彼の声133

2019年

6月20日「立場の違い」

 何か信用できそうな理屈や論理を用いた物事の合理的な説明は、そうした理屈や論理では説明できない物事を除外した上で説明しているわけだが、意図的に除外しているのかというと、そうでもありそうでそうでもないような、個々の事例によって異なるのかもしれないが、ではそういった理屈や論理では説明できないことをどうやって説明するのかといえば、それとは違った理屈や論理を用いて説明できるかもしれないし、そうなると特定の理屈や論理を用いて説明できる物事と、それとは別の理屈や論理を用いて説明できる物事とが、それぞれに異なった分野に属する物事として分類されるわけだろうが、そうやって分野ごとに異なった理屈や論理が当てはまれば、それで問題ないように思われるかもしれないが、各分野を超えた説明が必要となった時に、個々の分野ごとの理屈や論理ではうまく説明できなくなるわけで、それに関してはそうした分野を超えるレベルで通用する理屈や論理があれば、その理屈や論理を用いて説明できるわけだが、それで問題なければそれに越したことはないように思われるだろうが、各分野ごとで通用する理屈や論理と、それらの分野を超えたレベルで通用する理屈や論理があればいいということになると、果たしてそういう理屈や論理に普遍性があるかというと、特に各分野を超えたレベルで通用する理屈や論理があれば、それが普遍性を持った理屈や論理だと言えるかもしれないが、それが個々の分野では通用しない理屈や論理となれば、やはり普遍性があるとは言えないのかもしれないし、そういう意味では物事の説明に使われる理屈や論理に普遍があるとは言えなくなってしまうのかもしれないが、もちろん具体的に理屈や論理の内容を述べていないので、それはあくまでも仮定の話でしかないわけだが、別に普遍性があろうとなかろうと、物事をもっともらしく説明できて、その説明に説得力を感じられるようならそれで構わないだろうし、そういうことと普遍性があるかないかは別問題でしかないのかもしれないが、では説明の対象となる物事自体に普遍性があるかとなると、異なる複数の分野の複数の物事に共通した面があれば、そういった面には普遍性があるように思われるだろうし、そんな様々な物事に宿っている共通の面を説明できれば、その説明にも普遍的な面があることになるのかもしれず、そうだとすれば普遍性や普遍的な面というのは、様々な物事やその説明の中にある部分的かつ一面的な共通点になるのかもしれないが、それが物事やそれに関する説明の全てではなく、それとともにその物事やそれに関する説明の中にある固有の傾向や特徴が興味深いわけで、それらをまとめた説明になると、様々な物事の共通点や類似点をあげる一方で、個々の物事に固有の特徴や傾向なども説明することになるわけで、そこから言えるのは、世の中に存在する様々な物事には普遍的な面と特殊な面とが共存していることになるわけだが、その普遍的な面から言えることと特殊な面から言えることが噛み合うとは思えないし、それに関して例えば、特定の人物やその人が行なっていることを批判する際に使われる理屈や論理が、普遍的な面に関することであり、それに対してその人物やその人の支援者たちが、その人物やその人の行為を正当化するために持ち出してくる論理や理屈が、特殊な面に関することであれば、両者の主張が噛み合わなくなるわけで、もちろんわざと噛み合わないような反論を行う場合が多いのかもしれないが、そうでなくても批判する側は、なるべく批判内容に説得力を持たせて、他の多くの人たちに支持してもらいたいから、普遍的な理屈や論理を持ち出してくるわけで、それに対して批判の対象となるような人や団体となると、そういった不特定多数の人々ではなく、自分たちと共通の利害関係にある仲間たちから支持してもらえればそれで構わないわけで、だからそういった仲間たちの間で支持されるような特殊な理屈や論理を持ち出してきて、仲間たちの支持を得られるようなことを主張してくるわけで、だからそういった人たちにしてみれば、別に批判してくる人たちに支持される必要はなく、むしろそういった批判者たちとは敵対関係にある方が、仲間たちの間では信用されるだろうし、そこから変節して下手に普遍的な理屈や論理に賛同して、批判者たちと同じような主張になってしまうと、今度は仲間たちから裏切り者扱いされてしまうわけで、そういう面で批判する側とされる側とでは、それなりに立場の違いが生じているだろうし、そんな立場を超えてお互いにわかり合ってしまえば、両者にとって不都合な事態になってしまうのかもしれず、そういうところで両者の立場を分かつのは、普通に考えれば功利的な利害関係となるわけだが、ではそういった功利的な利害関係を超えた関係を築けないのかというと、それが倫理的な友愛関係となるのかもしれないが、そういう関係に至る条件としては、利害関係がどうでもよくなってくる時だろうし、なぜどうでもよくなってくるのかといえば、それはお互いに共通の敵が生じれば、その敵に対峙している間は、同盟関係を維持できるのかもしれないし、そうであるなら戦略的に共通の敵をこしらえあげるような動作も起こるのかもしれず、それが国家主義的な面では隣国との紛争になるだろうし、隣国との対立を煽ることで国内の対立を沈静化させるようなことが行われる場合もあるのだろうが、それがどこまで有効かとなると、国内を知性よりも感情の方が優っている状況に持ち込めば、それなりに戦略が有効に機能する場合もあるだろうが、相対的に隣国との対立より国内の対立の方が身近で切実に感じられるようなら、まずはどちらの対立を優先させるべきかに関して知性が働くだろうし、また対立そのものに関して、対立をどのように解決すればいいかに関しては、感情よりも知性よりも理性が働いてくるのかもしれず、そうやって感情だけに囚われている場合だと、ただ対立を煽って、対立すること自体にストレス発散の捌け口を求めるだけにとどまるが、それ以上を求めるなら知性や理性が必要となってくるわけだが、果たしてそれらが必要なほどに切実で真剣な心境になれるかとなると、日頃から物事についてまともに考えなくても通用していれば、そんな心境には至らないだろうし、大抵は憂さ晴らしや気晴らし程度の心理状態で世の中の物事に接していれば、知性も理性も不要になってしまうのではないか。


6月19日「改革の結果」

 社会の中で何らかの勢力や団体が、人の活動の全てを制度化できるわけでもないだろうが、現代の世の中で支配的な制度形態となっている国家と資本の論理からすれば、なるべく多くの人々をそれらの制度に囲い込んで、人々が制度に囚われた状態に保とうとするわけで、実際に囲い込んでおいて、その制度がうまくいかなくなれば、制度に囲い込まれた人たちから文句や苦情が出てくるのは当然のことだが、うまくいかなくなった制度を改革する機運が高まっても、改革によっても制度に囲い込まれた人たちが損害や損失を被るようなら、やはり文句や苦情が出てくるのは当然のことだが、それでも制度を維持運営している側が、制度を改革しないことにはどうにもならなくなれば、何らかの機会を捉えて改革することにはなるだろうが、改革がうまくいくとは限らないし、うまくいかなければ、やはり制度に囲い込まれた人たちが損害や損失を被ることになるのだろうが、それでも全てにおいてうまくいかないわけでもなければ、制度が実際に破綻するまではそれなりに存続することになるだろうし、存続している限りは、制度から恩恵を受けている面もそれなりにあるのかもしれず、実際に制度から恩恵を受けている人たちは、制度を管理運営する政府なり企業なりを支持することになるわけだが、制度に不満がある人たちは当然のことのように政府や企業を批判するだろうし、そういう批判を踏まえて制度が改革される成り行きになる場合もあるかもしれないが、改革しようにもできない場合もあるだろうし、また改革してもうまくいかない場合もあるわけで、それぞれの場合に応じてそれなりの事態や成り行きになるわけだろうが、制度にも様々な内容と傾向があるだろうし、必ずしも制度を利用する人の全てに恩恵がもたらされるわけでもない場合もあるわけだが、実際に政府が管理運営する公的な制度ともなれば、その利用者の全てに何らかの恩恵がもたらされるという理屈に基づいた制度となっているわけだが、恩恵が少なければそれでも文句や苦情が出てくるだろうし、もっと多くの恩恵をもたらすように政府に要求してくる人も少なからず出てくるかもしれないが、それが理屈の上でもうまくいかないことがはっきりしてくると、やはり改革するしかないということになるのかもしれないし、改革の方法や内容を巡って議会などで議論が交わされることにはなるだろうが、結果的に出てくる改革案は制度を管理運営する側の都合が反映されたものになるだろうし、そうなると批判する側にとっては不満が残る案に落ち着くのだろうが、そういう改革ですらも制度に則って行うような成り行きになるわけで、制度に関しては制度的な範囲内でしか改革や変更ができないような仕組みになっていれば、そういう制度が世の中の変化に対応できないような仕組みになっていると、改革しようがなくなってしまう場合もあるわけで、そうなるとその制度の他に、新たに別の制度を作るような成り行きにもなるのかもしれないし、しかもそれでも今までの制度を廃止できなければ、今までの制度と新たに作られた制度との関係が複雑に入り組んでくることにもなるわけで、さらにそういうことが繰り返されると、世の中に様々な制度が張り巡らされて、各制度間の相互作用などが複雑に絡み合って、どんな制度がどれだけ世の中に作用や影響を及ぼしているのか、その実態をつかみきれなくなってくるのかもしれないが、現状でもそうなっているのだろうから、その中の一つの制度だけに焦点を絞って、その制度だけを改革しようとしても、他の制度との兼ね合いから、あまり効果を期待できない面が出てくるのかもしれず、しかも全ての制度を抜本的に改革するのは容易ではないだろうし、無理にそういうことをやろうとすると、世の中が混乱して、かえってそこから生じる弊害の方が大きくなってしまうことだってあり得るだろうし、そういう面を考慮するなら、あまりその手の改革には期待できないのかもしれないが、そうであるならそうやって社会を無数の制度でがんじがらめに縛ろうとするのではなく、逆に制度の縛りを緩めて弱体化させるような方策が求められることにもなるのかもしれず、たぶんそれも一律の規制緩和ということとは違う傾向が求められるのかもしれないし、またそういうことを具体化する段階でうまくいかなくなってしまう可能性もあるだろうし、そういうことを実際にやってみないことには結果が伴ってこないわけだが、その結果も思惑通りであったり満足できるようなものとはならないかもしれないし、そういった当てが外れたり想定外の結果となってしまうことを行なった方が、かえって結果的に予定調和の現状を打破できるのかもしれないが、思惑通りにもならないということは、それに伴って大変な混乱をもたらすかもしれないが、そうした混乱の中から世の中の新たな可能性が生じてくるのかもしれなし、結果的にそうなるとしても、少なくともそんなことをやろうとする勢力は、まずは思惑通りになるようなことをやろうとするわけで、それに伴って人々の支持を得られるようなもっともらしい理屈や論理に基づいた主張をするだろうし、それが公的な政治の領域でなされる主張ならば、やはりそういったまともな主張をする勢力を支持した方がいいはずだが、実際にそういう成り行きになれば、そういう勢力が民衆の支持の後押しを受けて政治的な主導権を握って、自分たちの主張に基づいた改革を行おうとするのだろうし、それが多数の民衆の支持を背景として行われることになれば、民主主義の理想にも適っているわけだろうが、たとえそうなったところで、それらの勢力の思惑通りの結果がもたらされるとは限らないだろうし、むしろ思惑とは正反対の結果がもたらされてしまうケースの方が多いのかもしれず、それはそういった面における過去の歴史的な経緯が知らせていることでもあるわけだが、それで構わないといってしまうと、思惑通りの結果を目指して改革を行なった勢力や、それを支持した民衆の期待を裏切ってしまうことにもなるわけだから、構わないわけがないのだろうが、たとえそうであっても実際にそうなってしまった結果が積み重なって、世の中が変化してきたわけだから、そういった勢力を支持するにはそれなりの覚悟が必要となるだろうし、民衆の側で期待を裏切るような結果がもたらされてしまうことも受け入れる覚悟がないと、そういった改革を目指す勢力を支持する成り行きにはならないのかもしれない。


