彼の声132

2019年

4月20日「言葉と貨幣」

 人の動作は身体的な動きの他に、音声を発したり文字を記すことも、声帯を響かせたり腕や指を動かすことだから、身体的な動作には違いないが、言葉を操るという面では、他と比べて特別な動作であり、言葉というのが他人と意思疎通を図るための道具だとみなせば、言葉を操ることは道具を使いこなすことと同じであり、道具や機械を作ってそれを使うのと同じように、言葉を適切に組み合わせて文を作って、それをコミュニケーションの道具として使っているわけだが、さらにそれと似たような概念としては、貨幣があるわけで、貨幣も売買に使う道具とみなせば、同じようなことが言えるわけだが、人の活動はそれら全てを組み合わせて動作するものだろうし、身体に加えて言葉や貨幣や道具や機械を使うことによって活動が成り立っているわけだが、他の道具や機械に比べて、言葉と貨幣が特別な役割を果たしていて、それらには物質と情報の二面性があり、どちらかというと情報である面が本質であり、貨幣が数値的な価値を示す情報であるとすれば、言葉は価値以外にも様々な情報を含んでいて、世の中のありとあらゆる存在や現象を指し示す情報であり、それは物事を指し示す情報であると同時に、それらを解釈したり説明したり判断したり評価する情報も伴っていて、人や他の物事の様々な状態や状況を表現する情報でもあり、それらについて思ったり考えたりする時には言葉を用いるだろうし、そうやって言葉について考えていくと、それに関してはとめどなく多くの物事が次から次へと連想されるわけだが、貨幣の特性と言葉の特性は明らかに質が違うし、それぞれに役割が違うことは確かだが、その一方で人を人にとっての道具や機械として扱うには、言葉と貨幣が必要であり、人を道具や機械として動作させる上で、人を言葉で操って貨幣によって拘束するやり方というのが、近代から続いている資本主義的な制度の中で普及してきたことも確かであり、人にとって最も特別な道具である言葉と貨幣が、人を道具や機械として扱うような人間疎外をもたらす原因ともなっているわけで、それはもともと人の身体が人にとっての道具でもあり、そうしたことの延長上で、何やら言葉を操る意識が霊魂のような存在として認識されると、霊魂が人体を道具として操りながら活動しているような解釈も成り立ってくるわけだが、意識や霊魂という概念自体が、身体の一部である脳が抱く幻想である可能性もあるわけで、またそういう意味で脳だけを身体の中で特別扱いするような思想も、意識や霊魂の存在を信じることに伴って生じてきたわけだろうし、そういったことから意識とともに生じている言葉を特別扱いするような傾向も生じてくるわけだが、人を道具や機械としてではなく、人を人として扱うにはどうしたらいいかとなると、一般的には人を物としてではなく、心を持った霊的な存在として扱うようなことを説く人道主義的な在り方があるはずだが、その一方で例えば人がどれほどの量の貨幣を所有しているかを、その人の価値判断の材料にしてしまうと、途端に人の物化が進行してしまうだろうし、そうやって資産や収入の数値化とともに人が物扱いされる傾向が強まり、またそういう傾向はすでに教育の場で、偏差値や試験の点数や成績などからも生じてくるのだろうが、そもそも社会自体が人の集団的な役割分担によって成り立っている面があるわけで、社会を維持していくための道具が、役割分担された人であり、人が機械の部品である歯車のように働くことによって社会が維持されているようにみなすなら、そこでも人の物化が進行しているわけだろうが、どうも社会を機械や装置に見立てるような思考自体が、近代的な思考に特有な傾向なのかもしれず、その一方で人を霊的な存在とみなす人道的な傾向も、近代の思考に特有な傾向だとすると、何かそこで矛盾が感じられてしまうかもしれないが、霊的な存在である人の意識が、道具としての身体と、その延長上にある本物の道具や機械を操りながら、社会を作り上げてそれを維持しているようなイメージを思い浮かべると、何かしっくりくるのかもしれず、そして言葉を駆使して様々な道具の類いを操っている霊魂という意識が、人の身体の一部である脳の神経ネットワークから生じる幻想だとすると、ではそんなふうにして構成されている社会とは何なのかというと、社会の構成員である各人の脳の神経ネットワークが結びついた、巨大な情報と物流のネットワークだとも解釈できるかもしれないが、そうしたネットワークを行き来する情報を制御しているのが言葉であり、また物流を制御しているのが貨幣であるとも言えるだろうし、その中で人を霊魂に見立てると、それは言葉によって制御されていて、人を物に見立てると、それは貨幣によって制御されていると言えるのかもしれず、また情報もメディアを通じて商品となると、貨幣によって制御されることになるし、言葉と貨幣を制御しているのは霊魂としての人であるはずかもしれないが、その一方で企業や政府などの団体が人を物として制御している面もあるだろうし、また人が制御しているはずの機械も、仕組みが複雑になってくると人自身が機械の一部として取り込まれて、機械によって人が制御されるような実態も生じてくるだろうし、それは様々な機械が寄り集まって作動しているシステムにも言えることであり、そうしたシステムに取り込まれた人は、機械とともに機械的に動作することになるだろうし、そういう面では人は機械を制御するとともに、機械に制御されるようなことにもなり、さらに機械と一体化して機械とともに動作するような成り行きにもなって、そういうところで人が物化しているわけだろうが、それほど複雑な機構に組み込まれていなくても、金銭的な面では、収入や資産とともに評価されるようなところでは、それらが示す数値的な情報とともに、物的な取り扱いとなる面も出てくるだろうし、何かしら数値によって計られる時には物化せざるを得ないわけで、そういう意味では霊的な面では、数値化できないはずで、そこでは量ではなく質によって、良し悪しが判断されることになるわけだが、その一方で質の良さでさえも金銭的あるいは数値的な価値に換算されてしまうと、途端に物化してしまうわけだ。


4月19日「言葉を交わす理由」

 人の様々な行為の中で、言葉を用いて関係する人や集団から何らかの反応や対応を引き出そうとする場合、その対象となる人や集団も、その言葉を理解できる必要があることは言うまでもないことだが、言葉そのものは人と人とが意思疎通を図るための手段となる媒介物であり、言葉自体よりは言葉で指し示される内容が重要となってくることも言うまでもないことだが、社会の中ではその人の立場や境遇も重要となってくるだろうし、何の脈絡も背景もないのに、いきなり見ず知らずの赤の他人と言葉を交わして意思疎通を図るような成り行きにはならないわけで、そういう事態になる前提条件として、そういった行為を生じさせる理由や目的があるわけで、普通は理由や目的なしに他人と意思疎通を図るような成り行きにはならないだろうが、もちろんその理由や目的というのが、その人の意識の中で明確にはなっていない場合もあるわけで、ただ何となくその場の成り行きでとか、偶然のきっかけで言葉を交わす仲になったとか、中にはそういう場合もあるだろうが、それもそういう事態になる前提条件に含まれるだろうし、そうなった前提条件に応じて、意思疎通を図る内容もそれ相応のものとなり、そこで明確な理由や目的があれば、その理由や目的に沿った内容になるのは明らかだろうが、ただ何となくだとか偶然のきっかけだとかで言葉を交わすとしたら、他人と言葉を交わしているうちに、即興で理由や目的が生じてくる場合もあるわけで、相手の顔色を伺いながら、途中で話す内容を変えてくることもあるだろうし、そういう意味では話しているうちに、前提条件とは異なった理由や目的も生じてくる可能性もあるのかもしれないが、はじめから相手を騙そうとしたりやり込めようとする場合があるにしても、話しているうちに騙せないと判断したり敵わないと悟れば、やはりそこで理由や目的を変更せざるを得なくなるだろうし、そういう場合は戦略的に臨機応変な対応が求められてくるわけだろうが、ある程度は事前に目算があってそういうことを仕掛けてくるわけで、そういうことを行う場合にもそれなりの前提条件があるわけだが、そうした条件がどこから生じるかといえば、やはりそれは社会の中でのその人の立場や境遇からそんな条件が生じてくるわけで、何の前提条件もなしにそういうことは行われないわけだ。そうした条件を変えることができるかとなると、簡単に言えば社会的な立場や境遇を変えられれば前提条件も変わってくるだろうし、これまでの人間関係や団体などとの関係を変えれば、立場や境遇も変わってくるのだろうが、そのためには新たな人間関係や団体などとの関係を築かなければならなくなるだろうし、そうした関係を築くには新たにこれまでとは違う人や団体と言葉を交わして意思疎通を図りながら、それらの人や団体などとの関係を構築するために活動しなければならないわけだろうが、そういった活動の中身は単に言葉を交わすだけにとどまらないだろうし、そこにはプライベートでは勉学や趣味や娯楽や交友や恋愛や家族などの活動や、仕事関連では経済活動や公的な領域では政治活動などが伴ってくるわけだが、そうした様々な活動が同時並行で行われるわけだから、当然そうした活動からもたらされる社会的な立場や境遇も日々刻々と変わっていくだろうし、決して一定の状態で安定しているとは言えなければ、それに伴ってその人の前提条件も変わっていくはずだろうが、他人と言葉を交わす理由や目的や内容も、その活動内容に応じて変わってくるわけで、だからその中のある部分やある面を選んで、そこだけ拡大解釈して、それがその人の全てであるかのように決めつけるのも、かなりいい加減で信憑性の乏しい解釈になるしかないが、得てしてその人の評価を恣意的に貶めるようなことをやるとなると、そういうことが行われがちになるだろうし、浅はかな人たちもそういう誹謗中傷の類いを面白がって信用しがちにもなるわけだが、果たしてその人の公私両面にわたる様々な活動内容に首尾一貫性があるかとなると、大抵は何かしらその人に特有な傾向があるかのようにみなしたくなるだろうが、そういった傾向が見つかるとしても、それがその人の全てではないわけで、その人にはそういう面やそういう部分があるとしても、別の面や別の部分もあるだろうし、しかもそれがその人の立場や境遇から生じてくるとしたら、別の立場や境遇になれば生じてこない可能性まであるだろうし、そうなると全てをその人自身のせいにはできないことにもなるわけだが、そういうところであまりにも人物本位の解釈を行なってしまうと、状況的にも情勢的にも見誤ってしまうだろうし、そこでも戦略的な見地から特定の人物を批判するような成り行きにもなるわけだから、必ずそうやって判断を誤らせようとする意図や思惑が生じてくるのかもしれないし、意図的にそういうことをやる人や勢力を信用できるかとなると、そこに言説的な誇張や強調が加えられている傾向があれば、そういう部分や面は信用しない方が無難だろうし、たとえ自らが支持している人や勢力がそういうことを行なっているとしても、なるべく信用しない方がいいわけだが、たぶんそういうことを行わざるを得ない立場や境遇というのもあるだろうから、そういうことが行われる脈絡や背景を十分に考慮しておくことが肝心で、そんなところまで含めて考えれば、必ずしもその人やその勢力のせいでそうなってしまうわけでもないことにはなるわけだろうが、そこで事態を単純化して解釈してしまうと、その人やその勢力のせいでそうなってしまっていると思われるわけだから、そこでも事態を単純化しなければならない脈絡や背景が潜んでいるわけだろうし、そういうことまで注意深く考えていくと、現状がこうなっていることについて、それなりの必然性がわかってくるのかもしれないが、わかったところでそれをどう今後に生かしていくかとなると、なるべく単純化しないで、できるだけそこで行われている様々な活動内容について、詳しく把握しようとするしかないのかもしれず、そうやって現状の世の中を成り立たせている様々な要因の一つ一つを確認しながら、それらの要因が互いにどう絡み合って世の中に作用や影響を及ぼしているのかも把握できれば、現状認識がそれだけ正確になるわけだろうが、そうした認識や把握にもそれなりに限界があるだろうし、どんなに努力してもその人の能力以上のことはできないわけで、そういう意味でもメディアをはじめとして様々な方面から情報を入手して、総合的に判断するしかないわけだが、その際に注意しなければならないことは、やはり情報を恣意的に捻じ曲げたり、意図的に誇張したり強調したりしている部分や面を見極めることが肝心だろうし、そういう信用できない部分や面を取り除いてみれば、それなりに正確な現状認識へと至るのではないか。


