて、それらの全てが見せかけだとは言えないものの、見せかけを免れている部分もほとんどなく、それに関していくら見せかけではない真実の部分を示して見せても、それを見せるという行為に、見せかけている部分が含まれているから、そうやって真実を暴いて見せている部分と見せかけている部分とがバランスをとっていて、絶えず見せかけている部分が見せかけられている状態に保たれていることになるのだが、その見せかけられている部分の全てが偽装されているわけでもないとしても、偽装と偽装でない部分が区別される度に、そうした区別が偽装されている可能性もあるのかもしれず、またそういう部分でそうした区別が偽装であるかないかに関しては、特に区別する必要もないのかもしれないし、そうやって見せかけられている部分に関しても、見せかけられていることを承知で信用しておけば、それで済んでしまうような成り行きが社会に定着していて、それを信用しながらもやり過ごすような動作も、ごく普通の態度として社会に定着しているのだろうし、とりあえずそれが見せかけの行為としてばれるまでは信用しておくのが、無難な態度なのだろうし、ばれるまでの間に何か問題が起これば、そこから見せかけであることがばれてしまうわけだから、そうやってばれたところから、ばれてしまったことをネタにして、ばれた対象へ向かって批判が開始されて、そんな批判が過熱して冷却して一段落すれば、またいつものように何事もなかったかのように、平然と見せかける行為が開始されてしまい、またそれもばれるまでは見せかけられた状態を保つことになるだろうし、そうやって見せかけの社会が維持されることになるわけだ。もちろん見せかけではない実質的な部分の機能も備わっているから、そこで人が暮らしていけるわけだが、メンタルな部分では見せかけが重要な役割を果たしていて、それに関しては単に人は衣食住が足りているだけでは満足できず、そこに足りている以上の見せかけが期待されているわけで、それが意識を満足させるために用いられる過剰な部分となっていて、またそうした物事の過剰性が、人の競争心や虚栄心を煽って、満足を得るための競い合いや騙し合いへと発展していくわけで、そこで競い合ったり騙し合ったりしている限りで、見せかけの動作が有効に機能して、そうした動作に取り込まれた人々に幻想を抱かせるのだろうが、それ以上に何がもたらされるわけでもないとしても、幻想がそれ以上の欲望を抱かせるわけだから、またそうした欲望を満足させるためにも、競い合いや騙し合いがエスカレートしていくわけで、意識がそうした成り行きに囚われていれば、たとえそれが見せかけであっても構わないような心境になれるだろうし、そうなるとかえって現実の動作よりも見せかけの演技の方にリアリティを感じて、そういう見せかけのフィクションを追い求めるようになるわけだが、そこで現実の動作と見せかけの演技との間に区別がつくかというと、演技も現実の動作に含まれるわけだから、特に区別するような成り行きは生じないだろうし、そもそも人の現実の動作自体に、礼儀作法などの面でも演技の要素が含まれるわけだから、それ自体が見せかけの演技となるだろうし、そういう面では見せかけの演技自体が現実の動作となるわけで、それを現実の動作と区別する必要などなくなるわけだ。実際の世の中ではサービス業などの分野で、接客などの面で見せかけの演技が求められていて、相手から好印象を得るために媚びるような演技が不可欠となるだろうし、嫌な客でも笑顔を絶やさないような演技が行われているとしても、どう考えてもそれは見せかけの演技であり、偽装そのものなのだが、そうした偽装が批判されるようなことはあり得ないだろうし、かえって立場上はそうしなければならないのだから、積極的に笑顔を偽装しなければならないし、また客の方でも嫌な客にならないように、自らを良い人に見せかけるような演技を強いられて、横柄な態度はなるべく控えるような成り行きになれば、そこで社交辞令的な演技が行われることになるわけで、結局そういった本性を隠した演技によって平静を装った和やかな人間関係が保たれていれば、建前としては争いを避けるような平和な状態も保たれるわけだが、そうした関係を永続できるかとなると、そういうわけにもいかず、場合によっては頃合いを見計らって羽目を外して、本性をむき出しにして本音を吐き出さないとストレスが溜まってしまうだろうし、そういうところで権力関係などの面で上位の立場にある人が、下位の立場にある人に向かって、権威を笠に着て威張るような成り行きも生じるだろうし、そこで他人に向かって威張り散らしたり、横柄な態度に出れば嫌がられるのはわかっていても、立場上そういう行為を行わざるを得ないような事態や境遇も生じてしまうわけで、そういうところでいかに自分をコントロールして、威張ったり怒鳴り散らしたりせずに済ませられるかが、演技の見せどころなのかもしれないが、状況によっては演技などせずに、喜怒哀楽の感情をむき出しにせざるを得なくなってしまうわけだ。

 そしてそういう喜怒哀楽の感情でさえも、その場の状況に応じて効果的に機能させようとすれば、演技となってしまうだろうし、意識が感情をコントロールして、相手を困らせたり打ち負かしたり、あるいは脅したりすかしたり、そうやって様々な感情を表に出して、その対象となる相手までもコントロールしようとするほど、演技の度合いがそれだけ高まるわけだが、相手を信用させるために演技している場合もあるだろうし、そうした演技までが騙していると受け取られると、では騙さないような演技があるかとなると、例えばあえて騙しているように見せかけておいて、わざと騙していることを相手に見破らせるようなことまでやると、それが演技であることは確かだが、こちらの真意をわからせるためにわざと相手を騙すような演技を行なって、それが演技であることを見破らせるようなことをやれば、騙しているのに騙していないような、両義的な演技となるだろうし、そんなふうに演技が込み入ったニュアンスを含みながら複雑化していくような場合は、マイナスとマイナスが掛け合わされてプラスに転じるような効果が生じるわけで、そういうことまで含めると、単純に嘘偽りや見せかけの演技に惑わされないようにするばかりでなく、またそれを見抜いたり暴いたりして得意になるという動作とも違った、何か虚々実々の駆け引きがそこで行われていて、単にそこから真実を見つけ出せば物事が解決するような成り行きにはならないのが、当たり前の認識として出てくるはずだが、そういったところから物事の白黒をはっきりつければ済むようなことからはかけ離れた成り行きが生じてくるわけで、しかも実際に物事の白黒をはっきりつけた後でも、そうした結果自体が物事の部分的な面でしかなく、ただそこだけを拡大して強調して、公式には決着がついたように見せかけたいだけで、そうやって決着がついたように見せかける行為が、裁判などの演劇空間で行われる猿芝居を伴ってくるわけだから、それ自体が見せかけの社会を象徴する見せかけのやり方になるだろうし、それも演技によって人をコントロールするための方策となるわけで、他にもそうした類いには議会という見せかけの演劇空間もあるし、また政府や企業などの集団的な組織形態の内部でも、日々様々な演技が行われていて、それはまた家族の内部でも行われていることだろうし、人が集団となって活動するには、その中で人が人をコントロールするための演技が欠かせないわけだが、実際にそこで演技が行われていれば、それが人を騙す行為となり、もちろん騙していることを意識せずに演技している自覚もなしに、何とかして人を騙して騙した側の都合が反映されるような状況や環境をもたらしたいのであり、またそれを騙したとは言わせないような成り行きに持って行きたいわけだから、何かそういうところで都合の良い真実が必要とされて、その真実を語ることによって、人を騙す演技との間で相殺するようなバランスを取りたいわけだが、もちろん真実を語れば単純にそれが嘘でないとは言えないわけで、真実を語るにしても、それは語る側にとって都合の良い真実であり、その一方で都合の悪い真実を隠したり、故意にそれへの言及を避けたりしながら、それだけが真実であるように見せかけるわけで、そうなるとそうした真実を語る側の恣意的な調整や取捨選択を伴った真実のフィクションが出来上がるわけだが、今度はそういう作り話を真に受けることまでが、演技を伴ってくるわけで、それを間に受けた人は、その話を世の中に広めようとして、盛んに話の宣伝や話への支持を促すための煽動を行うわけで、それも都合の良い真実だけを強調する演技に含まれるだろうし、その中には自分が支持している人物が語る真実のフィクションをソーシャルメディアなどを通じて宣伝しまくる人なども結構出てくるだろうし、またそれを数多くの人たちが支持しているかのように見せかけるために、いいね!やリツイートなどを組織的にしまくるようなことも行われているだろうが、そうやって見せかけの現実を見せかけの場に生じさせようとするわけだが、果たしてそうした行為が思惑通りに成功しているかというと、他にもそんなことをやりたがる人たちがいくらでもいるわけだから、当然そこには競争関係や競合関係が生じてきて、そこでも競い合いや騙し合いなどが行われるわけだが、そうした見せかけ演技や動作を見せられている人たちが、果たしてそれらの見せかけの行為を真に受けているかというと、確かにそれなりに真に受けてはいるのだろうが、結局それはその場だけで真に受けているに過ぎず、また他の場では他の場で行われる競い合いや騙し合いの中で真に受けるようなことが生じるのだろうし、そういう面で様々なメディアで真に受けることが連続的にはつながらない場合があるのかもしれず、しかもその場その場が、その場だけが全てではないような場であり、常にそうした場が部分的な場となっていて、その場で真に受けることが、別の場で真に受けることとの間で関連性が感じられなければ、その場だけのことになってしまうだろうし、また真に受けるのがその場だけで構わないなら、それで済んでしまうわけで、そうなるとまた別の場ではそれとは無関係なことを真に受けてしまうのかもしれず、そういう意味でメディアの世界的な広がり具合が、昔と比べて格段に広がっている可能性があり、それだけ人の意識が狭い範囲内には留まっていられないような事情が生じているのかもしれず、何かそこに相対的に薄められた実感が伴ってきて、それらの場で様々な見せかけを見せられても、心が動じなくなってくるのかもしれないし、そうした薄められた相対性が、かえって特定の見せかけだけにこだわるわけにはいかない事情を生じさせているのかもしれないし、そういう意味でメディア上で演じられている様々な見せかけにしても、特定の見せかけだけに集中できない環境がもたらされていて、しかもそこに統一感が感じられなければ、様々な見せかけの間で興味も意識も分散してしまい、それらを一つの価値観によって論理的に再構成することができなくなるだろうし、やはりそうなると特定の論理などへのこだわりだけでは、全ての物事をうまく把握できなくなってくるわけで、それに関して何かもっともらしいことを思いついても、それは特定の物事に付随して思いつくことであり、他の物事には当てはまらないような思いつきになってしまうだろうし、真に受けることもそれだけ多方面に分散してしまって、取り留めがなくなってしまうのかもしれない。