6月18日「宗教と思想」

 宗教的な思想とそうではない思想との違いは、特にはっきりした違いはないのかもしれないが、とりあえず神なしで理屈や論理を構成している思想は、宗教とは無関係に思われるかもしれないが、神と同じような働きをする概念を思想の核として持っていれば、やはりそれは原理的には宗教的な思想と同じような内容に感じられるし、その辺が宗教とそれ以外の思想との間で見分けがつきにくいところでもあるのだが、元々は宗教から派生して、ある時期を境にして、神なしでも理屈や論理が成り立つような思想へと変容したものもあるのかもしれず、そういう面でも神のあるなしで内容の善悪を判断するようなことには、あまり説得力を伴わない場合があるだろうし、その思想が神の存在を核としていようといまいと、まずは個々の思想の内容で判断するしかないだろうし、またそういうことも含めて様々な思想について、その善悪や良し悪しを判断する必要もない場合もあるのかもしれず、その辺もその場その時の状況に応じて、利用できたり参考になるような思想があるかもしれないが、そういう意味でも思想全般に関しては、あまり一方的に否定したり肯定するようなことにも、そういった論調には与しない方が、それなりにバランスのとれた認識や判断に至れるのかもしれないが、では他に何か判断基準となるような指標があるかとなると、例えばその思想に倫理的な傾向があるなしに関して、他者への配慮がある思想なら倫理的な傾向が強いと言えるだろうし、逆に配慮の薄い思想だと、その傾向が弱いと言えるのかもしれず、そこから判断できるのは争いを好まない傾向があれば、それだけ他者への配慮があって、倫理的な傾向が強くなり、逆に争いを厭わなければ、争いに勝利して自らの利益を確保するような功利的な傾向の強い思想となるだろうが、それもその場の事情によって、本来は争いは好まない姿勢だったし、そんな内容の思想だったのが、後から争う必然性が生じてしまうと、方針転換して争いを正当化するような内容を後付け的に加えてくるような事態になることもあるだろうし、そうなると思想の内容に矛盾や不合理が生じてしまうわけだが、それが宗教的な傾向の強い思想だと、神を利用して辻褄を合わせるようなことをやってくるわけで、そうなってしまった思想だと、その内容の中に倫理的な面で肯定的な面と否定的な面とが共存しているような具合となってしまうだろうし、果たしてそれがひとまとまりの思想と言えるか疑問を感じてしまうわけだが、それが宗教であればそれなりに納得がいくわけで、神への信仰の下では、善良な隣人への愛と、悪とみなした対象を退ける面とが共存できるわけで、それが元々は汝の敵でさえも愛するような全方位的な態度だったのかもしれないが、時が経つにつれて思想の内容にも変容が伴うのは当然のことであり、それに対する態度としては、そういう思想に心身ともにのめり込むのではなく、ある程度は距離を置いて中立的な立場を取れる余地を残しておかないとまずいのかもしれないし、その余地のない人たちは戦闘的なイデオロギーで理論武装することにもなるのかもしれないが、果たしてそれが理論武装かと言えると、実際の活動に合わせて思想の内容も変わってくるのだろうし、結局は行なっていることを正当化するような思想になるわけだが、そうだとするとまず初めに思想ありきというわけではなく、まずは活動ありきで、その活動を正当化するような思想を後付け的に加えてくるような成り行きになってしまうわけだから、それを他の関係のない人たちが利用できるかというと、利用できる面があるにしても、自分たちの都合に合わせて思想内容も変えるようなこととなってしまうのかもしれず、そうなると思想自体が切実なものではなく、単に自分たちの活動に箔をつけるために利用しているだけとなってしまい、思想そのものの存在意義もそれだけ薄れてきてしまうだろうし、それがどうでもいいようなものではないとしても、やはり思想本来の力が限られた範囲内でしか発揮されないようなものとなるしかないだろうし、それとは違って本来の思想というのは、その思想に出会ったことによって、その人の生き方や人生が根本的に変わってしまうような力を宿したものが、本来的な意味での思想と言えるだろうし、それはある意味では宗教にも言えることかもしれないが、そこで思想と宗教の違いは何かとなると、お互いに混じり合っている面もあるかもしれないが、思想から宗教へと変容してしまう面もあるのかもしれないし、また思想が宗教に取り込まれてしまう成り行きもあるだろうし、さらに宗教の中で独自の思想が生じてくるような成り行きもあるわけで、そうした思想によって宗教から別の宗教や宗派が分派してくるような成り行きもあるわけだが、それが宗教改革になれば、宗教が思想によって活性化することにもなり、そうした活性化によって社会も変容してきて、そこから時代が変わるような成り行きにもなってくるわけだが、現代においてそれほど宗教が大きな影響力を持っているかといえば、イスラム教以外ではその可能性が少ないように感じられるだろうし、またイスラム教に関しても、それが宗教として活性化される可能性は少ないのかもしれず、どちらかといえばその衰退によってイスラム社会が変容を被る可能性の方が高いのかもしれないが、そういう成り行きとは違って、例えば現状で宗教だとはみなされないような主義主張に関して、近い将来それが宗教と認識されるような事態にでもなれば、そこで時代が変わる可能性があるのかもしれず、果たしてそれが宗教だとみなされて過去の遺物扱いされるかどうかは、現状ではあり得ないことだと思われるかもしれないが、一方でその主義主張は思想だとも思われていないだろうし、さらにそもそもそれを主義主張とみなすのも何か違和感があるような代物ではあるわけだが、それらが現代人の生活に直接関わってくるものであるだけに、それとの距離感も取れないし、中立的な立場にもなれないような対象であって、それだけ身近で距離感なしに食い込んでくるようなものなのだが、それが資本主義と国家主義の混合物ような概念であるわけで、それだけ現代人にとって把握しにくく厄介な代物に直面しているわけだが、それについて少なくとも言えるのは、その特徴としては比較的倫理的な傾向が薄く、それに反比例して功利的な傾向が強まってくるような傾向があるのではないか。


6月17日「知の活用」

 世の中では様々な物事が複雑に関係し合っていて、そんな状態を把握するのが困難な場合があることは確かだが、中には単純極まりない理屈で把握しても構わないような物事もあるかもしれないし、また自分に関係のない物事なら、別に詳しく正確に知る必要もないのかもしれないし、関係のある物事でさえ詳しく正確に知っているとは言えない場合もあるだろうが、意識してそんなことを知っていようといまいと、別に今まで通りの判断で大丈夫なら、改めてそんなことを知る必要も考える必要もないわけだが、物事を知るということはそういうこととは別に、これから活動していく時の判断材料として、そういった物事に関する知識が役に立つこともあるのかもしれず、もちろん知っているだけでは何の役にも立たない場合もあるだろうが、また役に立つとか立たないとかいうのとは別に、何かを知ろうとすることが、その人の生きがいになっている場合もあるだろうし、世の中にはそんな好奇心旺盛な人ばかりいるわけではないとしても、何かを知ろうとすることが、そのままその人に活動につながっていくような成り行きもあるだろうし、実際に興味を抱いた物事について知ろうとすることが、その人が進もうとする方向を決めるような可能性もあるわけで、そういう意味でもまずは知りたいことを知ることが肝心なのかもしれないが、何を知ろうとするにしても、それ以前に知っていることが先入観となってそれが邪魔をして、なかなかまともに知るに至れない場合もあるだろうが、意識して知ろうとしなくても、勝手に知ってしまうこともあるだろうし、また苦労して考えてみないと知って理解するに至らないこともあるのかもしれず、そういった経験から物事を知ることにも様々な程度と傾向があることを知るに至るはずだが、それが知っていることの全てとは言えないにしても、少なくとも知っていることを利用して主張する内容のほとんどが、何を語っても同じような程度と傾向になってしまうようだと、そうした主張には奇異な印象が伴ってきてしまうわけだが、それを奇異な印象だとは感じないで、そう語るのが当たり前のような感覚で、そういった主張に同調する人たちにとっては、それ自体が何でもないことかもしれないが、大抵はそれと意識せずに知ったことに想像や憶測を織り交ぜながら語るような場合に、そういった傾向を伴うことが多くなってくるかもしれず、何か多くの人々に知れ渡っている内容自体が、信じ込ませるための見せかけ罠であり、その裏に知られてはまずいような事の真相があるかのように語ってみせるのが、そういった人たちが使う常套句となっているわけで、果たしてそれで何かを知っていることになるのか疑問に思われるわけだが、そういうのは普通は人を驚かすために使う芝居がかった演技の部類に入る表現だろうし、主張している内容のことごとくがそればかりだと、そういう演技が見え見えの主張を真に受けるわけにはいかないだろうが、日頃からそういう主張に慣らされている人にとってみれば、何かを主張するとはそういうことだという固定観念に囚われてしまっているのかもしれず、実際にそういう人たちは何を語らせても、一般の人たちには知られてはまずいようなことが、一般の人たちに向けられて語られるわけだが、そんな人たちに言わせれば、常に政府寄りの人は嘘をついていることになるだろうし、またそれと一緒になって政府の宣伝機関と化したメディアも、国民に向かっていつも嘘をついていることになるわけで、そしてそんなことを主張する人たちが、部外者的な立場なのになぜか事の真相や真実を知っていて、それを無知な一般人に向かって暴露する成り行きになるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、とりあえず宣伝や煽動などのやり方としてはそういうのがわかりやすいし、その内容が面白かったり興味深ければ、信じてもいいような気分にはなるわけだが、その際に内容を信じることと内容が真実であることは、とりえずは結びついているとみなしても構わないだろうし、またたとえ内容が真実でなくても信じても構わないわけだが、それはそれとして、それとは異なった成り行きがあっても構わないだろうし、その成り行きというのが、ただ単に普通に世間に知れ渡っていることが真実であっても構わないわけで、わざわざそれらの人たちに教えてもらって、事の真相を知ってびっくりしなくても、自分で普通に知ったことが真実だと思っていても構わないだろうし、また事の真相や真実だと見なされるような内容が世の中に見当たらなくても、真実であるかどうかもわからないことであっても、単に世間に知れ渡っていることで間に合ってしまうことだってあるのかもしれず、それで間に合う範囲内で知ることを済ませてしまう成り行きもあるわけで、実際にもそんな範囲内の知識で間に合っている人たちが世の中の多数派を占めているからこそ、事の真相や真実を知らせて人をびっくりさせようとする戦略が空回りして、それらの人たちの宣伝や煽動があまり効果を上げていない実態があるのかもしれないが、そういう人たちは人たちで一部で凝り固まって、同類の人たち同士で意気投合して盛り上がる場が確保されているのかもしれず、そういった人たちが盛り上がる場がSNSなどのソーシャルメディアになるのかもしれないが、一部は普通のメディアにもそういった人たちが流出しているわけだろうし、それも一興なのだろうが、実際にそこに参加している人たちも大勢いるわけだから、それが何かしら世の中に作用や影響を及ぼしていることも確かかもしれないが、そういう現象に関して普通に気づくべきなのは、それでも構わないのかもしれないが、そうでなくても構わないのかもしれないし、そうでなくても構わないようなことを多くの人たちが知っているのかもしれず、そんなこととともに、そんなこととは違うことも知っておくべきかもしれないし、なるべくなら両方知っていれば、そんなこと以外のことを知っている分だけ、それだけ知識が増えて判断材料も増えて、それだけ妥当な判断に近づく可能性も高まるかもしれないし、下手に片寄った知識ばかり身につけるよりは、同じような程度と傾向の知識とともに、それ以外の様々な程度と傾向の知識に触れることで、バランスのとれた物事の判断に結びつくのではないか。


6月16日「身体の動作」

 世の中では、政府が管理運営する制度や法律、また民間の企業や各種団体が管理運営する様々なサービス、そしてそれと意識することなく従っている社会的な慣習や掟、さらに使用している道具や機械類による制御など、人が日常の中で多くの決まり切った動作に囚われて制御されている実態があるわけだが、自分自身も自分の意思や意志によって制御されている面もあるが、たぶんそれ以外で制御されていない面もあるのかもしれず、それが自主的に動いている面であり、それが時には自分の意思や意志にも逆らって動けるかというと、たぶん動けるだろうし、もちろん他にも様々な社会的な制約や決まり事に逆らって動いてしまうわけだが、なぜ動いてしまうのかといえば、特に理由がない場合もあるだろうし、あるいは自らを制御しようとしてくる様々な作用から逃れようとして動いてしまう場合もあるわけで、それが自分の意思や意志に従った動作となると、そうとも言える面もあると同時に、そうとも言えないような面もあるのかもしれず、意思や意志としては自らを制御しようとしてくる社会的な作用に従おうとしているのに、なぜか身体が勝手にそれに逆らって逃れようとしてしまうと、自らが把握しているつもりの意思や意志以外にも、別の意思や意志があって、あるいは本能と呼ばれるようなものがあって、それが作用して別の動作を誘発するようにも思えるかもしれないが、本当のところはよくわからないわけで、ただ単にそれを身体の動作とみなせば、自らの身体が自らの意思や意志に逆らっているとしかいえないような動作となるわけだろうが、それは何も身体だけの動作でもないのかもしれず、例えば考えるという動作においても、自らの意思や意志に逆らって考えることもあるのかもしれないし、また考えようとする意思や意志に逆らって考えるのをやめてしまう動作もあるのかもしれず、それが身体の動作かというと、ただ単に脳の神経ネットワーク内の動作でしかないわけだが、脳も身体の一部であるわけだから、それも一応は身体の動作とみなしても構わないだろうし、そうみなしてしまうと、自らの意思や意志とは別に身体の動作があることになるわけだが、それを意思や意志で制御できる面もあるかもしれないが、できない面もあるのかもしれず、その意思や意志で制御できない面での動作が何から生じているのかと言えば、結果的に身体が動いているわけだから、それは身体自身の動作と言えるだろうし、それ以外には、例えば神から指令を受けて動いているとか、自己防衛本能によって動いているとか、無意識の動作によって動いているとか、いろいろ想像できるかもしれないが、そうした想像を省けば、単に身体の動作としか言えないだろうし、意思や意志に捉われなければ、人は身体の動作によって動いているとしか言えない面があるのかもしれず、それが何を意味するのかといっても、何を意味しているわけでもないのかもしれないが、例えば自らの意思や意志を尊重する以前に何を尊重した方がいいのかと言えば、身体の自然な動作を尊重した方がいい場合もありそうだし、そうした面で意思や意志に頼りすぎないことが肝要な場合もあるのかもしれないが、なぜそんなことが言えるかとなると、それが自らの意思や意志である以前に、制度や法律や慣習などの社会的な制約や決まり事によって制御されて、そんな意思や意志が生じている場合があるわけで、それが自らの意思や意志であるのに、それと同時に社会の意向であり、また自らを制御している団体の意向である場合があるわけで、そういう面があるからこそ、そんな意思や意志に対して身体が拒否反応を起こすのかもしれず、そういう場合は、まずは自分の意思や意志を疑う必要があるわけで、自分の意思や意志で動こうとしているのに、本当はそうでないとなると、何か自己矛盾や自家撞着を起こしているように思われるかもしれないが、それが身体としては自然な反応や動作であるのかもしれず、そういう面で身体が拒否反応を起こしているのに、それを意思や意志の力でねじ伏せて、自分から進んで無理なことをやろうとしてしまうと、ともすればそれが過労死や過労自殺の原因となったり、またごり押しの宣伝や煽動や虚偽答弁などになってしまったり、そうやって社会の制度や慣習などによって、自分が押しつぶされてしまうような結果をもたらすのかもしれないし、そういう成り行きを避けるには、何よりも自分の意思や意志を信用し過ぎないことも肝要なのかもしれないが、自分がそうしなければならないと強く思うことから生じる責任感というのも、自分の意思や意志である以前に、社会的な制度や慣習などに従おうとするから、そんな意思や意志が生じてしまう可能性もあるだろうし、それも身体の動作に逆らって強引に意思や意志の力によって動作しようとしているわけで、やはりそういうことを度々やってしまうと身を滅ぼす危険性が高まるのかもしれないし、そういうことをやるのにもそれなりの限度があるだろうし、その時の自分の体調を考慮せずに過度な責任感から無理をしてしまうと、命を縮めるような成り行きとなるだろうし、その時は意思や意志の力で乗り切っても、そんなことを何度もやりながら活動していると、疲労が蓄積して癌などの重篤な病に冒されることにもなるわけで、そういうところで世の中の制度や慣習やしきたりなどを破ってでも、身体の自然な動作に従うことが求められているのかもしれないわけだが、誰に求められているのかといえば、自身に求められているとしかいえない面があるわけで、それを天や神の啓示とか大げさに思い込んでしまうこともあるかもしれないが、大抵の場合はそんな大げさなことではなく、何気ない些細な判断の積み重ねが、後々大きな差となって自らの身体に響いてくるのかもしれないし、それが時には身体の一部である脳から主に生じている精神にも響いてくる場合もあるだろうし、自らの思い込みによって自分の主体的な意思や意志に従って動いているつもりであっても、社会やその中の団体や徒党や一族や家族などの意向を尊重しようとするあまりに身勝手な責任感が生じて、自分一人で独りよがりに苦労や苦痛を背負いこんでしまっていることに気づかず、そうなると周囲の意向を尊重しているようでいて、逆に周囲に迷惑をかけていたりもするわけで、そんなふうにして自滅してしまうような成り行きが結構あるのかもしれない。