4月18日「対話の不都合」

 対話というと、何か真剣な話し合いのようなイメージを連想させるが、話し合いではない対話があるかとなると、そんな対話はにわかには想像できないが、内容によっては話し合いとは言い難いような形だけの空疎な対話というのもあるのかもしれないし、人と人とが対話する以前に、果たして対話する理由を得るまでにこぎつけるかとなると、それ以前に何らかの関係が生じないと対話する機会もなく、たぶん世の中のほとんどの人たちは対話することなしに、互いに無関係な時間と場所の中で離れ離れに生きているだろうし、それだけ膨大な数の人たちがこの世界には存在しているはずだが、そういう意味では対話の有効性を過信するわけにはいかず、そう簡単に人と人とが対話によって良好な関係を築くまでには至らないだろうし、意思疎通を図ることの困難さを認識しなければならないだろうが、対話する必要がなければ対話しないのは当然のことだとしても、中には片方が対話しようとしても相手が拒む理由さえ生じてくるのかもしれず、だから対話によって物事の解決を図れるなどと安易に幻想を抱く気にはなれないわけだが、それでも公的な領域では、例えば世界各国の政府と政府との間で交流を図るような成り行きになれば、政府の首脳同士が対話することになるわけだろうが、それで何が解決することもないだろうし、気休め的には外交の面でそれなり定期的な対話を繰り返している間は、政府同士が国交断絶とか戦争とかには至らないのかもしれないし、そういう面では揉め事などの解決を図るためというよりは、友好関係を継続させるために対話する成り行きにはなるのだろうが、そういった政府の首脳同士の大げさな対話でなくても、普通に人と人とが気軽に対話する機会があるかとなると、中には偶然のきっかけから目的もなく会話することもあるだろうが、いざ改まって何らかの目的を持って対話するとなると、戦略的な損得勘定とか功利的な面から目的が生じてきてしまうと、気軽な会話程度では済まなくなるだろうし、そこから交渉だとか取引などに発展すれば、場合によっては争いのもととなったりもするわけで、何かをめぐって争うようなら、対話というよりは対決になってしまうだろうし、そういった揉め事を伴うような対話となると、普通に考えても険悪な雰囲気の中で行われることになるだろうし、そういうことも含めて、対話自体も内容によっては争いの面も含まれてくるわけだから、対話の全てが平和的な話し合いに終始するわけではなく、下手に対話したばかりに、以前より関係が悪化するような場合さえあるわけで、実際に問題の解決を図るために対話するにしても、対話だけでは終わらずに、その後に暴力の応酬のような思いがけない事態を引き起こすようなら、対話にも否定的な結果をもたらす可能性があることになるだろうし、そういうことも踏まえて、対話という行為自体よりも、そこに至るまでの成り行きや、対話の内容や進め方などの面で、工夫を凝らしたり改善の余地があるのかもしれないが、そうでなくても人と人とが、あるいは集団と集団とが、さらに人と集団とが、面と向かって直接対峙するような場合には、対話以外にも様々なケースが考えられるわけで、その中で対話だけに肯定的な価値を見出そうとしても、現実にそれ以外の事態に至る可能性があるわけだから、公の制度として対話を重視するような成り行きに持っていくにしても、現状でもそれだけでは済まないケースが圧倒的に多いのかもしれず、例えばそこに経済的な利害が絡んでくれば、いくら対話しようとしても、経済的な損失を被った側は収まらないだろうし、たぶんそういうところで対話の限界が露呈するのだろうが、そうであっても対話を継続することによって、時間稼ぎのようなごまかし戦術をとるような場合も出てくるわけで、ただ利害が食い違ってどうにもならないようなケースであっても、ごまかしとして対話を利用するようなことになれば、それが正しいやり方とも妥当な判断とも思えないような成り行きにもなってくるかもしれないが、決定的な破局に至らないためには、次善の策としてそんなことが行われるケースもあるのかもしれず、そんなふうにして卑怯と言われようとずるいと思われようと、対話によって物事の解決を図るふりをしながら、ずるずると事態を長引かせることによって現状の維持を図ろうとするような思惑も生じてくるだろうし、その良し悪しはそういった事態に関わってくる人や集団などの立場や境遇によっても判断が変わってくるだろうが、別に関係者の全てが納得するような解決があり得ないなら、そうなってしまう成り行きもあるだろうし、そんな成り行きの中では、対話の有効性もよくわからないものとなってくるのかもしれないが、特に有効でなくても構わない場合さえあるだろうし、その場の間に合わせ程度に、とりあえず場を保つために関係者の間で話し合いの機会がもたれることなども結構あるわけで、そんな時には対話の有効性など誰も気にしていないだろうし、そんな中でははっきりとした目的さえわからないような内容のない対話も行われて、それが何のために行われているのかも意識せずに、惰性で対話しているようなら、要するにそれは憩いのひと時となるのかもしれないが、そういう会話ならそれで構わないのだろうし、たとえそれがきっちりと目的を設定した制度的な対話であっても、成り行きによってはそういった目的から外れてしまうようなことも起こるだろうし、いくら目的を定めて結果を重視しても、対話に参加する当事者がその気にならなければ、そんなのはどうでもいいことになってしまうだろうし、またそうであるなら、事前に定めた目的も期待された結果も計画倒れで、あまり本気で取り組むようなことではなかったことになるだろうし、そういうケースも含めて、まずは対話ありきではなく、対話に至る成り行きになったら対話することになるというのが、実感としてはリアリティを感じられるだろうし、普通に考えて何もないところから対話に至るわけはないし、また激しく戦闘している状態から急に対話に至るのもありえないことだろうし、それが偶然ではあっても、何らかのきっかけがないと対話に至る機会が訪れない場合もあるし、また第三者が用意周到に対話の場をセッティングするような成り行きも中にはあるだろうが、少なくともその機会が必ずやってくるわけではないことは踏まえておいた方がいいだろうし、何か争っている双方が対話に至るような成り行きに持って行こうとしても、その全てが成功するわけでもなく、また成功しなくても努力するような成り行きもあるわけで、それが無駄な努力だとは思えなければ、粘り強く対話に至るように努力し続けなければならないわけだ。


4月17日「論理的な矛盾」

 世の中で生きていて、特に守らなければならないことを意識しているかというと、法律や慣行などを意識する場合もあるが、それと自覚しないで守っている規範というのもあるのかもしれず、その自覚せずに守っている規範というのが、自身がそれに気づくとは思えないし、では他人を見ていてそれに気づくかというと、それもよほどのことがない限りは気づくはずのないことかもしれないが、そういった誰にも気づかれないような規範によって、世の中で生きている人々の思考が規制されているとしても、自らの思考がどのように規制されているかなんて、何の手がかりもなければわかるはずもないことだろうし、そもそもそんなあるのかないのかわからないようなことを考えるのも、無駄で無意味なことかもしれないが、そんなことよりは誰もがわかっている具体的な物事について考えてみた方が、有意義な気もしてくるだろうが、たぶんその誰もがわかっている物事というのが、確かにその中で誰もがわかっている面があるかもしれないが、その一方で意外とわかっていない面もあるのかもしれず、その誰もがわかっていると思っていながら、実際にはわかっていない面もあるとしたら、それについて考えていること自体が、わかっている面についてしか考えていないことになってしまうわけで、そういうところでわかっていない面については考えようがないから、そうした面で思考が規制されていることになるのかもしれず、そしてそういう規制を設けてしまうことが、その人が自覚せずに守っている規範と言えるだろうし、そういう面についてはわかろうとしなくても構わないと思うことが、自己規制という規範になるわけで、結局それがわかってしまうと、それまでに守ってきたその人が確からしいと認識してきた論理とか理屈とかが破綻してしまうから、それ以上は考えないようにして、自らの思考に自主規制をかけていると言えるのかもしれないが、それも意識して規制をかけているというのではなく、思考しようとすると自然とブレーキがかかってしまう成り行きがあり、そこでリミッターが働く感覚なのかもしれないが、なぜそれ以上考えることができないのかというと、やはりそれ以上考えてしまうと、今まで守ってきた論理や理屈が破綻してしまうのかもしれず、そしてそれに伴って現状を現状のままでは認めがたい感覚もあるわけで、現状で起こっている現象や成り行きの全てを認めてしまうと、その人の論理や理屈が成り立たなくなってしまい、その人の論理や理屈を成り立たせるには、少なくともそうした論理や理屈に反することをやっている人たちを想定しなければならないわけで、そんなことをやっている人たちが、その人にとっての敵対勢力を形成していて、要するに敵としてその人の論理や理屈に反することをやっているから、そんな人たちを批判するために必要な論理や理屈が、その人が守っている論理や理屈になるわけで、確かにそうなると、そんな人たちを認めてしまったら、論理や理屈が成り立たなくなってしまうわけだが、そう都合良く世の中で敵を見つけられるかというと、それは敵を都合良く設定するための論理や理屈になっていて、敵とみなした人や勢力を、その人が持ち合わせている論理や理屈を用いて、批判しやすい定型の型枠にはめ込んでから、それらの人たちを敵と決めつけるわけで、その過程で批判しやすいように強調や誇張などの表現を用いて、批判対象に加工を施すわけだろうが、そうした加工に用いるのが、文字や音声や画像や映像などの情報素材であり、それらを使って批判して当然に思われるような虚像を作り上げるわけだが、それが虚像だと悟られないようにするには、そうした情報処理を行なっている自らが、それを自覚してしまっては、わざとらしさやぎこちなさが出てしまって、真実味が伝わらなくなってしまうのかもしれず、だからそれと自覚せずに、論理や理屈が破綻する手前で思考にブレーキがかかったりリミッターが働くように、自己規制や自主規制をかけているわけだろうが、自分で自分に規制をかけていることになぜ気づかないのかというと、すでにそんなことをやっている時点でそれが演技になっているわけで、自分で自分が守っている論理や理屈に合うような自己を演じようとしてしまっているのかもしれず、そうした論理や理屈によって、敵となる対象を批判しやすい定型の型枠にはめ込むという作業を行うこと自体が、自分自身もそうした論理や理屈によって、敵を批判する側の定型の型枠にはめ込んでいるわけで、そうやって批判対象を定型の型枠にはめ込むこと自体が、自身も批判する側の定型の型枠にはめ込む作業を伴ってしまうわけだから、それを自覚しながらできるかとなると、やはり無理だろうし、それが演劇的な舞台装置から生じる作用であり、そうした舞台装置を提供しているのが、SNSと呼ばれるソーシャルメディアになるわけだが、そこでそうしたメディアの利用者がメディア上でメディアにとって都合の良い定型の人格を演じている自覚があるかとなると、やはりそんなことまでは自覚していないのが、普通に考えられる成り行きなわけだが、それを自覚する必要があるかとなると、やはり自覚してしまったら、定型の人格を演じられなくなってしまうのかもしれず、演技者が演じる人物になりきってこそ演劇が成り立つわけで、そこで演劇が成り立っている限りは、演技者は自らが演技していることすら自覚していないのかもしれないし、それだけ迫真の演技となっているのかもしれないが、結局その実態は自らの演技を自らで見ているに過ぎず、自己満足に浸るために演技していることを、自らが自覚しているかというと、やはり演じている際にはその自覚がないのかもしれないが、演じているうちには飽きも出てきて、何かのきっかけで演じているのが馬鹿らしく思えるようになってしまえば、それに気づいてしまって、気づいてしまえば馬鹿らしさがこみ上げてきて、演じられなくなってくるのかもしれず、そこまで至ればブレーキも利かずリミッターも働かないような成り行きとなって、演じることやめてしまうのかもしれないが、やめる人がいる一方でやり始めてしまう人もいるだろうから、そこで誰かが演じている限りは演劇空間も維持されるのではないか。


4月16日「プラシーボ効果」

 現実の世界と社会との間に何か差があるかと言えば、普通に考えれば社会は現実の世界に含まれているはずだが、社会にはあって現実の世界にはないものがあるかと言うと、簡単に言えばそれは幻想や幻影の類いであり、幻想や幻影には人の精神作用や心理作用から生じて、実際に人の心に働きかけて無視できない作用や影響を及ぼす力があり、そもそも人の心自体が幻想や幻影から成り立っているのかもしれないが、それを文字や音声や画像や映像などで表現すれば、現実の世界にも出現しているように感じられるだろうが、それは間接的に示される虚像であって実物ではないだろうし、社会の中で人はそういった現実には存在しない虚像によっても動かされていて、それを実際に存在しているかのように信じてしまうと、例えば言葉が言霊になっているように感じられたりするわけで、そのいい例が、最近日本で話題となった、天皇の代替わりに伴って元号を平成から令和に替えたことによって、何か世の中が良くなるかのような幻想がメディアを通じて世の中に振りまかれたことだろうし、普通に考えれば単に年号を示す言葉が変わっただけで、それだけで世の中の状態が良くなることはないように思われるかもしれないが、そうした元号を考案した人は、そういった願いを込めて言葉を選んだわけだろうし、実際にそうなれば令和という言葉に世の中を良くする力があったことになるわけで、そうなるとそれはただの言葉ではなく言霊だと言えるわけで、言葉に何か霊力のような力が宿っていて、その言葉を唱えれば言葉に込められた思いが実現するという陰陽道のような呪術となるわけだが、果たして現実の世界でそれが可能であるかというと、社会の中でなら可能なのかもしれず、実際に人の心に訴えかけることで、プラシーボ効果のような作用をもたらすのかもしれないし、またそれがそんなふうに思い込んだ人の活動によって、現実の世界も変えていくのかもしれないが、そうだとしても他の現実の世界を変える要因と比較すれば、気休めのような効果しか期待できないのかもしれず、例えば実際にそうした陰陽道のような呪術が、人々の間で現代よりは格段に強く信じられていた平安時代などの実情がどうであったかといえば、普通に考えても呪術よりは他の政治的な要因や経済的な要因などの方が、世の中に強い作用や影響を及ぼしていたわけだろうし、そして現代では当然呪術よりは科学技術や産業技術などの方が、社会の中でも格段に重要性が高いだろうし、もちろんそうした様々な術が働く方面にも違いがあって、神社や寺社などが関係する方面では、場合によっては呪術の方が重要な分野もあるだろうし、そういうところでは祈願などの儀式の中で呪術が使われるのだろうが、そういうことと現実の政治や経済などの方面での効果を重ね合わせる風習があることも事実であり、そういった様々な術の効果を混同しないことが肝要だろうが、科学技術や産業技術によって成し遂げられることと呪術によって成し遂げられることには違いがあることが、頭の中ではわかってはいても、その場の雰囲気や成り行きに呑まれてしまうと、多くの人が錯覚してしまうだろうし、それに関して例えばどの政権や内閣であっても新しい元号を発表することはできるわけで、新しい元号を発表したからといって内閣や政権の支持率が上がるとしたら、それがイカサマの世論調査でなければ、民衆が呪術にかかっていると言えるわけだが、もっともそれも一時的な効果しかなく、だいぶ時間が経って、人々が新しい元号に慣れてしまえば、そんなことは忘れてしまうだろうし、そういうその場しのぎの一時的な効果が期待されていたわけでもあるのかもしれないが、元号の発表と同時に民衆がご祝儀のような気分になることを期待して世論調査も行なったわけだろうし、そういうことまで含めて呪術の範疇に入るのかもしれないが、実際に元号が発表された日が4月1日であり、日本では統一地方選挙に向けて政権側がそういったご祝儀的な世論の印象操作をするには絶好のタイミングではあったのだろうが、4月1日といえば世界的に欧米を中心にエイプリルフールと言われているわけで、その日だけ嘘をついても構わない日であり、そういった4月バカの日に政府が元号を発表すること自体、不謹慎なのではないかと思う人も中にはいるかもしれないが、もちろん欧米の風習と日本の風習は別であり、確かに民間ではそうかもしれないが、政府が発表するような公的なレベルでは、たとえその日が4月バカの日であろうが、そんなことは気にするまでもないことなのだろうが、その一方でそれと同じような欧米の風習であるハロウィンやクリスマスやバレンタインデーなどでは、普通にメディアがそれに関する行事を報じるだろうし、また例年でも4月1日がエイプリルフールであることは、それらの日と同じぐらい周知の事実であり、実際に世界各地や日本で開催される4月バカの日にちなんだふざけたイベントを、その日には決まって報じてきたはずなのに、なぜか政府が新しい元号を発表する日がたまたま4月バカの日と重なってしまったからには、そうしたふざけたイベントを報じるのを自粛したとすれば、結局それは政府に対する弱腰姿勢であり、それに関して近頃流行の言葉を使うなら、忖度と言えるかもしれないが、それだけならまだしも普段から政府に対して批判的な人たちでさえも、なぜ4月バカの日に新しい元号を発表するような間抜けな行為を嘲り笑うようなことができないのかといえば、やはりそれらの人たちも呪術にかかっているとみなすしかないのかもしれず、実際に例年の4月1日と今年の4月1日がそれほど様変わりした印象を受けなければ、そんなことも単なる勘違いの思い違いでしかないわけだが、そういったたわいない事情と、元号の発表がどれほど次元の違ったイベントかとなると、それも人々の心理的な印象の範囲内で感じられることでしかないだろうし、多くの人たちがそれとこれとは別次元の話だと思えばそれで構わないだろうし、それに関してあまり屁理屈を並べて政府の対応をおちょくる気にはなれないし、そうしたことも含めてそれらのほとんどは枝葉末節なことでしかないわけだが、そうした枝葉末節なことの中に、言葉の霊力などの呪術的な効果も含まれているだろうし、それを当たり前のように信じてしまう風土が、現状の世の中に含まれていることも確かなのではないか。