2月6日「試行錯誤の目的」

 試行錯誤というと、何かそこで様々なことを試しているように思われるだろうが、総じてうまくいくための手がかりを求めていて、それに関してはうまくいく方法を見つけようとする目的に囚われているわけだから、いくら試行錯誤しても、その目的から離れることはできないわけだが、そうやって目的に囚われているとしても、目的以外のことをやっていないわけでもないだろうし、ただ意識がそれに気づいていない場合はあるにしても、試行錯誤を試みている時点では、まだ目的を果たしていないわけだから、そこで目的に囚われているとしても、試行錯誤を続けている限りは、いつまで経っても目的を果たすに至らないわけで、そういう意味では目的の達成を裏切り続けているのかもしれず、そうした目的に囚われながらもそれを果たすことができない状況が、試行錯誤そのものを表しているのだろうし、目的自体が目的を果たせない状態をもたらしていて、もちろん試行錯誤の末にうまくいくやり方を導き出して、それによって目的を果たすことに成功する成り行きもあるだろうが、そういう意味では試行錯誤自体が、それをやる人に試練を課していると言えるだろうが、その一方で試行錯誤の途中で挫折してしまえば、目的を果たせずに、いやでも目的から離れられるかもしれないし、そうなれば試行錯誤のおかげで目的から外れることができたことになるわけだろうが、果たしてそうやって目的から外れたことが何を意味するかとなると、当然ことながらそれは挫折を意味するだろうし、またやっていることがうまくいかなくなって、行き詰ってしまったことも意味するのかもしれないし、さらに思い通りにいかなくて、嫌気がさしてしまったような心理状態ももたらすのかもしれないが、そういった否定的な意味とは違う方面から考えるなら、それは目的の束縛から解放されたことを意味するだろうし、そこからまた懲りずに新たな目的を設けてしまうと、挫折してもなお目的に囚われていることを意味するだろうが、試行錯誤がひどい結果をもたらして、もう二度と目的を求める気が起こらないまでに打ちのめされてしまえば、そうなって初めて、目的から解放されたことになるのかもしれないが、別に目的を持つことが悪いとは思わなければ、それほど大げさな心境にはなれないだろうし、そこで目的を達成するためのハードルが高すぎたと反省すれば、今度はもっと楽に達成できそうな目的を持とうとするかもしれないし、そうなればちょっと背伸びすれば届くようなことばかりを目標に掲げながら、そういった達成できそうなことをやることを目的にすれば、それをやっている間は何やら充実した日々を過ごせるかもしれないし、また試行錯誤すること自体を目的にすれば、延々と試行錯誤している状態を保っている限りで、目的を果たしていることになるだろうが、果たしてそんな目的があるかとなると、普通はあり得ないだろうが、屁理屈のこじつけ程度のひねくれた気持ちで、試行錯誤することを目的にしておいて、そうやって軽く目的と戯れる程度の心境になれれば、それでも構わないのかもしれないし、それが何をもたらすとも思えないにしても、目的に囚われてしまうのをやり過ごすには、そんなやり方もあるのかもしれないが、なぜそうやって目的を外れようとするのかについては、特に正当化できる理由など見当たらないかもしれないが、何か目的に囚われてしまうことによって、失うものがあるのかもしれないし、そんな気がするだけで、本当は何もないのかもしれないが、世の中の様々な方面で様々な人や団体が活動している中で、目的を強く意識せざるを得ない立場や境遇がある一方で、特にそれを意識しなくても、普通に生きられるような立場や境遇もあるのかもしれないし、また目的の中身によっては、それが世の中に良い影響を与えたり悪い影響を与えたりすることもあるかもしれないが、目的のあるなしやその中身が、単純な生きるとか死ぬとかいう現象に絡んでくることもあり得るだろうし、そういうところで立ち止まって考えてみれば、その場の状況に応じて、何かもっとらしい目的を持ったり、またはそういった目的をかわしたり、やり過ごす必要を感じたりすることもあるのかもしれないし、また肯定的な目的を持ったとしても、それを果たせずに挫折してしまう方が、そこから当人の自覚し得ない何かを得られる場合さえあるのかもしれず、そういうことまで考慮すると、何らかの目的を持とうと、またその目的から外れても、さらに意識せずに失敗して、その代わりに思いがけないものを得られたり、そこから想定外の体験をしたりして、またそうなるのが真の目的だったと気づくのも、結果から振り返って、そこまでに至る経緯を正当化することにしかならないのかもしれないが、それを安易に正当化せずに、何か冒険のような体験だったと自覚できるかもしれないし、自覚するような余裕さえ与えられないようなことであれば、何かそれは驚くべき体験になるのかもしれないが、ともかくそれが予定調和のような結末に至らなければ、自らの意思に関係なく、目的から逸脱するような体験が、その人の財産になるかもしれないし、もちろん財産などという卑俗なものでは例えられないような体験をできれば、それは素晴らしいことになるのかもしれないが、そんなこととは全く無関係であるような何でもない体験であれば、それは日々それと自覚することなく、いくらでも体験していることだろうから、それでも別に構わないような心境になれれば、特に欲をかかずに日々を平常心で過ごせるのかもしれないし、そうなればことさら目的にこだわったり、あるいはことさら目的から外れようとしない限りで、普通の感覚を保ったまま、どのような事態になっても、その事態に応じたことができるかもしれないが、それは通常の状況であって、非常時には、たとえ普段から心身の鍛錬を欠かさないような人でも、その場の状況によっては対応できないだろうし、そうなった時点では、対処できなくても構わないのかもしれないし、実際に対処できずに何らかの失敗や挫折を経験すれば、そこから得られたものが、その人の能力に応じた結果とみなされるのではないか。

 そしてそうした結果に至る前に、何やらうまくいかないことをあれやこれやと行なっている状態が、試行錯誤を繰り返している状態なのだが、それを積極的に行なっている自覚があるのが普通の状態だろうが、何かのついでに嫌々行なっていたり、またやり始めるとすぐに行き詰ってやめてしまったり、気まぐれにちょっとやるだけにとどめていたり、さらに飽きてしまって、長い間ほったらかしにしてしまったり、そういった試行錯誤の程度にも差があるだろうし、ほんの軽い気持ちでちょっとやって飽きてやめてしまうようなことは、試行錯誤とは言えないだろうが、それで構わないようなことなら、別に大した目的もなくやっていることになるのだろうが、たぶん場合によってはそうであっても構わないのかもしれず、そんな状況であるなら、それだけ状況に余裕があるということだろうが、何かもっと切羽詰まったギリギリの状況なら、それなりに焦るだろうし、切実に成功を望むはずで、そうなると成功することが目的になるから、そのためには手段を選ばないようなやり方になるだろうし、実際にそういう立場や境遇にある人なら、試行錯誤をするにしても、是が非でもうまくいくやり方を見つけなければならないだろうし、そうなると成功という目的に囚われてしまうのも当然の成り行きになるわけだが、そんな成り行きの中では試行錯誤をさっさと切り上げて、すぐにでも成功を掴み取りたいだろうから、そのためにも無駄なことはできるだけ省いて、効率的なやり方で回り道などせずに一直線に求める成功へと突き進むだろうし、そうなればなるほどやっていることが試行錯誤ではなくなるわけで、そんな成り行きと、わけがわからない迂回や紆余曲折を経るような成り行きとでは、やっていることの質も内容も違うだろうし、求めている結果の内容も異なるだろうが、その場の条件や事情が何もなければ、どちらが良いとも悪いとも言えないだろうが、現実にはそんなことができる条件や事情が付きまとってくから、それに応じたやり方となるわけで、何かすぐにでも結果を出したいような事情があれば、のんびりといつ終わるともわからないような試行錯誤などやっていられないし、そういった事情を反映して、出てくる結果もそれに応じたものとなるだろうし、実際に納期や期日が迫ってくれば、どうあっても切羽詰まった状況になってきてしまうわけで、そういう面でできることも限られてきてしまうわけだろうが、その一方で納期も期日もなく、ただ何となくやっているようなことなら、いくらでも気が済むまで試行錯誤を続けていても、どこからも文句は来ないだろうし、またたとえ結果が出なくて失敗に終わっても、特にそれを気にするような事情がなければ、それが無駄に思われても構わないのかもしれないし、そういう面ではやっていることが、その場の事情や条件などの状況に左右されるわけで、そういったことを考慮に入れるなら、どのような結果が出ようと、その場の状況に応じたことが行われている限りで、特に想定外の驚くべき結果が出ることはないのだろうが、たぶんそれは試行錯誤の目的に従って行われる範囲内のことであり、そこから外れる面では、その場の思惑とは違うことが行われる可能性があって、実際にそれが行われると想定外の思いもよらぬ結果が出るわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、試行錯誤自体が目的から外れるような行為を誘発してしまうからで、だから強い目的意識を伴った行為には、そういう試行錯誤が入り込む余地が少ないだろうし、そういった事情がやっていることに反映すると、ただ目的だけのためにやれることを精一杯やろうとするから、下手をするとそれが計画通りの単純作業だけとなってしまうのかもしれず、そうなるとやっていることに魅力がなくなるだろうし、それとともに求める結果だけを求めるから、無駄な遊びを一切省いた行為遂行的な動作となってしまい、そうやって事前に予測された想定内の結果以外は全て排除されてしまうと、予定調和の結果しかもたらされないわけだが、果たして本当にそうなるかというと、中にはそういう事例もあるかもしれないが、そこに試行錯誤の余地がある限りで、そうはならないのかもしれず、その余地が大きいほど、偶然が入り込む余地も大きくなるわけで、偶然の巡り合わせによって思いがけない結果がもたらされると、それが原因と結果の予定調和を打ち砕いて、それによって目的をずらして、その場の思惑を外れるようなことが起こって、そんな思惑を抱いていた意識を困惑させるわけで、そうなることによって、その場の状況や情勢が変化するのかもしれないし、計画的に行われていたことが狂わされて、それなりの混乱をもたらすのかもしれないが、またそうなるのを防ぐためにも、試行錯誤をできるだけ早く切り上げて、さっさと安心できる結果をもたらしたいのだろうし、そのためにも目的から外れるような行為は禁止しなければならず、そうやってその場の統治や統制を強めたいだろうし、また思い通りのことをやれば思い通りの結果が出るようなシステムを構築して、確実なことをやれば確実に利益が出るような制度にしたいのだろうが、それも実際に世の中のシステムや制度がそうなっているかというと、そうなっている面があるとしても、完全にそうなっているわけでもないだろうし、そうであるからこそ何かしら事故や事件が起こるわけだが、そういったシステムや制度を管理運営している側からすれば、そういう不完全な面があるにしても、うまくいっているように見せかけたいだろうし、実際に見せかけられる範囲内で見せかけようとするだろうし、また見せかけるだけなく、本当にうまくいくようなシステムや制度にしたいわけだが、本当にそうなってしまったら、そんなことは現状ではあり得ないにしても、そこからは何も変化する余地がなくなってしまうわけで、それが何を意味するかといえば、ただ単に計画通りに事が行われて、計画通りの結果がもたらされるだけで、他には何も起こらないような世の中になってしまうわけで、それではつまらなくなってしまうのは明らかなのに、やはりシステムや制度が求めているのはそういうことになってしまうわけだから、たぶんその辺でおかしなことが起こっているわけだ。