6月15日「民主主義の活用」

 たぶん民主主義はそれ単体では社会の中で機能しないだろうし、資本主義や国家主義とセットになった状態で実質的に機能し始めるわけで、その他に自由主義や社会主義なども加えて、それらの間でうまくバランスをとりながら、世の中を平和に保つことが、政治的な課題となってくるのかもしれないが、それらの主義を反映した制度や法律が社会に定着していれば、一応は近代的な国家体制として認められるのかもしれないが、それらの中で一番定着しにくいのが民主主義を反映した制度や法律なのかもしれず、特に資本主義と国家主義は民主主義とは相容れない性質があるし、原理的には資本主義と国家主義の行き過ぎに歯止めをかけるために民主主義的な制度や法律が必要だと考えればいいわけだが、そういうところが資本主義と国家主義に囚われている人には理解できないのかもしれず、資本主義の功利的な価値観や国家主義の法と秩序の価値観からすれば、それらの推進の邪魔をするようなデモや抗議活動には反感を抱くだろうし、それらの勢力から左翼的な民主派が目の敵にされるのも当然かもしれないが、逆に民主主義を利用するやり方もあるわけで、資本主義の側で民主主義を利用したのが新自由主義と呼ばれる自由主義であり、また国家主義の側で民主主義を利用したのが社会主義や共産主義であったわけだが、どちらもうまくいかずに民主主義を損なう結果を招いたわけで、そんな経緯を踏まえて現状では元から親和性の高かった資本主義と国家主義の連携が改めて世界の国家体制の主流となっているのかもしれないが、資本主義と国家主義だけでは、資本主義からは貧富の格差や金権腐敗などの弊害が出てくるし、国家主義からは官僚主義や強権的な独裁体制などの弊害が出てくるし、いずれの弊害も歯止めをかけるのは難しいし、実際に民主主義的な制度や法律がうまく機能していない国家では、どちらの弊害にも歯止めがかからずに、それによって一般の民衆が苦しんでいる実態があるのだろうが、もちろん資本主義と国家主義から生じる恩恵を受けている人たちの中には、苦しんでいないどころか、豊かで快適な生活を満喫している人たちも大勢いるだろうし、そんな人たちからすれば、別に自分たちの生活や活動の邪魔をしてくるうるさい反体制派などは体制側から弾圧されて当然だとは思わないだろうが、政府の政策などに反対や抗議をする人たちのことは、無関心を装って見て見ぬ振りをするのが普通の反応かもしれないが、実際にはそんな豊かで快適な生活を満喫できる人たちが抗議活動などに参加する心の余裕が生じれば、民主主義的な制度や法律が社会に定着することになるわけで、それらの人たちの助けなしには民主主義を擁護する勢力が国家的な主導権を握れないだろうし、それが世界各国で労働者階級だけによる革命が起こらなかった理由でもあるのだが、そうだとすると資本主義と国家主義と民主主義が三位一体となった欧米諸国などに特有な民主的な国家体制が、それなりに安定している理由も自ずから明らかとなってくるのかもしれないが、そこでは豊かで快適な生活を満喫している人たちが、自分たちの仲間を増やしたいという感覚から民主主義を擁護しているのかもしれないし、そういう感覚は得てして甘い幻想に終わりがちになってしまい、実際にそれらの豊かで快適な生活を裏で支えている人たちが、途上国などで苦しい生活を強いられていることをわかっていないのかもしれないが、もちろんすべての面でそうであるわけでもないだろうし、またそれらの人たちの豊富な資金を利用して、苦しい生活を強いられている人たちの中から、特に飢餓や疾病などで命の危険にさらされている人たちを多少は助けられるわけだし、そういった慈善行為によって自己満足に浸れるにしても、それでは根本的な問題の解決とはならないのは当たり前のことであり、そういうところでブルジョワ的なリベラリズムの限界が垣間見えてくるのかもしれないが、たぶんそれを否定的に見る必要はないだろうし、実際にそれでうまくいっている面があるわけだから、肯定せざるを得ない面もあるのだろうが、それとは異なるやり方を模索しても構わないだろうし、実際に現状でも様々な弊害があらわになっているわけだから、模索してくべきなのかもしれないが、模索する余裕がある人たちも暇と金を持て余しているブルジョワな人たちであれば、現状の延長上で模索することになるしかないわけだが、普通に日々の生活に追われている人たちが、そんな大げさなことをできるはずもないだろうし、そういったことの模索に関しても現状で主導権を握っているのは、資本主義と国家主義の側に属している人たちになるわけで、だから現状の社会が存在しているわけだが、そういった国家規模の模索に関してはそれで構わないというか、そうならざるを得ない面があるわけだが、それとは違う面で違うことができるとすれば、それが最も低いレベルでは個人の立場での態度に関する模索となるだろうし、具体的には政治的な面ではどんな勢力を支持するとか、選挙でどのような候補者に投票するとかを決めることになるのかもしれないが、それとともにどのような発言を支持するとか自身でどのような発言を心がけるとかも、個人のレベルでできることにはなるわけだが、そういうことを行う上で何を心がければいいかとなると、単純な体制批判のような全否定だと、どうしてもフィクションになってしまうのかもしれず、その全否定している人や団体が実際に普通に活動できている実態があるということが、考慮に入れられていないことを主張しては、そうした実態を反映しない主張となってしまって、そうした主張をしている人たちの信用度がそれだけ減じてしまうリスクが生じてしまうのかもしれず、そういう意味でそういう人たちが支持している人や勢力が何を実行できるかが問題となってくるわけで、反対しているだけで何も実行できないと判断されると、それ以上の支持の広がりが期待できないから、どうしても少数派にならざるを得ず、それを回避するには何か実現可能なことを主張して、それを実現するために尽力するような成り行きに持っていければいいのだが、そうなると多数派を否定して批判しているだけでは無理になってしまうだろうし、そういうところで多数派を巻き込んで実現可能な政策を主張していくような戦略が生じてくるのかもしれないが、もちろんそれでは根本的な問題の解決とはならないわけだが、その辺がうまく言葉では示せないところなのかもしれないし、言葉ではなく行動で示さないとならない成り行きになってくるのかもしれない。


6月14日「事後的な現状」

 様々な物事が現状の世界に作用や影響を及ぼしていることは確かだが、その中には過去の歴史的な経緯もあり、過去から現在までの経験や記憶の積み重なりが人の人格を作っているのと同じように、現状の世界を構成しているのも、過去から現在までの歴史的な経緯の積み重なりの結果であるように思えることもあるが、そうであるなら過去の出来事が現状の世界に及ぼしている作用や影響を知ることが、現状を分析する上で重要となってくるわけだろうが、過ぎ去ってしまったことを今さらなかったことにすることはできないとしても、過去の経緯にひたすらこだわり続けるのも、柔軟性を欠いた頑なさの表れであるだろうし、過去にひどいことをされて、そのことについての十分な償い受けていないというのも、過去にこだわらざるを得ない理由となるわけだが、その一方で意識が過去につなぎとめられていると、現状の世界の中で新たに起こっていることについては、過去との比較でしか判断できないことにもなるだろうし、しかもそこから過去にこだわっている自身に都合の良い見解を導き出す傾向にもなるのかもしれず、それが軒並み悪いというわけでもないだろうが、少なくとも思考の自由度がそれだけ制限されることになるだろうし、だからかえって現実離れした突飛なことを思いつかずに済むという利点もあるかもしれないが、世の中の大多数の人はそれで構わないとしても、中にはそれでは済まなくなるような境遇になってしまう人もいるのかもしれず、それが具体的にどんな境遇なのかは実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、少なくとも過去とは違った新しいことが起こるから、過去と現在とで違いが出てくるのだろうから、現状の世界を知るということは、過去とつながっている面とともに、過去にはなかった新しい面も知ることにもなるわけで、その新しい面というのが、過去に生成した様々な要素が新たな組み合わせで結びついて生成されたり、またそれが何もないところから全く新しく生じてきたように思われたり、それ以外にも様々な要素や傾向を伴っているように思われるかもしれないが、その全てが過去とのつながりから説明できるわけでもないところが、そこに新しい要素や傾向があることになるわけだが、それが過去と現在との相違点だとすれば、実際に現在の世界でそういう要素や傾向を見つけられるかとなると、総じて過去よりは進歩していることになっている科学技術以外でも、これまでになかった世の中の傾向があれば、それが現在を特徴づける傾向となるのかもしれないが、たぶん誰もそれに気づけないから、その代わりに過去にこだわるしかないのかもしれないし、だから何かというと過去の経緯を持ち出してきて、それを使って現状を説明しようとしてしまい、その結果としていつまで経っても意識が現状に追いつかない実態があるのかもしれないのだが、そうなるのはある意味では仕方のないことかもしれず、その誰もが見逃している現在の傾向というのが、誰にとっても不確定要素であり、そこから予測不可能な偶然の巡り合わせや成り行きがもたらされるのかもしれないが、だからそういう予想外や想定外の機会をいち早く捉えて、それに対応できた人や団体が、機先を制して現状の中で主導権を握ることになるのかもしれないが、そうなったことに誰もが気づくのは、そうなってからだいぶ時間が経ってからかもしれないし、気づいた時にはもう手遅れとなっていて、多くの人や団体が主導権争いに後れをとってしまうのかもしれないが、そういう成り行きに関しては、誰にも平等に主導権を握る機会が与えられているわけでもないにしても、ある程度はやった者勝ち的なところがあって、他から遅れて気づいた人には、いつでも貧乏くじを引いたように思われるとしても、そこでもそんな感覚が鈍い人にも、それなりの利点があるのかもしれないし、目先の利害に惑わされるような感性が鈍ければ、かえって他よりも遅れて気づいた分だけ、先人が試行錯誤して築いたノウハウの蓄積をそのまま利用できる可能性もあるわけで、また先人がやり残したことや失敗して途中で打ち捨てられた残骸の中にも、それなりに利用できるものを見つけられるかもしれないし、そういうものを後から遅れてきた人や団体がうまく利用できれば、それなりに成功できる可能性もあるわけで、そういう物事を見つけられる嗅覚を養えるかとなると、そこでもそれなりに機先を制するのとは異なる独特の感覚が必要となるのかもしれないが、そういうことに関してもほとんどの人が気づけない実態があれば、そういう方面でうまくいった人には、何かの偶然の巡り合わせや成り行きから、たまたま幸運にありついたような感覚になってしまうのかもしれないが、そういうところでも現在を特徴づける傾向というのがあって、何かの成り行きでそういった傾向に沿った活動していた人が、そういう方面で成功する機会を得るのかもしれないし、そういうことに関しても、そこからだいぶ時間が経ってから、そういう成り行きをうまく説明できるような理屈や論理などがわかってくるのかもしれないが、そうやって後から説明する分には、もっともらしくさもそうなって当然のごとくに説明できるとしても、それが現に起こっているのと同時には説明できないだろうし、そういう面ではいつも何かが起こった後からしか、それをうまく説明することはできないのかもしれないが、それを先取りして、これから起こることを予測したりすることに関しては、やはり不確定な面がつきまとうだろうし、たとえそういう予測が当たったとしても、事後的に予測が当たったことを自分で宣伝するようなことをやってしまうと、何か眉唾的ないかがわしさがついてまわるわけだが、そういった何かを予測する感覚にも、もしかしたら現在を特徴づける傾向が出ているのかもしれないし、大抵はそれに気づかずに、過去との連続性や整合性などを考慮しながらもっともらしいことを述べようとしてしまうわけだが、そういう面に目を奪われていると、やはり現在を特徴づける傾向を見逃してしまうのではないか。