4月15日「分相応な運命」

 人がどんなに努力しようと、結局のところ人にはその人にとって分相応な成り行きが待ち構えているというと、何かそれは運命論のようないい加減さを感じてしまうかもしれないが、その分相応という状態がどうやって生じるかとなると、社会の中での人間関係や団体などとの関係から生じたり、あるいはそれまでにその人がやってきたことに関して、何か説得力を伴うような因果応報的な成り行きによってそうなれば、分相応な現状にも納得できるかもしれないが、必ずしもそうでなければ、何らかの運不運が作用してそうなってしまったと考えるより他にないような成り行きもあるだろうし、またそういった偶然の巡り合わせによって生じた現状に不満を感じているのなら、必ずしもそれが分相応だとは思わないだろうし、実際に良い意味でも悪い意味でも分不相応な状態に現状が感じられると、何か居心地が悪いような感触を得るかもしれないが、実際にそうなっているとしても、その居心地の悪さというのが、現状で感じる違和感となって、それがその人の判断を狂わしたり、妨害や障害などを伴って思い通りのことをさせないようにする成り行きになっているとしたら、他からの悪意ある作用や影響を感じ取っている証拠かもしれないし、それが勘違いや被害妄想でなければ、実際に何らかの敵対関係がそこで生じているのかもしれないが、果たしてそういう成り行きから自由になれるのかというと、もしかしたらそういうこととは別の方面から状況を判断できる可能性があれば、それが自身を取り巻く環境や情勢を客観的に捉えることにつながるのかもしれず、それに関しては自分にとって利益となるか不利益となるかが判断基準ではなく、またそれによって自らの社会的な役割などを恣意的に決めつけるわけでもなく、自らの存在を何ら特別視しないような感覚で世の中を眺めてみれば、自意識過剰とは無縁の世の中の客観的なありようが見えてくるのかもしれず、それが何を意味するのかといえば、自らが社会の中で何ら特別な存在ではないことを自覚できるわけで、実際に自らが置かれているのが、どこにでもありふれているような立場や境遇であることがわかれば、自分以外にも自分と似たような立場や境遇の人が世の中にはいくらでもいることに気づかされるだろうが、それを否定したりそれに気づかないうちは、まだ自意識過剰な面があると言えるだろうし、そういった面が自らが他とは違う特別な存在だと思い込ませているわけだろうが、他にもそういう自意識過剰な人が世の中にありふれているとしたら、自分が特別な存在だと思うことこそがありふれた思い込みになってしまうわけで、そしてその自らが特別な存在であることの根拠というのも、結構誰もが思っているようなことであるならば、やはりそれはありふれた思い込みであって、自らが特別な存在であると思い込んでいる人は、何も特別な存在でもないことになってしまうだろうし、そう思っている時点でそんな思いに裏切られていることになるのかもしれないが、ではその逆に自らがありふれた存在であると思い込むことが、自らが特別な存在であることの証拠となるかといえば、当然そんなことはないだろうし、自らがありふれた存在だと思い込むことは、ただ単にそういう思い込みは妥当なのかもしれないということであり、実際にありふれた存在なのだからそう思うしかなく、それを勘違いして特別な存在だと思い込めば、単にそれは誤った認識になるに過ぎず、どちらにしても自らが世の中でありふれた存在であることを示しているのかもしれないが、実際に誰にもそういう面があるのかもしれず、またそれとは別の面もあるのかもしれないし、その別の面というのが、もしかしたらその人を特別な存在にしている場合もあるのかもしれないが、それはその人が自分で自分に対して思い込むことではなく、他人がその人に関して、何かその人に固有の特別な面を発見することになるのだろうし、要するに他人に認められないと、その人に特別な面があるとは言えないわけで、それは他人から見てそう見えるということであり、自分が勝手にそう思い込むようなことではないのかもしれないし、そういう面での違和感というのも、それはいつも他人を介してもたらされるようなものなのではないか。そしてそうであるなら、別に自分で自分を特別な存在であるとは思わなくても構わないだろうし、それは謙遜とか卑下なのではなく、自分を特別な存在だと思うような自意識過剰な自分を、客観的に他人事として捉えられるようなら、自分に対する公平な評価をもたらすわけで、特に周りを見渡してみて、自分と同じような立場や境遇の人が他にもいくらでもいるようなら、それを客観的に判断すれば、そうした状況は何ら特別な兆候を示していないわけで、そして自分が特別だと思うこと自体が、他の人も同じように思っているとすれば、それも取り立てて特別な兆候ではないわけで、そういう意味では自分を特別な存在だと思うことは、その人の特別さとは真逆の凡庸さを物語っていることになるのかもしれず、そしてその凡庸さというのが、誰もが持っている傾向であり、そんな傾向の中には、自分が特別な存在だと思うことも含まれていて、そういう成り行きがその人の分相応さをも物語っている可能性まであり、誰もが同じように思うことを自分もそう思っているわけだから、それこそがその人の分相応な思い込みであり、そんなふうに思ってしまうこと自体が、その人のありふれたメンタリティと、そんなメンタリティをもたらしている立場や境遇も、他の人たちと似たような立場や境遇であり、それがその人の分相応な立場や境遇であり、他の人たちと同じような思い込みをもたらすような立場や境遇だと言えるのかもしれないが、ではそういう立場や境遇の何がそういった分相応な思い込みをもたらすのかといえば、これも誰もが思うことであるだろうが、例えば自分が他人より秀でたいという願望があるなら、他の人たちと同じようなありふれた立場や境遇であると、不満や不快さや居心地の悪さををもたらして、要するにそうではないような幻想を抱かせるわけで、それが他人から足を引っ張られていたり妨害工作を仕掛けられているような被害妄想を抱かせたり、さらに不運が重なって今はこんな立場や境遇に甘んじているが、そんなことさえなければ、もっとすごい立場や境遇になれたんだと思い込んだりしていれば、やはり絶えず自分は他人とは違うんだ特別なんだと自らに言い聞かせていないと、自尊心を保てないように思われてしまうのではないか。そしてそれがその人の分相応な運命だとすれば、やはりそんな運命は世の中にはありふれているわけだ。


4月14日「日本に特有の問題意識」

 世の中で行われていることに関して、特に良し悪しの判断とか評価などとは無縁なところで何かが行われている場合には、ただ単に必要だから行われていて、さらにそれが惰性で行われていることがあるとすれば、それは制度的な行事となるのかもしれず、そういう場合は行為を行なっている人が必要としている以上に、制度的に必要とされている場合があり、そうなるとその制度に従わなければならない立場の人にとっては、制度に従っている限りで行わなければならない行為となるだろうし、それもある意味ではその人が制度に従うためには必要だから行われる行為にはなるだろうが、それよりは制度にとって必要だから、その制度を維持する上で必要だから行われる行為になるわけで、そういう場合はそれを行うことの是非は問われないだろうし、そうした行事にその良し悪しの判断や評価が伴うとすれば、行うか行わないかの良し悪しではなく、それが必ず行われることを前提として、行われた内容の良し悪しを判断したり評価することはあるかもしれないが、そうしたことの良し悪しを判断したり評価する人にとっては、それを行わないという判断はあり得ないし、それは何が何でも是が非でも行わなければならないことになるわけだが、そうした前提が世間的に当然のことと思われている中で、そうした行為の是非を問うようなことを述べても、世間からは無視されるのも当然のこととなるわけだろうが、そういう制度的な行事を推し進める側としては、何が何でも自分たちが推し進めたい行為を制度的な行事にしてしまえば、もはやそうした行為を行うか行わないかの判断を行えないようにすることができるわけで、そういう意味で行為の制度化や行事化というのは、そのような行為を必ず行わせることを目的としていて、あらかじめ行為そのものの是非を問う人たちを排除した上で成り立つ行為となるわけだが、何でもかんでもそういう行事にできるかとなると、新たに行事として定めるに関しては、それなりに抵抗が伴うはずだが、すでに行事化してしまった行為に関しては、それが慣習や制度として世間的に定着していれば、それほど抵抗感は伴わないだろうし、逆にそれをやめさせるのが困難になっているから、それを行うのが当然のこととして世間的に定着しているわけだが、実際にそうした制度や行事をやめさせるには、世の中の動乱状態を利用したり、政府が強権的なことを行なって強引にやめさせるようなことが起こらないと、なかなかそういった制度や行事をやめさせることはできないのかもしれないが、現実にそういった制度や行事が長年にわたって続いていること自体が、そういった制度や行事をやめさせるほどには、それに伴って弊害が生じていないことを意味するわけで、そういう意味では何らかの制度や行事が長年にわたって続いていることは、特にそれを続けることに関して世間的にはそれほど問題とはなっていないことを意味しているだろうし、逆に言えばそれほど世の中に弊害をもたらさないような制度や行事が、長期間にわたって続いていくことになるのだろうが、それが実際に弊害をもたらしていないかとなると、そうした弊害に人々が気づいていないだけかもしれないし、それを弊害だとは思わなければ、それをもたらしている制度や行事をやめさせようとは思わないだろうし、その辺の判断や評価や認識が微妙なところかもしれないのだが、そうしたことに関しては、そうした制度や行事を維持運営している団体が、世の中でどれほど力を持っているかによっても、そうしたことを続ける上では重要な要素となってくるわけで、特に政府が主催するような行事ともなると、それを行わせる力も強大となってくるわけで、誰もがそれに関して問題意識を抱いて、それが議会や選挙などで争点となるようなことにでもならない限りは、そうしたことをやめさせるような成り行きにはなりづらいだろうし、しかもそれが単なる取るに足らない形骸化した儀式のような内容であれば、誰もそんなことを問題視しないだろうし、予算的にも他に比べて微々たる費用しかからなければ、なおさらやめさせることにこだわる理由もないだろうが、そういった些細なことが数多く積み重なって、意外と気づきにくい無駄で無意味な物事が、塵も積もれば山となるように大量に蓄積している場合もあるわけで、そんな経緯によって長年にわたって慣行となってしまった儀式の類いが多くなりすぎて、それが飽和状態となってくると、そうしたことの重みに耐えきれなくなって、世の中の秩序が崩壊する要因にもなるのかもしれず、それが世の中の動乱期を招く原因にもなるとしたら、そうした動乱状態を利用して制度や行事を一新するような成り行きが起こるわけで、日本で言えばそれが、古くは大化の改新から奈良時代にかけての時期や、そこから時代を下って平安時代から鎌倉時代への移り変わりの時期とか、さらに現代に近づいて明治維新から第二次世界大戦での敗北までの時期にも言えることだろうし、そういった激動の時代を経て、それ以前の時期とは驚くほど世の中の制度も行事も変わってきたわけだろうが、そうした歴史的な経緯と、現状で行われている行事などが関係があるかとなると、現代に暮らしている限りで、それほど関係も関連もないようにも思われるかもしれないが、むしろ現代の情勢を考慮するなら、日本だけのことというよりは世界的な枠組みの中で考えなければならないのかもしれず、そういう意味で形骸化している制度といえば、それは国家的な制度であり政治的な制度なのかもしれず、またそういうことに目を向ける上で障害となっているのが、日本特有の問題意識だろうし、それを日本だけの問題だと意識することが、かえって問題の本質的な面を捉え損なうような結果を招いているとしたら、そういうことに関して、今までの認識を一新する必要があるのかもしれないが、現状では誰もそんなことにまで関心が及ばないだろうし、別に日本でそんなことを問題視するよりは、もっと世界的に影響が及ぶアメリカとか中国とかで、そういうことに関して問題視する機運が高まればいいと思うかもしれないし、たぶん日本と同様ではないにしても、アメリカでも中国でもその国に特有な問題意識が生じているだろうし、そういう面が世界的に問題意識を共有できない事態を生んでいるのかもしれないが、現状が19世紀の欧米で確立された国家的な政治制度を一新させるような時期だとは、世界中のほとんどの人たちは思いもしないだろうし、そんな機運がこれから高まるとも思えないだろうが、それが資本主義の問題と絡んでいることに関してなら、どうも日本だけの問題ではないことぐらいは、他の多くの人も気づいているのではないか。