2月5日「行為の継続」

 世の中には様々な方面で色々なもっともらしい理屈がある中で、人に関する簡単な理屈としては、人は生きているか死んでいるかのどちらかの状態で存在している、ということかもしれないが、それはそのままことであり、それが理屈と言えるかというと、何か微妙な感じがしてくるかもしれないが、例えばそれを意味深長な表現で、人が人であることを意識するのは、自らが死にゆく存在であることを自覚した時だ、などとかっこつけて述べてしまうと、普通に考えて、誰もがそんなことを思うはずもないだろうし、さらにそれを、そんな自覚は人の生物としての寿命の有限性から導き出されたフィクションでしかない、と返してしまうと、それも何かもっともらしい似非知性の戯れのようにも思われるかもしれないが、もし誰かがそんなことを自覚したとしても、別にそれが大げさことでも深刻なことでもなく、改めて確認するまでもない、すぐに忘れてしまうような当たり前の前提でしかないのかもしれず、実際にそういった作り話のような自覚とは無関係に、世の中では様々なことが行われているだろうし、その様々に行われていることの中に、人の活動の実質的な内容があり、別にそれらの活動が、人が死にゆく存在であることを忘れるための悪あがきだとは思えないだろうし、それはそんなことを思うのとは次元の違うところで、必要に応じて行われていることであり、その必要というのが、根本的なところでは生きるために行われていることであるとしても、それ以外の事情がそうした生きるという根本原因の上に覆いかぶさってくるから、そちらの方に気を取られて、意識が生きるという根本原因を自覚できないわけだが、別に自覚する必要があるわけでもなく、何かの拍子にそれを自覚したからといって、そこから何がどうなるわけでもなく、それよりは他の社会的な関係からもたらされる、活動を行うのに伴って生じる様々な事情の方が優先されるだろうし、実際にそこで何らかの活動が行われていることの他に、特に心の中で強く意識されることもないだろうが、そうした活動から遠ざかれば、他に何か瑣末なことを意識するかもしれないが、それが何を示しているわけでもないだろうし、ただ暇な時にとりとめのないことを考えたり思ったりしているだけで、何かそういう時に、人の生や死について考える余裕も生じるだろうし、また大病を患ったり大怪我でもした時にでも、自らが死に直面していることを実感できるかもしれないが、それ以外で健康な状態が保たれていれば、そうしたことよりも他の社会的な事情が優先されるだろうし、実際にそうした事情を優先的に考えたり思ったりしている時には、人に関する生死の理屈など自覚できるはずもないわけだが、自覚したところで何でもないことだろうが、それでもそうした理屈にさえもならないような当たり前の現実によって、人の活動が制限されていることも確かであり、ただ単に人が生きているか死んでいるかのどちらかの状態にあるに過ぎないということが、人の活動を生きている間に行うしかないこととして限定していて、またそれと同じように起きているか眠っているかの状態によっても、起きている間に行うこととして活動を限定しているわけだが、それも当たり前のことだが、生きている時間にも起きている時間にも限りがあり、その限りある時間の中で活動していて、なぜ活動しているのかと言えば、生きるため以外では、その活動内容が何やら価値があるように思われるからだろうし、またその活動によって生産された物事が、当人の活動時間を超えて、他の人や団体や社会に作用や影響を及ぼすことがあるから、そうした物事を作り出すことにも価値があるように思われるだろうし、さらにまた当人が活動していない時でも、協力や連携している他の人や団体が活動を継続している場合もあるから、そういう活動に関わると、活動によって何らかの成果が得られたら、たとえその人の関わり方が部分的なものであっても、それが自分の成果のように思われることもあるだろうし、そんなふうにして行なっていることに価値があるように思われるから、そこから満足感や生きがいなどを感じるのだろうが、世の中の活動の全てがそういった肯定的な活動とは限らないことも、当たり前の事実として誰もが知っていることであり、生きるために肯定できないような活動をやらざるを得ない境遇に追い込まれている人などいくらでもいるだろうし、また生きるためでなくても、しがらみや社会的な事情から、やりたくないことをやらざるを得ない人もいくらでもいそうだが、そういう事実まで考慮に入れれば、やっていることに価値があると思われるのは、それ自体で贅沢なことかもしれず、そう思っていられる限りで、やっていることを肯定できるのかもしれないが、自分一人の立場ではそうかもしれないが、他との関係まで含めると、そこにしがらみや社会的な事情などが絡んできて、そこからやっていることが思い通りにはいかなくなってきて、ある時には対立や抗争などに巻き込まれたり、またそれを自ら引き起こしたりしながら、そういった価値があるとか満足できるとかとは違う次元の問題が出てくるわけで、そうなると人が生きるとか死ぬとかいう単純な理屈では、物事を捉えきれなくなってくるのであり、しかもそうなっているにも関わらず、相変わらずそれが人の生死の問題であったり、価値があるとか満足できるとかの問題であったり、すぐにそういった理屈に単純化したがる人も出てきて、何かそういうところで意識や思考が捉えきれていない問題があって、捉えきれていないのにわかった気になって、勘違いなことを言い出す人まで現れて、またそんな人の介入によって、さらにその場の状況がこじれてきて、こんがらがってきて、錯綜してきて、もつれてきて、事態が混沌としてくるのかもしれないが、そうなると単純な理屈では物事を捉えられないのはもちろんのこと、長年の勘や経験から事態の収拾を図ろうとする人も出てくるにしても、そんな人の努力で収拾が図られればいいだろうが、場合によっては図られなくても構わないような成り行きも生じてきて、実際にそんなふうにして事態が行き詰ったままになることが結構多いから、そこで停滞という名の安定がもたらされるのではないか。