6月13日「民主主義の危機」

 現状で民主主義が制度的に危機的な状況になっているとすれば、それは政府の官僚機構と折り合いが悪いことに起因していて、官僚機構の方では常に上から国家と国民を統治しようとしているのに対して、民主主義的な制度が意図しているのは、国民の中から選ばれた代表者が国民の意向を政策に反映させながら、官僚機構を使って国家統治を行うことにあるわけだが、そこで国民の意向と官僚機構の意向が合わなければ、どちらが優先されるべきかとなるわけだが、国民の中から選ばれた代表者たちが官僚機構に懐柔されていると、官僚機構の意向が国民の意向にすり替えられて、官僚機構に操縦された国民の代表者たちによって国家統治が行われるような成り行きになるわけだろうが、こう述べてしまうと何かわかりやすく感じられるかもしれないが、実際に国民の意向というのがまとまった形であるかというと、そうとも言い切れない面があるのかもしれず、それに関して例えば世論調査の結果として示されるものが国民の意向なのかというと、調査を行う機関によって恣意的に調査項目や調査内容が誘導尋問のように調整されている可能性もあるだろうし、制度的には選挙結果に国民の意向が示されていることになるだろうが、選挙で勝利して政権を担った国民の代表者たちが、官僚機構に手懐けられて従わされていれば、結局は官僚機構の意向通りの国家統治が行われることになるだろうし、そういう意味では実質的に民主主義という制度は破綻していることになるわけだが、それでも国民の意向というのが、例えば税金を安くして福祉を充実させろというのであれば、政府としても無理な面があるだろうし、福祉を充実させるには予算が必要で、予算が国民の税金によって賄われていれば、税金を安くしたら福祉を充実できないということになるわけだから、それはできない相談となるわけだが、そうであるなら国民の意向としては、無駄な予算を削ってその分を福祉予算に当てればいいとなるだろうが、その国民目線で無駄な予算というのが、政府にとっても官僚機構にとっても必要な予算となるわけだろうし、そういう面で国民と官僚機構との間で折り合いがつかなくなるわけだろうが、その政府や官僚機構にとって必要な予算には、予算目当てにたかってくる人や企業を優遇するために使う予算もあるわけで、そういう人たちも国民の内に入るし、また官僚機構で働いている公務員も国民の内に入るわけで、そうした人たちが既得権益を持った特権階級として官僚機構とグルになって、国政を牛耳っていると、そういう予算のおこぼれに与れない人たちが損な立場になるわけだが、こう述べてしまっても何かわかりやすく感じられるかもしれないが、実際には予算のおこぼれに与かれないし、税金も安くしてもらえない損な人たちですらが、そんな状態の政府や政権政党を支持している実態があるとしたら、何か不条理に感じられるかもしれないが、よく考えてみれば選挙で当選する国民の代表者が特権階級の出身者で占められていれば、そうなって当然だろうし、普通の一般人が選挙に立候補することもほとんどないのかもしれないし、仮に立候補して選挙で当選したところで、特定の政党に属していなければ何をやったらいいのかわからないだろうし、そもそも民主主義の制度自体が、特に有効に機能する必要のない制度なのかもしれないし、それは政府の官僚機構にも言えることなのかもしれず、何だかわからないが無駄で無意味なことをやっているのが、政府という組織の実態であり、そのために莫大な予算が使われているわけだが、それを効率的かつ有効に機能させるための理屈や論理はいくらでも主張できるだろうし、そうするためにもっともらしく筋の通った提案をする人もいくらでもいるだろうが、そういった主張や提案がいくらでもできるということが、実際にいくらでも主張や提案が行われた結果として現状の実態に結びついているわけで、要するにそういった主張や提案も有効ではなかったことになるのかもしれないし、これからもそんな主張や提案がされ続けるだろうが、事態が一向に改善しなければ、やはりそれも無駄で無意味なことに含まれてしまい、そういったことも含めて、政府という組織の実態があり、そんな中でもそれなりに多くの人たちが活動していて、それほどうまくいかないなりにも、一応はそんな活動が維持されている限りで、政府が存在し続けるだろうし、そんな政府や政権政党などを一般の人たちも支持し続けるだろうし、今後何かのきっかけで政権交代が実現したところで、それほど事態が好転するわけでもなければ、一般の人たちもそういうものだと納得するしかないだろうが、別にそういう現状や実態を無理に肯定する必要もないわけで、おかしいと思われるところがあれば批判すればいいだろうし、メディアも政府のおかしなところを指摘し続ければ、それなりに政府の方でも改善せざるを得なくなるかもしれないし、そうやって絶えず批判し続けるしかやりようがないのかもしれず、そういう批判を怠ったり押さえ込んだりすると、たちまちおかしな動作が増えてくるわけで、そういう意味では放っておいてはまずいだろうし、誰もが気づいたところから政府に対して批判することが、政治に参加することにもなるわけで、それを放っておいても有効に機能するような制度だとはみなさない方がいいだろうし、少なくとも民主主義の体裁を保つには、一般の民衆が政府や官僚機構のやっていることにいちいち文句やいちゃもんをつけていかないと、民主主義にはならないわけで、そういうことに無関心になってしまったら、民主主義を放棄したことになってしまうわけだから、その辺を自覚しておいた方がいいのかもしれず、そういうところでは自らの立場や境遇や他人の目線などを超えて発言したり主張したり批判しなければならないわけで、そんな場があるところでは積極的に参加すればいいのだろうが、もちろん何の名声もないような一般人が何かを言ってみたところで、単に無視されるだけだろうし、それでも構わないとなると、それも無駄で無意味なことになってしまうのかもしれないが、結局はそういう無駄で無意味な行為を多くの無名の一般人が行うことが、なぜか最終的には民主主義を成り立たせることになるのかもしれず、そうなることを信じて政府に対して批判を繰り返すような無名の一般人が大勢必要であるのが、民主主義の不条理なところかもしれないが、そういうことの範疇には、デモに参加して負傷したり警察に拘束されたりする行為も入るわけだ。


6月12日「危機意識の共有」

 確かに現状に対して危機意識を持つことが、現状を改革しようとする動機となるにしても、それが改革なのか改善なのか改悪なのか、はたまた結果的には現状を維持することにしかならないのかは、実際に現状を変えるために何かやってみた結果からしか判断できないところかもしれないが、それ以前に現状を変えるために何かやっているというよりは、現状の中で場当たり的に次々とやるべきことが出てきてしまって、それに対応して何かやっているうちに、気がついたら現状が変わっていたりする場合もあるだろうし、特に危機意識を持たなくても現状が変わっていってしまったら、わざわざ危機意識を抱くこともないわけだが、別に現状が変わらなくても困っていなければ、無理に現状を変える必要も感じないだろうが、そうであっても気づかないうちに現状が変わっていってしまうこともあるのかもしれず、そうなるとその人が何を感じていようと何をどうしようとしていようと、そんなこととは関係なく状況が変わっていってしまえば、ただそんな状況の変化の中でその人が翻弄されるだけとなってしまう場合もありそうだが、そんなこととは別に何らかの集団で行う組織的な行為によって、意図的に現状を変えようとする勢力にとっては、それが政党や政府などの政治勢力なら、そのために政治的な主導権を握って必要な権力を行使して、現状を変えようとするのだろうし、企業などの経済的な勢力なら、事業などの経済活動を行いながら現状を変えようとするだろうし、またそれに関しては普通はそうした勢力がそれぞれで単独で行うというよりは、他の様々な勢力と連携して多種多様な分野で活動しながら、そうした活動を通して現状を自分たちの勢力が有利になるように変えて行こうとするわけだが、そうなるとそれだけやっていることが複雑に入り組んできて、それに伴ってそこに介入してくる様々な勢力の意図や思惑も複雑に絡み合ってきて、特定の勢力による現状を変えようとする意志が、そのままその場の状況に作用するわけでもなくなってくるだろうし、そうなるとそんな中でいくら現状に対して危機意識を持っていても、それがそのまま現状の改革に結びつくわけでもなくなってしまうのかもしれないし、それでもそういうところで危機意識を共有している人たちが団結して、政治的な活動や経済的な活動を協力して行うような成り行きになってくる場合もあるだろうが、そういう活動が実を結んでそうした勢力が政治的あるいは経済的な主導権を握って、現状の改革に着手することになるとしても、そこに至るまでの段階でも様々な紆余曲折を経ることになるだろうし、そういった紆余曲折の中で改革への意志がすり減ってしまうこともあり得るのかもしれず、またそういった勢力の中でも様々に意見や考え方が異なる人たちが含まれている可能性もあるわけで、そうなると改革の内容についても進め方についても、特定の個人が当初に抱いていたこととはそれなりに違ったものになってきてしまうだろうし、またそういった勢力に協力してくる勢力や敵対するような勢力からの作用も絡んできて、結果的にますます改革の内容や進め方などが変質を被ってきてしまう可能性もあるわけで、そうなると最終的には誰も思ってもいなかったような内容や進め方になってしまい、それが否定的な傾向を伴うようなら、各方面から批判にさらされることにもなるだろうし、実際に様々な勢力との間で利害調整や妥協などを経ると、もはやそれは実質的な効力も効果も期待できないような骨抜きの改革案に堕してしまう可能性まであるわけで、そうなってしまうと、当初に危機意識を共有していた人たちは、ますます危機感を募らせることにもなるだろうが、中にはそんな意識もすり減ってしまい、何かやっているような気分になるだけで満足してしまう人たちも出てくるかもしれず、実際に権力を行使できる立場に就くことが目的の立身出世を目指すような人もいるわけだから、そういう人たちが現状に対してどこまで危機感を共有しているかは疑問だろうし、危機意識に関する切実さの面では、現状を改革することよりも、危機的な状況を利用していかにして自分が成功できるかの方が優先されてしまう場合もあるわけで、そういう功利的な面に囚われてしまう人は、確かに当初はまともに危機感を共有していたかもしれないが、実際に活動していく過程で、別の目的も生じてきてしまうわけで、そういう目的の中で最もありふれているのが立身出世の願望となるのだろうし、実際にライバル関係にある人たちと競い合うような成り行きに巻き込まれたら、自然とそういう願望が芽生えてきてしまい、そういうところでは危機意識の共有や現状を改革する意志などよりは、勢力内の主導権争いや権力争いなどの方がリアリティを感じられる成り行きもあるだろうし、そういう争いは組織的な権力構造から自然に生じるものだから、そういう構造自体も改革しなければならないと危機感を募らせてほしいのかもしれないが、そこまで考えが及ぶ人が果たして主導権争いや権力争いに勝利して、政治的な主導権を握って、自らが成功するために利用してきた構造を改革しようとするかどうかは疑問だろうし、逆に独裁的な傾向を強めて、ますます他の人たちが危機感を募らせるようなことをやらないとも限らないだろうし、そうなると現状を改革するという宣伝文句によって政治的な主導権を握ろうとするような、本末転倒な事態になってしまっているわけだが、果たして政治家や政党などの勢力に、そういう面で倫理観を要求できるかというと、それ以前に立身出世目的や権力を握ること自体が目的の人たちと、まともに民衆の大多数が求めるような改革を目指す人たちとの間で、明確な区別がつくかとなると、区別がつくどころか、その両方が入り混じっているのが普通なのかもしれないし、さらにそもそも民衆の大多数が求めるような改革などフィクションであり、そんなのもあり得ないのかもしれないし、そういう面ではっきりしない現状があるのかもしれない。


6月11日「負のスパイラルの回避」

 実感として世の中がひどい状況に陥っていると感じるなら、現状を否定的に見ていることになるのだろうが、ひどい状況から目を背けていても普通に生活ができていれば、少なくとも普通に生活ができている範囲内ではひどい状況にはなっていないわけで、そういう範囲内では現状を肯定的に見ても構わないだろうし、そうであれば現状では否定的な面と肯定的な面とが混在していると捉えられるわけだが、その否定的な面と肯定的な面がつながっていて相互に補完関係にあるとしたら、それらの面が表裏一体となっている可能性もあるだろうし、そうなると否定的な面と肯定的な面の相互依存状態から否定的な面だけを改善するのは困難かもしれないわけだが、実態としてはどうかとなると、例えば経済格差などに関しては、金持ちがいるから貧乏人がいて、貧乏人がいるから金持ちがいるような、あるいは権力関係の中では、権力を行使する立場あるから権力を行使される立場があり、権力を行使する立場がなければ権力を行使される立場もないような、そういったゼロサム的な両者を重ね合わせると差し引きゼロとなるような関係の上に、否定的な面と肯定的な面がつながっているとは思えなければ、物事にはそれとは異なる別の面があるわけだろうが、それが何かといえば、それに関してすぐに思い浮かぶのが、過去から未来へと一方向に進む時間的な経過であり、それを考慮すれば物事が否定的な面と肯定的な面の間で変動しながらも、過去から未来へと両者の釣り合いとは無関係に向かっているわけだから、別にバランスを考慮せずに否定的な面だけを改善しようとすれば、その反動で肯定的な面が悪化する可能性もあるだろうが、そうなったらなったで、今度は悪化した面を改善しようとすればいいわけで、そうやって絶えず現状に対して新たに改善しようとする動作を付け加えるようなことを行なっていけば、その過程でそういった動作からの作用や影響を被って他の面で事態が悪化することがあろうと、それに気づいたところからまた悪化した面を改善しようとすればいいわけだが、実際にも個人としても集団としてもやっていることは、そういうことでしかないのかもしれず、他に悪影響が及ぶからといって改善をためらっていれば、否定的な面がそのまま残ってしまうだけだろうし、逆に否定的な面をそのままに保つことによって、それと対になっている肯定的な面を保とうとするやり方もあるだろうし、そういうやり方を突き詰めると、否定的な面をさらに悪化させれば、その反動で肯定的な面がさらに良くなるような可能性もあるのかもしれないし、功利的にはそういうやり方が推奨されるような分野もあるのかもしれないが、実際にそうなるとすれば、否定的な面でひどい立場や境遇を強いられている人たちが黙っていれば、そういうやり方がまかり通ってしまうわけで、それが嫌なら声を上げて抵抗する必要があるわけだが、果たしてそれに気づけるかとなると、事態が複雑に入り組んでいて関係する物事が錯綜していれば気づきにくいだろうし、中でも意図してそういうことをやっているわけでもないのに、結果的にそうなってしまっている可能性もあるわけだから、声を上げて抵抗する対象が定かでない場合さえあるのかもしれず、そうなると誰もが気づかないうちに、どんどん事態が悪化していってしまう可能性があり、そういった負のスパイラルをもたらす要因が具体的に何かというと、逆にうまくいっている面を強調するような動作なのかもしれないし、そういう面をメディアなどで誇張して宣伝しまくっていると、それがうまくいかずに悪化している面を覆い隠すような遮蔽幕として有効に機能するのかもしれないが、さらにそのバリエーションとしては、自国ではなく、隣国などのうまくいかずに悪化している面を誇張して宣伝しまくれば、やはりそれも自国でうまくいかずに悪化している面を覆い隠すような遮蔽幕となるのかもしれず、それに関してはそういうことを意図してやっているように見えるかもしれないが、意外とやっている側としては、需要があるから供給があるような成り行きがあるのかもしれないし、実際に事態が悪化している成り行きの中にいる人たちが、メディアなどで自国のうまくいっている面に惹かれてしまう一方で、隣国などのうまくいっていない面を報道されると嬉しくなってしまうから、そういう話題への需要が多くなると、メディアの方でもそういった話題を好んで取り上げるような成り行きとなってしまうのかもしれず、そういった他人の不幸を喜ぶような風潮が、自己満足とともに慢心を呼んでしまい、自画自賛気味に自己正当化する一方で、それに伴って自分たちが直面している悪い面を改善しようとする気持ちを減退させてしまって、そんな人たちの間では現状維持的な気分が蔓延してしまうだろうが、現状を維持すること自体が絶えず現状を改善し続けないと維持することすらできない可能性もあるわけだから、それだけでも衰退をもたらすような要因となっているのかもしれないが、ではその逆に現状を改善しようとする気になるにはどうしたらいいかというと、このままでは駄目だと思うことだろうし、要するにそれは現状を否定的に見ることになるわけで、現状のままにとどまっていれば駄目になってしまうから、そこから危機感とともに向上心も生まれて、現状よりもより良い状況をもたらそうとするわけだが、そういう傾向とは逆に現状を肯定することは、現状に順応しようとする気を起こさせて、現状のままに留まろうとするわけだが、それで現状を保てるかというと、それとは無関係に時間が進んでいってしまうわけだろうし、時間が進めば人工物は老朽化して人も老化して、やがて寿命が尽きて死を迎えることになるわけだから、結果的には現状を保てなくなってしまうわけだが、そうやって現状自体が時間の経過とともに変化しているわけだから、現状に順応するにしても現状の変化に対応する必要があり、結局は現状で通用しているやり方をいつまでも維持することはできなくなってくるだろうし、そうなると現状の変化に対応する新たなやり方を模索し続けなければならないわけで、そういうこと考慮すると現状を否定的に捉えるというのは、今この時点での現状に対応したやり方では、やがて通用しなくなるということを踏まえて、現状を否定してより良い状況にするためのやり方を模索することになるわけだが、その一方で現状に順応するやり方にしても、絶えず変化し続ける現状に対応できるようなやり方を模索し続けることにもなるのではないか。