4月13日「主導権と主体性」

 世の中で生じている様々な物事とともに人も活動している実態があるわけだが、そこで主導権を握っているのは人であり団体であり制度でもあるわけで、それらの物事の何から何までが全面的に主導権を握っている主体によって制御されているわけでもないとしても、個人が主体的に自らのやりたいことができるかとなると、やりたい内容によっても、その場の状況によっても、主体性を発揮できる程度は変わってくるだろうし、またその人が行なっていることの中で、どの程度までその人に主導権があるかは、そこに関わってくる他の人や団体の関わり方にもよるだろうが、そこで何らかの共同作業を行なっているなら、その中で特定の個人に全面的な主導権があるわけでもないだろうし、そういう意味で主体性とか主導権とかは、必要以上に意識するようなことでもないのだろうが、何か自らが行なっていることについて肯定的な幻想を抱くなら、自らが主導権を握って主体的に行なっていることに価値を見出したいような傾向となるのかもしれないが、必要以上にそういう面にこだわると、ややもすると自己中心的なことをやろうとして、他との兼ね合いにおいて妥協を許さないような態度となってしまいがちになるのかもしれないが、状況的にはそんなわがままな態度が許されないような立場や境遇になる場合もあるだろうし、そういうことに関してもその場の状況次第でどうにでもなるようなことかもしれず、何を行うにしても人が主体的に行なっている限りで、そういった利己的な価値を度返しするわけにもいかないだろうが、それでも行なっていることがうまくいくためには、自らの主導権や主体性などを犠牲にしてでも、他との兼ね合いから生じる、合理的で妥当に思われるやり方に従わなければならない場合も出てくるだろうし、そういう面で他の誰に主導権を明け渡すにしても、特定の局面において特定の立場や境遇の人が、一時的にその場の主導権を握るような成り行きになるのかもしれないし、たぶんその一時的に主導権を握る期間というのが、ほんの数分であったり数時間であったり数日であったり数ヶ月であったり数年であったりするわけで、中には数十年も主導権を握り続けるような場合もあるとしても、人の寿命には限りがあるから、人に代わって何らかの集団が主導権を握る場合もあるだろうし、そういう場合は数百年単位で主導権を握っているような組織的な集団もあるかもしれないが、それもあらゆる方面にわたって全面的にそうなるわけでもなく、ある特定の限られた分野や領域で部分的に主導権を握る場合が多いのかもしれず、そうであるからそれとは別の方面で、特定の個人が主体性を発揮して主導権を握る余地が生じてくるわけで、たとえそれが偶然の巡り合わせであっても、その人に大した力がなくても、どう見てもその任にはそぐわないような人が、主導権を握るような立場や境遇になってしまう場合もあるのかもしれず、そういうところで誰もが納得するような合理的な論理や理屈とは無関係にそうなってしまうと、他から疑念や不信感を抱かれたりするだろうし、なぜ大した能力も才能もないような人が、そんな立場や地位についているのか、それが適任でないように思われてしまうわけだが、そこから何か不正なやり方でそんな立場や地位についたのではないかと疑われたり、誰か他の大物が黒幕となって陰からその人を操っているのではないかと勘ぐられたりもするわけだろうが、そういうところで社会的な立場や地位の妥当性として、その人に備わっているように思われる能力や才能への幻想が生じるわけで、そういう立場や地位に就くには、それなりに多くの人が納得できるものが必要となってきて、それがその人の備わっているように思われる能力や才能や人格などであれば、何やらそこに妥当性があるように感じられるのかもしれないが、それがないように思われてしまう人については、その人を支える周りの取り巻きたちが気を利かせて、その人に立場や地位に見合う能力や才能や人格などがあるように見せかける工夫が凝らされる場合もあるのかもしれないが、それが幻想であるなら、そんな工夫が凝らされる必要もないような立場や地位でしかなく、ただ多くの人々がその立場や地位に関して、それなりの能力や才能や人格がないと勤まらないように思っているだけで、本当はそんなものなど要らない可能性まであり、そういう立場や地位にしても、社会的な関係の中でそれだけが独立して存在しているわけではなく、その周りの関係する他の立場や地位の人たちとの共同作業の中で、相対的に限られた一定の範囲内で主導的な役割を任されているだけで、それが他からの助言やサポートによって成り立つような役割であれば、特にその人だけに秀でた能力や才能がなければならないわけではなく、助言やサポートなどのバックアップ体制がしっかりしていることが、そういう立場や地位が成り立つ条件である場合もあるだろうし、そういう職種になってくると、そうした役割をこなす個人の能力や才能や努力とともに、その個人を支える周囲の組織的な体制などの充実が、そうした職種がうまくいく上で欠かせない要素にもなってきて、そういう面で個人が何かを行なうことに関しては、その人が単独で行える分野やその範囲はそれほど広くはないのかもしれず、何をやるにも絶えず他の人や団体との共同作業になっていく面があり、そうなるとその人の能力や才能というよりは、それとともにいかにうまく他の人や団体と協調体制を築きながら、その中でギブアンドテイクのような関係を結べるかが重要となってくる場合もあるだろうし、そんな関係の中では、その人が全面的に行為の主導権を握るような成り行きにはならずに、そうした関係を損なわない限りで、関係者や関係団体の間で、何らかの妥協や利益分配や役割分担が生じて、そういうことを交渉や取引などによって決めるような成り行きになるとすれば、そういうことを決めるための協議の場が重要となってくるわけだ。


4月12日「時流に反して」

 人が文明世界の全てを把握できないのは、その人とは直接関係のない夥しい数の人や集団によって、長い年月をかけて文明世界が作られてきたからと考えれば、多くの人は納得できるかもしれないが、地域的にも時期的にも異なった様々なところで様々な文明が興亡を繰り返してきたわけだから、現代においてすでに滅亡してしまった文明の痕跡などをいくら調べてみても、完全にはその全てを把握できないのは当然のことだろうが、別にそんなこととは無関係に生きている人が把握する必要もないだろうし、そうなっている時点で特定の個人は、いつも世界の片隅に存在する部分的な要素でしかないわけだから、その人が知り得るのも、いつも部分的な物事になるしかなく、その人にとってはそれで構わないことでしかないわけだが、その人が世の中をどこまで把握すべきかは、誰がそんことを決めるわけでもないので、その人が現状で把握している範囲内が、把握すべき全てではないものの、必要に応じて把握するしかないだろうし、必要がなくても把握しようとすることもあるかもしれないが、何を知るべきかを誰から指図されることもなければ、自主的に把握するしかないだろうし、そうした把握が正しいか間違っているかも自分で判断するしかなく、そういう意味で世の中の全ての人の知的レベルが、必ずしも一致していないのは当然のことだろうが、どのような知的レベルになるべきかも、そんなことは誰にもわからないことであり、誰に知っておくべきことを指図されるいわれもないだろうから、結局誰が何を知っていようと、その人と無関係ならどうということはないのかもしれないが、その人が何を知るかも偶然の巡り合わせでしかない面もあるだろうから、特に必要でないことまで知っているとしても、それが普通の事態なのだろうが、そういう意味ではその人が何かを知るに至るかの選択肢はないのかもしれないし、知る必要がないことまで知りたくはないと思っても、思いがけずに知ってしまうこともあるわけだから、人によって知っていることがまちまちでも仕方のない面があるわけだが、それでも人と人とが関係を持つ限りで、コミュニケーションをとってそれなりに情報交換をする過程で、知識を共有することになるだろうし、そうやって世の中に知識が伝播していく成り行きもあるわけで、何か知ってほしいことがある場合は、知ってほしい人たちとコミュニケーションをとろうとするのだろうが、それとは違ってメディアを通して不特定多数の人々へ向かって、多くの人が知ってほしいことを訴えかける場合もあるわけで、それはコミュニケーションによって他人と知識を共有する場合とは傾向の異なる知識になってしまうのかもしれないが、何かしら他人に向かって知ってほしいことを訴えかける行為には、訴えかける人にとっては切実な理由があるのだろうし、実際にそうしたことをメディアを通して多くの人たちが知ることによって何が起きるかは、その知ってほしいことの内容にもよるだろうが、その内容が多くの人にとって都合の悪い内容であれば、いくら訴えかけても黙殺されるだけかもしれないが、なぜ都合の悪い内容を知ってほしいと思うかは、例えば多くの人が間違った認識を持っているから、それを正したいという思いから、そんな訴えかけが行われる場合もあるわけだが、果たしてそれが本当に間違った認識かとなると、人の立場や境遇によって認識が異なってくる場合があるとしたら、立場や境遇によっては間違っているとも言えない可能性が出てくるわけだが、それ以外だと、わざとデマを流して多くの人を誤った認識へと導く行為も行われるだろうし、それがデマではなく宣伝の類いだと、訴えかけの内容そのものは間違っているわけではなくても、都合の良い面を強調したり誇張して伝える一方で、都合の悪い面は隠蔽するような操作が施されている場合もあるだろうし、そうした面を見抜くには、それなりに伝えられる内容に関して知識を持ち合わせていないと、騙されてしまう可能性が高くなるだろうし、そういう面ではメディア上で訴えかけられる内容というのは、注意してそういう訴えかけが行われる背景に関して、他の方面から調べてみる必要があるだろうし、そうでなくてもメディアから情報を受け取るには、そのメディアやメディア上で訴えかけている人や団体がどういう素性なのかに関して、あらかじめ知っておく必要があり、そうなるとそれなりに知るべきことが出てくるわけだが、すでにそうしたメディアやメディア上で訴えかけている人や団体を信用してしまった後では、なかなか内容を公平には評価できないだろうし、そういう意味ではそれらのメディアや人や団体などを信用する前に、訴えかけている内容を吟味する必要が出てくるわけで、またいかにその内容が合理的で妥当に思われても、それらのメディアや人や団体を全面的に信用する必要はないのかもしれないし、そのメディアだからその人だからその団体だから、報じている内容や訴えかけている主張が信用できるとは思わない方がいいのかもしれず、何らかの人や団体がメディアを通じて何かしら主張したり訴えかけているとすれば、まずはその内容を優先的に吟味してみる必要があるわけで、特に現状で成り立っている大衆市民社会の中で行われる主張とか訴えかけというのは、その大半がメディア上や世間的に流通している紋切り型的な内容である場合が多いだろうし、その気になれば誰でも主張できるような内容を、さもその人だけのオリジナルな主張であるように見せかけているわけでもないだろうが、一応は世の中で認められていて、多くの人が共感するような意見や主張であっても、なぜそれが世の中で認められていて、多くの人や共感するのかを考えてみてからでないと、安易にそれに同調したり、そういった意見や主張の持ち主を支持するのは、思いとどまった方がいい場合もあるわけで、そういうところでその人の思考力や持ち合わせている知識が物を言うわけだろうが、そうだとしても、その人の世間的な立場や境遇とは無関係にそういった態度がとれるかどうかは、やはりその場の状況次第となってしまうのかもしれないし、その人だけが疑問や疑念を抱いていても、他の大半の人たちが世間的な時流に流されてしまえば、その人には何の世間的な影響力もないことが証明されてしまうわけで、そうならないためには、その人自身がメディア上で積極的に意見や主張を述べる必要が出てくるのだろうが、その人がそれができるような立場や境遇にあるかとなると、そううまい具合にそういったことが主張できる立場や境遇になれるわけでもないわけだ。


4月11日「自然と精神と文明」

 この世界は人が生まれる以前から存在する自然の世界と、人が意識する精神世界と、人が人工的に作り出した文明世界の三つの世界に分けられるはずだが、それらがつながっている部分も重なっている部分もあるだろうし、それらを区別して捉える必要があるかとなると、普通はごっちゃになっているだろうし、全てが自然の世界に含まれているとも考えられるし、はっきりと三つに分けて捉えている人などあまりいないだろうが、それらの世界に対する対処や対応の仕方がそれぞれに異なることは確かであり、まずは自然の世界に対して人がどのような対処や対応をとるかというと、そこから資源や食料などを収奪して、それらを自身や文明世界を作り上げて維持するための糧として使うわけだが、精神世界の方は知恵や知識や思考や感情などの情報を蓄える貯蔵庫として使われているだろうし、それらは自然の世界に関する情報であったり、また文明世界に関する情報であったり、さらには精神世界自体に関する情報であったりして、精神世界が自然の世界と文明世界をつないで結びつける役割を果たしているとも言えるだろうが、精神が自身も含めて全ての世界を完全に把握しているかというと、当然把握しきれていないだろうし、実際にそれぞれの世界を部分的にしか把握していないし、しかもその把握が正確であるとも限らないわけだが、そこでできるだけたくさんの正確な情報を収集するために、人と人とがコミュニケーションを図りながら、絶えず情報交換している場合もあるだろうし、さらに情報を集積させる場としてメディアが文明世界の中で機能していて、そこからも絶えず情報を受け取ったり、そこへ情報を提供しているわけだが、精神世界は単なる情報の貯蔵庫であるだけではなく、様々な情報を加工してつなぎ合わせたり切り離したりしながら、そうやって新たな情報を製造する場でもあるだろうし、自然界や文明世界で働いている作用や影響に関する理論や法則などを見つけ出したり編み出したりする場でもあるわけで、それが自然界や文明世界で人が活動するのに必要な知恵や知識となるわけだろうが、文明世界で何か価値のある物事を作り出す原動力となるのが、精神世界に蓄えられた情報であり、それらを使う時に技術や勘となって働くわけだが、それを適切な時期に適切なタイミングで使うことが重要で、それが身体の動作と連動していたり、さらに道具や機械や制度となれば、それらの使い方が知恵や知識として精神世界に蓄えられているわけだが、またそうした情報はメディア上にも蓄えられているだろうし、そういう面でメディアが精神世界を補助する役割も果たしているわけだろうが、逆にメディアが人の精神世界をコントロールする役割を担っている場合もあるだろうし、またそういう意味では道具や機械や制度も、それを使う人の活動を制御している面もあるわけで、精神世界の知恵や知識を使って作り出された物事が、逆に精神世界に作用や影響を及ぼして、それらの物事に対応した精神世界を作り出す機能も持ち合わせているとすれば、それに関しては近年の情報技術から生み出されたコンピューターなどが、人の精神世界に及ぼしている作用や影響は甚大なのかもしれず、そういう面で精神世界と文明世界とはお互いに作用を及ぼし合いながら支え合っていると言えるだろうし、その二つの世界が連携して、自然の世界を征服しつつあるとも言えるだろうが、その一方で自然の世界は精神世界も文明世界も含みながら存在しているわけだから、征服という認識すらが人の勝手な思い込みに過ぎないとも言えるだろうし、多少贔屓目に見ても、自然界のほんの一部を征服しているだけだろうし、元来征服という言葉や概念自体が文明世界でしか通用しないのかもしれないし、自然の世界は征服の対象ではなく、単に依存しているに過ぎず、力関係としては圧倒的に自然の世界が勝っているのかもしれないが、それでも精神世界が形成する意識は、人の精神によって築き上げられた文明世界を肯定したいわけで、そこで顕在化している文明こそが、人が活動した成果として誇るべき物事なのだろうし、自然の世界にはない人に特有な価値が文明には宿っているわけだが、現実に人にしかその価値はわからないわけで、そういう意味では精神世界も文明世界も、人以外にとっては何の価値もない世界でしかないだろうし、そもそも世界という概念自体が、人に特有な捉え方だろうから、人以外の存在を想定すること自体がおかしいわけだが、精神世界の中では、理屈的にも信仰的にも人以外の何かを想定しないと、精神世界自体が成り立たなくなってしまうのかもしれず、そういう面で便宜的に神という概念を導入せざるを得なくなってくるのだろうが、人の精神がそれらの世界を完全には把握できないと思われること自体が、人以外の何かがそれらの世界には含まれていて、それが世界が成り立つ条件でもあり、しかもその人以外の何かが、人をコントロールしている可能性もあるわけだから、陰謀論的にも人類を作り出して操っている存在として宇宙人を想定してみたり、それが神だとみなしたい人もいるわけだが、もう少し事態を現実に起こっている目に見える現象だけで説明しようとするならば、別に人が作り出した物事が人をコントロールしていても構わないわけで、また人が人をコントロールしても、あるいは何らかの団体が人をコントロールしても、それは極めて自然な成り行きと言えるのかもしれず、人と人が作り出した道具や機械や制度などの関係は、人が思っているほど明確な上下関係はないのかもしれないし、創造主が創造した物事に操られてしまうのは、ごく自然で当たり前の現象と思っておいた方がいいのかもしれず、実際に人が結成した宗教教団の類いの中では、人の精神世界の中で作り出された神に信者がつき従っている実態があるわけで、実際に信者は本気でそう思い込んでいるだろうし、しかも精神世界では創造主が神であり、神によって作り出されたのが人であるという理屈が信じられていて、そうした理屈を作り出したのが他ならぬ人であるところが、宗教という発明品の逆説的な特性であり機能だろうし、それが文明世界では宗教教団などの団体として実現しているわけだが、他にも様々な施設や聖書や偶像や神殿や礼拝所などとして具現化しているだろうし、そうした意識の中で思っていることを実際に世界の中で物質化したり制度化したものが、文明世界を生じさせる発端となったことは確かなのではないか。