 また何かを行うことに関しては、うまくいくとは限らないから、そこで問題が発生するわけで、そのうまくいかないことに関して、うまくいくようにしたいのだろうが、それができない状況が、世の中の方々にもたらされていて、そんな状況に納得できない人が大勢いることも確かであり、そのうまくいっていない状況に関して、批判しようとすればいくらでも批判できるし、実際に批判している人もいくらでもいるだろうし、そういうことも含めて現状がもたらされているわけだが、そうした現状の中で、果たして安易に批判する立場に与することができるかとなると、そのような立場を占めている人たちですらも、うまくいっていない現状があるだろうし、しかもそういう立場を占めることについても、他との競争や競合に直面しているだろうし、そしてそうした競争関係や競合関係の中で、自分たちの主張に人々の興味を引きつけたくて、何やら宣伝や煽動を行なっているわけだから、何かそこで批判の妥当性に関して、疑問を抱かざるを得ないような内容の批判までが、宣伝されたり煽動されたりしている状況があるわけで、そうなってくると、特にそういったものに関しては真に受ける必要がなくなってくるだろうし、批判自体がうまくいっていない現状がある限りで、そういった批判のうまくいっていない面を批判してみても、批判自体がうまくいっていないということは、うまくいっていない行為を批判すること自体がうまくいかないわけだから、それをさらに批判してみても、それによってもとのうまくいっていない行為自体がうまくいくはずがないだろうし、もはやそういった批判を批判する行為自体が、もとの批判されている行為自体から焦点や重心が離れてしまっていて、たぶんそれはもとのうまくいっていない行為にとっては意味のないことになるのだろうし、そういう意味で批判勢力への批判は、あまり生産的な行為とは言い難いだろうし、下手をするとそれは単なる揚げ足取りになりかねず、かえって批判という行為自体を無効化する作用があるのかもしれないが、ではどうすればいいかとなると、ただ単にうまくいかない行為を批判するにとどめておいて、しかもそのうまくいかない行為を批判する行為を批判するのは、批判を封殺する行為とみなしておけばいいだろうし、それはそれとして興味深い内容なら、そういうものだと受け止めておけばいいのだろうが、そういう面でもそういった批判を封殺する行為がうまくいくかとなると、うまくいく場合もいかない場合もどちらもあるだろうし、どちらにしてもそれもそうした活動であり、それが何か特別な行為だとはみなさない方がいいだろうし、批判もその批判を批判して批判を封殺する行為も、おおもとの批判の対象となった行為に付随して行われるものだから、何かそういった行為が行われること自体が、うまくいっていない状況を体現していて、それに伴って世の中で批判されるような行為が多ければ、それだけうまくいっていない行為が多くあるということになるだろうし、またそうした批判にも関わらず行われている行為があれば、批判に打ち勝ちながら行われているわけだから、そういう面ではうまくいっていることになるだろうし、またそれは、批判している側からすれば、批判しているにも関わらず行われているわけだから、批判自体がうまくいっていないと受け止めるしかないだろうし、そういう場合は、批判を受けながらも行われている行為をやっている側からすれば、それはうまくいっている行為となるだろうし、またそれを批判している側にとっては、うまくいっていないから批判しているにも関わらず、実際にそのまま行為が行われて、やっていることを止められないわけだから、うまくいっていないという認識が間違っていることになるのかもしれないし、また批判しているのに、その批判が全く効いていなければ、批判自体もうまくいっていないことになるだろうし、そういう意味では現実に行われている行為がそのまま行われる成り行きというのは、実際にうまくいっていることになるのかもしれないし、普通は批判を受けて批判した箇所が改められて、そうやってうまくいかなかったところがうまくいくようになることで、批判が有効に機能したことになるわけだが、やっている行為をやめさせるために批判するとなると、それは批判ではなく妨害になるだろうし、批判とは種類の異なる行為だと受け取られてしまうのかもしれないが、そういう意味で批判という行為の内容に関して、どこまでが批判で、どこからが妨害となるかは、その境界は曖昧かもしれないし、また批判にも宣伝や煽動などの要素も含まれるから、何かそういうところで、強調する部分を批判よりは妨害に重心を移したり、また宣伝や煽動などの傾向を強めたりすると、そういうのはどう見ても批判とは言えなくなってしまうだろうし、そういうところで批判が批判と受け取られる範囲での批判となると、例えばうまくいっていない行為に関して、改善できるやり方を教えるとか、また行為をやめさせるにしても、その代わりにできる行為を提案するとか、しかも提案した代替えの行為がうまく行く保証があるかとなると、それも難しいところだろうが、実際にそういう配慮ができれば、批判にもそれだけ説得力が増してくるかもしれないが、果たして批判という行為にそこまで求める必要があるかとなると、実際にはそうではないだろうし、批判する側はただ問題点を指摘するだけにとどまり、批判される側は、ではどうすればいいのかと居直ることが多いだろうし、だからうまくいかないことが多いわけで、またうまくいかないなりにも続いてしまう行為も多いだろうし、結局は続けられる行為は周囲から様々な批判を受けながらも続けられるだろうし、そうやって続けられる限りで、それに対して延々と批判され続けるし、そういう状態が長続きしていれば、批判する行為に関して、専門の職種が成り立つような成り行きとなるわけで、要するに世の中にうまくいかない行為があって、それがうまくいかないなりにも続けられるような成り行きによって、それを批判し続ける行為も成り立つということになるわけだ。


2月4日「判断と評価」

 何か世の中で手放しで賞賛できるような対象があるかというと、それが宣伝や煽動ならメディア上で積極的に行われているだろうが、そういった無理にも持ち上げようとする対象には、それなりに毀誉褒貶があるのが普通だろうし、その手の功罪半ばするような物事や人や団体などが、世間的に見てもとりあえずの賞賛に値する対象になるのだろうが、もちろん賞賛される時には、罪の部分や貶されているような否定的な面は伏せられるわけだし、またそれを知っている人なら、そういった宣伝や煽動は真に受けないのだろうが、それ以外では世の中のほとんどの物事や人や団体は、それほど大袈裟には褒められも貶されもしないだろうし、何かそれに関して特別なことがない限りは、そういった対象にさえならないのではないか。要するに世の中のごくわずかな世間的に目立つ部分で存在する対象が、何らかの理由からサンプリングされて、それが何らかの判断や評価の対象となってくるのかもしれないが、そういったものが評価や判断の指標や基準として信用できるかというと、たぶん実際に何か他の物事について判断や評価をする時には、そういった物事を判断基準や評価基準にして判断したり評価するのが、普通の意味での判断や評価となるのかもしれないが、そういう面も含めて、別に合理的に思われるような判断や評価が行われているわけではなく、その時々の世の中の情勢に合わせて、適当な指標や基準を探し出してきて、それに基づいてとりあえずの判断や評価を行なっているだけなのかもしれないし、そういう面では判断や評価の合理性よりは、勘に頼っている面の方が大きいのかもしれず、しかもその勘が世間的な慣習や一般常識に依存していたりすると、その手の判断や評価自体が世間的な慣習や一般常識に照らし合わせてもっともらしく思われるから、何となくそれが信用されるような成り行きになっているのではないか。そうだとすると世間的な感覚で、何となく信用できるような物事や人や団体などを好意的に意識しているだけのことが、合理的な判断や評価よりも信用されているのかもしれないし、そんな世間的な慣習や一般常識に合っているから信用できる程度のことが、信用することの主流となっているのなら、それ以上の信用が必要とされているわけではないことになるだろうし、実際にそれ以上の厳密な信用となると、例えば融資やクレジットカードなどの審査のように、何か合理的な指標や基準に基づいて精査するような成り行きも生じるのだろうが、そういうのは世の中のほんの一部で行われるようなことであり、行われるとしても、それは必要に応じて行われることであり、要するに資金を融資したりクレジットカードを発行することによって、利益が見込まれる範囲内で審査が行われて、そうなると必要以上に審査基準を厳しくして、誰も審査に通らないようでは商売として成立しないわけで、それがそこでの合理性になるわけで、そういった判断や評価の基準が信用できるにしても、それが合理的な基準かというと、そこでの合理性も世間的な慣習や一般常識などに合うか合わないかで、合理的に思われたりそうは思われなかったりする程度のことなのかもしれず、そういう意味での合理性すらも、真の意味での合理性とは思えないなら、合理性に真の意味などないように思われるかもしれないが、言葉の意味というのはとりあえずのものとみなすなら、特に真の意味などなくても問題はないだろうし、たぶんそういうところで物事に関してはっきりした判断や評価ができないような面があるのだろうし、それについてはあからさまに点数をつけたり勝敗を決めたりしない限りは、どうとでも受け取れるような判断や評価でも構わないのかもしれず、そうなるとそれをはっきりと肯定したり否定しなくても構わないし、そこから特定の何かを賞賛したり批判したりする必要もなくなるだろうし、そういう何かはっきりしないような状況というのが、世の中の大半を占めていて、そういう面ではことさらに優劣を決めなくても済んでしまうような状況となって、それで済むなら、そういう面を必要以上に取り上げなくてもいいわけで、またそうであるなら、特に何かについて語ることが、すぐにその対象への賞賛や批判などに結びつくのは、何か不自然に思われるだろうし、そういった必要以上に語る対象を持ち上げたりこき下ろしたりすることが、宣伝や煽動そのものであり、それは判断や評価のインフレーション状態と言えるのかもしれないし、例えば出会えばすぐに戦いになってしまう少年漫画によくありがちな中身のなさに通じるものがあるのかもしれないが、そういった物事の良し悪しをすぐには決められない状況というのが、ひたすら良し悪しを云々したがるような人たちには我慢がならない状況かもしれないが、それも程度の問題かもしれないし、物事の良し悪しを云々したがる人たちは人たちで、そんなことをいくらでも気が済むまでやっていればいいことでしかなく、そういう判断や評価に疑問を感じるなら、それを真に受けなければいいことでしかなく、実際に世の中の一部ではそういうことが盛んに行われているにしても、それも必要に応じて行われる以外で、必要以上に行なっても、そこから何らかの利益が生じない限りは続かないはずだが、そうやって物事の良し悪しを煽り立てることによって人々の関心が集まると、そこに広告収入などが生じるようなシステムが構築されている現実もあって、そういった広告収入などによって、そんな行為が維持されるような成り行きも生じているだろうし、要するに宣伝や煽動によって人々の関心を集めるような行為の中で、手っ取り早いやり方として、世の中に存在する物事や人や団体の良し悪しを論じて、それへの賛否両論などの意見や主張が集まれば、それが多く集まるほど世間の関心を集めたように思われるのだろうし、それが近年では炎上商法という紋切り型的なやり方として、ネット上などで確立されている経緯もあるのだろうが、それもそうした商売が成り立つ程度の関心が集まればいいことでしかなく、それ以上の関心を呼んでいるわけでもないのではないか。