6月10日「特別な存在」

 世界のどこでどのようなことが行われていようと、それと日本の現状を比較して何か述べることができるとして、なぜそういうことを述べたくなるのかというと、そこに述べる人の都合が反映していると言えるだろうし、日本の現状を批判するためにそういうことを述べたいのなら、その人が肯定したいことが比較対象となる出来事に含まれているわけだが、それ以外でも世界各地で起こっている出来事を日本の現状と比較して、肯定したり否定したりすることができるかもしれないし、実際に日本の現状を批判するための比較とともに、中にはそういった批判に反発して、日本の現状を賞賛するための比較もあるだろうし、そうやって日本の現状の良し悪しを言うために、世界の出来事を利用することができるわけだが、そういう比較ではなく、ただ単に世界で起こっている出来事を肯定したり否定したりすることもできるかもしれないし、日本と比較することなく、そういうことを述べるとなると、少なくとも日本という国や地域のことは、特に言及の対象とはならないわけだが、それが何を意味するのかというと、国や地域を越えて世界がそれなりにつながっていることを意味するだろうし、実際に世界各地で起こっている出来事が、情報として日本にも伝わってきているわけだから、日本で起こっている出来事について肯定したり否定したりすることができるのと同じように、他の国や地域で起こっている出来事についても肯定したり否定したりすることができるだろうし、実際にそういうことを述べている人もいるだろうし、また日本と比較してどうこう述べている人もいるわけだが、少なくとも日本の現状が何か特別な状態だとは思わない方がいいのかもしれず、日本で起こっていることが世界のどこでも起こり得ることだとは思えなくても、最低限の認識として日本でも世界の他の国や地域でも、人が普通に暮らしている現実があるだろうし、実際に世界のほとんどの国や地域でも普通に人が暮らしているから、そこで曲がりなりにも社会が成り立っているわけだが、普通に暮らしている人たちの認識として、自分たちが暮らしている国や地域が現状よりもさらに良い状態になってほしいと思うなら、そうなるためには何をどうしたらいいかという問いが生じてくるわけだろうが、そうなると自助努力でできそうなことの他に、政治や行政などの面でできそうなことが検討課題として出てくるわけで、まずはそういう面でできそうなことを政治的な要求として提示できればいいわけだが、そうなると他との比較として、世界の他の国や地域で行われていて、それが羨ましいと思えば、日本でも行われた方がいいのではないかという提案にもなってくるだろうし、また世界の他の国や地域で行われていることがひどいことだと思うなら、それが日本でも行われたら困るし、そういうことが今後日本でも行われるような兆候が感じられるなら、そういう兆候をもたらしている勢力を批判するような成り行きにもなるだろうし、さらに日本で行われていることが、世界の他の国や地域と比べても賞賛できることであるなら、それを世界の他の国や地域にも積極的に広めたいと思うだろうが、そうなると日本だけが他と比べて特別に悪かったり、また逆に日本だけが特別に良かったりするのはまずいことになるだろうし、日本だけが特別に悪いところがあるならば、世界の他の国や地域を見習って、悪いところを改めようとしなければならないだろうし、また日本だけが特別に良いところがあるならば、それを世界に向かって積極的に広めようとしなければならないとなるのかもしれないが、そういう考えを突き詰めると、日本だけが世界の中で特別な存在であってはならないようなことになってくるわけだが、それに関してたぶん功利的な見地から願望が生じるとなると、逆に世界の中で日本だけが特別な存在であってほしいと思われるわけで、そうやって日本の独自性を強調してくると、日本が他の国や地域と同じようになっては困るだろうし、日本には日本独自の流儀があり、それを批判されるいわれはないと思ってしまうだろうが、果たしてそれを守れるかとなると、特に鎖国をしているわけでもないし、海外と普通に人も物も情報も交流している現状があるのだから、少なくともすべての面にわたって日本の独自性を守り通すわけにはいかないわけで、しかも日本にとってだけ都合のいいところだけ、海外の文化や制度を取り入れるとなると、他の国や地域の人たちから見たら、普通にずるいと思われるだろうし、実際にそんなふうにして都合のいいところだけ取り入れようとしても、自然の成り行きとして他の文化や制度も取り入れてしまうだろうし、海外の方でも日本の良いところがあれば、積極的に取り入れてしまうから、結局は日本だけが特別な存在ではなくなってしまうわけだが、願望として日本だけが特別な存在でありたいと思うような人たちが存在すること自体も特別なことではなく、世界の他の国や地域にも、その国や地域だけが特別な存在でありたいと思う人たちも少なからずいるだろうし、そんなふうに思うこと自体が、何ら特別なことではないわけだから、すでにそう思ってしまうこと自体が、そんな願望自体を裏切ってしまっていることに気づいた方がいいわけで、しかも世界の全ての人たちがそう思っているわけでもないだろうし、そういうことを考慮するなら、自分たちの国や地域の特殊性を誇ってみせることが、賞賛され肯定されることなのか、批判され否定されることなのか、それともそんなのはどうでもいいことなのかについては、そのおかげで生活に支障をきたすようなことがあれば、そういう面については批判されるだろうし、また観光などの資源として利用したい人たちにとっては、そういった独自の文化や生活習慣が利益を生む可能性もあるかもしれないが、そういう功利的な利用とは関係のない人であれば、やはりそんなのはどうでもいいことでしかないのかもしれないが、虚栄心としての国民感情に囚われている人にとっては、何か日本が世界の中で特別な存在であってほしいという願望が強いのではないか。


6月9日「価値観の相違」

 人には様々な意見があって当然だが、それとともに様々な活動もあるだろうし、活動の種類が様々にあるから、それぞれの活動に応じて様々な意見も生じてくるのだろうが、また個々の活動には関係のない意見も生じてくるかもしれないが、個々の活動から生じてくる利害とは異なる意見を述べられるかとなると、そういう意見を述べる事情がどこから生じてくるのか疑問に思われるかもしれないが、それが他の人や団体や社会の諸事情も考慮した意見になってくるのかもしれないし、それが公共の利害を考慮した意見になるのだろうが、そうした諸事情を考慮した意見と自らの利害が合わない場合は、どちらを優先させなければならないかといえば、たぶん大抵の場合は自らの利害が許す範囲内でしか他の諸事情を優先するわけにはいかないだろうし、そうなると自らの利害が他の人や団体や社会の利害となるべく一致するような範囲内でしか、意見を述べられなくなってくるのかもしれないが、それでは都合のいいことしか述べられなくなってしまうだろうし、都合の悪いところはあえて何も言わないような態度でいると、そういう態度は欺瞞と見なされてしまうかもしれないが、そうであってもその辺を隠してうまく立ち回ることができれば、都合のいいことだけを述べていられるような態度を保っていられるだろうし、それが周囲の環境の中でうまく作用すれば、他人からも好感を持たれるようないい人でいられるのかもしれないが、それも一つの社会的な立場ではあるわけで、そういう立場でいられるような人と、どうやっても人から嫌われるようなことを言わざるを得ない立場というのも中にはあるのかもしれず、またさらに特に他から意見を求められるような立場ではない人もいるわけで、それらの事情を考慮するなら、その人の意見の内容だけで判断できる範囲も限られてくるだろうし、意見だけでなくその人の活動の中身も考慮しないと、良し悪しを判断するわけにはいかなくなってくるわけだが、もちろんその人の良し悪しなど判断する必要のない状況もあるかもしれないし、何が良くて何が悪いかを判断できない場合は、意見にしてもそういう意見があって、また活動にしてもそういう活動があるとしか意識しないだろうし、意見も活動もそれを良いとも悪いとも感じなければ、それが特に問題になるわけではなく、そのままでも構わなくなってしまうわけで、そうやって何もかもがそのままでも構わなくなってしまえば、特に意見も主張も述べるような成り行きではなくなってしまうわけだが、果たしてそんな状況があり得るかといえば、あるとしても全ての人がそんな状況の中で生活しているわけでもないだろうし、そういう成り行きの中でも、人それぞれの程度に差があるだろうし、差がある状態をどこまで認められるかとなると、やはりそこでも人それぞれで許容限度にも差が出てくるわけだろうが、そうやって人それぞれに生じる程度の差をどう捉えることができるかとなると、その場の状況の中で判断するしかないわけだが、何を判断するのかとなると、個々の事態の中でどう対応すればいいかを判断するわけだろうし、そうなると結局は自らの都合を優先させることになるわけだが、その都合というのが他の人や団体や社会の諸事情も考慮した都合であれば、公共の利害にも合致した都合になるわけだろうが、全てにおいて合致できるとは限らないから、時には公共の利害に反するようなことをやってしまうわけだが、そこで他の人や団体や社会の賛同や支持を得られるようなことをやらなければならない事情が生じてくれば、そういう面で公共の利害を最大限尊重するようなことをやろうとするわけで、実際にそうなるなら、そういう事情となる目的や内容によっては公共の利害を尊重するようなことを行うことになるわけで、行なっていることの全てがそうではないにしても、目的や内容によっては公共の利害を尊重せざるを得ない行為も出てくるわけで、その尊重せざるを得ない公共の利害というのが具体的に何かとなると、人によってもその人の社会的な立場や境遇によっても認識に違いが出てくるかもしれないが、そういうところで多くの人が共通の認識を持つには、何が良くて何が悪いかの基準が社会の中で確立されている必要があるのかもしれないが、確立するには絶えず人と人が交流してお互いの立場や境遇を超えて、誰もが同意できる共通認識を構築していく必要があるのかもしれないし、実際にメディアがそういう判断基準や共通認識を養う役割を担っている面もあるのだろうが、メディアが信用できるかというと、時には宣伝や煽動や洗脳などを伴っているわけだから、全面的に信用するわけにもいかないだろうし、信用できない面ではメディアを批判しなければならないだろうが、何でもかんでも批判するわけにもいかないし、また全面的に信用するわけにもいかないし、そこで信用できる面とできない面とを自らで判断しなければならないわけで、そうなると判断をメディアに全面的に依存するわけにはいかないし、自分で判断基準や共通認識を確立しなければならなくなり、しかも社会情勢の変化に応じて絶えずそれらを更新し続ける必要も出てくるだろうし、そういう面では価値観を固定していては更新できなくなってしまうわけだが、常に価値観が変動していては、価値観ではなくなってしまうし、そこで考慮しておかなければならないことは、社会情勢といっても全てが変動しているわけではなく、変わる面と変わらない面があり、変わらない面については価値観が固定していて、変わる面については価値観が変動する可能性があるわけだが、それに関しては新たに知ったことについて、その知ったことを考慮して価値観を変えるかどうかを判断するわけで、新たに知り得たことが自らがそれまでに保持していた価値観を揺るがすようなことであれば、そこで価値観を変えなければならないと思うだろうし、それが心に響かないようであれば従来の価値観を保持しようとするだろうが、心が特定の価値観によって支配されているようだと、頑なにその価値観を保持しようとするだろうし、また他の人や団体や社会から価値観の変更を促されても、それに従うどころか反発するようだと、そういう人には何か特有の事情があるのかもしれないし、そういう価値観には疑念を抱かせるような面があるのかもしれない。


6月8日「うまくいかない事情」

 何か政治的な主張をする際には、それなりにもっともらしいことを主張するような成り行きになるだろうが、そのもっともらしいという表現については、主張の基になっている理屈や論理の面で筋が通っているように感じられると、それが何かもっともらしいことを語っているように思われるわけだが、語ることに終始しているだけではそれで済んでしまうかもしれないが、例えば政権与党などになって、実際に行政と連携して何かを行う成り行きになってくると、そのもっともらしい主張とはだいぶずれたことをやっている実態となってきてしまうだろうし、それを外部から批判しようとすれば、いくらでも批判できるようなことが実際に行われているわけだが、それをどう捉えたらいいかとなると、普通に考えるなら主張通りのことができていない実態があるわけで、そうなっていることについて支持できるかとなると、支持することはできないだろうが、そうなってしまうことについてはある程度は理解はできるのかもしれないし、そうなると行なっていることに関してはあまり支持できないが、それでも政治勢力としては多くの人たちからそれなりに支持されるような成り行きになってしまうわけで、そういう実態に関して、そういった勢力を批判する側からすれば、何か筋が通らないような態度だと感じられるだろうし、そういうことも含めて、もっともらしい成り行きからはかけ離れた実態になっているわけだが、それを批判しようと思えばいくらでも批判できるということが、そういった批判自体も特にその場の状況の中で有効に機能しているわけではなく、そういう面でそれなりに信用できる理屈や論理に基づいた筋の通った主張や批判も、現実の世の中ではうまく効果を上げないような実態があるのかもしれず、逆にそれがうまく機能してしまうようだと、批判の対象となるような行われていることが、うまくいかなくなってしまうのかもしれず、それに関しては現状でも批判されているわけだから、必ずしもうまくいっているわけではないにしても、批判が支持を集めて、現状で成り立っている行為や活動をやめさせるような事態になってしまうと、それに関わって活動している多くの人や団体が困ってしまうわけで、だから現状で行われている行為や活動を継続していくには、それに対する批判が機能して、他の多くの人や団体の支持を集めてしまってはまずいわけで、そういう事態になるのを防ぐために、批判が機能しないような状況になっているのかもしれないが、それに関しては特定の何らかの措置によって、批判の無効化が図られているわけでもないだろうし、それに関係する様々な要因がその場に作用や影響を及ぼしている中で、それ対する批判だけが妨げられているわけでもなく、他の要因との作用や影響の相互作用によって、相対的に批判の働きが弱められている可能性があるのかもしれず、そんな状況下では、逆に批判の効果を高めるための有効な方法が確立されているわけでもないだろうし、だから批判する側も手探りの状態で批判していくしかないわけで、またそんな批判を封じ込めようとする側も、特に有効な対処法を編み出しているわけでもないのかもしれず、結果的に批判がそれほど有効には機能していない状況となっていることに関しては、それが批判する側の対応がまずいからそうなっているわけでもなく、また批判の対象となっている勢力の対策がうまくいっているわけでもなく、実際にも一方的にどちらがどちらを圧倒しているわけでもないだろうし、むしろどちらも決め手を欠いているから、とりあえずはそれなりに共存共栄の関係を維持しているような状況となっているのかもしれないが、どちらにしても主導権を握っている分野はあるだろうし、中でも実際に政権与党となって行政とともに政治的な主導権を握っている現状があるわけだから、そうでないと批判の対象ともならないだろうし、そういう面で批判される側が政治的な主導権を握っているのは当然のことであり、それ自体は何の不思議でもないわけだが、それを批判している側からすれば、そういう事態を覆したくて批判しているわけだから、なかなか政治的な主導権を握れていない状況に危機感を募らせるのも当然だろうが、ではそんな事態を覆すには何をどうすればいいかとか、もはやそういうことではないのかもしれず、そういうこととは別に、批判は批判としてもっともらしい内容で批判していくしかないし、主張も同様に理屈や論理の面で筋の通ったもっともらしい主張をしていくしかなく、そういうことをやった上で、機会が巡ってくるのを待つしかないわけで、たぶんそれ以上のことはできないだろうし、だから無理にそんな事態を覆そうとする必要もなく、ただ誠実な対応を心がけるぐらいしかやりようがないわけで、それ以外では批判や主張の中身が説得力を伴うように工夫を凝らして磨きをかけるしかないだろうが、そういうことをやったとしても、実際に政治的な主導権を握る機会が巡ってきて、主張を実行に移す段になれば、現状で批判しているような事態になることは覚悟しておいた方がいいだろうし、主張通りのことができるとは限らないことは、現に主導権を握っている側を自分たちが批判していることからも、容易に察しがつくだろうし、またそれに関しては、批判勢力を支持している側の人たちも、期待外れに終わる可能性が十分にあることは承知しておいた方がいいだろうし、そうなった時に安易に期待が裏切られたことを感情的に非難しないで、何とか支持し続けて支えて行かなければならない成り行きにもなるだろうし、そうなると現状で批判の対象となっている勢力を支持している人たちと同じような立場にもなってしまう可能性もあるわけで、場合によっては自分たちの信念を曲げてまで、それらの勢力を支えるような成り行きにもなってしまったら、そうなった時には、理屈の面でも論理的にも筋の通った主張が実行に移されても、それが必ずしもうまくいくわけではないことを実感できるだろうし、そこに何らかのうまくいかなくなるような事情が生じてくることを知るに至るのではないか。