4月10日「ユートピア願望」

 一般的に言って、ユートピア願望というのは左翼的な幻想であるかもしれないが、現状の息苦しさとは無縁の能天気な世界像を空想して、そういった世界像とともに夢想される目指すべき理想的な社会というのが具体的にどんなものなのかは、それを無理に説明しようとすると、大抵はリアリティのない空想的な虚構となってしまいそうで、実際に現状でどういう状態が理想なのかは、誰にもわからないかもしれないが、理想社会をいくら空想してみても、それを実現させるために何をやればいいかとなると、やはりよくわからないのかもしれず、それよりは自らが個人的にやりたいことを優先させるのが、普通の感覚かもしれないが、自らのやりたいことが理想的な社会を実現させることであるなら、何かそれに関連して政治運動のようなことをやる成り行きになるのかもしれないが、実際に政治活動が理想社会の実現に結びつくかとなると、それはその場の状況にもよるだろうが、たぶん政治活動というのはもっと部分的で限定された狭い範囲内での活動となってしまうのかもしれないし、そもそも現状の世の中では社会全体を人為的に作り変えるようなことは行われないだろうし、それよりは特定の制度や法律を修正したり改正したり、新たに作ったりするぐらいで、政治にそれ以上のことは求められていないだろうが、人も団体もその活動の内容は、絶えず部分的な傾向となってきているのが、現代的な特徴であり、それに伴って全体としては変えようがない世の中の構造が顕在化してきたようにも思われるわけだが、なぜそうなってきたのかというと、軍事的に世界全体を征服するような妄想を抱くことが、それなりに非現実的であることが明らかとなってきたというと、それこそが誰もそんなことは思ってもいないようなことかもしれないが、どうせそんなことは実現できるわけがないのだから、社会のあるべき姿を思い描くような気になれないというか、それよりはもっと射程の短い身の回りのことだけにかかりきりとなっているというか、それも人によって立場や境遇によって異なるのかもしれないが、そういう妄想や空想の類いとは違う、良く言えば地に足のついたことを考えているというか、悪く言えば現状の延長上でしか物事を考えられないというか、別にそれを悪く言う必要もないだろうし、そんなふうに考えることを極めて当然のことだと認識していれば、それで構わないだろうし、やはりそういうことは良し悪しの問題ではなく、何かのきっかけからそんなことを思ったり考えたりしてしまうわけだが、それ以上に社会のありようというのは、そこで行われている人や団体の活動が反映されるわけで、結果としてそうなるに過ぎず、そうなることを目指すようなことではなく、それとは違って人や団体が目指していることは千差万別であり、決して全ての人や団体が同じ一つの状態や状況になることを目指しているわけではなく、そういう意味でただ漠然と社会変革を目指すといっても、何か雲をつかむような話となってしまって、具体的に何をどうすればいいのかがわからず、そんなことよりは個人的な興味の範囲内で、何かやりたいことが見つかればそれで構わないわけだろうが、そのやりたいことというのが、社会変革とかいう雲をつかむような話となってしまうと、ただの妄想の範囲を出ないわけだろうが、誰もそういうところで目標や目的が循環している自覚はないだろうし、普段から誰もがそれとは違うことを考えているはずだろうが、実際の世の中の状況や状態というのは、人や団体の認識とか、それを分析して導き出されるようなこととは無関係なのかもしれず、たとえ特定の人や団体が社会変革を目指して活動を行なった結果が、社会に何らかの作用や影響をもたらしたとしても、それがその人や団体が目指した状態とは一致はしないだろうし、それは社会の中で活動しているのが、その人や団体だけではないのだから、他の人や団体の活動も社会に何らかの作用や影響を及ぼしていて、そうした作用や影響が社会状況に反映されて、社会変革を目指す人や団体が望むような結果から外れるような状況をもたらしているわけだろうが、そういうことであれば、その人や団体の意向に他の全ての人や団体を従わせない限りは、その人や団体が望むような結果をもたらすのは難しいことになるはずだろうが、果たして現実にそんなことができるかというと、その人や団体が世界全体を征服しない限りは、他の人や団体を従わせることはできないだろうが、実際にそんなことをやろうとしてできるとは思えないだろうし、またたとえ世界全体を征服して他の人や団体を従わせたとしても、人や団体以外にも自然があるだろうし、人や団体が地球や太陽や宇宙を全て従わせることができるかとなると、そんなことは無理に決まっているわけだが、そもそも社会変革を目指す人や団体がそんなことまで考慮しているわけがないし、ただ単に人の社会を変革したいだけだろうが、そこには自然からの作用や影響が常に及ぼされていて、そういう面はどうにもならないだろうし、そんなことまで考慮する必要はないのかもしれないが、実際に大規模な自然災害などによって社会が多大な被害や損害を受けている現実があるだけに、そういったところからも制御できない人心の乱れが起こってくるわけで、そんな面まで考慮に入れると、何か理想的な状態や状況を目指すにしても、それ以前に現状への対処や対応や対策に追われているわけで、まずはそういった面を重視する必要に迫られるだろうし、そういうところで現状でうまくいっていない面を、どうにかするようなことが政治的には求められていて、それへの対処や対応や対策をどうするかが政治的な課題となってくるわけだが、その一方で理想を追い求めるようなことは要らないのかというと、宣伝文句としてはそちらの方が魅力的に感じられるわけで、やはりそういった宣伝に力を入れてしまうと、何か詐欺的で現実離れした夢のような話をでっち上げる成り行きになってしまうのかもしれず、そうなると語るだけならいくらでも誇張や装飾が可能で、何とでも言えるようなことをさも実現可能であるかのように語れるだろうし、そういったプレゼン的な見かけや見せかけを競い合うようになってしまうと、実際にやっていることが形骸化してしまうだろうし、やっていること自体に魅力がなくなってしまうから、人心がただ宣伝を映し出す画面を見て刺激を受けるだけの空疎な欲望に取り憑かれて、それとともに世の中の実態が荒廃していってしまうのではないか。


4月9日「利益を生むずる賢さ」

 世の中で誰にとっても都合の悪いことといえば、私的な領域での欺瞞的なごまかしを他人に見抜かれることかもしれないが、逆に誰もが抱え込んでいる欺瞞的なごまかしを他人と共有できたら、その人と共犯関係を築いて悪の同盟を結成できるかもしれないし、実際にはそんなフィクションのような単純な成り行きにはならないだろうが、世の中でうまく立ち回るには、ずる賢いやり方を身につける必要に迫られてしまうのかもしれず、そんなずるさをどうやって他人に許容してもらうかが、その人の魅力を生じさせるとともに腕の見せどころと言っては語弊があるだろうが、ずるいことをやっても憎まれないような人が、他人を押しのけて社会的な成功を収めるわけで、もちろんいくら他人から憎まれても、憎んでいるのが世間から相手されないような人たちだと、憎まれている人の方が勝ちとなってしまうだろうし、そういう意味でもずるいことをやっている人同士で連携して、きれいごとを取り繕うような偽善の徒である自称正直者たちの邪魔をしながら、結果的にそういった偽善者たちの天下とならないような方策を講じるような成り行きになるとすれば、そういった行為の集大成となっているのが、現状で行われている資本主義的な経済活動だと言えるのかもしれないが、そういうことをやっていないと現状の世の中が成り立たないと思われるなら、それが必要悪ともなるのかもしれないが、誰もそんなことは思っていないだろうし、成り行き上そうなっているだけのことであり、それをはっきりと意識していたり自覚しているわけではなく、またそうすることが合理的に思われるわけでもないだろうし、恣意的にそうやっているというよりは、成り行き的にそうなってしまうわけだから、理性とか良心とは無関係なわけだが、別にそれが欺瞞的なごまかしだとも思っていないだろうし、表向きはやましいところはないはずだろうが、そこでうまく振る舞えない人にとっては、うまくやっているように見える人たちが、何かずるいことをやって儲けているように思われてしまうわけで、そういう思い込みからうまくやっているように見える人たちを感情的に許せないような気持ちになってしまうのかもしれないが、実際にうまくやっているだけに、本当にずるいかどうかはよくわからないわけで、またそれをずるいとみなしてもいいかどうかも、実際にそんなことをやって成功している人たちからすれば、やって当然のことをやっている気でいるわけだから、それをずるいと非難されてしまうと、ではどうやれば成功できるのかとなってしまうわけだが、少なくともそうした非難に打ち勝ちながらやっていることだと考えておけばいいだろうし、そもそも誰からも文句が出ないような活動などあり得ないだろうし、実際に文句が出ないということは誰からも無視されていることになるわけで、そんな世間から相手にされていないような活動なら、そこから利益が出ることはないのかもしれず、実際に経済的な利益が出ている活動なら、何かしら不快に思われているだろうし、他人が儲けているのを快く思わないのは当然のことであり、そうやって文句を言ってくる人には、分け前をやれば黙ってしまうような成り行きもあるわけで、そういった分け前に群がってくる人を味方につけながら、そういった人たちを利用して事業を大きくしていくような成り行きもあるだろうし、そういうこと自体が清廉潔白な人たちから見れば、ずるい行為だと思われてしまうのかもしれないが、もちろんそんな清廉潔白を装うような人に限って、私的な領域での欺瞞的なごまかしを他人に見抜かれることを極端に恐れているだろうし、それに関しては普通に活動しているだけで、清廉潔白ではいられないような世の中なのかもしれないが、そうなると自らが必ず抱え込んでしまう欺瞞やごまかしとどう折り合いをつけるかが、その人の人としての器や度量を決めるようなこととなってしまうのかもしれないし、清廉潔白を装いながらもそれが見せかけであることがばれて、取り乱したりうろたえてしまうような人は、小心者の小物だと思われるだろうし、その一方で欺瞞やごまかしだらけなのに平然としていて、しかもそうであるのに他人からも信用されているような人だと、そういう人の周りにはその人の分け前に与っている仲間や手下が大勢いたりするわけで、そんな人たちに支えられながら、何らかの利害共同体のような勢力のトップに立っているような人だと、カリスマ的な力があると思われているだろうし、それなりに多くの人を惹きつける魅力も持ち合わせているわけだろうが、いったんそんな立場になってしまうと、私生活だけでなく、公的な領域でもいくら欺瞞やごまかしが発覚しようと、またそのことで他人から憎まれようと蔑まれようと、そんなことは意に介さないような成り行きとなってしまう場合もあるわけで、実際にその人の取り巻きによって支えられて、御輿に乗っているような状態となってしまえば、その人の人間性とは無関係に、その人をトップに頂いた勢力としての活動が勝手に動いていってしまい、その中でその人に割り当てられたトップとしての役割を全うしている限りで、それで構わないような成り行きとなってしまうのだろうが、ただそうした勢力の利害に反したことをやるようになってしまうと、勢力内でその人に対する追い落とし工作などが画策されることになり、そうなると今までは大目に見てきた欺瞞やごまかしが問題視され出すだろうし、それがその人を追い出すための口実に使われることにもなるわけで、そういうことまで考えるなら、普段からなるべく清廉潔白を装う必要が生じるのかもしれないが、そうだとしてもただの清廉潔白なだけでは、勢力内でその人への求心力が生じてこないだろうし、そんなわけで他人と欺瞞やごまかしを共有しながら仲間を増やしていって、そうした勢力のトップにまでのし上がるような人には、もろ刃の剣のような表裏一体の強みと弱みを兼ね備えているから、それなりに人を惹きつける魅力が生じるのだろうし、そういう意味ではトップに居座って安泰でいられる期間は思ったほど長くはないのかもしれないし、それもその人を取り巻く周りの状況に左右される面が大きいのかもしれない。