 そうしたことの全てが、興味がなければ無視しても構わないことでしかないとしても、出来事や現象としては、世の中に何らかの作用や影響を及ぼしているはずだが、それも程度の問題であるだろうし、何かそういうところで、必要以上に何かが強調されて煽られているとすれば、そうなっている時点で公平な判断や評価は期待できないだろうし、そうであるならそうした宣伝や煽動の中で行われる、物事の良し悪しに関する決めつけなどは、それが公平な判断や評価ではないのだから、真に受けるべきではなく、相手にしないで動じない姿勢を保つ必要があるのかもしれないが、それに関して言えることは、語られている内容が、単に判断や評価の対象となる物事の良し悪しと、そうした決めつけを行う理由だけであれば、それ以外には中身がないことになるだろうし、またそれ以外の中身が、語っている自身の自己正当化や自慢話だけであれば、やはりそれら以外には中身がないと言えるだろうが、では果たしてそれ以外に何が語れるかとなると、普通に考えるならそれは、語っている対象についての説明となるだろうし、またその対象を取り巻く周囲の状況や、そういった物事を成り立たせている原理とか仕組みとかの話になってくると、それも語っている対象についての説明に含まれてくるが、何かを語るということ自体において、信用できる内容となると、まずは語っている対象についての内容が信用できないと、それに対する判断や評価も、その良し悪しも信用できないだろうし、そういう意味では、語られている対象についての良し悪しという判断や評価を信用するか否かの前に、その対象について説明されている内容を把握して理解しないとならないだろうし、それがいい加減でお粗末な内容なら、それ自体が信用できないだろうし、その上でその対象の良し悪しという判断や評価を信用できるかというと、説明が信用できないのだから、その良し悪しも信用できるわけもなく、そういうところで重要となってくるのは、やはりその良し悪しの判断や評価ではなく、そうした判断や評価の対象となる物事についての説明になるのではないか。それに関してさらに言うなら、その対象を良く言うなら、良い面しか説明しなかったり、またその対象を悪く言うなら、悪い面しか説明しなかったり、そんなふうに単純でわかりやすい説明内容であれば、すぐにそれは一方的な宣伝や煽動の内容であると察しがつくだろうが、何かそういうところで、良く言う対象についての悪い面を説明しているとしても、そこに同情すべき点や状況的に仕方がなかった点とか、言い訳がましいことが述べられていると、やはりそういうところで騙されてしまう人が出てくるだろうし、また悪くいう対象についての良い面を説明しているとしても、そうした良い面を圧倒的に凌駕するような悪い面が述べられていれば、やはりそういうところで騙されてしまう人が出てくるだろうし、そうしたそこに示された良し悪しの判断や評価へ支持や賛同を求めて、そうした判断や評価へと誘導するような内容になっていると、やはりそういうところで注意深く思考を巡らす必要が出てくるのであり、まずそこで踏まえておかなければならないことは、その対象に関する知識量が、そうした判断や評価を下す人と比べて多いか少ないかを認識しなければならないだろうし、その点で自分の方が知識量が少ないと、やはりその人の豊富な知識量に幻惑されて、その人の述べていることを信用して誘導に乗ってしまいやすくなるだろうし、そういうところで疑問を感じたら、その対象に関する知識量を増やせばいいのかもしれないが、逆にその人より自分の方が知識量が多ければ、その人の述べていることを容易に把握しやすいだろうし、何かそれに関していい加減でお粗末なことを述べているのがすぐにわかって、その人のごまかしを見破ることができるかもしれないし、そういうところで知識量が物を言う場合があるわけだが、それとともにある程度は世間的な良し悪しの評価が定まっている物事や人や団体と比較して、その対象を良く言ったり悪く言ったりすることもあるだろうし、それについて簡単に言うなら、その対象となるのが人物だとすれば、その人物を悪く言うなら、その人のことをヒトラーのような独裁者だと決めつければ、ヒトラーに関する世間的な評価や評判を、その人に被せようとしているわけだろうし、実際にそんなわかりやすい例を使う人は、かえって愚かに見えてしまうから、少しは気が利く人なら、そんなわかりやすい例を持ち出してくることはないだろうが、何かそういうところで、良く言いたい人物に関して、ちょっとマイナーで誰もがその人物の名前ぐらいは知っているが、それほど詳しい知識は持ち合わせていないように思われる人を比較の対象に使って、その人物について比較するにあたって都合の良い面を詳しく説明しつつ、その人物と比較の対象となる人物とを重ね合わせて、良い印象を持たせようとすることなどが、巧妙なやり方になるのかもしれないが、そういうやり方に関しても、何か比較する上で都合の良い一方的な比較材料ばかり持ち出してくるようだと、普通の感性の持ち主なら、そうした比較自体がおかしいことに気づくだろうし、ではそれに関してどう語れば信用できるかとなると、一概には言えないだろうが、比較するにしても話者や語り手が良し悪しを決めつけるのではなく、あくまでもそうした判断や評価は、そうした説明を受け取る側に任されるような内容であれば、それなりに良心的な内容だと思われるだろうし、それを説明する側が、説明を受ける側の判断材料を提供するにとどめておくような説明に終始していれば、何か公平なことをやっている感じが出てくるだろうし、またそれに関して良い印象を受ける材料も悪い印象を受ける材料も、さらにどちらとも判断のつかない材料も提供すれば、さらに充実した説明になるかもしれないが、たぶんそんな判断や評価などは枝葉末節なことに過ぎないように思われる内容だと、より現状を反映したありのままの世界の現実に近づくのではないか。


2月3日「もっともらしい理屈」

 人が行なっていることには何かともっともらしい理屈がつきものなのだが、世の中を動かしている主要な理屈の中でも、資本主義の理屈が世界を覆う過程で大規模な革命や戦争を引き起こしてきたのが、ここ三百年余りの世界の動向だろうし、単純に考えて資本主義経済には商品を売り買いするための単一で同質な市場が必要であり、もちろん本当は違うのだが、それに関して鶏が先か卵が先かの点で不明確な面もあるが、それがヨーロッパでは国王の下に中央集権を推し進めた絶対主義王政の確立とともに、国内に単一で同質な市場が生まれ、また中央集権化した国の統治に関して行政を担う官僚機構も発達してきて、さらに統治を推し進めるために、広く社会の各層から意見を聞いて、それを行政に反映させるための議会も発達してきたわけだが、大雑把にそう捉えられないこともないが、各国が抱えている固有の事情に応じて、そうなるに至る成り行きもその後の経過も異なってくるだろうし、実際に国ごとに様々な差異が生じてきたし、現状でも生じているし、これからも生じていくのだろうが、それらの最も先駆的な事例がイギリスで起こった経緯になるだろうし、それ以前のオランダやイタリアやスペインやポルトガルで起こったことは、まだ前資本主義的な傾向が色濃く残っていて、完全には産業と行政と議会の三位一体が実現しなかったわけだろうが、それを三位一体とするのもとりあえずの定義であって、あまり正当化するほどの理由も根拠も定かでないかもしれないが、ともかくイギリスでは、農業生産技術の向上によって、農業生産が増大するとともに養える人口も増えて、農産物の大量生産に合わせて、より広い農地を確保するために、農地の囲い込みによって大土地所有が広まるとともに、土地を追われた貧しい農民たちが賃金労働者となって農業生産に携わるとともに、また増えすぎた人口が大都市に流入するとともに、そうした人々を安価な労働力としてこき使うことによって他の産業も発達してきて、そうした成り行きが産業革命と言われたわけだろうが、そうなる過程でピューリタン革命とか名誉革命とか、国内の動乱を象徴するような政変もあったわけだが、そうした政変を経て最終的には現在の立憲君主制のような形態に落ち着いたわけで、そうなった結果から見て、それを民主主義が確立する過程だと好意的に捉えることも可能だが、そんなふうにして国内の情勢が落ち着いた後でも、依然として極端な貧富の格差や、労働者の劣悪な環境下での長時間労働などの悲惨な境遇は一つも改善していなかったわけで、むしろ改善していないどころか、国内で食えなくなって余った人材を移民として廃棄するための土地として、海外に広大な植民地を持つことになったし、その植民地の一つで、本国の横暴に耐えかねて独立したのがアメリカだったわけだし、また多すぎる犯罪者の口減らしのために、囚人を送り込んだ先がオーストラリアだったわけだろうし、さらに綿花の輸入と綿織物の輸出先として確保して併合したのがインドだったわけだし、そのインドで生産したアヘンを密輸して、陶磁器や茶や絹などの輸入代金として支払った銀を回収しようとした先が中国だったわけだが、それらを後からどう言い繕ってみても、正当化できないようなことばかり行ってきたわけだから、そうした資本主義的な産業の興隆が招いたことの中で、民主的な政治体制が確立した経緯があるにしても、活動として主導権を握ってきたのは産業の側にあることは確かであり、産業の発展に合わせて国内外の法律や制度を整備してきた経緯があるわけだ。またそれはイギリスの周辺諸国でも並行して起こってきたことなのだろうが、後発の国ではまずは法律や制度を整備しながら、見本となるイギリスに合わせるとともに、競争に勝つためにはイギリスよりもさらに進んだ体制にしたいわけで、そういうところで行政の官僚機構が主導権を握る成り行きが出てくるわけで、そうした官僚機構側が主導権を握る形で生まれた体制が、フランスでは共和制という体制となったわけで、またそうした体制にする上で、イギリスから独立したアメリカの体制や、そこから抽出された国民主権などの政治思想を参考にしたわけだが、そうした体制がすぐに定着したわけでもなく、フランスでは帝政や立憲君主制などへの迂回や揺り戻しを経ながら、百年ぐらいの歳月を経て、ようやく共和制に落ち着いたわけだろうし、またアメリカでは南部の奴隷制と北部の賃金労働主体の資本主義経済との間で溝が深まってきて、南北戦争という内戦を経て、ようやく同じ資本主義体制の下に統一したわけだし、またドイツでは北部の富国強兵的な官僚国家であるプロイセンが強国となって主導権を握って、国内を統一するとともに、行政の側がより強い主導権を握って国を統治するような立憲君主体制が確立されて、それを法律や制度の面で見習ったのが、明治維新以後の日本だったわけだが、一方ロシアや中国などでは、元から広大な領土や大量の人民を統治するために皇帝直属の官僚機構が発達していたわけで、そうした官僚的な統治の伝統が、共産主義革命を経て誕生した社会主義体制にも受け継がれて、現在でも非民主的で独裁的な傾向の強い政治体制となって現れているわけだろうが、そんな中で統治という行為を正当化するために必要な理屈と、資本主義の理屈との間に折り合いをつけるために必要なのが、国民主権的な民主主義の理屈だとすれば、どうもそれは常に裏切られる傾向にあるだろうし、三者ともに別々の方角を向いていて、実際に折り合いがついているとは言い難いわけだが、それでも方便としてなら、いくらでもその手の理想が利用されてきただろうし、例えばアメリカの南北戦争において、大統領となったリンカーンが掲げた奴隷解放は、法の下での人民の平等を実現させるためには、その実態がどうであれ、建前としては必要不可欠に思われただろうし、それはフランス革命の時でもロシア革命の時でも、革命を起こす側が民衆を味方につけるための方便としては、民主主義の理念を掲げることが必要だったわけだが、その後の実態としてはフランスでもロシアでも官僚機構による国家管理的な体制へと収束していったわけで、そういうところでなかなか折り合いをつけるのが難しいことが明らかとなるわけだ。