6月7日「協力すること」

 人も集団も社会もそれら自身とともに、それらを取り巻く周りの環境から様々な作用や影響を及ぼされながら存在しているわけだが、周りの環境が人や集団や社会に及ぼす作用や影響は、良いと判断できるものも悪いと判断できるものも、また良くも悪くもどちらにも判断できるものやどちらにも判断できないものもあるだろうし、また人や集団や社会が周りの環境に及ぼす作用や影響も、同じように良いものも悪いものもどちらでもあるようなものも、またどちらでもないようなものもあるだろうが、基本的にそうした判断をするのは人であり、人の判断には正しいものも間違っているものも、どちらでもあるものもどちらでもないものもありそうで、また判断そのものがどうでもいいようなものもありそうだし、さらに物事を良いだの悪いだのと判断するだけではどうにもならないような事態もあるのだろうが、良いと判断したものを高評価して悪いと判断したものを低評価すれば、それがその人の主張となるだろうし、そうした主張が他の大勢の人からも支持されれば、支持される程度によっては既存の集団や社会にそれなりの作用や影響を及ぼすことにもなるだろうが、その作用や影響にも良し悪しの判断がつきまとうだろうし、人がそういったことをどう判断するかで、人も集団も社会も何かしら作用や影響を及ぼされて変化する可能性があるわけだが、だからといって作用や影響によって他の人や集団や社会がその人の思い通りに変化するわけでもないことは、その人自身が百も承知しているところだろうが、それでもその場の状況に作用や影響を及ぼして、その人の思いを他の人や集団や社会が無視できないような状況に変えたいとは、誰もが思うところでもあるだろうし、その人の目的がその場の環境を変えることであれば、それに伴ってその環境の中で存在している人も集団も社会も変えることにはなるだろうが、その人の目的がその人自身を変えることであっても、それによってもその人自身を含んだ周囲の環境を変えることにもつながるだろうし、それに伴ってその環境の中で存在している人も集団も社会も変えることにもつながるかもしれないが、それがその人の思い通りの変化になるかは、その人の思い込みにもよる面が大きいのかもしれず、それよりも特に思い通りになるか否かにはこだわらなければ、変わろうが変わるまいが、まずはその人自身について、それまでの自分のままでも構わないのかどうかを判断しなければならないだろうし、それは自分が変わらなければ周囲も変わらないという理屈を信じられるかにもよるだろうが、自分がそれまでのままで、周囲だけ自分の思い通りに変わってほしいと思うなら、自分だけが何か特別な存在でない限りは、そうはいかないだろうし、果たして自分が他人と比較して何か特別な面があるかとなると、少なくとも自分という存在が周囲の環境の一部を構成していて、何らかの集団にも所属していて、自分を取り巻いている社会の構成員でもある限りは、そういう面では他人もそうなのだから、何ら特別な存在ではないだろうし、そうであるなら少なくとも自分が変わらなければ周囲も変わらないだろうし、所属している集団もその構成員である社会も変わらないと見ておいた方が妥当なところではあるわけだが、その一方で自分が周囲を変えるような特別な存在へと変わることができるかとなると、それは自分の周囲の環境の中での立場や境遇に応じて、変えられる程度も内容も変わってくるだろうし、集団や社会の中での力関係などにも関係してくるところでもあるわけだが、そういうことは自分だけでなく他人も考えていることでもあり、他人もその人自身を変えることによって、周囲の状況を変えようとしていれば、そういった人たちの活動に伴って生じる相互作用によって、その場の状況や環境が変わっていく可能性があるわけで、そういうことまで考慮すれば、その場に居合わせた誰もが自分自身を変えようとしているだけで、その変えようとする傾向や内容が他人と一致しない限りで、そういった活動からその場の状況や環境が変わるにしても、誰の思い通りにも変わらない可能性が出てくるわけだろうが、それとは違ってその場に居合わせた誰もが協力して、同じ方向へと力を合わせて変えようとすれば、それらの人たちの思い通りの方向へと状況や環境が変わる可能性が高くなるかもしれないわけだが、そこでも変わる程度については、それなりに見込みとは違ってくるのかもしれないし、そういう面ではどうやっても不確定要素が残ってしまい、それがそういったやり方に対する疑いを生じさせる要因でもあるわけだが、それでも利害が一致すれば協力が実現して、その限りで協力して、協力した人たちの思惑通りの変化を起こそうとするだろうし、そういった活動が実を結ぶにしても結ばないにしても、まずは協力が実現すること自体が、ある意味では変化を体現していることになるだろうし、今までは協力できなかったのができるようになったことで、協力に加わった人たちが変化したことにもなるわけで、それも各人が目指した変化と言えるのかもしれず、たとえそこから思わしい結果が得られなくても、それなりに何らかの変化が実現したことにはなるわけで、そして協力したのに思わしい結果が得られないということについては、力が足りなかったと判断しても、あるいは当初は想定していなかった他の要因があったとしても、それに関しては少なくとも協力すること自体に非があったとは思えないだろうし、結果がどうなるにしても協力して何かをやること自体が悪いことだとは、協力した当事者たちには言えないわけで、そうであれば協力する機会があれば協力しておいて損はないわけで、たとえ協力のための交渉が決裂して、協力がご破算になったところで、またその機会がやってくれば、協力関係を模索すればいいだろうし、要するにその場の状況や環境を変えるには、それが成功するにしても失敗するにしても、変えようとする人や団体の間で、何らかの協力関係を模索するような成り行きになるわけで、そうやって協力することが協力した人や団体を変えることにも結びつき、人や団体が協力することによって変われば、それが思い通りの変化ではなくても、すでに協力が成り立った時点で何らかの変化が実現したことになるのではないか。


6月6日「救世宗教」

 いつの時代でも社会の中で人と人の間に生じている不平等な状態をなくすことが、救世的な思想として不利な立場や境遇を強いられている人たちの間で広まる傾向があるわけだが、実際に人為的にそれができるかとなると、現状で成り立っている社会の構造や仕組みを変えなければ無理であることは、そういった活動に携わっている人たちならわかっているはずだが、そこからどのようなことをやれば社会の構造や仕組みを変えられるかを巡って、そういうことをやっているつもりの人たちの間でも、果たしてやっていることが効果を上げているのか、わからないところがあるのかもしれないが、少なくともそんなことをやっていたり、やろうとしている人がいる限りは、そういう活動自体に何らかの効果があるのかもしれないし、一方では不平等な格差を広げるような功利的な活動や成り行きがあるとしても、それに逆らったり抵抗する活動や成り行きも生じていれば、社会全体としてはそれなりに均衡が保たれているはずだろうが、具体的にどんな活動が行われていて、どういう成り行きになっているのかというと、普通に生活している範囲内ではよくわらないだろうし、中には慈善事業のようにわかりやすい反面、焼け石に水的なあまり効果が上がっていないようにも思われる活動もあるわけだが、かつての社会主義革命のように、急激に社会の構造や仕組みを変えるような試みはことごとく失敗に終わっているし、現状の世界ではほとんど行われてはいないだろうが、そういう目に見えるようなはっきりとした活動でも成り行きでもなく、それとは気づかれないところで、それと自覚せずに行われていることがあるのかもしれず、それが様々な物事を節約しながら生活することであったり、あまり外へは出歩かず、場合によっては引きこもったまま生活することであったりするわけで、それを節約生活といえば肯定できるかもしれないが、引きこもりというと否定的に見られてしまうだろうし、個々のケースで捉え方が異なるかもしれないが、それらは総じて活動を抑える傾向になるわけで、その極端な例として、確かに働かずに引きこもっていれば、無駄に生きているみたいで、世間的に白眼視されることにもなるわけだが、では働けばいいのかとなると、それは働いている内容にもよるだろうし、また資金に余裕があれば、働かずに遊んで暮らしていても構わないわけで、そこでも個々のケースで良し悪しを判断したり評価する成り行きもあるかもしれないが、その人の立場や境遇が社会的に不利な状態でなければ、別に助ける対象とはならないだろうし、そうなると有利な状態と不利な状態に関して、どう定義すればいいのかといえば、とりあえず困っている人を助けようとするのだろうし、何かそういうところで、社会の中で困っている人を探し出して助けるようなことをやれば、そういう活動が成り立つことになるのかもしれないが、それだけでは社会的な不平等をなくすことにはつながらないだろうし、普通は政治的な活動によって、そういう人たちを助けるような制度を作ろうとしたり、また不平等を助長するような制度があればそれを改めようとするわけだが、それも部分的な試みである限りで、慈善事業のように焼け石に水的な効果しか期待できないとは思わないだろうが、もちろん慈善事業に携わっている当事者も、そんなことは思っていないはずだが、公的な制度として行うことや民間の事業として行うことの他に、何ができるかとなると、中には宗教的な活動もあって、それも民間で行われる事業の一種かもしれないが、それは物質的な面ではなく、心理的な面で気休め的な効果を求めようとする傾向があるのかもしれず、現世での状態がどのような状況にあっても、それとは次元の異なる価値観に照らし合わせれば、そんなことは問題とはならない心理状態へと至れれば、社会的な不平等感などどうでもいいことになってしまうわけで、そうなれば不幸を不幸とは感じない心境になれるだろうし、他から見てどんなに不幸な境遇に見えても、当人が救われた気持ちになっていれば、それで構わないような成り行きになってしまうのかもしれず、もちろんそんな単純な理屈では納得できなければ、何か課題を与えられて、それをクリアすれば救われたり、修行を行なって悟りの境地に至れば救われたり、そういった類いの試練を乗り越えて救われる成り行きになれば、何やら納得する人も多いのかもしれないし、それも宗教的な制度として、そういうやり方が確立されるような成り行きがあるわけだが、しかしそうなると試練を乗り越えられなければ救われなくなって、そこで格差が生じて不平等になってしまうわけで、そうであれば金儲けに成功すれば救われるような資本主義の論理と同じような内容になってしまうし、それではそうした宗教の矛盾が明らかとなってしまうのかもしれないが、逆に何もやらずに引きこもっているだけで救われてしまうと、一生懸命働いている人にとっては不公平ではないかともなるだろうし、結局は働かざる者は食うべからずという単純な論理にすがりついて、働かずに引きこもっている人を悪く見るのが当然な感覚にもなるわけだが、それがキリスト教などの救世的な宗教においては、他人と比べてどうこうというよりは、他人がどのような状態や状況であろうと、それを悪く見るのは良くないことだと教えられるだろうし、それよりはまずは自分に専念して、自分が救われるのにふさわしい存在になりなさい、とかいう教えによって、他人や身内を悪く見て攻撃したりする衝動を抑え込むことが、その人にとっての課題であり、そういう心理状態になることが修行の中身になる場合もありそうで、そういう教えが世に広まれば、争いのない平和な世の中にもなるという理屈もあるのかもしれないが、もちろんそれだけが宗教の全てではなく、社会との関わりの中で、そんなことばかり言っていられないような面も出てくるわけで、またそんなふうに教えなければならないこと自体が、そうではない状況の中でそういうことを教える成り行きをもたらしているわけで、少なくともそういうことが行われている間は、そうではない状況になっているわけだ。