4月8日「物事の合理性」

 物事を合理的に考えるとどうなるかといえば、幻想を抱けなくなるのかもしれないが、そもそも合理的に考えるということが、どういうことなのかといえば、理にかなったことを考えるということになるだろうが、どう考えれば理にかなうかといえば、それに関して何か説得力のある具体例を示さないと、大抵の人は納得できないだろうが、その具体例以外に合理的な事例がないかとなると、他にもいくらでもありそうで、たぶん他にも無数にある合理的な事例を一つ一つ挙げていくのは、合理的なやり方だとはいえないだろうし、一つの説明によって誰もが納得できそうな合理的な説明ができるかとなると、それができなければ、そんな虫の良い説明などないということになるわけだが、そうではなく、何かを具体的に考える際に、なるべく合理的に考えようとするわけで、また考えるだけではなく、何かをやる際にも、なるべく合理的なやり方を模索しようとするだろうし、実際に考えたり行なったりする際に、どう考えるのが合理的なのかを考えるし、どうやれば合理的になるかを考えようとするわけで、すでにその時点で、それが合理的か否かがわからない考えや行いに取り掛かろうとしていて、そこで工夫を凝らして、いかにすれば合理的になるかを考えるわけで、そこで考えていることや行なっていることに関して、絶えずそれが合理的か否かの判断を下しつつも、合理的でないと判断すれば、合理的になるように、考えていることや行なっていることを修正しようとするわけで、そうであるならそれが合理的であるか否かは、その時点ではっきりと決まっているわけではなく、またいったんは合理的だと判断しても、状況が変わってくれば、もっと合理的なやり方を思いつくかもしれないし、実際にもっと合理的なやり方を思いつけば、それまで合理的だと思っていたことは、もはや合理的ではなくなるだろうし、そういう意味で物事の合理性を追求し始めると、絶えず自らの考えていることや行なっていることを批判的に解釈し直すことになるだろうし、また自分だけでなく他で行われていることにも同様に批判的な解釈を加えることになるわけだが、それが合理的か否かについては、やり方や考え方の正しさを求めることにはなるだろうが、それは絶えず暫定的な正しさであり、いつでもさらに合理的なやり方や考え方が見つかったら、それまでのやり方や考え方は正しいとは言えなくなって、新たに見つけられたり導き出されたやり方や考え方が、またさらに合理的なやり方や考え方が見つかるまでは、暫定的に正しいやり方や考え方となるわけだが、果たしてそうやって絶えず合理的なやり方や考え方をより合理的なものへと更新し続けられるかとなると、普通に考えるならそういった合理性の追求にもそれなりの限界があるだろうし、そういつまでもより合理的なやり方や考え方を追求していられるわけでもなく、ある一定のやり方や考え方が世の中に普及すると、それが模範的なやり方や考え方として定着して、それが主流となって他のやり方や考え方を駆逐するような成り行きもあるだろうし、そうなればそこで更新が止まってしまうわけで、実際にそれ以上の追求が行われなくなってしまえば、それ以降はそういうやり方や考え方が延々と繰り返されるような成り行きにもなるだろうが、どこでもそうなるわけではなく、地域によってはさらに合理的なやり方や考え方が考案されて、その地域ではそこから先でも合理性の追求が継続されることにもなるだろうし、そうやって合理的なやり方や考え方にも地域的な偏差が生じてくるのだろうが、その地域的な範囲も一定しているわけではなく、ある地域が他の地域より栄えてくると、その地域の範囲が拡大する傾向になってくるだろうし、そうなるとより合理性を追求し続けた地域が、他の合理性の追求が止まってしまった地域を征服したり吸収しながら、その勢力を増していって、ついには世界全体にその勢力範囲を広げてしまうと、そこで世界が一つになるのかもしれないが、それが必ずしも一つの国家による世界統一という形態にはならない可能性もあるだろうし、実際に現状の世界について考えるなら、国家自体が合理的な組織形態だとは言えないのかもしれず、むしろ合理的な形態とは国家ではなく企業の方かもしれないし、世界全体を一つの領土で統一すること自体が合理的なやり方ではないとすれば、暫定的には現状のような多数の国家とさらに多数の企業が混在しているような状態が、国家にとっても企業にとっても合理的な状態と言えるのかもしれないが、それはあくまでも暫定的な状態であり、今後さらに合理的な状態が出現するとも限らないし、そういう面でも絶えず合理的なやり方や考え方が模索され続けるのかもしれないが、その一方でそういう面での合理性の追求がすでに止まってしまった可能性もなくはないだろうし、今後も延々と多数の国家とさらに多数の企業が世界で混在した状態が続くなら、それが裏付けられたことになるのかもしれないが、現状の中で暮らしている人々にとっては、そんなことはどうでもいいことでしかないのかもしれないし、現状の中では現状に適応した人が生きていられるだろうし、その現状が変化すれば、またその変化に適応した人が生き残ることになるのだろうが、それも実際にそうなってから、人々がどうやれば生きていけるかに関して、その都度、合理的なやり方や考え方を模索し続けることになるだろうし、実際に現状の中でも大勢の人々が移民や難民となって、生き続けることの困難さをその身をもって体験している最中であり、その中から生き残った人々によって合理的な生き方が見つけられるのかもしれないが、果たして生き残ることが合理的なやり方となるのか、あるいは死んでしまった方が合理的なのかは、その人の立場や境遇によって異なってくる可能性もあるだろうし、かつてナチスドイツではユダヤ人の処遇についての合理的な解決手段として、絶滅させるやり方が採られたわけだが、実際にそれは頓挫したわけだから、ナチスのやり方が合理的だったか否かは、わからずじまいになってしまったわけだろうが、たぶん物事の合理性に関しては、ある面では合理的であっても別の面では不合理や非合理なところが生じてしまうのかもしれないし、必ずしもそうすることが全面的な合理性を獲得するわけでもないのかもしれない。


4月7日「使命感」

 人には社会の中で前もって何によってどのような役割分担が割り振られているわけでもないが、後からその人に役割を課す対象として何らかの団体に所属することはあるだろうが、それは団体内での役割分担であって、社会から特定の役割を課されているわけでもないとは思いたいが、知らない間に自身に特有の立場が生じたり、何らかの境遇に陥ってしまうと、そうした立場や境遇に応じて振る舞うことが、その人の社会の中での役割であるかのように思われるかもしれないが、それはその人の思い込みであって、ほとんどの人はそんなことを思っているわけでも自覚しているわけでもないだろうが、それでも時と場合によっては、自らの役割を勝手に自覚してしまうような成り行きにもなるだろうし、そんな役割を誰によって課されたわけでもないのに、ある日突然何か天啓のような啓示を感じて、その気になって自らの役割を全うする気になってしまえば、それがその人の使命になってしまうのかもしれないが、そうした使命感がないと何もできないわけでもないだろうが、そんな使命感に囚われた方が、何をやるにも張り合いが出るのかもしれず、張り合う対象として、その人に使命を授けた神のような存在が意識されて、自分がそうした対象から試練を課されているような気になれば、喜んで困難に立ち向かい、試練を乗り越えて、やるべきと思われることをやり遂げようとするのだろうが、果たしてそんな使命感に囚われることの是非を判断できるかとなると、たぶんそれは判断の対象ではなく、実際に使命感に囚われてしまった人は使命に従おうとするだろうし、囚われていない人は使命を感じないわけだから、従うも何もなく、ただそんなこととは無関係に生きていくのかもしれないが、肝心なのはたとえ使命感に囚われてしまったとしても、その内容に関して、果たしてやるべきことか否かが判断の対象となるはずだろうが、もしかしたらいったん使命感に囚われてしまうと、その使命がどんな内容であっても従う気になってしまい、たとえひどいことでも平然をやる気になってしまえば、それによって迷惑を被る他の人にとっては、それなりに困った事態になるわけだろうが、果たして使命に従うか否かではなく、使命の内容によって、その是非を判断できるかとなると、たぶんそういうことに関して問題が出てくるのが、組織的な集団体制なのかもしれないし、人が何らかの団体に所属すると、何かをやるかやらないかに関して、その内容如何でやることを拒否できる選択肢がなくなってしまって、拒否したらその団体から追い出されるようなことになってしまうとしたら、やはりそうした体制には問題があることになってしまうわけだが、果たして現状の組織的な集団体制の中で、上からの命令を拒否しても構わないような体制の団体がどれほどあるかとなると、どう考えてもそんなに多くはないだろうし、下手するとほとんどの団体では、そういう体制にはなっていないのかもしれないし、団体としての活動内容がどんなものであるかによって、命令の内容にも千差万別があるだろうが、例えばそれがギャングやヤクザなど暴力的な団体であれば、非合法的な内容となってくるだろうし、さらに軍隊や警察などであれば、たとえ合法的な活動内容であろうと、暴力を伴う場合も出てくるわけで、そういった団体に入ると、場合によっては普通の平和な日常では考えられないようなひどいことをやってしまう可能性があり、しかも上からの命令には絶対服従のような掟があるだろうし、それがそういう団体に特有の活動内容を伴ってくるのだろうが、もちろんそんな極端な例を持ち出してくること自体に妥当性はなく、それと比べて個人が勝手な使命感からやるようなこととなると、やれることの内容もその自由度もだいぶ違ってくるだろうし、何をやっても構わないようなことになってくるのかもしれないが、もちろんそこには法律的にも制度的にも経済的にも制約や限界があるだろうし、それらの制約や限界の範囲内で行うこととなるわけだろうが、そうであってもそれらの制約や限界を超えたことをやろうとしてしまう場合があるわけで、それに関してはそもそもどこまでやれるかが、あらかじめわかっていないことが多いだろうし、中には実際にやり始めてからそれに気づくこともあるだろうが、その大半はやっている途中でも気づかずにやり続けている場合があるだろうし、その結果としてやり遂げられずに終わってしまう場合があるわけで、そんなやり遂げられないことをわからずにやっているようなことだと、それが無駄で無意味なことになるかというとそうでもなく、別にやり遂げられなくても構わないようなことをやっているのかもしれないし、その人の力量や技量や器量を超えたようなことをやることが、それをやり続けることによって、やっているうちに力量を増やして技量を向上させて器量を大きくすることにつながる可能性もあるのかもしれないし、それが一般的には練習と呼ばれる鍛錬になるわけだろうが、そういったどこまでやってもきりがないようなことをやり続けていると、それをやり続けていること自体が、その人の主な活動内容となってしまうわけで、そんな練習を続けることが目的化してしまうと、練習の成果を試す機会が訪れずに終わってしまう可能性もあるのかもしれないが、それを練習と捉えずに、それ自体が何かを生み出している最中と考えれば、その何かがやっている最中にはわからないようなことになってくるのかもしれず、そうなるとそれが何のための練習であるかも定かでなくなってくるだろうし、もしかしたらそこから思いがけない事態に直面することになるのかもしれないし、実際にそこまで至ると、もはや当初に抱いていた使命の内容もわからなくなってきて、何のために何をやっているという明確なビジョンを抱けなくなってしまうのかもしれないが、意外と集団的な組織形態であっても、その構成員にはそういうことがわかっていない場合が多いのかもしれないし、実際に末端で働いている構成員には明確な目的が示されないまま、ただ上からの命令に従っているだけでは、自らが関わっている物事の全体を見通すことができないわけだから、かえってそんな状況の中で気を利かせて目的意識を持ってしまうこと自体が、その人の独りよがりな勘違いでしかなくなる可能性もあるだろうし、そういうところで無理に信念や信条を意識しない方が、うまく振る舞えるのかもしれないし、幻想を抱くよりは目的がわからないことを自覚すべきなのかもしれない。


4月6日「普遍と特殊」

 特定の物事に普遍性があるように思われる時、それは特殊な物事ではないはずだが、そこだけで通用する特殊な物事に普遍性がないのかというと、どうもそうではないのかもしれず、特殊な物事にも普遍的な面はあり、それどころかすべての物事には普遍的な面も特殊な面もあるのかもしれず、その場やその時やその部分に限定されているように思われる特殊な面というのが、逆にすべての物事に通じる性質だとすれば、それが物事の普遍性を表していて、そうやって物事の特殊な性質を抽象的に導き出すやり方に普遍性があるわけで、普遍的なやり方によって物事の特殊性が導き出されるとすれば、普遍性と特殊性は対立する概念とはなり得ず、むしろ相補的な関係だと言えるのかもしれないが、どうもその辺で誰もが思い違いをしているのかもしれず、普遍性にも特殊性にも意識を誤らせる面があるのかもしれない。それに関して誇って見せたり肯定したい物事の特殊性を、自分たちだけが保持しているかのような気になっていると、そうした特殊性を成り立たせている物事の普遍的な面を見逃している可能性があり、しかもその普遍的なやり方から導き出される特殊性というのが、誇って見せたり肯定するようなことというよりは、むしろ他と比べて劣っていたり、遅れている面まであるのかもしれず、だから他にはない特殊性を誇って見せたり肯定したりするというよりは、ただ単にその場やその時やその部分に限定されていることを理解すべきで、そういう性質を持った物事の良し悪しというよりは、そこに限定された性質であることを強調すべきであり、そういう部分で判断が誤っているのかもしれないのだが、どうしても他にはない特殊な面というのは、他と比べて際立っていると勘違いされやすいのかもしれないが、そこだけに限定されているということは、他では通用しない可能性があるわけで、他では通用しない面を誇って見せたり肯定しても、他の人たちにとってはどうでもいいことであり、むしろ他でも通用する普遍的な面があれば、他でも共感や支持を得られるはずだが、実際に他でも見習うようなことであるなら、そうした物事には特殊な面よりも普遍的な面があることになるだろうが、他では誰も見習う気配さえもなければ、やはりそこだけで通用する限定的で特殊な物事でしかないだろうし、それは良いとか悪いとかというよりは、ただそこだけで通用することでしかなく、それを誇って見せたり肯定すること自体が思い違いであり、そういう面で判断を誤っていることになるのではないか。またそれに関してわかりやすい例を挙げるなら、将棋とチェスと囲碁とオセロというボードゲームを比較してみれば、個々のゲームにはそのゲームに特有の特殊なルールがあるだろうが、二人で対戦するゲームという面では共通点があるだろうし、またボード上に並べて使う駒や石に関しては、将棋とチェスと、囲碁とオセロでは、共通点がそれぞれにあるだろうし、そうやって世界中で行われているボードゲームの中で、全てのゲームに共通する普遍性と、個々のゲームに特有の特殊性が相補的に組み合わさって、そういった遊びを成り立たせていることは、誰もが気づくことだろうが、別にそれらのゲームの中で、他のゲームより優れている点を誇って見せたり、他のゲームより劣っている点をけなして見せたりする行為などあり得ないだろうし、それよりは個々のゲームの他のゲームと違う点や似ている点を強調することがあるわけで、それは優劣や良し悪しとは関係ないだろうし、そういう意味で物事の普遍性や特殊性は、性質の優劣や良し悪しと直接つながっているわけではなく、その中で普遍性は他と共通する面であり、特殊性は他とは異なる面だと単純にみなしておけば、それほど間違っているわけではないのだろうが、それを普遍的な面が良くて特殊な面が悪いと単純に解釈してしまうと、誤った判断となってしまい、しかもそこから逆に特殊な面を誇るような倒錯的な居直りまで誘発してしまうだろうし、そうなると合理性や妥当性の判断にもつながってきて、合理的に考えるなら、なるべく他との差異をなくすようなことをやった方が、理解を得られやすく共感や支持を得やすいと判断されてしまうだろうし、そうであるならなるべく特殊なことはやらない方が妥当なようにも感じられてくるだろうが、それに関しては例えば世界で比較的通じやすい言語として英語を習うのが合理的な判断であり、それが妥当なやり方だと思われてしまうわけだが、だからと言って日本語をやめて日常会話を英語に限るべきだということにはならないだろうし、すでに日本語で日常会話が行われている歴史的な経緯を無視するわけにはいかないし、しかもその日本語の会話でさえ、江戸時代あたりまで遡れば、地方によって話が通じないほどの差異があって、それは今でも青森あたりの方言だと他の地方の人には理解が困難なのかもしれないが、結局明治維新以後に、政府が義務教育などと連動させて、共通言語としての日本語を人工的に作った経緯があるわけだが、それは日本だけの特殊な事情ではなく、他の国でも民主的で中央集権的な国民国家を作る過程で、その国に特有な人工的な共通言語を作る試みがあったわけで、そういった民主的で中央集権的な国民国家と共通言語を作る試みというのが、普遍的な傾向であるだろうし、そしてそれが現代に至って、そういった普遍的な傾向にも陰りや限界が出てきたことも、世界的に共通の普遍的な傾向なのかもしれず、そういった陰りや限界を象徴するのが、極右的な傾向なのだろうし、しかもそれが中央集権的な国民国家に特有の特殊性から生じている可能性まであって、そういう意味でも普遍性と特殊性が相補的な関係を形成していると言えるのかもしれないが、そこでもその国の特殊性を誇って見せたり肯定するような行為が行われていて、それが誤った判断に基づいているとは思われないだろうし、そうした勘違いを勘違いだとは理解できない傾向も、世界的に蔓延しているのかもしれず、それも現状での普遍的な傾向なのかもしれないが、どうもそれの良し悪しをいくら言い立ててみても、事態が改善するとは思えないし、実際に改善していないし、それが対立や抗争の原因ともなっているわけだから、憂慮すべき事態であることは確かだろうが、そう思ってしまうことも、もしかしたら思い違いである可能性まであるのかもしれない。