 だからと言って、民主主義の理想が潰えたわけではなく、それ以後のいつの時代でも、政治理念としては民衆の間で一定の支持や共感を得てきたわけで、実際にも民主的な政治体制の確立が主張され続けてきたわけだが、一方でそれが官僚機構による国家統治の邪魔になってきた面もあるし、また資本主義的な利益の追求の邪魔にもなってきた面もあるのかもしれないが、ともかくそれらが合わさって相乗効果を発揮しているとは言えないだろうし、むしろ互いが互いを利用し合う関係を築いてきたわけで、それは騙し合いの関係とも言えるだろうし、例えば民衆に向かって、官僚機構の国家統治によって、豊かで平和な暮らしが実現するような夢を見させて、また資本主義的な利益の追求によって、金持ちになれる夢を見させて、さらに民主的な政治体制が確立されれば、誰もが自由に意見や主張が言えて、それが世の中や行政に反映するような夢を見させているとしても、何がそんな夢を見させているのかといえば、それは社会全体がその構成員に向かって夢を見させているのかもしれず、確かに世の中にはそうした夢が実現しているような気分になれる立場や境遇にある人も存在するのかもしれないし、またその一方で夢が破れて騙されたと実感する人も大勢存在するのかもしれないが、そんな人たちが世の中の状況を批判する立場や境遇を占めているわけでもなく、実際にはそうではない人たちが世の中の状況を批判している場合が多いわけだが、そういうことを言っている人たちの意見や主張も、それなりにもっともらしく思われるわけだが、それらの人たちの立場や境遇というのが、その人の立場や境遇から生じる都合を反映しているわけで、例えばそれが、自分ではなく他の誰かがひどく悲惨な境遇であるのが許せないとか、また逆に他の誰かがその人の夢を実現させて世間的に成功すれば、それを賞賛して讃えるとか、多くの場合はそれを伝えているメディア上でそんなことが言われていて、そうなるとそんなことを言っている人の都合がメディアの都合となるだろうが、ではその人の都合とは何かといえば、他人に共感したり同情したりできるような余裕ある立場や境遇を占めていたいとなるだろうし、結局はそれが批判であっても賞賛であっても、そんなことを言える立場や境遇の人がメディア上に存在しているということになり、そこで騙されているような気になってしまうわけだが、何に騙されているのかと言えば、それらの人たちの演技に騙されていることになるだろうし、そうであるなら世の中にはそうした演技とは違う現実があるのかもしれないが、たぶんそうした演技ではない現実の実態というのが、単なる社会的な役割分担であり、役割を分担された人がその役割をこなしている現実であり、その中には確かにメディア上で他人のやっていることに共感したり同情したりする役割もあるのだろうが、他にも様々な役割があるのは当たり前のことなのだろうが、その一方で何の役割もあてがわれていない人もいるのかもしれないし、また役割というのは他からあてがわれるのではなく、他人と競争して自分でその役割を勝ち取るものでもあるだろうし、そういう積極的に役割を求めるような態度もあるのだろうが、そうやって自らが主体的に活動して、社会の中で自分が演じたい役割を求めることこそが、夢を見るという行為になるのかもしれず、そう思ってしまった時点で、社会によって夢を見させられていることになり、普通に世の中で語られるような人は、そういった夢を見ている人しか語られないだろうし、それ以外の人について語られることは、ほとんどないのかもしれないし、あったとしても、否定的なニュアンスを伴って語られるから、その他の人たちはいないも同然な世の中が、夢を見ている人たちには意識されていて、そんな人たちにとっては、あたかも世の中の全ての人たちが、自分たちと同じように夢を見ていると思われるから、そういう人たちの間では、何やら積極的に夢を追い求めるようなことをやっているわけだろうし、またそうであるからこそ、自分たちの求める理想を実現させるために、積極的に活動しているような気になるわけだろうが、果たしてそれだけが世の中の全てかとなると、どうもそうではないような情勢があるのかもしれず、またそういう情勢はメディア上からはほとんど伝わってこないのかもしれないし、実際にほとんどの人たちがそれを実感することもないのかもしれないが、それが騙されていると言えるのかとなると、そうとも言えないような気にもなるだろうし、少なくとも騙す側が騙している自覚はないだろうし、それよりは世の中の真実を伝えていると自負している割合の方が圧倒的に高いだろうし、わざと騙す意図がなければ、普通は真実を伝えようとしているだろうし、それが真実とは言えないとしても、現実を伝えているだろうし、また意図して虚構を伝えているとしても、そこにはもっともらしい理由があるだろうし、少なくとも何かを伝えたいという意図を持って伝えている限りで、そこに伝えたい人の恣意性が含まれているはずだが、それ以外の面が伝わってこないはずもないだろうし、そのそれ以外の面というのが、その人の意図や思惑を外れる面であるわけだが、そこに夢とは異なる現実が映っていて、そういう面も含めると、世の中の夢ではない現実が見えてくるのかもしれないし、それはメディア以外の現実からも伝わってくるのだろうが、そういうところに理屈から離れた何かが存在していて、それが理屈では捉えきれない現実でもあるわけだが、それが普段から産業技術によって作り出された物事に取り囲まれながら暮らしていると、なかなか気づきにくい現実でもあるだろうし、しかも当の産業技術から作り出された人工物にさえ、その技術的な意図や目的から外れる面も含まれているのかもしれず、そういった面を感じ取ることができれば、目的に支配された夢から離脱して、世界の真の豊かさを実感できるかもしれないが、そこには真の豊かさとは言えない面もあるだろうし、すでにそんな言葉を使っている時点で、真ではない何かが想像されてしまうし、また豊かさと貧しさの二項対立から外れる何らかの状態も想像されてしまうわけで、そういうことまで考慮に入れると、それは言葉では言い表せない何かとなってしまうわけだが、そこまで求める必要はないだろうし、便宜的に世界の真の豊かさというもっともらしい状態を夢想していれば、それでも構わないのではないか。