6月5日「効果と逆効果」

 世の中で行われている様々な行為や動作がそれなりに関係して、お互いに作用し合って影響を及ぼし合いながら、何らかの効果を上げることがあるわけだが、その効果というのが良い効果であるか悪い効果であるかは、そこでの判断や評価と別の時や場所での判断や評価が異なることはよくあるのかもしれず、そうであるなら、そこでの判断や評価に一喜一憂しても、それが杞憂に過ぎないこともよくあるのかもしれないし、それに関して効果を否定的に捉えて危機感や不安や恐怖を煽り立てるようなこともよく行われるだろうし、果たしてそれが的を射ているような煽り立てなのか、あるいは不確かな憶測を誇張して煽るデマに過ぎないのかも、実際に煽っている当事者にも判断がつきかねる場合もあるのかもしれず、そういう煽り立ても世の中に何らかの効果を及ぼすわけだから、思惑通りの効果を狙って煽り立てをやっている場合もあるのだろうが、平時で通常の心理状態では、そういう煽り立てをいちいち真に受けるような人もあまりいないとは思うが、それも時と場合によっては深刻に受け止めるような成り行きになってしまう場合もあるだろうし、そういう煽り立てが一時的に功を奏して、煽り立てている側の思惑通りの効果を上げたとしても、効果は効果であり、煽り立ての効果というのは、それが実質的に何らかの心理作用を伴っているとしても、煽り立てからもたらされる作用に過ぎないだろうし、そういう効果や作用だけで世の中が回っているとは限らない面もあって、実際にそういう面では煽り立てだけではうまくいかないだろうし、煽り立てとは違った行為や動作から得られる実質的な効果や作用が求められる場合があるわけで、結局そういう面では煽り立てだけでは通用しないことにもなるわけだが、他にも様々な行為や動作が必要となってくれば、そういう行為や動作によって実質的な効果や作用をもたらすべく、それ以外の対応が求められるのだろうが、それが政治的な面となると、煽り立てていることと実際に行っていることとがしばしば釣り合いが取れなくなるわけで、実際には何をやっているわけでもなくても、民衆の気を惹こうとして、他との兼ね合いを考慮せずに、特定のことだけを煽り立てるようなことをやってしまうわけで、それも政敵の失策につけ込もうとする思惑などがあって、自らの主張や行為と比較対象となるところだけを強調してしまい、そうなるとしばしばこれまでにやってきたこととの間で、一貫性を欠くようなことにもなり、またそこを政敵に見透かされて逆に批判のネタに使われたりして、そうやって自業自得気味に墓穴を掘ってしまうようなことになれば、民衆の信用を失って、政党などの勢力が後退してしまう要因ともなってくるだろうし、確かにそういうところでは戦略的にも戦術的にも臨機応変な対応を迫られるのかもしれないが、あまりにも節操を欠いてコロコロと主張や態度を変えてしまうと、やはりそれが災いして民衆から信用されなくなってしまうだろうし、そういう意味では主張と行為との間で一貫性を維持して、誠実に思われるような対応ができればいいのかもしれないが、それにはその場その時だけ都合のいいようなことを煽り立てるようなことはやめた方がいいのかもしれないし、できるだけそれに関する言動や主張の首尾一貫性を保っておいた方がいいのかもしれず、それを保てなくなったら、正直に理由を語るしかないだろうし、そうなるとそれまでとは違う言動になってしまったことを謝罪しろ、だとかの文句を言ってくる人も少なからず出てくるだろうし、そういう時にも必要以上にへりくだる必要もないわけで、状況や立場や境遇が変われば意見や主張も変わらざるを得ないことは、ある程度は仕方のないことであり、それがわからない人にまで支持される必要はなく、そうでなくても全ての人から支持されるようなことを主張できるはずもないだろうし、そういう面では自ずから政治的な主張には限界があって当然なのかもしれないが、政治的な主張と政治的な行為が連動しているとしても、主張していたことがそのまま行為として実行されるかとなると、その途中で紆余曲折が伴えば、妥協や調整を経て、主張通りのことができなくなる場合もあるだろうし、そうなった場合にそれをどう受け止めるかは、民衆の判断に任されているわけだろうが、別に主張通りのことが行われなくても、途中の経緯に納得できれば、特定の政治勢力への支持をやめない場合もあるわけで、そういうところでも、批判したい人たちは主張と実際に行われていることが違う点を強調して、そこを突いて煽り立てたいわけだが、そういう煽り立てがことごとく空振りに終わっているとすれば、民衆の方でも主張通りのことが行われていないことについては、ある程度は理解して納得していると考えるしかなく、そういう面で批判勢力の方でも誤算があるわけだが、そういう事実を受け入れがたい人は、執拗にその点を強調しまくって、それを批判のネタに使いまくるわけだが、たぶんそういうところで情勢を見誤っているのだろうし、そんな人たちもそれと自覚せずに、その人の都合に合わせて、その人の主張にとって都合のいい部分だけを選んで、そこだけ強調しまくるわけで、そういう主張が民衆から支持を得られていなければ、民衆の方でも、そんなことは百も承知でそれらの批判対象を支持している一方で、批判者を支持していないわけで、要するにそういう煽り立ての繰り返しがうざいと思われて、逆効果になってしまっている可能性まであるのかもしれず、そうやって自身が反感を買っていることがわからない人が批判一辺倒になっていると、そこで負のスパイラルとしての悪循環が生じていることにもなるだろうし、そういう行為をやればやるほど、批判する側もされる側も双方ともに頑なになっていくわけで、しかも自らの誤りや負けを認めるわけにもいかず、途中で降りるわけにはいかないから、そういう方面で凝り固まってしまうと後戻りが利かなくなってしまい、そんなことばかり繰り返し主張するしか、他にやることがなくなってきて、いつしかそういう行為を支持する少数の固定客とともに、世の中の主流から外れたところで、独善的な主張を繰り返す動作に囚われて、それっきりになってしまうわけだろうが、たぶんそれで構わないような分野も中にはあるのだろうし、それがいわゆる伝統芸と呼ばれる分野なのかもしれないが、少なくともそういう人たちも含めて社会が構成されているのだから、そのおかげで全ての人を納得させるような意見や主張があり得ないことが明らかとなってしまうのかもしれない。


6月4日「資本主義と国家主義」

 宗教の神秘と呪術を取り除いていくと何が残るかというと、突き詰めて考えれば教祖などの哲学的な教えにたどり着くかもしれないが、その一方で儀礼的な形骸化を推し進めて行けば、礼儀作法などの型にはまった動作の集合体となるのかもしれず、それとともに疑念を抱かずに考えることを押さえ込んで行けば、信者がただ何も考えずに決められた動作を繰り返すだけのロボットとなってしまうわけだが、動作以外でも決められたことを繰り返し言うだけの紋切り型的な言動の人となってしまうわけで、そうなってしまった人がそれを自覚しているかというと、指導者の立場になればある程度は自覚しているのかもしれないが、信徒のレベルでは自覚せずに正しいことを述べていると思っているだろうし、実際に形骸化した宗教の戒律などに照らし合わせれば、正しいことを述べていることになるわけだが、別にそれは間違ったことでも批判されるようなことでもなく、信者が多数を占める教団の中では取り立てて問題となることもないのだろうが、誰もがそういう宗教的な戒律が全てを支配するような教団の中で暮らしているとも限らず、現代的な感覚では生活の中で宗教が占める割合は部分的な水準にまで下がってきているはずだが、一般的にはそうであっても、人によっても地域によっても程度に違いはあるだろうし、また宗教によっても人を支配する程度にも差がありそうで、その内容にも様々な傾向がありそうだが、そういうこととは別に、世の中のほとんどの人がそれを宗教だとは自覚していない信仰の形態もあるわけで、現代においてそれを代表する信仰が資本主義と国家主義であるわけで、例えば資本主義において、誰もそれを型にはまった決められた宗教的な動作だとは思わないだろうが、売買という商品と金銭を交換する動作があるわけで、その際には交換できると信じていないと交換しないことは確かであり、通常の状況であればほとんど全ての人が商品と金銭を交換できることを信じているはずだが、戦争や経済危機などによって政府が財政破綻してハイパーインフレなどになれば、誰もが自国の通貨と商品を交換できることを信用しなくなる場合もあるだろうし、そんな非常事態の時でもなくても、政府がやっていることを信用できなくなる時には、やはり国家主義を疑っているわけだが、通常の場合ではなぜ国家の存在を信じているのかといえば、統治機関として政府があるからだろうし、政府がなければ国家もないわけだが、その支配地域が各国に分割されているとしても、南極大陸を除く世界のほとんどすべての地域に及んでいるし、そういう事実からもそれを信じないわけにはいかないわけだが、逆に資本主義と国家主義によって全世界が覆われているから、相対的に他の宗教の力が制限されているわけで、大抵の場合、他の宗教では人の全ての生活を支配することはできないわけだが、他の宗教と比較して資本主義と国家主義の強みは何かといえば、生活を全面的に支配する必要がないことであり、ただ商品と金銭が交換できることを信じていれば資本主義の信者になれるし、国民としての自覚があれば国家主義の信者になってしまうわけで、そういう有無を言わさぬ直接の結びつきが、他の宗教では実現できないような単純な関係であるわけで、それを普通は宗教とはみなさないことも、人を自覚なしの信者に仕立て上げる上で有利に作用しているのかもしれず、そういう面で他のどの宗教よりも合理性の水準が高いのかもしれないし、何よりも資本と国家とがお互いに浸透し合っていて、補い合う相補的な関係となっているから、それなしではいられない状況を作り上げていると言えるのかもしれず、そういう意味で人の生活を全面的に支配しているわけでもないにも関わらず、それなしには生活が成り立たないように思わせているわけで、実際にもそうではないだろうし、資本とも国家とも無縁な狩猟採集生活や自給自足の生活をしている人たちも、世界各地にいることは確かだが、そういう生活をしている人たちが多数派を占めることはないだろうし、それ以外の資本と国家に依存する人たちをそれらへの信仰によって大量に作り出してきたのが、ここ二百年余りの産業革命以降の世界的な傾向ではあるわけだが、それが今後とも続くとは限らないだろうし、もちろん現時点では誰も資本と国家が衰退するとは想像もつかないところではあるわけだが、現状で世の中のほとんどの人たちが、それらへの信仰を前提として生活していることは確かだとしても、あからさまにそれなしで物事について考えようとするのでも、そういった信仰をなしで済ませようとするでもないとしても、絶えず意識や思考をそれらの信仰にとらわれないようにしておくことも大事なのかもしれず、現状で進行中の成り行きが宗教の神秘や呪術からの解放を目指す傾向があるのだとすれば、資本主義と国家主義の神秘的な面や呪術的な面からも解放される必要があるだろうし、それ以前にそれらの何が神秘や呪術などの面を担っているのかを理解する必要があるのかもしれないが、そもそもほとんど全ての人たちがそれらを宗教だとは思っていないわけだから、それらの神秘的な面や呪術的な面がわからないのも無理はないだろうし、そうであるならそれらの何が神秘的で呪術的な面であるかを知る必要があるかとなると、たぶん意識して知る必要もないのかもしれず、それよりもそんなことは自覚しない方が何かと都合がいいのかもしれないし、そうした都合に配慮するなら、無理にそれらを宗教だとは思わない方がいいのかもしれないが、それに関して普通に感じることは、理屈や論理以前の動作として必要に迫られて商品と貨幣を交換しているにも関わらず、そこからそうした行為を正当化する理屈や論理を求めようとしてしまうことが、あたかも無から有が生じるかのように神秘的なのであり、また何の後ろ盾も裏付けもないのに、憲法や法律が存在している事実によって、その存在を尊重して守らなければならないと思ってしまうことが、呪術的な傾向があるのかもしれないわけだが、そこからも多くの国民がそれらの法律の類いを守っているからこそ国家が成り立っている、という後付け的な理屈や論理が導き出されてしまうわけだから、そういうところに疑問を抱いてしまうと、たちまちそれらが信仰の類いでしかないことを理解できるかもしれないが、もちろんそんなのは宗教の範疇には入らないし、その程度のことは意識するまでもないことなのかもしれない。


6月3日「変えようとすること」

 現状の世の中で大勢の人や団体が関わって大規模に行われていることを、そう簡単に変えられるとは思えないが、それは変えようとする内容や程度にもよるだろうし、変えられる見込みが全くないかというと、実際には変えようとしなくても何かしら部分的には変わることもあるわけだから、中には変えようとして変えられることもあるはずだと思いたいが、世の中で主導権を握っていない少数派が変えようと主張するだけでは、なかなか変わらないし、変えようとする対象となっていることを行なっている側からすれば、簡単に変えられてしまうと困るから、簡単には変えられないようにそれなりに方策を講じているはずだろうが、中でも公的な制度を変えようと主張すれば、場合によってはその制度を管理運営している側と争わなければならなくなるだろうし、もちろんそれに関しては制度を変えるための制度もあるわけだから、制度で決められている変えるための手続きに則ったやり方で変えようすればいいわけで、実際にもそうやって様々な制度の内容が、変えるための手続きに則って少しずつ変えられている状況にもなっているわけだから、そういう制度的な動作の範囲内では変えられている面もそれなりにあるわけだが、それについて批判や文句を言っている人たちの言い分通りには変わっていないどころか、彼らの言い分からしたらいつも改悪されていると主張するわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、単に批判や文句を言う人たちが世の中で主導権を握っていないから、そういった少数派の人たちの主張が反映されない状況となっていて、そういう制度的な面では確かにそういう傾向があるのかもしれないが、別の面ではそういった主張や批判などには含まれないところで、それなりに変化が起こっているのかもしれず、そういう制度以外の変化として、例えば仕事をしないで引きこもっているような、社会から必要とされない人が増えていると指摘されれば、それが社会問題だと思われるかもしれないが、必要とされない程度にも個々の事例で差があるだろうし、少なくともそんな人であっても、生きている間は何かしら消費しているわけだから、そういった消費者として社会から必要とされている面はあるわけで、そういう状態の人を世間的に格好がつくように、何らかの仕事に就かせるのも、それなりに大変だろうし、現状でそうなっている状態を無理に変えようとすることが、その人にも周囲の人たちにも多大な軋轢やストレスをもたらす可能性もあるわけだから、状況を無理に変える必要もないのかもしれないし、変えようとするその方向性が間違っている可能性もあるわけで、すでに引きこもっている状態なのだから、そこから世間的に通用するような模範的な社会人にするのは難しいだろうし、そういう方向へと導こうとするよりは、意味がわからないかもしれないが、逆に引きこもりを極めるような方向へと進んだ方が、かえって自然に感じられるのかもしれず、それに関して具体的に何をどうするかとなると、個々のケースで対応が異なってくるかもしれないが、それが社会問題化していると多くの人々の間で認識されているようだと、それなりに大勢の人たちが引きこもっているわけだろうし、それ自体がありふれた現象だとみなすしかないだろうし、要するにそれは、そういう状態が何でもないような状態から、引きこもりとして問題視されるような状態へと、世間の捉え方が変化してきたことになるのかもしれず、それが制度とは無関係な変化かというと、ある意味では制度的な変化と言える面もあり、職業的な労働の制度に加われない人たちが引きこもる可能性があって、しかも親が比較的裕福だと、仕事をせずに引きこもっていても、食わしてもらえる環境となっているから、引きこもりが可能となっているわけだが、それが別に由々しきことだとは考えない方がいいのかもしれず、食わしてくれる親が先に亡くなったら大変だなんてお節介なことを考える必要もないのかもしれず、そうなったらその時に考えることでしかなく、また家庭内暴力とかの問題があっても、それも隠すようなことでもないだろうし、それを放置するのではなく、そういうのが専門のカウンセラーに相談するとか、そういうことでもないのかもしれないし、まっとうなやり方として、何としても状況を世間的な許容限度内に収めようとすると、かえってこじれて深刻な事態を引き起こしてしまうのかもしれないが、要は引きこもったままでも生きていけるなら、そういう状態をそのまま受け止めた方がいいだろうし、そうなっている状態を卑下したり後ろめたく思ってしまうようだと、事態を悪化させる危険性があるのかもしれないが、世間体を気にすればそうなるしかないのだろうが、そうだとしてもそういう状態を前向きに考えていくしかないのかもしれず、どうしてもそれを安易に否定しがちになるのが当然の反応だとしても、結局はそういう当然の反応に逆らうことでしか、事態を前向きに考えることには結びつけられないのかもしれず、そういう意味で現状を否定するのは簡単なのだが、それを思いとどまることには、それなりに努力を必要とするのだろうし、それは制度的な変化にも言えることかもしれないし、現状の問題点などいくらでもあって、それを否定的に批判することもいくらでもできるわけだが、そうやって批判するのを思いとどまって、そんな問題だらけの現状を肯定的に評価することはできないとしても、現状で成り立っている行為や活動が、どのように行われているかついては、それを否定的に批判してみても、実際にそこで行われていることなのだから、それ自体は認めるしかないだろうし、認めた上で、それをどう変えた方がいいかについて、もっともらしくも納得できるような提案をしたいのかもしれないが、たぶんそこでも、現に行われていて、成り立っている行為や活動をやめさせるのではなく、それを活かしながら変えていくような提案ができればいいのかもしれないが、そういう微妙な判断や調整を伴うような提案がなかなかできないだろうし、提案したところで批判している人たちには受け入れがたいことになってしまうわけだろうが、しかし批判している人たちが賛同しやすいような、批判対象の行為や活動を本当にやめさせることができるかとなると、やめさせる前提条件となる世の中で主導権を握ることができていない状況がある限りは、やはり難しいだろうし、だからといって現状で行われていることを活かしながら現状を変えることも、同様に世の中で主導権を握ることが前提条件となるかもしれないが、それに関しては現状で主導権を握っている人や団体にそれをやらせるような成り行きにできればいいわけだが、そういうことだと、やはりそういう人や団体を批判している人たちにはおもしろくないわけで、そういうところでも微妙な判断や対応が必要となってくるのかもしれないが、安易に批判するだけの態度から抜け出すには、そういうことも選択肢の一つとして検討した方がいいのかもしれない。