4月5日「不徹底な時代状況」

 程度の差があるにしても、人は誰でも幻想を抱くだろうが、それがその人にとって都合の良い内容であることは確かだとしても、別にそれが実現しないままとなってしまっても、構わないようなことを夢見ている場合もあり、その大半が気休めに過ぎなくても、それでは不満を感じるとしても、取り立てて不都合は感じないだろうし、実際にそれなりに生活が成り立っていれば、特に問題はないのかもしれないが、それでも何か願望ぐらいは持ち合わせていて、期待していることもありそうで、それが淡い期待に過ぎないから、幻想を抱いていることになるわけだが、そういった別に裏切られても構わないような望みの薄い期待であれば、実現するしないは特に問題ではなく、何が何でも実現しようとするこだわりや執念を感じられないようなものだと、たわいない思いになってしまうわけだろうが、その程度にとどまっているようでは、切実さがないだろうし、状況的には深刻さが欠けていて、それに関して危機感を煽るような事態にはならないわけだが、そういった物事への不徹底な接し方というのは、悪く言えば意志薄弱に見られるだろうが、そうなってしまう成り行きというのもあるだろうし、普通に社会の中での立場や境遇によっては、どちらかといえばそんなくだらない幻想を抱きながら生きているぐらいが、ちょうど良い場合があるわけで、その程度の人を馬鹿にしたり批判するのが、筋違いの勘違いにしかならない世の中であれば、それだけ平和な世の中が実現していることになるのかもしれず、そうであるならそれを悪く言うことは間違っているわけだが、それでも立場や状況によっては、それでは済まないような境遇の中で生きている人もいるわけで、そういう人から見れば、そんな何か生ぬるいように見えてしまう人を軽蔑したり、時には許せないと感じてしまうのかもしれないが、それを立場や境遇の違いとして認められるかとなると、それを認められるような人は、それだけ心身や経済的な事情などに余裕があるのかもしれず、どうあってもそういう面では立場や境遇の違いによって、現状認識に差が出てきてしまうわけで、それだけ政治的なリアリティにも深刻度や切実さに違いが出てくるわけだが、中には多くの人が特定の立場や境遇にある人の深刻かつ切実な現状認識に共感したり同調する成り行きもあるだろうが、そういうところで、ありふれた現状認識というのが、メディア上で使い古された慣用句を使って主張される意見の中身になると、確かにそれに共感したり同調するような人もある程度は出てくるだろうが、それがたわいない幻想を抱いている人たちでしかなければ、世の中に大して影響を及ぼさないだろうし、すでにそうした認識がメディア上で織り込み済みになっている場合があるわけで、たとえそれが現状に対する危機感の表れだろうと、昔から延々と繰り返されてきた危機感でしかなければ、かえって安心材料にしかならないだろうし、そういう危機的な現状認識をメディア上で述べる役割分担がされた人の意見として、そういう言説がメディアを通して世の中に広められてきた経緯がものを言うわけで、それ以上でなければ今まで通りにしかならないだろうし、それ以上を期待するわけにもいかず、やはりその程度に留まっていれば切実さが感じられないから、たわいない現状認識にしかならないわけだが、果たしてそれ以上の現状認識が可能かといえば、不可能ではないだろうが、別に危機感を煽ってわざと民衆を不安に陥れるようなことをやる必要があるかとなると、その必要はないだろうし、無理にやっても空振りに終わる公算も高そうだし、たぶんそういうこととは違う面で、そうしたこれまでにも繰り返されてきた煽動的なやり方とは違うことをやる必要があるのかもしれないが、必要があるというのも嘘になってしまうかもしれないし、その辺が何かを主張することの限界であり、それ以前に特に何も主張しなくても構わないのかもしれないし、何かをメディア上で主張すること自体に違和感を感じて、何かそうではないような気がしてくるとすれば、すでにそんな気がしている時点で、それがメディア上で流通しているありふれた現状認識に、リアリティを感じられない証拠かもしれないのだが、では他に何かリアリティを感じられる対象があるかとなると、例えばそれは、実現するあてもないたわいない幻想を抱きながら生活していること自体にリアリティを感じられるのかもしれず、それが虚ろで根無し草的な大衆の実態かもしれないが、それを否定的に捉えるわけにはいかないだろうし、世の中が平和な代償としてそうなっている可能性さえあるわけで、そんな平和では退屈で死にそうだから、何かそれとは正反対の動乱が起こってほしいと期待するのも、現実逃避的な願望であり、しかもそれが実現しなくても一向に困らないような無責任な期待でもあるわけだが、そういった本気で願っているわけでもないような無い物ねだりの願望というのも、退屈紛れに思い描く気晴らしの幻想となるだろうし、そうやってどんどんどうでもいいような軽くて薄っぺらい妄想が連鎖していくと、頽廃の雰囲気が醸し出されてくるのかもしれないが、それも幻想の範囲内で思っているにすぎなければ、軽くて虚ろな頽廃でしかなく、真の頽廃状態からはかけ離れていると言えるだろうが、そうやって思っている何もかもがイミテーションの域を出ない状態の中で、リアリティを感じられるかとなると、たぶんそれがそれなりの実感を伴ってくるようだと、やはりまだまだ心身ともに経済的にも余裕がある証拠となってしまうのかもしれず、何かそうやって本気になるのを先送りしている状態が、憩いのひとときを形成していて、これから迫り来る嵐の予感もフィクションと取り替えて、それ以上に取り違えているのが、物事の合理性と恣意性になるのかもしれないが、そんな心理状態で物事の普遍性を感じられるかというと、とりあえずのものでしかない現状の生活が普遍的であるはずがないだろうし、そういう現状の特殊性がいくら寄り集まっても特殊な状況であることには変わりないわけだが、それでも自然と理屈を適用して物事を合理的に考えようとするわけで、恣意的に言葉を選んで何かを述べているにすぎないのに、それのどこに合理的な思考が潜んでいるとも思えないだろうが、合理的に物事を考えようとすることが、普遍的な価値観に基づいていることを信じるしかないのではないか。


4月4日「規範を外れる行為」

 人が活動するにあたって、社会の中で守るべき規範としてすぐに思いつくのが倫理や道徳になるかもしれないが、具体的に倫理や道徳が何かというと、それがわからないわけではないが、うまく表現できない場合があるのかもしれず、それに関してやってはいけないことを挙げていくと、それは法律で禁止されていることに行き着くのかもしれないし、それ以外で特に法律で禁止されていなくても、道義的にやってはいけないことが何かとなると、その場の状況や成り行きの中でしかわからないことかもしれないし、どんな状況とも成り行きとも関係なく、無条件にやってはいけないこととなると、もしかしたらそんなのはあり得ないのかもしれないが、それと似たようなことで、倫理的あるいは道義的にやってはいけないことが、どうやったらわかるのかといえば、実際にやってはいけないことをやってみないことにはわからないのかもしれず、やってはいけないことをやってみるまではそれがわからなかったり、それをやったところで気づかない場合さえあるのかもしれないし、実際にそうしたことをやってしまって、それを他人から倫理的あるいは道義的にやってはいけない行為だと指摘されて、初めてわかるようなことだとすれば、まずはやってはいけないことをやってしまう状況に至らないことには、それがわからないことになるだろうし、そういう意味で何かをやる前からやってはいけないことをわかっている場合には、まずはそれをやらないし、大抵はやってしまった後からそれを批判されたり非難されて、初めてそれに気づくようなことになってしまうのではないか。だから何もない状態から倫理や道徳が何なのかを示すのは難しいのかもしれず、実際にそれを示すような成り行きになるには、実際に倫理的あるいは道義的に許されない行為をやった後でないと、それを示せないようなことになってしまうのではないか。そしてもしそうだとすると、守るべき規範が何のかが大抵の場合はわからないことになってしまうだろうし、実際にそうした規範を破って痛い目に遭ってみないことにはわからないとなると、それを知ったところで不快で嫌な気分になるだけだろうし、そんな成り行きの中で倫理や道徳が嫌いになるのも仕方のないことかもしれないが、それはやるべきこととして知るのではなく、やってはいけないこととして知ることになるわけだから、やってはいけないことをやった後でないと知り得ないのは当然のことだろうし、それを知った時点で罪の意識に苛まれるわけだから、それを他人に知らせるようなことでもないし、それをやらない人が知るようなことでもなく、やる前にあらかじめ知っておくべきことでもないのかもしれないし、実際に過ちや誤りや間違いを犯してしまったことに気づいてから、罪の意識とともに知るようなことだとすれば、倫理や道徳を守るのがいかに難しく大変なことであるかを、自らの身をもって体験させられることで、倫理や道徳の大切さを痛感させられるような成り行きにしかならないのかもしれないし、しかもそれを破ってしまうわけだから、守ることが難しく大変なことであり、実際に守れないわけで、そして守れないことによって罪の意識に苛まれるわけだから、それが守るべき規範だとしても、守られない事態が起こるわけで、そんな事態に直面した時に守ることの大切さを痛感させられてしまうとしたら、ではどうすればそんな事態から逃れられるかとなると、逃れるすべがなければ、それを受け入れるしかないわけだが、そうなると要するに守るべき規範を守れない事態になるわけだが、そうなるのが不快で嫌なら、では逆に意識して積極的に倫理や道徳に反することを行えるかとなると、罪の意識に目覚めないと、倫理や道徳を感じられないのかもしれないし、それを守ろうとして守れない時にのみ、罪を意識を感じて、倫理や道徳が何であるかを知るに至るとすれば、罪の意識を感じられない人にとっては、倫理も道徳もないわけで、そもそもそれらに反する行為が何であるかを知らないことになるのだろうし、そうであるなら積極的にそんなことを行えるわけでもなく、ただ何かをやった後から、それらに反する行為だと他の人から批判されたり非難されて初めて気づくわけだから、厄介この上ないことなのかもしれず、そうであるなら逃れるすべはないことになるのかもしれないが、別に罪の意識に苛まれたとしても、不快で嫌な思いをするだけだから、そういうものだと思っておくしかないのかもしれず、それを意識しないように心がけても、嫌でも意識させられてしまう事態にも直面してしまうだろうし、そういう面では自らで制御できるような範囲を超えて襲来する事態なのかもしれないし、結局はそういう事態を受け入れるしかなく、せいぜい不快で嫌な思いをさせられながらも、そういう成り行きに耐えることしかできないのではないか。そしてそういう成り行きが過ぎ去った後でも、機会を捉えてその時のことを反芻的に思い出しては、自己嫌悪に陥るようなこともあるだろうし、そういう不快で嫌な思いを数限りなく経験しているうちに、年老いて寿命が尽きて亡くなってしまう場合もあるだろうし、またそういう経験から学んで、守るべき規範を守るように心がけたとしても、自ら制御できる範囲は限られていて、それは他人との関係の中から生じてくるものだから、例えばその他人を助けようとして、倫理や道理に悖るような行為をやる羽目になってしまったりすれば、やはりそれは自らの力だけではどうにもならないことだろうし、良かれと思ってやったことが、その時点では自らの気づかないところで、守るべき規範を外れていたりもするわけで、それにやった後から気づけば後悔するかもしれないし、そんなことも含めて、全てにおいて自らが納得づくでやるようなことにはならないだろうし、多少の疑問や疑念を抱きながらも、やらざるを得ないことなどいくらでもあり、やっている最中に嫌な予感がしてきても、そこから後戻りができない場合もいくらでもあるわけで、そんな中には規範から外れた行為もそれなりに含まれてくるだろうし、そうでなくてもやっていることの全てがうまくいくとは限らないわけだから、やってしまったことで他人に迷惑をかけようが、罪悪感に苛まれようが、その度に対処して対応していくしかないわけだ。