2月2日「正しい行為」

 感触としては現状でうまくいっている行為については、正しいことをやっているように思われるだろうが、現状でうまくいっていない行為が間違っているかというと、間違っている可能性が大いにあるとしても、たとえ間違っているように思われても、それができないわけではないとなると、何かそこで間違っていることをやらせるような成り行きが生じていることになるのかもしれず、そういうところで何が正しくて何が間違っていて、また何ができて何ができないかについて、判断としてはよくわからなくなってくるわけで、何が間違っていると思われても、できることを行うような成り行きになってしまうだろうし、また特に現状で正しいことができて、間違ったことができないのではなく、正しいと思われることでも、できることとできないことがあり、また間違っていると思われることでも、同じようにできることとできないことがあるということであり、それが正しいか間違っているかの判断と、実際にそれができるかできないかは、別の話であり、現状でできることを優先してやるような成り行きになれば、それが正しかろうと間違っていようと、できることをやるような成り行きになってしまうだろうし、またそれを継続してやれている限りで、それをやっていくような成り行きも生じてくるわけだが、それができなくなれば、そこで何かやり方が間違っているから、そうした行為が行き詰ってきたようにも思われるだろうし、それとは違って行き詰まらないようにやり方を調整しながら、継続的に何かが行われている実態があれば、それが正しい行為のようにも思われてくるわけで、そういう意味では正しいとか間違っているとかは、そこで行われていることに応じて判断されるようなことだろうし、行う前から事前に正しいか間違っているかを判断できるようなものでもないのだが、それでも事前にわかっていることがあるとすれば、先例や前例としてすでに行われた結果から、正しいか間違っているかの判断がされていて、そうした判断に基づいて、正しいとされる行為を行えば、その通りのことができれば、それが正しい行為であるように思われるだろうし、そこでうまくいかないようなことにでもなれば、以前は正しいとされた行為ができた時とは、状況や条件が異なっているから、うまくいかない場合があるのだろうし、そういう意味ではその時は正しかったが、現状では正しいとは言えなくなってしまうだろうし、それだけ正しさの条件や内容が変わってきていることになるのではないか。またそうであってもその時々での相対的な正しさではなく、普遍的な正しさに関しては、その時々でうまく行ったり行かなかったりするにしても、論理的には正しかったり、またそれが倫理的な正しさや道徳的な正しさなどになるとしても、そうやってその場の状況や条件に左右されない正しさを肯定したり推奨するような成り行きもあるだろうし、そうなるとその場の状況や条件を調整して、それらの普遍的な正しさに基づいた行為が実行されやすいようにして、しかもそれがうまくいくようにするために、関連する法律や制度を整備するような成り行きも生じてくるわけだが、果たしてそういうやり方がうまくいくかというと、ある程度はうまく行っている状況があるから、そういうことが行われるのだろうし、そうやって何やらその種の正しさに基づいた行為が行われることもあるが、全ての行為が、そうした普遍的な正しさに基づいて行われているわけでもないだろうし、どちらかといえば、そうした面もそれなりに配慮されることもあるだろうが、その中でも論理的な正しさの面で、例えば収益性などの経済的な論理が優先される傾向にもなっているだろうし、その一方でそういった金儲け主義に押されて、倫理的な正しさや道徳的な正しさなどは、あまり考慮されない傾向も出てくるし、また現実的な問題として、それらの正しさを全て兼ね備えた行為ができるわけでもないだろうし、それよりもそこでうまくいかないようなことをやっている人たちの方が、自分たちの行為がうまくいかないことの原因や理由を、その場の状況や条件のせいにしたがるだろうし、またそういう人たちに限って、倫理や道徳などの普遍的な正しさを尊重しているように装って、その場でうまくやっている人や団体に向かって、そうした普遍的な正しさをないがしろにしていると批判したり糾弾したりするわけで、そういう批判や糾弾の中で強調されるのも、経済的にうまくやっている人に付きまとってくる、金儲け主義という否定的な先入観や固定観念に基づいたレッテル貼りのような文句だろうし、そうやってその場でうまくやっている人たちに対するひがみややっかみの感情をあらわにすることによって、うまくいっていないことの憂さを晴らすようなことが行われるわけだが、だからと言って、普通に考えて世の中の経済的な行為のほとんど全てが金儲けに含まれるわけだから、うまくいっていないほとんどの人たちも、それを行なって生計を立てているわけで、そういったうまくいくとひがみややっかみの対象となるような行為自体も、ある面では正しいことを行なった結果としてそうなったわけだから、正しいことをやって、しかもそうした行為がうまくいっているにも関わらず、場合によってはそれが否定的な批判や攻撃の対象となってしまうこと自体が、そうした正しさの不完全性を示しているだろうし、また行為の正しさについても、経済面や倫理面や道徳面などの様々な面で、その正しさの傾向や種類によって差異が生じてくるわけだから、しかもそれらの全てを兼ね備えた正しい行為を実行できるとは思えないだろうし、そういうことを考慮すれば、その場でできる範囲内で、正しい行為をやるしかないのかもしれないが、特にそれが間違っているとは思えなければ、現に行なっている行為を続けるしかないだろうし、またそういうことをやっている実態がその場に反映されて、それがその場の状況や条件を形作ってきて、結局はやっていることの実態がその場に反映されてくるわけだ。

 要するにその場で様々なことが行われていること自体が、その場の状況であり、実際に行われていることが、その場で何ができるかの条件になってしまうわけだから、その場でできることは現にそこで行われていることであり、しかも誰もがその場で行われていることができるわけではなく、さらにその場で行えることに関しての条件を満たした者のみが、そこで行われていることをできるわけで、その条件に法律や制度が絡んでくると、そうした法律や制度によって認められた資格という許認可権を伴った条件となるだろうし、さらにそうした資格を得た者同士でも競争を伴ってくることもあり、そうやってその場で行うことのできる者が選別されてくると、誰もがそれを行えるわけではなく、特定の条件を満たした者や団体のみが行えるような状況がその場に出現するわけだが、それに関しての良し悪しを云々することは、普通はないだろうし、ただ単にそういう成り行きによってそういうことが行われている状況があるに過ぎず、そうした前提がある上で、そこで何かを行なっている人や団体に関して、そのやり方ややっている状況や状態について、論理的や倫理的や道徳的な観点から、良し悪しを論じることもできるだろうが、そうだとしても、すでにそこで何かを行なうに際して、様々な条件をクリアした上でないと行えないわけだから、そういう面の方が、その場で何かが行われている要因の中で、圧倒的な割合を占めていて、それ比べて他の論理や倫理や道徳などから求まる良し悪しなどは、ほんのわずかな要因でしかなく、いくらそういう部分でやっていることの良し悪しを論じても、そこで行われていることには、ほとんど何の作用も影響も及ぼさない実態があるのかもしれないし、そうでなくても様々なことが行われている状況の中で、ある特定の行為の良し悪しを論じてみても、それが他の行為との関連や関係の中で行われていることであれば、その行為だけをどうにかしようとしてみても、他の行為との兼ね合いから、そうした行為のやり方ややっている状況や実態を変えようがなく、そういう方面からの改善や改革の試みができないような可能性さえあるだろうし、実際にいくら外部から批判されていても、長年にわたって変わりなく続けられているような行為には、そういう傾向があるだろうし、そういう行為には、それに対する批判などはすでに織り込み済みで行われるような成り行きが生じているのではないか。またそこで何かが行われていること自体から、その場の状況が生じているわけだから、そういう面ではそれを批判する人や団体よりは、そこで何かを行なっている人や団体の側に、行なっていることに関しては主導権があり、その行なっている中に、それに対する批判も含まれているわけだろうが、批判することについては確かに主導権を握っているかもしれないが、そういう部分が行われている全体の中での割合が少なければ、それだけ主導権を握っている部分も少なくなって、それに比例して世の中への影響力の度合いとしても小さくなってしまうだろうし、また批判というのはメディアを通して行われることだから、メディアの中で批判の占める割合が低下すれば、それだけ影響力も低下してしまうのは当然の成り行きであり、また民衆のメディアに対する信用度や信頼度が低下していれば、やはりそれだけメディア自体の世の中への影響力も低下するし、結局そうなっている中で、現状の批判勢力が、世の中の様々な方面で主導権を握っている側を批判するとしても、同時にメディアの中で主導権を握って批判勢力を抑圧している側も批判しなければならず、そうやってメディア自体を批判することによってメディアの信用度や信頼度を低下させておいて、その上に政治的あるいは経済的な主導権を握っている側を、信用度や信頼度の低下したメディアを通して批判しなければならないわけだから、二重の意味で世の中への影響力の低下を招きながら批判を繰り返すしかなく、そういう面ではどう見ても勝ち目のない戦いを強いられていると言わざるを得ず、それが結果的に世間に対する影響力の低下を招きながらも、その上にさらに主導権を握っている範囲も狭められている現状を招いているのかもしれず、そういうやり方が正しい行為かといえば、やっている側としては正しい行為だと強弁するしかないにしても、世間的に見て、もはや何が正しい行為であるかを決める立場にはないのかもしれないし、そういう状態が長引くほど、批判自体がジリ貧状態になりながらも、メディア内で相互批判の内ゲバのようなことが繰り返される様相を呈してしまうかもしれないし、そういった状態を改善させるのは批判勢力自身には無理なことだろうし、改善させる必要さえないのかもしれないが、それに関して民衆の側で踏まえておかなければならないことがあるかというと、民衆の間でも様々な立場や境遇の違いがあって、そういう立場や境遇を無視して、ひとまとめに民衆と呼んでしまうのも、かなり大雑把でいい加減な把握でしかなく、しかもその民衆が個人としても団体の構成員としても、そこで何かをやっている実態が、社会状況として生じているわけだから、何かその中で正しい判断基準とか評価基準とかが固定されているとは捉えない方がいいのかもしれず、それに伴って批判勢力が持ち出すような論理や倫理や道徳などに関する判断基準や評価基準も、特に固定しているわけではないとしても、それらの勢力が何か固定した判断基準や評価基準に基づいて判断や評価を行なっているように感じられるとしたら、そうした判断や評価に関しても、判断や評価を下す個々の事例において、差異やずれを伴っているかどうかに関して、注意深く観察する必要があり、そうした差異やずれを把握することが肝心なのかもしれず、特に同じようなことを行なっている複数の人や団体の間で、実際にその判断や評価に差異やずれが生じているとすれば、そういうところで判断や評価を下す側にぶれが生じていることになるだろうし、また同じ人や団体が行う別々の行為に対して、いつも決まって同じような判断や評価を下すような行われていれば、そうした人や団体に対して先入観や固定観念が生じていて、それらの人や団体が何をやっても、固定した好意的あるいは批判的な論調となってしまっていることになるだろうし、そうした面で違和感を持つことが、世間的な判断基準や評価基準が固定しているような思い込みから離脱して、自分独自の判断や評価を下すことに繋がるのではないか。