6月2日「理屈や論理を超えた必要性」

 何かしら社会的な人間関係や組織的な集団が絡んで行われる行為は、ある程度は継続して同じような結果がもたらされることが期待されているだろうし、それを制度的でシステマチックな行為だとみなすなら、それなりに納得できる理屈や論理に基づいて考えて、筋が通っていそうなことでも、それが実際にその理屈や論理の通りに行われるかというと、周りからそこへと及ぼされる他の様々な作用や影響によって、そうはならないことの方が多いのかもしれないが、だからといって理屈や論理なしでは物事についてまともに考えられないし、関係してくる他の人や団体にも納得して協力してもらう上でも、信用できる理屈や論理が必要となってくるわけだが、それだけで協力してくれるわけでもなく、実際には他の理屈や論理に基づいた行為が干渉してくるから、大抵はそういったそこへと作用や影響を及ぼしてくる他の理屈や論理に基づいた思考や行為との間で、対立や争いを鎮めるための調整が行われるわけで、その結果としてそういった特定の人や団体の活動が、それらの人や団体の思い通りや思惑通りの結果には至らない場合があるわけだが、そういった調整のやり方にも、それなりに信用できる理屈や論理に基づいた筋の通ったやり方が求められるだろうし、結果的にはその通りにはならないにしても、そうした行為に至る動機としても、それを行う上で納得できる理屈や論理が必要となってくるわけだが、そうは言っても実際に行なっていることに関して、理屈通り論理通りになっていないことからくる不満が生じてくるだろうし、そういう面ではその人が信じている理屈や論理に合わないことが行われていることに関して批判するのはもっともなことであり、そうした批判に賛同する人も出てくるだろうし、そういう成り行きもそこで行われていることに対する周囲からの作用や影響の内に入ることだが、そうした批判に加わるなり、また批判に反論するなりして、そこで行われていることに介入してくる人や団体が、何を求めているのかといえば、やはりその人が信じて妥当だと思っている理屈や論理に則ったことが行われてほしいと思っているのかもしれないが、そう思っている人やそういう人たちが徒党を組んで結成している団体が他にもいれば、他の人たちが信じて妥当だと思っている理屈や論理も、その人とは違う理屈や論理である可能性があるわけで、そうやって様々な人や団体が少しずつ違う理屈や論理を信じていれば、それらの人や団体がまとまって共同作業を行うにはそれなりの困難を伴うわけだが、そこでも信用できる理屈や論理に基づいた調整がうまくいけば、それなりに信じて妥当だと思っている理屈や論理が少しずつ違う人や団体の間で共同作業のようなことができる可能性が出てくるだろうし、できる限りそういう成り行きに持っていければ、より多くの人や団体が共同作業に参加できるようになるのかもしれないが、実際にそういうことができるかとなると、そんな都合のいい理屈や論理がすぐに見つかるわけでも編み出されるわけでもなく、結果的にはうまくいかないことが多いだろうし、またうまくいかないなりにも行なっていることが継続されていけば、なし崩し的に惰性で続いていくような成り行きにもなるわけで、そういう成り行きの中で行われている行為となると、理屈の上でも論理的にも必ずしも筋が通っているわけでもないが、それでも他からの様々な作用や影響の間でうまい具合に均衡が取れていれば、そうした均衡が取れている間は、それなりに行なっていることが長続きすることもあるわけで、また長く続いているうちに、それが慣習となったりそれに基づいて制度が作られたりすれば、それだけ安定して継続していくことにもなるだろうし、いったんそうなってしまうと、理屈や論理よりは実際に続いている事実の方が信用されるわけで、そうなると理屈の上でも論理的にもうまく説明できないようなことが、惰性によって延々と続けられるような成り行きにもなるだろうし、そういう成り行きを理屈や論理に合わないからといって、簡単にやめさせることはできなくなってしまうわけだが、それが伝統的な風習の類いであれば、よほどのことがない限りは、それをやめさせるような機運は高まらないだろうが、それと競合するような行為が新たに生じて、時代状況としてそういう新しく生じた行為の方が、何かと便利であったり良い印象を伴うようであれば、それまで主流だった古い行為が次第に廃れてきて、それと入れ替わりに新しい行為が流行り出すような成り行きもあるだろうし、どのような行為がそうなるかは、実際にそうなってからでないと、確かなことはわからないし、事前に誰にも予想がつかない場合もあるだろうが、そうなった結果から考察してみれば、そういう行為が流行る成り行きに関して、それなりにもっともらしい理屈や論理が導き出される場合もあるだろうし、それが誰にとっても納得できる理屈や論理ならば、そういう行為を行う上で、それを正当化する理由にもなるわけで、そうやって後付け的に世の中で流行っている行為に関して、もっともらしい理屈や論理が加わってくる場合もあるわけだが、それとは違って最初から誰もが納得できそうな理屈や論理に基づいて、計画的かつ合理的なことを行おうとすると、その途中で思わぬところから弊害や障害が生じてきて、しかも納得できそうな理屈や論理を破綻させるような事件も起こったりして、そんな経過をたどって結果的に行われることとなると、当初に抱いていた理想からは程遠いことが行われるような成り行きにもなるわけで、そうなってしまうと、そこに関係する誰もが不満を抱きながらも、嫌々仕方なく行うようなことにもなるだろうし、しかも嫌でもやめられないような事態にまで至れば、まさにそれは悲惨な結果をもたらしていることにもなってしまうわけだが、そんなひどい事態にまでは至らないとしても、世の中で行われている行為のほとんどには、多かれ少なかれそういう面があるのかもしれないし、そういう嫌な面には目を背けながら行なっている実態があれば、嫌な面の他にも、そういうことを行う必要性もそれなりに生じているのだろうし、どのような行為にもそれを行う必要があるから行われている面があるわけだ。


6月1日「世の中の実態と政治情勢」

 政治批判をしている人たちは、何でもないようなことを大げさに騒ぎ立てているわけではなく、彼らの認識からしたら重大で深刻な事態であるから騒ぎ立てていて、そうした事態を招いた為政者たちを批判しているわけだが、そういう姿勢は彼らの認識からしたら間違っていないだろうし、実際に為政者たちが招いた重大で深刻な事態によって、多大な損害や被害が発生していると主張するわけだが、そんな主張をする彼らに何か誤算があるとしたらそれは、世の中の大半の民衆がそうした批判を重大にも深刻にも受け止めてはくれないことかもしれないが、もちろん彼らの主張を真に受けてくれる人たちもそれなりにいて、そういう人たちが彼らの支持者になるわけだが、世の中の大半の民衆が彼らの主張を支持するようだと、彼らが批判する為政者が失脚する可能性も高まるだろうし、そうなることを期待して盛んに政治批判を繰り返すわけで、結果的に彼らが批判する為政者が彼らの批判によって失脚したら、彼らの主張が世の中に受け入れられて、彼らの権威もそれだけ高まることを意味するわけだが、そうはなっていない現状があるならば、彼らの批判活動がうまくいってないことを意味するだろうし、実際には世の中の大半の民衆が彼らの批判を真に受けてはくれない状況があるのかもしれないが、批判によって為政者の退陣や失脚を目指すならば確かにそんな現実があるかもしれないが、それだけが目標や目的とは限らないだろうし、そういうはっきりした目標や目的のために批判しているというよりは、ただ多くの人に知ってほしいことを訴えかけている場合があるだろうし、それによって民衆から支持を取り付けるというよりは、民衆が知ってほしい情報を提供することが目的である面もあるのかもしれず、そうであるなら特に民衆から支持を取り付ける必要もなく、ただの情報提供者としてメディア上で情報発信をする側に留まっていれば、主張や意見の全てにおいて、特定の為政者や政党を名指しして直接批判する必要もなくなってしまうのかもしれないが、実際にすべての面においてそういうことができるかというと、そうでもないだろうし、特定の政治家や政党や政府がやっていることに絡んで、その内容のひどさを民衆に知ってほしいということであれば、結果的には直接の政治批判となってしまうのだろうが、批判対象となる政治的な行為において、果たしてそれを行なっている特定の政治家や政党や政府のせいにできるかとなると、それらが批判対象となるならそうなるしかないのだろうが、ではそれに関して別の政治家や政党や政府がやることになれば、現状でやっていることとは違う結果になるのかといえば、やってみなければわからない面があるものの、それらを批判している人たちからすれば、別の政治家や政党や政府がやれば、少なくとも現状で行われているようなひどいことにはならないと思いたいだろうし、結果的に彼らが理想とする状態になるとは限らないにしても、少なくとも現状で行われていることよりはマシになるはずだと思いたいのかもしれないが、そういう比較も仮定でしかないわけだから、あまり信憑性があるものではなく、とりあえずは現状で主導権を握っている人や勢力が存在している限りは、それ以外のことは行われていない状況となっているわけだから、他の誰がどんな勢力がそれらの勢力に成り代わって何が行われているわけでもないし、そうれであればただ現状で行われていることを批判するにとどまるしかないわけだが、果たしてそれ以外のことが言えるかとなると、他の人や勢力がやればもっとマシになるとしか言えなければ、もちろんそれは願望でしかないから、現状では確かではないわけだが、それとは違って確かな現実はどうかというと、とりあえずは彼らに批判されている人たちが主導権を握って、批判されるようなことが行われている実態があるわけで、そうだとすれば批判されるようなことは、現状で行うことが可能であり、実際にもそれが行われているわけだから、批判されながらも現状で主導権を握っている勢力によってそれが行われている実態があるわけで、それが現状で主導権を握っている勢力の実績にもなっていて、批判を受けながらも実際に行なっているわけだから、それだけ実行力も備わっていて、また批判に屈しない現状があるなら、それも批判に屈しないという実績にもなっているわけで、結局それらの勢力が政治的な主導権を握り続けるには、そういった実績を着実に積み重ねていくことが必要条件となり、その中には批判に屈しない姿勢というのも含まれているわけだが、その一方で批判勢力の実績として世間的に認められることはといえば、まずは批判対象となっている勢力が批判に屈してくれないことには、いくら批判を試みても実績とはいえないだろうし、そういう面では批判の対象となっている勢力が政治的な主導権を握っている限りは、批判勢力の実績が何もないことになってしまいそうだが、実質的にはそうであっても、世論調査などで批判勢力の言い分に賛同したり支持する割合が多ければ、それを実績とみなす傾向もあるだろうし、そうであれば世論調査で支持や賛同を得やすいことを主張できれば、それを自分たちの実績として誇ってみせることにもなるのかもしれないが、そうなると現状で主導権を握っている勢力の方でも、世論調査で自分たちの勢力への支持や行なっていることへの支持が高いことを、自分たちの実績として誇ることになるだろうし、どちらにしても世論調査で支持や賛同を得られているように見せかけたいわけで、そのためには調査項目をいかに自分たちが支持や賛同が得られるような内容に調整するかが重要となってきてしまうだろうし、そうなると結局は政治的な主導権を握っている側とそれを批判する側とで、世論調査の項目や内容を自分たちに都合のいいように調整して、自分たちの主張がいかに民衆の支持や賛同を得られているかのように見せかけるための、ごまかし合いをやっているような様相を呈してしまうわけで、果たしてそれが世の中の実態を反映しているかとなると、単に調査項目を調整して支持や賛同を得られているかのように見せかけているだけだから、そうした世論調査自体がフィクションに近づいてしまうのかもしれず、そういう面で世の中の実態からかけ離れた調査結果になってしまうのは、実際によくあるケースかもしれないし、それ自体が宣伝や煽動の類いでしかないことは民衆の方でも理解しておくべきかもしれない。