4月3日「言葉と貨幣の力」

 たぶん言葉には力があり、また貨幣にも力があると思われるが、それらを使って人を動かして、動かされた人が物や情報を動かして、何らかの物事が成し遂げられたら、確かにそれを成し遂げる過程で使われた言葉や貨幣には力があると思われるだろうが、実質的には言葉や貨幣を使って、人や物や情報を動かして、何らかの物事を成し遂げた人や団体に力があったことになるだろうし、人が言葉や貨幣を使うから力が生じるわけで、では使われない言葉や貨幣に力があるかとなると、それらの蓄積が信用を生むなら、蓄積された言葉や貨幣には、信用を生じさせる力があることになるだろうし、他人を信用させる上で言葉や貨幣の蓄積は、それらを使って何かをやってくれるのではないかという期待を生じさせて、それが信用となるわけで、それに関して言葉が蓄積された状態は知識の蓄えがあるということであり、貨幣が蓄積された状態は資産の蓄えがあるということだとすると、それらを使って経済活動を行えば、利益を生む可能性があり、そういう意味で知識や資産の蓄えがある人や団体は、それらを使って利益を生む可能性があるから、世間的に信用されるわけだろうが、その一方で力というのは仕事を行う原動力であり、普通に力があれば、その力を使って何かを行えるわけだが、言葉を使って何かを行えれば、その言葉には力があることになり、また貨幣を使って何かを行えれば、その貨幣にも力があることになるわけだが、では人の力で何が行えるかといえば、言葉や貨幣を貯めて使えるということだろうし、人には言葉を貯めて使ったり貨幣を貯めて使う力があるわけだが、それ以前に道具を作って使う力があり、そうした道具の中で人を使う道具として、言葉や貨幣があるわけだろうが、貨幣は紙幣や硬貨となると物質的な印象を伴うが、本質的には価値を計る尺度としての数値的な情報であるわけだが、言葉も紙に記されて書物となったり、石板などに刻まれたりすると物質的な印象を伴うだろうが、記号としての文字で記される面と、発音されて音として聞き取られる面もあるし、それも本質的には情報であり、言葉はそれを介して人と人とが意思疎通を図るための道具と捉えればわかりやすいだろうが、道具であるからには、それを使って何かを行うことになるわけで、人を使うには言葉で命令する必要があるだろうし、命令というと一方的な権力関係を前提とするだろうが、もう少し対等な関係になると、お願いという相手の同意を必要とする関係もあるだろうし、さらに金銭的な見返りと引き換えにして働いてもらう関係があるわけだが、そうなると言葉と貨幣の両方を組み合わせた関係となるわけで、それは言葉だけで命令したりお願いしたりする関係と違って、そこに貨幣が入り込んでくると、それだけ拘束力が強くなってくるわけで、実際に金銭と労働の交換だと、そこで契約の関係が生じてきて、金銭をもらうからには、その金銭に見合った労働を行わなければならないという義務が生じてくるだろうし、金銭に見合った労働を行わなかったり、労働に見合った金銭を与えなかったりしたら、契約違反とみなされてしまうわけで、そういう契約を交わす上で必要なのが言葉であり、普通は言葉で記された契約書を交わすことになるだろうし、契約する双方が著名して、契約書に記された約束を守るような成り行きになるわけだが、要するに人を契約書に定められた活動に拘束する上で、言葉と貨幣が必要となるわけで、言葉と貨幣によって人を拘束して活動させることができるわけだが、そういう意味でも言葉と貨幣には人を動かす力があると言えるだろうし、それは魔力や超能力などではなく、動かす上で同意を得るために必要な力であり、人を従わせて操る力だとも言えるわけだが、そういったことをやらせる契約が成り立つ上で必要なのが、契約を履行させる制度であり、制度を定める法律であり、法律を守らせる行政機構となるわけだろうが、もちろん法律は言葉で記されているわけで、言葉で記されているだけの法律を守らせるには、強制力を伴った機構が必要となるわけで、それが政府などの行政機構であるわけだが、行政機構なしでも法律が守られるかとなると、それは人々の善意に期待するしかないだろうし、そもそも何をやるにも法律が必要かといえば、それも人々の善意に期待するしかないのかもしれないが、少なくとも人と人とが話し合って妥当なやり方を決めて、決めたことを行うには、特に法律も制度も必要がない場合もあるだろうが、何かをやろうとする度に、いちいち話し合って妥当なやり方を決めるのではなく、前もってやり方を決めておくのが制度であり、その決められたやり方が法律となるわけだろうが、その方が何かと便利だから、そういうやり方が普及したのだろうし、普及するに従って、それを決めたり決められたことをやるために、人が大勢集まって社会が形成されてきた経緯があるのかもしれないが、そんな中でも一人で勝手なことをやっている分には、法律や制度に従っている自覚はないだろうが、周りに人が大勢いれば、一人で身勝手なことはできなくなるわけで、それをやるに際して周囲の人々に同意を得る必要が生じてくるわけで、そこでも同意を得るためには話し合いが行われる成り行きになるだろうし、話し合うために言葉が必要となってくるのは当たり前のことだが、話し合うために人が大勢集まってくれば、やはりそこにコミュニティなどの社会が形成されて、大勢で協力して何かを行うような成り行きが生じてくるわけだろうし、大勢で何かをやるには、あらかじめ決まりを作って、そこで決められた手順や動作に従うようなことをやらないと、どうしても大勢で行う協同作業とはならないわけだが、決められたことを行うには意思疎通を図らなければならないし、意思疎通を図る上で必要なのが、そこに集った誰もが理解できる共通の言葉であり、またそういった社会の規模がある程度を超えてくると、親族や一族の単位を超える規模で協同作業を行う必要が出てくるだろうし、そうなった時に必要となってくるのが、企業などに特有の金銭的な契約関係となってくるわけで、地縁や血縁などとは無関係に協同作業を行う上で、どうやれば信用や信頼関係を構築できるかに関して、金銭的な見返りを前提とした同意のシステムが編み出されてきたわけで、そういったやり方が、それまでに主流だった奴隷制などより優れたシステムだったから、実際に奴隷制などを駆逐しながら普及したのだろうし、現状に至るまでには様々な紆余曲折やそれなりの歴史的な経緯を経ているわけだが、それはあくまでも現時点での現状であり、今後そういった形態がさらに様々な紆余曲折や歴史的な経緯を伴いながら変化して行く可能性もあるわけだ。


4月2日「呪術の力」

 呪術的な効果というのは一般的には心理的なものだと言えるだろうが、フィクションの中では物理的な作用も伴ってくるから、信じやすい人は想像力を働かせて、何か直接の物理的な作用を伴って呪術にかかった人を傷つけたり、場合によっては死に至らしめることまで信じてしまうかもしれないが、それを信じた人が直接の凶行に及んだり、陰謀を巡らして人を苦しめるようなことを行えば、そもそもそれが呪術的な効果だと言えるだろうし、呪術が人を動かして物理的な作用を及ぼすことは十分にあり得ることだから、単に心理的な影響しかないと考えるのは間違いなのかもしれず、そういう意味で呪術というのは人を介して何らかの作用や影響を及ぼすことは確かであり、それが迷信だろうと魔法だろうと、全く何の効果もないわけではなく、ただフィクション中で表現されるような驚異的な力の実態とはだいぶ違うのかもしれない。そしてそういった力をフィクションの中で表現しようとすることも、また人知を超えた神秘的な力の存在を信じようとすることも、それなしではうまく説明のつかない成り行きや現象に遭遇してしまうからかもしれず、実際にそういった奇跡と言われる現象や出来事に直面してしまうと、それを想像してしまうだろうし、人の心がそういった力の存在を信じるような精神構造を持っているのではないか。またそういった力に魅力を感じるということは、そういった力を会得したいという願望の表れでもあり、そういった力を使って思い通りのことをやりたいという欲望の表れでもあるのだろうが、そういった力がないとどうにもならないことがあるのかもしれず、どうにもならないからこそどうにかしたいわけで、それが現実の世界ではどうにもならないとしても、フィクションの中ではどうにかなるような話にしたければ、どうにかするためには超能力とか超自然的な力を持ってこないと、どうにもならないわけで、フィクションとしてならそれで構わないのだろうし、また現実の世界で起こっている現象や出来事を説明する際にも、そんな力の存在を信じるなら、それを説明できるだろうし、信じている人たちの間では、そういう説明でも通用するわけで、それで構わないような場や状況が実際にあるわけだ。またそれを信じている人には実際に呪詛の類いが効くこともあるだろうし、それが思い込みでしかないとしても、思い込みであるだけに、呪詛をかけられた人の身体や精神に異常をきたせば、それが効いていることになるだろうし、また人以外でも例えば雨乞いの儀式などをやって実際に雨が降れば、物理的な現象までも引き起こす力があることが証明されてしまうだろうし、現実の世界でもそういった力の存在が信じられてしまう成り行きもあるわけだ。だがそうだとしても、確実なやり方としては、そうした力よりは産業技術や科学技術などの方が信頼できるだろうし、また政治的にも行政的にも企業的にも、社会の中で実際に行われていることが、神秘的なやり方よりは合理的なやり方に基づいている方が、誰もが納得できて効果も確かめられているから、特定の霊能力者などの力よりは汎用性が高く、様々な方面へと普及していて、経済的な面でも売買などの取引においても、制度面でも法律面でも整備されているだろうし、それだけ社会の仕組みに合致しているわけだが、全ての面にわたってそうなっているわけでもないだろうし、神社や寺院などの領域では、昔ながらの伝統が息づいていて、そうした伝統に基づいて行われる儀式などでは、それなりに形骸化しているとはいえ、そうした超自然的な力の存在を前提としたやり方で、加持祈祷などが行われているだろうし、実際に経済的な制度としても、拝み料など取って行われる神事や祈願があるわけだ。そしてそれが王族や皇族などに関連する行事などになると、政府も積極的に関わってきて、中には政府の予算を使ってそうした行事をやることもあるだろうし、そうなってくるとそこで行われている呪術的な儀式の内容を、政府も国民も公なものとして認める成り行きになってしまい、そこに合理的かつ科学的な根拠があるとは思えなくても、形骸化した形式的な儀式に過ぎないとは言えないわけで、実際にそうした儀式を執り行っている現実が、それに伴って生じる超自然的な力の存在を信じても構わないような余地をもたらしているわけだが、実際にはそういった超自然的な力を信じてもいい場合と、それとは違う産業技術や科学技術などからもたらされる力を使って何かが行われる場合とでは、はっきりと区別がされていて、それぞれに時と場所を選んで使い分けられているわけだが、稀に時と場合によってはそれらが重なる時もあるだろうし、それが産業技術や科学技術などによってもたらされた事故や事件などの災害が起こった時であり、そういう時には儀式として祈りや拝みなどが行われるわけで、それが犠牲者への供養であったり鎮魂であったりするのだろうが、さらに大規模な建設工事などの竣工式や棟上げ式などの時にも、そういった儀式が執り行われるわけだが、誰もが大してその効果や効用を信じているわけでもないのに、そういった儀式がなぜ行われるかとなると、伝統的あるいは慣習的にそれをやらないと、それに関わっている人や集団に信用してもらえないという事情があるのかもしれず、とにかく形だけも儀式を執り行って、そういった儀式に主だった関係者や関係団体が参加することが、そういった行為や作業を取り仕切って運営する団体に対する信用の証しと捉えられている面があるだろうし、儀式に参列したり参加することが、そうした行為や作業に関係することができる条件ともなるだろうし、そうした通過儀礼に加わることで、そうした行為や作業から生じる利益の分け前にありつけることができるわけで、要するに仲間として認められるには、まずはその手の儀式に参加する必要があるわけだ。


4月1日「正しさの相対性」

 何が正しい行いであるかを知っていて、正しいことを行なって正しい結果が得られれば、それは当然のことのように思われるかもしれないが、これも当然のことながら、正しい行いを知らなければ、正しいことを行えないだろうし、また正しい行いを知っていても、何らかの事情によって行えない場合もあるだろうし、さらに正しいことを行なっても正しい結果が得られなければ、正しいと思われていた行いが疑わしくなってしまうだろうし、行いの正しさに関して、それを知っていることは重要なことだが、それを知らない場合は、まずはやれることをやるしかないような成り行きになるのかもしれず、それをやる上でやってみてできることは、暫定的には正しいことだと思うかもしれないし、やってみて何らかの弊害が生じれば、やり方に工夫を凝らして、弊害が生じないようなやり方を模索するだろうし、そういう成り行きの中では、最初から正しいやり方がわかっているわけではなく、やれることをやりながら、それをやっているうちに、感触として何が正しいかをだんだんわかってくるような成り行きにもなるだろうし、そういう意味で正しいことが始めから決まっていない場合や、その時点では正しいと思われることであっても、別の時点ではそうでもないように思われてしまう場合も含めて、まずは正しいことが何であるかを決めるというよりは、できることを行なっている状態の中で、次第にうまくいくやり方が導き出されるに従って、それが正しいやり方のように思われてくる成り行きがあるだろうし、また特にそれが正しいやり方だと確信が持てなくても、何となく惰性でやり続けていることもあるわけで、しかもそんなことばかりやっているわけでもなく、それと同時並行的に別のこともやっている場合もあるだろうし、そんなことをやっている状況下においては、別に行為の正しさを意識していない場合もあるのかもしれず、特に正しいことをやろうとしているわけでもなく、そうかと言ってわざと間違ったことをやろうとするわけでもないだろうし、ただその場の状況に合わせて何かをやっている中で、それをやっていることが生活の一部ようになっていれば、それが正しかろうと間違っていようと、そんなことをやりながら生きていれば、現状ではやっていない他のことよりも、とりあえず現状でやっていることをやり続けるしかないような状況となっているのかもしれず、そうなるとそれをやらないわけにはいかなくなるわけで、たとえ他人からやめろと言われても、他に何をやるあてもなければ、それをやめてしまったら困ってしまうわけで、そんな事情や成り行きの中で何かをやっているのであれば、そういった行為への依存によってその人自身の存在が成り立っているような状態となってしまうだろうし、そうなると行為に対する距離が近すぎて、行為から離れられないような依存症状態になってしまい、もはやそれが行為への正しい接し方や在り方だとは言えなくなってくるだろうし、そうならないためにも、行為との適度な距離感が必要となってくるのかもしれないし、意識して適度な距離感を保つことこそが、何を行うにも正しい姿勢となるのかもしれないが、そういうことを知るに至るには、様々な試行錯誤の経験を経た上でないとわからない場合もあるだろうし、そうではなく、やる前から正しいやり方を他人から教えられて、その通りに行なって行為の正しさを実感するようなやり方では、そういうことはわからないのかもしれず、そういう意味で正しいことを知っていても、それができるとは限らないし、また正しいことができたとしても、正しい行為にのめり込み過ぎると、そういう行為をやっていること自体が、行為に対する正しい姿勢や正しい接し方や正しいあり方ではないことになってしまう場合もあるだろうし、そういうことまで考慮するなら、一概に正しいことをやっていればそれで済むようなことではなくなってくるだろうし、それ以前にその場の事情や状況を考慮しながら、何かを行うような成り行きになってくるのかもしれず、その中では、ある時にはうまくいかないなりにも、その場の状況に応じて行えることをやるしかない場合もあるだろうし、またやっていることの欠点や欠陥をわかっていながらも、それを行わざるを得ない成り行きの中で、欠点や欠陥をうまく抑えつけながらも、だましだましそんなことをやり続けるしかないような場合もあるかもしれないし、そうやってそれなりに苦労しながらやり続けていることがあるわけで、そんなことをやっている身からすれば、やっていることの内情をろくに知りもしない外部の人から、ああだこうだと勝手なことを言われるのは、腹が立って仕方がないかもしれないが、実際に何かを批判するとはそういうことであり、そうなってしまうのが当然の成り行きとなってしまう場合が多いだろうし、そんなことをいちいち真に受けていたら身が持たないと思えば、外部からの意見に耳を傾けないような姿勢となってしまうだろうし、そんな聞く耳を持たない姿勢でいられたら、それも程度にもよるだろうが、今度は外部から意見を言いたい側が、腹が立って仕方がないことにもなるだろうし、普通はそうやって対立や争いが起こるのかもしれないが、そうなってしまっても、何かのきっかけから話し合いの機会が持たれたり、何らかの妥協が成立して、双方ともに不満を抱きながらも、対立や争いに一応の決着をつけて、手打ちが行われたりする場合もあるだろうし、そんなふうになってしまうと、何が正しいとしても、対立や争いの当事者たちからすれば、自分たちの行いや姿勢や態度が正しいと主張する一方で、対立や争いの相手の行いや姿勢や態度が間違っていると主張するだろうが、どちらが正しくても、そこで対立や争いが起こるような成り行きになれば、そうした対立や争いを収めるような行為が正しい行為とされる場合も出てくるだろうし、そうやって行為の正しさが、そこで生じる立場や境遇によって違ってくるような場合には、正しいことを主張したり行うことが、必ずしも正しい結果をもたらすわけではなくなってきて、ただその場の成り行きに応じて出てくる結果が、その場に関わっている誰にとっても重視しなければならないことになるだろうし、出てきた結果に対処したりうまく対応して、その人にとって有利な状況をもたらすことが、功利的には重要となってくるだろうが、結果的にそうした対処や対応がうまくいけば、それが正しい対処や対応だと思われるわけだが、そこでもその場で生じている立場や境遇によっては、うまく対処できなかったり対応できなかったりすることもあるわけで、たとえ正しい対処や対応の仕方を心得ていても、それができない可能性もあるわけだ。