2月1日「世間的な見せかけ」

 何かをやるに当たって、何かうまいやり方があると思われることが、そのやり方を選ぶきっかけになるのかもしれないが、実際にそのやり方を試してみて、うまくいけばそれをやり続けることになるわけだが、うまくいかなければ別のやり方を探すだろうし、探して見つかれば、やはりそのやり方を試して、うまくいけばそれをやり続けることになるわけだろうが、同じやり方でも、その場の状況に適合してうまくいく場合と、その場の状況に合わなくてうまくいかない場合がありそうで、そうなるとうまくいくか否かは、その場の状況に左右されることにもなるわけだが、さらに場合によっては、別にその場ではうまくいかなくても構わない場合まであるだろうし、実際に他の事情が絡んでくると、その場ではあえて失敗しておいた方が、それを行なった人にとっては、かえって都合が良い場合まであるのかもしれないし、逆にその場でうまく行き過ぎてしまったことが、後になって、その人に禍をもたらすかもしれないし、さらにその場ではうまくいってもいかなくても、どちらでも構わないような場合さえあるのかもしれず、かえってその場で結果にこだわってしまったことが、結果よりも重大な何かを失ったり見落としている可能性があるわけで、例えばそこで目先の利益にとらわれて、もっと大きな利益をもたらすかもしれない信用を失ってしまったり、また木を見て森を見ないような過ちを犯していることにもなるかもしれないし、そういう意味では、そうなった結果だけから何かを判断しようとすると、いくらでも判断する人の都合に合わせて、恣意的にその場での良し悪しを判断できるわけでもないが、判断に関してうまく条件や都合を調整すれば、何かもっともらしい評価につながるような判断ができそうだし、そういう恣意的なご都合主義の面を考慮するなら、それに関しては自らの判断も他人の判断も、全面的に信頼するわけにはいかないし、それらは全て、とりあえずの判断だとみなしておけば、そこからその場の情勢の変化に合わせて、柔軟に判断を変えたり調整したり、あるいはそれまでとは全く異なる面から判断を下せるのかもしれず、しかもそんな判断でさえとりあえずの判断にしかならなければ、そうした判断の相対性を認識しておけば、そこから求まる評価も相対的なものと捉えておいて構わないだろうし、少なくともそれに対する絶対的な判断や評価はあり得ないと思っておいた方が、そういう面からもたらされる思い込みや先入観や固定観念から、自由でいられるような気はするだろうが、それにもそれなりに制約や限界があることは踏まえておかないと、今度は状況に合わせて自由に判断や評価を調整できるような思い込みや先入観や固定観念をもたらしてしまうわけだから、結局はそうやって、意識が捉えた行為や物事に対して、適切な言葉を当てはめる行為自体を、真に受けているに過ぎないことを、意識が過大評価する過ちを犯してしまうわけで、それに関してはどう考えてみても、それ以上の何がもたらされるわけではなく、実際にもたらされるのは、何かをやった結果がもたらされるだけであり、その何かをやった中に、結果を良いだの悪いだのと判断したり評価したりする行為も含まれるのだろうが、他の何かをやっている実態にとっては、それはやった結果に対する反応でしかないわけだから、それ自体は枝葉末節なこととみなされるかもしれないし、その評価が良かろうと悪かろうと、実際に何かをやっている実態があれば、そこで人や団体の活動が成り立っている状況があるわけで、そうした活動が世の中に何らかの作用や影響を及ぼしていて、それが悪い作用や悪影響を及ぼしているように思われると、それが社会問題としてメディア上で取り上げられることもあるだろうし、それに関して何か主張や意見が表明されるわけだろうが、やはりそれも何かをやった結果に対する反応でしかないわけだから、少なくともその時点では、何かをやった側が先行しているわけで、そして先行して行われた行為に対して、それを良いだの悪いだのと後から述べている時点で、すでに遅れをとっていることは自覚しておかないとならないだろうし、それに関しては何でもかんでも先手必勝というわけではないにしても、先行する行為や物事には、それだけアドバンテージがあるだろうし、しかもそれが実際に行われていることなのだから、まだその時点では行われていない予言や予測される行為や出来事よりは、確実な作用や影響を社会に及ぼしているはずだろうし、それが無視されるような些細な行為や出来事であっても、実際に起こってしまったことは、取り返しがつかないことだとみなしておいた方が妥当なのかもしれず、それをやってしまったり起こってしまった後から、何らかの修正や修復が可能だとしても、そうした修正や修復でさえも、やってしまったらすでに起こってしまった行為や出来事になるわけだから、そんなことが行われた分が、すでにその場の状況に付け足されたことになるわけで、そんなふうにして物事が前進してしまえば、そうやって前進した分だけ状況も変わってくるだろうし、それをいちいちそこで立ち止まって、やってしまったことについて良いだの悪いだのと評価するにしても、評価しきれない面があるとともに、評価する必要も感じられない行為など他にいくらでもあるだろうし、しかもそれを評価したところで、やってしまったことの印象が変わることはあっても、やってしまったこと自体は変わりようがなく、それは事実として認めるしかないのかもしれないが、中には認めがたいことも行われているだろうし、またやってしまったことをなかったことにしたい思惑が働けば、それに関してはやっていなかったと嘘をついたり、関係者の間で口裏合わせでもして、何も行われなかったことにできるかもしれないが、そんなことをやればやるほど、やってしまった事実が、口裏合わせをした関係者の意識に重くのしかかってくるだろうし、そうまでしてなかったことにしたいわけだから、それらの人々にとっては、その事実がよほど重大なことのように思われてくるわけで、そうなってしまうと多かれ少なかれ、そんな行為や出来事に執拗にこだわらざるを得ないような心境に至ってしまうのではないか。

 やってしまったことを、後から良く見せかけたり悪く見せかけたりすることも、世の中では一般的に行われていることだが、その中でも、それに対して何らかのを評価を下すことによって、良くも悪くも見せかける手法が、それについて語る内容には含まれるだろうし、それを肯定的に語れば、語る対象を良く見せかけることになるし、それを否定的に語れば、語る対象を悪く見せかけることになるだろうが、見せかけるといっても、語って見せたり、文章として表示して見せたりするわけで、そこに言葉が介在しているのだから、特に画像や映像を伴っていなくても、想像させることになるだろうし、それだけ直接的な印象から遠ざかることにもなるのかもしれないが、それを良く言ったり悪く言ったりすることが、そういう評価を下すことに説得力を持たせて、評価を受け取る側にも、その評価を受け入れさせようとするわけだから、そこには何らかの論理的な理屈が伴っていて、その理屈に説得力を感じられると、そんな評価を受け入れるかもしれないし、説得力を感じられなければ、受け入れないだろうが、そんな理屈とともに印象を操作しようとするわけだから、稚拙な理屈でも、世間的な印象から判断してしまう人も多いだろうし、そういうところでも世間的に定着している先入観や固定観念に合致する内容であれば、そうした評価を信じてしまうだろうし、そういう面でも何かもっともらしい理屈を伴っているとしても、その理屈は世間的に受け入れ可能な理屈となるだろうし、普段から誰もが思っている範囲内に収まるようなことが述べられていれば、大した違和感もなく受け入れられるような成り行きにもなるだろうし、そういうところで初めから評価が決まっているような物事との比較によって、説得力を持たせようとしている面もあるだろうが、そういう部分で何か世間の一般常識的な価値観も評価基準に含まれてくるだろうし、その辺が巧妙に調整されていれば、そうした評価が説得力を伴うのかもしれないが、それが妥当かというと、妥当に思われるような操作や調整が施されていると捉えるのが妥当なところなのだが、それに関して例えば、評価する対象を良く見せかけようとするには、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面を、評価する対象から導き出そうとするだろうし、逆に評価する対象を悪く見せかけようとするには、世間的な価値観に照らし合わせて悪く見えるような面を、評価する対象から導き出そうとするだろうし、さらに良く見せかけようとする対象に関しては、世間的な価値観に照らし合わせて悪く見えるような面に関しては、なるべく言及しないようにするだろうし、また悪く見せかけようとする対象に関しても、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面に関しては、なるべく言及しないようにするだろうし、そういうやり方そのものは、評価する対象を良く見せかけようとしたり悪く見せかけようとしたりする操作としては、妥当なやり方かもしれないが、評価としてそういうことを行うのが妥当かといえば、評価の公平さを期すという観点からは、甚だ疑問に感じるだろうし、そういう面で評価する側の恣意性が表れているとしか言えないが、一般的に考えるなら、宣伝や煽動とはそういうものだろうし、宣伝や煽動に判断や評価の公平性を期待するのはおかしいわけで、そういった意味で公平な判断や評価を期待できないから、宣伝や煽動の内容を真に受けるわけにはいかないのだが、宣伝や煽動を行なっている側としては、是非とも真に受けてほしいわけで、そういうところが矛盾しているはずなのだが、世間一般の感覚としては、決して公平な判断でも評価でもない宣伝や煽動を、一般の民衆が真に受けることが期待されているわけで、そこが世間一般の感覚のおかしいところであり、狂っているところでもあるわけだが、そうした世間一般のおかしくもあり狂ってもいる感覚の持ち主の価値観として、世間一般に受け入れられているのが、世間的な価値観であるわけだから、そういう面を論理的に勘案するなら、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面があるからといって、あるいは悪く見えるような面があるからといって、そういう面を持ち合わせた対象を、良いと評価したり悪いと評価したりすることが、果たして妥当かというと、世間的な価値観や評価基準などに照らし合わせてみれば、妥当に思われるかもしれないが、その妥当性を信用できるかといえば、信用したければ信用しても構わないのだろうし、そういった信用によって世間が成り立っていることも確かだろうが、別にそんな評価を真に受ける必要もないのかもしれないし、むしろそんなことをやっている人たちは疑いの目で見ておいた方が、何かしらそこから見えてくるものやわかってくることがあるのかもしれず、そういうところで世間的な信用というのが、それほど確実なものでもないと捉えておくのも妥当なところだろうし、そういうところから、そういった価値観や評価基準に照らし合わせてみて、世間から絶えず影響を受けつつ形成される、自らの先入観や固定観念がどのようなものであるかを把握できるかもしれないし、それが把握できれば、そうした把握から逸脱するような面が自分にあるか否かを知ることになるかもしれないが、そういう面があったとしても、そういう感覚を活用できるか否かはよくわからないだろうが、ただそこから自身と世間一般との間で差異を認識できるだろうし、そうした差異をいかに保持し続けられるかが、自分独自の判断や評価につながってくるだろうし、そういう感性のちょっとした違いを保っていないと、世間的な価値観に照らし合わせて妥当に思われるような主張や意見に対して、それを無批判に賛同したり、全面的に支持するような愚を犯してしまうわけで、そうなるとそれでは世間一般と差がないことになってしまうだろうし、そうであるなら自分が自分である必要がないということにもなるのかもしれず、そんな誰であっても構わないような自分が自分と言えるかとなると、それこそ自家撞着や自己矛盾のただ中に自分が存在していることになってしまうのではないか。